夫の葬儀で、私は愛人にされた  ――すべてを奪われた私を救ったのは、亡夫の兄でした ――

夫の葬儀で、私は愛人にされた ――すべてを奪われた私を救ったのは、亡夫の兄でした ――

last updateLast Updated : 2026-10-31
By:  けもこUpdated just now
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夫を亡くした日、妻だった私は「愛人」にされた。 フラワーデザイナーの紗英は、老舗ホテルグループの次男・高槻雅人と二年前に結婚した。 その夫が海外出張中に不慮の事故で他界する。 葬儀には、雅人の正式な妻・澄香と幼い息子がいた。 さらに婚姻届も家も、二人で共有したもののすべて偽りだったと判明する。 世間から愛人扱いされ、仕事も居場所も失う紗英に手を差し伸べたのは、雅人の異母兄・怜司だった。 亡き夫の生存を疑う怜司と契約結婚を結んだ紗英。 雅人はなぜ、紗英と澄香を騙したのか。 そして、すべてを失った紗英が最後に選ぶ、本当の愛とは――

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Chapter 1

第1話 夫の葬儀にいた妻

夫の葬儀で、自分が妻であることを証明しなければならないとは思っていなかった。

紗英さえは、白い花に囲まれた夫の遺影をじっと見つめていた。

写真の中の夫、高槻雅人たかつきまさとは、穏やかに笑っている。

口元をわずかに緩めた、いつもの表情だった。

紗英が仕事で失敗して落ち込んだときも、体調を崩して寝込んだときも、雅人は穏やかに微笑んで心を癒してくれた。

『大丈夫だよ。』

花に囲まれた彼の笑みが、そう言ってくれているように見える。

けれど、その声はもう聞こえない。

海外出張中に乗っていた彼の車が崖から転落し、炎上した。事故の知らせを聞いたのは、三日前の深夜。

遺体の損傷が激しく、そのままの状態で日本へ戻ってくることはできなかった。

遺影の前にある棺は、その顔を見ることもできないようになっている。

「間もなく開式のお時間です」

葬儀場の入り口の扉の前で所在なげに立っている紗英に、葬儀社の女性が、申し訳なさそうな表情を浮かべて、声をかけた。

「分かりました」

返事をする自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

二年前、紗英は雅人と結婚した。

盛大な結婚式や披露宴はしなかった。

その代わりに、海外にあるリゾートホテルの小さなチャペルで、二人きりの式を挙げた。

婚姻届に署名をして、帰国後にそれを提出した。

義母とは、結婚式直前に彼の実家で顔を合わせて挨拶をしたが、あまり好かれてはいないのは、その態度でわかっていた。

でも、雅人からは、大丈夫時間をかければわかってもらえる、と言われていたし、そもそも、しばらくは結婚を公にはせずに静かに自分たちの生活を楽しもう、という話になっていた。

