LOGIN夫を亡くした日、妻だった私は「愛人」にされた。 フラワーデザイナーの紗英は、老舗ホテルグループの次男・高槻雅人と二年前に結婚した。 その夫が海外出張中に不慮の事故で他界する。 葬儀には、雅人の正式な妻・澄香と幼い息子がいた。 さらに婚姻届も家も、二人で共有したもののすべて偽りだったと判明する。 世間から愛人扱いされ、仕事も居場所も失う紗英に手を差し伸べたのは、雅人の異母兄・怜司だった。 亡き夫の生存を疑う怜司と契約結婚を結んだ紗英。 雅人はなぜ、紗英と澄香を騙したのか。 そして、すべてを失った紗英が最後に選ぶ、本当の愛とは――
View More紗英は机の上に広げられたその用紙を黙って見ていた。何も書かれていない婚姻届。いったいこれは――目の前の男は、私が過去に書いた婚姻届のせいで今のような苦境にあることを知って、こんなものを出して私を嬲ろうとでもいうのだろうか。「……これは、何ですか?」「知らないのか? 婚姻届という書類だ」笑いを含んだ声でそう言いながら、怜司は、その用紙の一番上に書かれている書類名を指で叩いた。やはり、この男は、苦しむ私が不快な思いをすることを楽しもうとしているのだ。「書類が何かは知っています。なぜ、この書類をお出しになられたのかを伺っているんです」ひどく緊張した空気の中で、絶対にこんな男の前で打ちひしがれた自分を見せたくない、という紗英の小さくも強いプライドだけが必死で自分を支えていた。まっすぐに顔を上げて、そう彼に聞くと、怜司はさらに唇に笑みを浮かべて答えた。「男が女性を前にして、婚姻届を出す意味は一つしかないと思うんだが」「意味……」紗英は、行くことも帰ることも許されないような、細い路地に閉じ込められている気分になった。息苦しい。逃げ場がないからと、空を見上げれば、そこからは怜司が見下ろしている。「取引をしよう、と言っただろう」張り詰めた沈黙を破ったのは、怜司の声だった。「すべてを貴方に話すわけにはいかないが……思っている以上に事態は深刻でね。根本的な解決を目指すために貴女にご協力を願いたいんですよ」「協力……」紗英は、まるで自分が言葉尻を捉えるだけのオウムにでもなった気がしていた。「まず一つ目に、我が社の資金が貴女の口座に不正に流れている事実について、貴女の個人口座も詳細に調べさせてもらいたい」「不正については、私は無関係で――」「まず一つ目、と言われたら、その次があるものです。途中で話を切るのは良い印象を持たれませんよ」笑みを浮かべたまま、冷たい声でそう言われ、紗英はぐっと押し黙った。「二つ目に、貴女が置かれている現状が、どこまで計画的になされていたものなのかを把握したい」その話に、紗英ははっと目を見開いた。――計画的?「三つ目に……これらがかなり綿密な計画のもとになされているとしたら、貴女だけを法的に追及しても、根本的な解決にはならない、ということです」私は、計画的に雅人に結婚したと思わされて、不正な金のや
不動産屋の建物の前に貼り出されている物件を眺めながら、紗英は思わずため息をついていた。そもそも、この地域は都心に近く交通の便が良い上に人気がある。同じエリアで住める場所を探そうとすると、恐ろしく家賃が高い。かといって、家賃の安い地方へ引っ越せば、フリーでフラワーデザインの仕事を受けるのも難しくなる。いっそ、どこか遠くへ引っ越して、花屋にでも就職するべきか。だったら先にすることは職探しかもしれない。貼られた物件のガラスの向こうから、うなだれている自分を見つめている不動産屋の受付の女性が見えた。ここまで来たけれど、中に入って話をする元気は出なかった。部屋に戻ろうと振り返ると、背後に人が立っていて、ぶつかりそうになった。「あ、すみません」横に避けようと体をずらすと、目の前の男性の足も同じように動く。紗英は眉間に皺を寄せた。これは、最近流行りの“ぶつかりオジサン”とかいう迷惑行為なのだろうか。ついていない時にはとことんついていないらしい。小さく息を吐いて、顔を上げて睨みつけた時、目の前の男性がオジサンというにはいささか若いということに気づく。そして、彼をどこかで見たような気がした。「すみませんが、どいてもらえますか」あえてキツイ口調でそう言うと、相手に鋭い視線を向けた。しかし、目の前の男は、そんなことなどまるで気にした様子もなく自分の前に立っている。「あの!――」「水城紗英さんですよね」低い声で唐突に自分の名前を告げられ、胸の奥がひやりと冷えて、強気に出ていた気持ちが一気に萎む。また、雅人の関係の誰かなのだろうか。今度はなんなのだろう。弁護士? 警察?見覚えがあると思った。目の前の男は、雅人の葬儀の日に会場の入り口付近から、惨めに雨に打たれていた自分を見ていた人物だ。自分が身に覚えのない罪で社会的信用をすべて奪われるという、最悪のシナリオが頭に浮かび、血の気が引く。「ど……どちらさまですか」できれば自分が怯えているようには、見せたくなかった。弱気になればそこを突かれる。雅人に出会う前は、そんな風に肩に力を入れて生きていた。それなのに、どこで間違えたんだろう。一瞬、そんな後悔が胸に広がる。一呼吸おいて目の前の男が口を開いた。「水城紗英さん。俺は、ヴァレストラの副社長をしている高槻怜司です。雅人の兄です」
