エレベーターを降りた紗英は、目の前に広がる空間を見て足を止めた。正面の大きな窓から、都心の街並みが見渡せる。磨かれた床に午後の日差しが落ち、その先には、ホテルのラウンジのような広いリビングが続いていた。もちろん、受付もなければ、人の姿もない。「……ここから、もうお部屋なんですか?」先を歩いていた怜司が振り返った。「この階はすべて、私の住まいです」すべて。紗英は、思わず左右を見回した。都心の一等地に建つタワーマンション。そのワンフロアを、一人で使っているという。雅人と暮らしたマンションも、紗英にとっては十分に贅沢な住まいだった。けれど、ここは広さも、窓から見える景色も、何もかもが違った。「都内では、ほとんどここで過ごしています。仕事場にも近いので」怜司は、それがこの家を選んだ唯一の理由であるかのように言うと、再び歩き出した。紗英は、慌ててその背中を追った。あの日、差し出されたペンで婚姻届に名前を書いた。そのあとに受けた説明や、必要だと言われてそろえた書類のことは、ひどく遠い出来事のように思える。そして数日後の今日、紗英は荷物とともに、この家へやってきた。「こちらを使ってください」廊下の途中で、怜司が扉を開けた。大きなベッドと、小さなソファ。 窓際には机があり、奥には専用の浴室まで備わっていた。先に運び込まれた自分の荷物が、壁際にまとまって置かれている。「収納は奥です。足りないものがあれば、担当者に伝えてください」「……貴方のお部屋は?」怜司の視線が、紗英へ向いた。口にしてから、聞き方を間違えた気がした。「いえ、そういう意味ではなくて」「どういう意味です?」……どういう意味って
最終更新日 : 2026-09-15 続きを読む