なぜなら、ホテルグループの会長である雅人の父は、現在、病気療養中で、後継者問題で社内が揺れている時期に結婚を発表すれば、紗英まで争いに巻き込まれる可能性がある。

――君を守るためにしばらくは公表しないでおこう。

紗英と一時たりとも離れたくない。でも、君を危険にさらしたくはないんだ。

その言葉を、紗英は疑わなかった。

雅人は、いつも優しかったから。

朝が早い紗英のためにコーヒーを淹れ、帰りが遅い日は職場まで迎えに来てくれた。

世間的には、夫婦であることを公表していなくても、職場の親しい人たちは祝福してくれたし、家に帰れば、いつだって雅人がいてくれた。

それだけでよかった。

出張に出かける朝、雅人は玄関で紗英の髪に触れ口づけた。

『会社の方もようやく落ちついてきたし、帰ってきたら、父の病院に一緒に行こう。君を紹介したい』

『本当に?』

『ああ。これ以上、紗英を待たせたくないからね』

優しく微笑んで、出掛けて行った。

それが、彼を見た最後だった。

紗英は祭壇を見つめた。

彼がこの世にいないことが信じられない。

白百合が、遺影を埋め尽くすように飾られている。

その濃厚な香りが鼻を刺した。

ふと、気になった。

どうして百合を使っているのだろう。雅人は百合の香りが苦手だったのに。

ホテルの装花に百合が使われているだけで、顔をしかめるほどだったのに。

「紗英さん」

低い声に呼ばれ、紗英は身体を固くして、振返った。

義母の高槻美津子たかつきみつこが背後に立っていた。

黒い着物をまとい、髪をきっちりと結い上げている。顔色は青白く、目の下には深い影があった。

この二年で、紗英が美津子と顔を合わせたのは、数えるほどしかない。

雅人の事故は、深夜のネットニュースで知った。

その前も、今日にいたるまで高槻家からは、紗英に対して連絡は何もなかった。

だから、訃報を受けて、海外から日本に雅人の遺体が戻って来ることも、紗英自身が何度も問い合わせた上で教えて貰えたことだった。

義母の美津子とは、葬儀場に足を運ぶまで顔を合わせていない。

紗英は、ぎこちなく頭を下げた。

「お義母さま。このたびは……」

「あなたは関係者席の方へ座って」

紗英は言葉を失った。

「関係者席、ですか」

「そうよ」

美津子は、紗英と目を合わせなかった。

「関係者の席は遺族席のすぐ後ろにあるから、係の人に案内してもらって」

義母が自分を雅人の妻として好ましく思っていないのは、その態度で知っていた。

でも、こんなのは許せない。

「私は、雅人さんの妻です」

声が震えないように、紗英は両手を握りしめた。

「遺族席に座らせてください」

美津子のこめかみが、わずかに動いた。

「こんな日に騒ぎを起こしたくないのよ」

「騒ぎを起こすつもりはありません。ただ、私は夫を――」

「雅人のためを思うなら、言うことを聞いて」

鋭く遮られ、紗英は息を呑んだ。

美津子の声は冷たかった。

ふと見えた着物の袖口からのぞく指先が、小さく震えていた。

「私は雅人さんの妻です。家族として彼の傍にいたいんです」

紗英の言葉に、美津子は答えなかった。

代わりに、葬儀場の職員へ視線を向ける。

「彼女を関係者席へご案内して」

まるで、これ以上話すことはないと告げるような態度だった。

紗英はその場を動かなかった。

二年間、雅人との結婚を隠してきた。

メディアには漏れないように、雅人と外を歩くときは少し距離を取った。

ここで最後まで弔問客として夫を見送れば、私たちの二年は、二人の結婚は、誰にも知られないまま消えてしまう。

「お願いします。雅人さんの妻として、彼をを見送らせてください」

感情が揺さぶられ、浮きそうになる涙を必死でこらえて、紗英は美津子に頭を下げた。

それから返事を待たず、祭壇の前にある遺族席へと足を向ける。

「紗英さん、待ちなさい」

美津子の声が追ってきたが、足を止めなかった。

祭壇の前の遺族席周辺にはすでに数名の親族が座っている。

その最前列の中央に、一人の女性がいた。紗英と同じくらいか、少し年上だろうか。

艶のある黒髪を襟元でまとめ、隙のない喪服姿で背筋を伸ばしている。

その隣には、男の子がいた。

男の子は、落ち着かない様子で足を揺らしていたが、紗英に気づき、顔を上げた。

その瞬間、紗英の足が止まった。

その子の目元は、雅人にそっくりだった。

少し下がった眉も、何か言いたそうに唇を結ぶ癖も。

あまりにも似すぎていた。

普通に考えれば、親戚の子だ、と思っただろう。

なのに、なぜか、紗英の脳裏にその考えは浮かばなかった。

女性が紗英を見た。