紗英は、ダイニングテーブルに置いたノートパソコンの画面を、じっと見つめていた。表示されているのは、自分の仕事名義で使っている口座の入出金履歴。スクロールするたび、見覚えのない数字が並ぶ。一千万円。二千万円。それより少ない金額も含めれば、直近だけで何度も大きな入金と出金が繰り返されている。入金元には、ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループの関連会社名。その数日後には、別の法人へほぼ同額が送金されていた。紗英は、画面の数字を何度見直しても意味を理解できなかった。「なんなのよ、これ……」呟いた声は、自分のものではないように聞こえた。この口座を作ったのは、雅人と結婚する少し前だった。それまでもフリーランスとして仕事はしていたが、本格的に事業として活動していくなら、仕事専用の口座を持った方がいいと勧めたのは雅人だった。会計処理も、税務も、専門家に任せた方が安心だから。そう言って、自分の知り合いだという会計事務所まで紹介してくれた。当時の紗英には、それがありがたかった。仕事が増え始め、請求書や経費の管理だけでも手いっぱいだったからだ。「数字は専門家に任せて、自分は花の仕事に集中すればいい」雅人は、そう言ってくれた。そして紗英も、それを信じた。パソコンの画面を見つめていると、二年前のことが蘇ってきた。結婚をする少し前。紗英は、フラワーデザインの国際コンペティションで賞を取った。学生時代から何度も写真集を眺めていた、フランスの老舗デザイン会社。そして、その会社から、二年間の契約を結ばないかという打診が届いた。最初にメールを見たとき、歓喜の叫びをあげて何度も読み返した。自分の名前が、本当にそこに書かれているのか信じられなかった。フリーランスのデザイナーとして生きていくなら、これ以上ないほど大きな機会だった。海外で経験を積める。著名なホテルやブランドの装花に携われる。二年後に日本へ戻ったとしても、その実績は大きな看板になるに違いない。行きたかった。当然だった。そして、自分を応援してくれる雅人も同じだけ喜んでくれる、と思っていた。しかし、その話をしたとき、雅人は長い間黙っていた。そして、困ったように笑った。『二年も離れるのか』『ずっと向こうにいるわけじゃないわよ。休みが取れれば帰ってくるし、雅人さんだってフランスに
高槻怜司は、執務机の上に置かれた資料から目を離し、窓の外へ視線を向けた。ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループ本社の上層階。分厚いガラスの向こうには、夕暮れの街が広がっている。昼過ぎまで降っていた雨は、もう上がっていた。けれど、怜司の頭に残っているのは、数日前の葬儀の日の雨だった。黒い喪服姿の女が、一人で雨の中を歩いていく。傘も差さず、濡れた髪を頬に貼りつかせて。あの女――水城紗英。雅人の葬儀で、突然、自分こそが妻だと言い出した女。怜司は、あの日、式場の奥から一部始終を見ていた。正確には、すべてではない。途中からだった。怜司が葬儀場へ着いた時には、すでに場の空気は異様なものになっていた。澄香の前に立ち、震える声で何かを訴える紗英。美津子が、それを止めている。そして、やがて女は一人で外へ出ていった。怜司は、その背中をしばらく目で追っていた。その時は、ただ呆れただけだった。雅人も、面倒な女を残したものだ、と。「副社長」声をかけられ、怜司は視線を戻した。応接用のソファには、久世総合法律事務所の弁護士、久世が座っている。四十代半ばの、感情を表情に出さない男だ。今回、雅人が死んだことで起こった様々な出来事について、高槻家とヴァレストラ双方の法務対応を任せている。「水城紗英さんに、書面を届けました」「反応は?」怜司が尋ねる。「直接の面会は拒まれました。インターホン越しでしたが、かなり憔悴していたように思います」「自分の悪事が暴かれそうになっていれば、誰だって慌てるだろう」久世が一瞬だけ怜司を見た。そして、手元のメモへ目を落とす。「本人は、ヴァレストラとの直接取引そのものに心当たりがないようでした」「そうか」「送金記録についても、こちらから詳しく説明したわけではありません。渡した書面の通りのものが、後日、彼女の方から提出があるはずです」彼女が、どこまでこの件に関わっているのか。怜司は、机の上に積まれた資料へ目を落とした。水城紗英。三十二歳。フリーランスのフラワーデザイナー。ヴァレストラ系列ホテルの装花に、数多く関わっている。それらの契約はすべて、彼女が所属する会社を通して行われており、ヴァレストラ本体と直接契約を結んだ記録はない。それなのに。水城紗英の屋号を経由して、複数回にわたり多額の金が動いて