その表情が、ほんの一瞬だけ硬くなる。

「こちらへどうぞ」

早足で後ろをついてきた式場の係員が、紗英を関係者席へ案内しようとする。

紗英は動かなかった。いや、動けなかった。

だが、次第に席は埋まり、義母は紗英を無視したまま、目の前の女性の横に黙って座った。

開式を告げるアナウンスが流れ、最前列で立ち続けるわけにもいかず、紗英は係員に従って後方へと足を向けた。

ざわめきが消える。

僧侶が入場し、読経が始まった。

紗英は、式場の中ほどの椅子に座り、絶望感に包まれながら祭壇を見つめていた。

やがて司会者が、遺族の挨拶を告げる。

「喪主、故・高槻雅人様のご母堂、高槻美津子様」

美津子が頭を下げる。

「故人のご令室、澄香すみか様」

続く言葉と共に、さっきの最前列の女性が立ち上がりこちらを向いて頭を下げた。

司会者の言葉に、紗英の頭は真っ白になった。

ご令室って……妻

「ご長男、悠真ゆうま様」

男の子が、母親に促されて頭を下げる。

雅人の妻。

雅人の息子。

流れ続けている読経の声が遠ざかった。

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第2話 二人の妻
紗英は、自分がどこにいるのか分からなくなった。そして、無意識に、左手の薬指に触れた。 雅人から贈られた、結婚指輪。二年前、教会で雅人がはめてくれたものだ。 雅人の妻は、自分のはずだ。 紗英の遠ざかっていた意識が、係員の「それでは順次、ご案内に従ってご焼香をお願い致します」という声で引き戻された。 いつの間にか親族の焼香が終わり、自分のいる場所のいくらか前方から、人の列が前の祭壇へと進んでいる。 人に沿うように、祭壇で焼香を済ませた後、紗英は流れに従って遺族の前、あの女性の前へ向かった。 ちょうど目の前に立って、紗英は軽く頭を下げたあと顔を上げ女性を見つめた。 「失礼します」 声をかけると、うつむいていた彼女が顔を上げた。 近くで見ると、整った顔の、いかにも上流家庭育ちというような女性だ。 泣き腫らした様子はなく、それでいて静かに悲しみを含む表情をしている。 「少し、お話をさせてください」 「今……ですか?」 彼女は、とまどいのようすで紗英を見つめ、声を返した。 遺族に挨拶をする人の列を、自分が止めていることは十分にわかっている。 こんな場でひどく目立っていることも。でも、今でなくてはならない。 「確認したいことがあるんです」 紗英は、喉の奥に詰まる息を押し込んだ。 「雅人さんとは、どういうご関係でしょうか」 澄香の眉が、わずかに寄った。 「どういう関係、と言われましても」 澄香は、隣に座る悠真の肩を抱いた。 「私は、雅人の妻です。この子は、雅人の息子です」 「違いますよね」 紗英は即座に否定した。考えるより先に声が出ていた。 「雅人さんの妻は、私です」 澄香の顔から表情が消えた。後ろの列の数人が、会話を聞いてざわついている。 悠真が不安そうに、母親の袖を握る。 「あなたが例の……」 「私のことを知っているんですか?」 澄香は、答えなかった。 横に立つ美津子が、険しい表情で静かに声を発する。 「紗英さん。場所をわきまえてちょうだい。とにかく、今日は帰って」 「お義母さま」 紗英は、振り返って、静かに美津子に聞いた。 「この方は、誰なんですか」 美津子は、目を伏せた。 「今、聞いたとおり。澄香さんは、雅人の妻で、悠真は、雅人の子です」 「そんな……どういうことなの? じゃあ、私は?」 紗英の声
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第3話 存在しない婚姻
外は、いつしか雨が降り始めていた。冷たい雨が髪を濡らし、喪服の肩に染み込んでいく。雅人が結婚していた。自分と出会う前から、妻と息子までいた。でも、そんなはずはない。この二年、雅人は、毎日、紗英の家へ帰ってきていた。出張で留守にすることはあっても、朝食を一緒に食べ、休日には買い物へ出かけた。同じベッドで眠り、未来について話した。あれがすべて嘘だったなんて、信じられるはずがなかった。きっと、何か事情があるはず。澄香との結婚は、すでに終わっていたのかもしれない。離婚の手続きに、何か問題があったのかもしれない。雅人は、紗英に話す機会を探していたのかもしれない。あの日の朝の『帰ってきたら、父の病院に一緒に行こう』という言葉には、すべてを説明しようという思いがあったに違いない。紗英は、そう言い聞かせながら、自宅へ戻った。玄関の扉を開けた瞬間、雅人の靴が目に入った。黒い革靴。休日に履いていたスニーカー。磨いておいて欲しい、と頼まれていた茶色の靴。どれも、雅人がここで暮らしていた証拠だった。「雅人……」呼びかけても、返事はない。静まり返った部屋には、雅人が使っていた香水の匂いが薄く残っている。紗英は、濡れた喪服のまま、寝室へ向かった。クローゼットの扉を開けば、雅人のスーツが並んでいる。洗面台には歯ブラシが二本あり、ベッド脇には彼が読みかけの本が伏せられていた。この生活まで、嘘であるはずがない。紗英は、クローゼットの下段から、小さな金庫を引き出した。大切な書類は、すべてそこに保管している。暗証番号は、二人が結婚式を挙げた日だ。扉を開け、奥に置かれた白い封筒を取り出す。表には、雅人の字で『婚姻関係書類』と書かれていた。中には、紗英と雅人が署名した婚姻届の写しと、婚姻届受理証明書が入っている。紗英は震える手で、証明書を広げた。自治体の名前も、受付年月日も記されている。印も押されていた。間違いなく、婚姻届は受理されている。そう思った瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。明日、役所へ行ってみよう。戸籍を確認すれば、すべてがはっきりするだ。澄香が雅人の妻だったとしても、自分との婚姻届の提出記録が存在するなら、雅人に何かの誤解があったのかもしれない。紗英は証明書を胸に抱いて、長い息を吐いた。紙一枚に縋らなければならな
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第4話 愛人になった日
画面に表示されたのは、紗英が勤めるイベント運営会社の名前だった。「はい」『紗英さん? 今、どこにいるの?』同僚の三田村佳奈の声だった。いつも明るい彼女の声が、今日は強張っている。「今日は、休みをもらってて。今は役所にいるけど……どうしたの?」『今から会社に来られる?』「今から? 休みの申請はちゃんとしているんだけど」夫の葬儀のために3日前から慶弔休暇を取っていた。『わかってるわ。でもね……ネットでニュースになってて』紗英の手から、戸籍証明書が滑り落ちそうになった。「ニュース?」『あ......あのね。高槻雅人さんの葬儀で、妻を名乗る女性が騒ぎを起こしたって』紗英は、息を止めた。『出てる写真。顔は少し隠れてるけど、これ紗英さん......だよね?』佳奈の声が途切れた。電話の向こうで、誰かの声が遠くに聞こえる。『だから言ってたでしょう』女性の声だった。紗英は、その声を知っていた。職場の先輩である篠原奈津子だ。奈津子は、長く一緒にホテル関係の装花を担当してきたベテランだった。『私、前からおかしいと思ってたのよ』『篠原さん、聞こえちゃうから』少し電話を離して、佳奈が篠原を制する声が聞こえ、電話の向こうが静かになった。佳奈が慌てたように、『違うの、紗英さん。今のは――』と言いかける。しかし、奈津子の声は再び聞こえた。『いつも迎えに来てた旦那って人。前にパーティー会場で見たことがあって』紗英の指先が冷たくなる。奈津子は知っていた。雅人が誰なのかを。『紗英さんは夫だって言ってたけど、調べたら既婚者だったし、そういう関係なんだろうなって』その声に思わず声をこぼす。「そういう関係って……」紗英の声は震えていた。電話越しに続く、喧騒の中の声は、遠いのにひどく耳に響く。『不倫とか、愛人とか。そういう話って、本人には聞けないじゃない。ひどくデリケートな問題だし』『篠原さん、少し黙ってください』佳奈が、篠原に向かって投げた厳しい制止の声も、なんの慰めにもならなかった。職場の人間の多くは、紗英の結婚を知らなかった。フリーのフラワーデザイナーである紗英は、今の会社とは委託契約をしている。会社に結婚を報告するような事務手続きはない。ただ、親しい友人には結婚を伝え、それなりに祝って貰った。でも、事情があるのでしばら
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第5話 失われていく足元
携帯電話の画面を見つめたまま、紗英はしばらく動けなかった。 記事に自分の名前は書かれていない。顔にぼかしも入っている。 それでも、関係者が見れば、写っている女性が紗英だとすぐに分かるだろう。 夫の死後に現れた「もう一人の妻」 葬儀の場で澄香に詰め寄る姿だけを切り取られれば、誰の目にも、正妻を困らせる愛人にしか見えない。 何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。> 高槻家の関係者によれば、雅人氏と女性との間に婚姻関係はなく、女性が一方的に妻を名乗り、葬儀に訪れたという。高槻家の関係者いったい誰が、こんな話をしたのだろう。 美津子だろうか。 それとも、葬儀場にいた親族の誰かなのだろうか。 紗英は記事を閉じ、佳奈へ短いメッセージを送った。 ――今から会社に行きます。 すぐに返信が届いた。 ――裏口から入って。表に記者っぽい人がいるから。 記者……。 その文字を見た瞬間、足が竦んだ。 どうして自分がこんな目に遭っているのか、少しも分からない。 本当は妻ではないことを知らなかったから? 夫の葬儀で妻として見送りたいと願ったから? 雅人のすべてを信じていたから?紗英は、かすかに首を振った。 今ある事実がなんであったとしても、紗英は意図して誰かを騙したわけではない。 きちんと事実を話して、周囲に本当のことを知ってもらわなければ。 そう思うのに、通りを歩く人々の視線が、すべて自分への非難のように感じられて仕方がなかった。◇◇◇契約先のフラワーデザイン会社へ着くと、佳奈の言葉どおり、正面玄関の近くに四、五人の男性が立っていた。 携帯電話で話をしている人の横で、首からカメラを提げた人物が、建物へ出入りする人々の顔を確認している。 紗英は思わず顔を伏せ、建物の裏へ回った。 従業員用の通用口から中へ入ると、佳奈が待っていた。 「紗英さん」 佳奈は駆け寄りかけ、途中で足を止めた。 何を言えばいいのか分からないのだろう。 「あの記者、あそこにずっといるの?」 「うん。会社にも何度も電話がかかってきてて……」 「ごめんなさい。迷惑かけて」 「そんな。紗英さんが悪いわけじゃ……」 佳奈はそう言ったものの、その声には戸惑いが残っていた。 廊下を進むと、事務所にいた人々の話し声が、次々と止まった。 視線が紗英へ集ま
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第6話 私の名前で作られた罪
帰り道、コンビニへ立ち寄った。 昨日からほとんど何も食べていないことに、ようやく体が気づいたようだ。 水と小さなパンを手に取り、レジで携帯電話をかざす。 短い電子音が鳴った。 「申し訳ありません。決済できないようです」 店員に言われ、紗英は画面を確認した。 いつも使っている決済方法には、雅人名義のクレジットカードが登録されていた。 利用停止。 画面には、そう表示されている。 雅人が亡くなったため、カードが止められたのだろう。 紗英は慌てて、自分名義のクレジットカードを財布から取り出した。 そこには、水城紗英と印字されている。 二年間、仕事の経費以外ではほとんど使わなかったカードだ。 家賃も、光熱費も、食事も、旅行も。 生活に必要な大きな支払いは、ほとんど雅人名義のカードで支払われていた。 『生活費は俺に任せて』 雅人は笑っていた。 それも愛情だと思っていた。 だが、今になって考えれば、紗英が公的な名義変更をしなくても不審に思わないよう、生活のすべてを雅人名義の決済で済ませるよう仕向けられていたのではないか。 そんな疑念さえ湧いてくる。 店を出たところで、携帯電話が鳴った。 知らない番号だった。 「はい」 『水城紗英様のお電話でよろしいでしょうか』 男性の事務的な声だった。 「そうですが」 『私、東都プロパティの森田と申します。水城様がお住まいのマンションの管理を担当しております』 管理会社から連絡を受けるのは初めてだった。 「何でしょうか」 『高槻雅人様のご逝去を報道で知りまして、所有者様より、居住状況を確認するよう依頼がございました』 「所有者?」 紗英は足を止めた。 「マンションは、雅人さんが購入したものですよね」 『いいえ。お部屋の所有者は、エスフィールド・アセット株式会社です』 聞いたことのない会社名だった。 『高槻雅人様は、法人から使用を認められた入居者として登録されております』 「私は?」 短い沈黙があった。 『水城様のお名前は、居住者として登録されておりません』 「そんな……。私は二年間、あの部屋で雅人さんと暮らしていました」 『当方では、個人のご事情までは分かりかねます。ただ、所有者様は、高槻雅人様以外の方が居住を継続することを認めておりません』 「そんな!あそこにも
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第7話 雨の中の女
高槻怜司は、執務机の上に置かれた資料から目を離し、窓の外へ視線を向けた。ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループ本社の上層階。分厚いガラスの向こうには、夕暮れの街が広がっている。昼過ぎまで降っていた雨は、もう上がっていた。けれど、怜司の頭に残っているのは、数日前の葬儀の日の雨だった。黒い喪服姿の女が、一人で雨の中を歩いていく。傘も差さず、濡れた髪を頬に貼りつかせて。あの女――水城紗英。雅人の葬儀で、突然、自分こそが妻だと言い出した女。怜司は、あの日、式場の奥から一部始終を見ていた。正確には、すべてではない。途中からだった。怜司が葬儀場へ着いた時には、すでに場の空気は異様なものになっていた。澄香の前に立ち、震える声で何かを訴える紗英。美津子が、それを止めている。そして、やがて女は一人で外へ出ていった。怜司は、その背中をしばらく目で追っていた。その時は、ただ呆れただけだった。雅人も、面倒な女を残したものだ、と。「副社長」声をかけられ、怜司は視線を戻した。応接用のソファには、久世総合法律事務所の弁護士、久世が座っている。四十代半ばの、感情を表情に出さない男だ。今回、雅人が死んだことで起こった様々な出来事について、高槻家とヴァレストラ双方の法務対応を任せている。「水城紗英さんに、書面を届けました」「反応は?」怜司が尋ねる。「直接の面会は拒まれました。インターホン越しでしたが、かなり憔悴していたように思います」「自分の悪事が暴かれそうになっていれば、誰だって慌てるだろう」久世が一瞬だけ怜司を見た。そして、手元のメモへ目を落とす。「本人は、ヴァレストラとの直接取引そのものに心当たりがないようでした」「そうか」「送金記録についても、こちらから詳しく説明したわけではありません。渡した書面の通りのものが、後日、彼女の方から提出があるはずです」彼女が、どこまでこの件に関わっているのか。怜司は、机の上に積まれた資料へ目を落とした。水城紗英。三十二歳。フリーランスのフラワーデザイナー。ヴァレストラ系列ホテルの装花に、数多く関わっている。それらの契約はすべて、彼女が所属する会社を通して行われており、ヴァレストラ本体と直接契約を結んだ記録はない。それなのに。水城紗英の屋号を経由して、複数回にわたり多額の金が動いて
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第8話 失った未来
紗英は、ダイニングテーブルに置いたノートパソコンの画面を、じっと見つめていた。表示されているのは、自分の仕事名義で使っている口座の入出金履歴。スクロールするたび、見覚えのない数字が並ぶ。一千万円。二千万円。それより少ない金額も含めれば、直近だけで何度も大きな入金と出金が繰り返されている。入金元には、ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループの関連会社名。その数日後には、別の法人へほぼ同額が送金されていた。紗英は、画面の数字を何度見直しても意味を理解できなかった。「なんなのよ、これ……」呟いた声は、自分のものではないように聞こえた。この口座を作ったのは、雅人と結婚する少し前だった。それまでもフリーランスとして仕事はしていたが、本格的に事業として活動していくなら、仕事専用の口座を持った方がいいと勧めたのは雅人だった。会計処理も、税務も、専門家に任せた方が安心だから。そう言って、自分の知り合いだという会計事務所まで紹介してくれた。当時の紗英には、それがありがたかった。仕事が増え始め、請求書や経費の管理だけでも手いっぱいだったからだ。「数字は専門家に任せて、自分は花の仕事に集中すればいい」雅人は、そう言ってくれた。そして紗英も、それを信じた。パソコンの画面を見つめていると、二年前のことが蘇ってきた。結婚をする少し前。紗英は、フラワーデザインの国際コンペティションで賞を取った。学生時代から何度も写真集を眺めていた、フランスの老舗デザイン会社。そして、その会社から、二年間の契約を結ばないかという打診が届いた。最初にメールを見たとき、歓喜の叫びをあげて何度も読み返した。自分の名前が、本当にそこに書かれているのか信じられなかった。フリーランスのデザイナーとして生きていくなら、これ以上ないほど大きな機会だった。海外で経験を積める。著名なホテルやブランドの装花に携われる。二年後に日本へ戻ったとしても、その実績は大きな看板になるに違いない。行きたかった。当然だった。そして、自分を応援してくれる雅人も同じだけ喜んでくれる、と思っていた。しかし、その話をしたとき、雅人は長い間黙っていた。そして、困ったように笑った。『二年も離れるのか』『ずっと向こうにいるわけじゃないわよ。休みが取れれば帰ってくるし、雅人さんだってフランスに
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第9話 亡夫の兄
不動産屋の建物の前に貼り出されている物件を眺めながら、紗英は思わずため息をついていた。そもそも、この地域は都心に近く交通の便が良い上に人気がある。同じエリアで住める場所を探そうとすると、恐ろしく家賃が高い。かといって、家賃の安い地方へ引っ越せば、フリーでフラワーデザインの仕事を受けるのも難しくなる。いっそ、どこか遠くへ引っ越して、花屋にでも就職するべきか。だったら先にすることは職探しかもしれない。貼られた物件のガラスの向こうから、うなだれている自分を見つめている不動産屋の受付の女性が見えた。ここまで来たけれど、中に入って話をする元気は出なかった。部屋に戻ろうと振り返ると、背後に人が立っていて、ぶつかりそうになった。「あ、すみません」横に避けようと体をずらすと、目の前の男性の足も同じように動く。紗英は眉間に皺を寄せた。これは、最近流行りの“ぶつかりオジサン”とかいう迷惑行為なのだろうか。ついていない時にはとことんついていないらしい。小さく息を吐いて、顔を上げて睨みつけた時、目の前の男性がオジサンというにはいささか若いということに気づく。そして、彼をどこかで見たような気がした。「すみませんが、どいてもらえますか」あえてキツイ口調でそう言うと、相手に鋭い視線を向けた。しかし、目の前の男は、そんなことなどまるで気にした様子もなく自分の前に立っている。「あの!――」「水城紗英さんですよね」低い声で唐突に自分の名前を告げられ、胸の奥がひやりと冷えて、強気に出ていた気持ちが一気に萎む。また、雅人の関係の誰かなのだろうか。今度はなんなのだろう。弁護士? 警察?見覚えがあると思った。目の前の男は、雅人の葬儀の日に会場の入り口付近から、惨めに雨に打たれていた自分を見ていた人物だ。自分が身に覚えのない罪で社会的信用をすべて奪われるという、最悪のシナリオが頭に浮かび、血の気が引く。「ど……どちらさまですか」できれば自分が怯えているようには、見せたくなかった。弱気になればそこを突かれる。雅人に出会う前は、そんな風に肩に力を入れて生きていた。それなのに、どこで間違えたんだろう。一瞬、そんな後悔が胸に広がる。一呼吸おいて目の前の男が口を開いた。「水城紗英さん。俺は、ヴァレストラの副社長をしている高槻怜司です。雅人の兄です」
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第10話 婚姻届という取引
紗英は机の上に広げられたその用紙を黙って見ていた。何も書かれていない婚姻届。いったいこれは――目の前の男は、私が過去に書いた婚姻届のせいで今のような苦境にあることを知って、こんなものを出して私を嬲ろうとでもいうのだろうか。「……これは、何ですか?」「知らないのか? 婚姻届という書類だ」笑いを含んだ声でそう言いながら、怜司は、その用紙の一番上に書かれている書類名を指で叩いた。やはり、この男は、苦しむ私が不快な思いをすることを楽しもうとしているのだ。「書類が何かは知っています。なぜ、この書類をお出しになられたのかを伺っているんです」ひどく緊張した空気の中で、絶対にこんな男の前で打ちひしがれた自分を見せたくない、という紗英の小さくも強いプライドだけが必死で自分を支えていた。まっすぐに顔を上げて、そう彼に聞くと、怜司はさらに唇に笑みを浮かべて答えた。「男が女性を前にして、婚姻届を出す意味は一つしかないと思うんだが」「意味……」紗英は、行くことも帰ることも許されないような、細い路地に閉じ込められている気分になった。息苦しい。逃げ場がないからと、空を見上げれば、そこからは怜司が見下ろしている。「取引をしよう、と言っただろう」張り詰めた沈黙を破ったのは、怜司の声だった。「すべてを貴方に話すわけにはいかないが……思っている以上に事態は深刻でね。根本的な解決を目指すために貴女にご協力を願いたいんですよ」「協力……」紗英は、まるで自分が言葉尻を捉えるだけのオウムにでもなった気がしていた。「まず一つ目に、我が社の資金が貴女の口座に不正に流れている事実について、貴女の個人口座も詳細に調べさせてもらいたい」「不正については、私は無関係で――」「まず一つ目、と言われたら、その次があるものです。途中で話を切るのは良い印象を持たれませんよ」笑みを浮かべたまま、冷たい声でそう言われ、紗英はぐっと押し黙った。「二つ目に、貴女が置かれている現状が、どこまで計画的になされていたものなのかを把握したい」その話に、紗英ははっと目を見開いた。――計画的?「三つ目に……これらがかなり綿密な計画のもとになされているとしたら、貴女だけを法的に追及しても、根本的な解決にはならない、ということです」私は、計画的に雅人に結婚したと思わされて、不正な金のや
last updateLast Updated : 2026-09-12
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