LOGIN夫を亡くした日、妻だった私は「愛人」にされた。 フラワーデザイナーの紗英は、老舗ホテルグループの次男・高槻雅人と二年前に結婚した。 その夫が海外出張中に不慮の事故で他界する。 葬儀には、雅人の正式な妻・澄香と幼い息子がいた。 さらに婚姻届も家も、二人で共有したもののすべて偽りだったと判明する。 世間から愛人扱いされ、仕事も居場所も失う紗英に手を差し伸べたのは、雅人の異母兄・怜司だった。 亡き夫の生存を疑う怜司と契約結婚を結んだ紗英。 雅人はなぜ、紗英と澄香を騙したのか。 そして、すべてを失った紗英が最後に選ぶ、本当の愛とは――
View More夫の葬儀で、自分が妻であることを証明しなければならないとは思っていなかった。
二年前、紗英は雅人と結婚した。
盛大な結婚式や披露宴はしなかった。 その代わりに、海外にあるリゾートホテルの小さなチャペルで、二人きりの式を挙げた。 婚姻届に署名をして、帰国後にそれを提出した。 義母とは、結婚式直前に彼の実家で顔を合わせて挨拶をしたが、あまり好かれてはいないのは、その態度でわかっていた。 でも、雅人からは、大丈夫時間をかければわかってもらえる、と言われていたし、そもそも、しばらくは結婚を公にはせずに静かに自分たちの生活を楽しもう、という話になっていた。 なぜなら、ホテルグループの会長である雅人の父は、現在、病気療養中で、後継者問題で社内が揺れている時期に結婚を発表すれば、紗英まで争いに巻き込まれる可能性がある。 ――君を守るためにしばらくは公表しないでおこう。 紗英と一時たりとも離れたくない。でも、君を危険にさらしたくはないんだ。 その言葉を、紗英は疑わなかった。 雅人は、いつも優しかったから。 朝が早い紗英のためにコーヒーを淹れ、帰りが遅い日は職場まで迎えに来てくれた。 世間的には、夫婦であることを公表していなくても、職場の親しい人たちは祝福してくれたし、家に帰れば、いつだって雅人がいてくれた。 それだけでよかった。 出張に出かける朝、雅人は玄関で紗英の髪に触れ口づけた。 『会社の方もようやく落ちついてきたし、帰ってきたら、父の病院に一緒に行こう。君を紹介したい』 『本当に?』 『ああ。これ以上、紗英を待たせたくないからね』 優しく微笑んで、出掛けて行った。 それが、彼を見た最後だった。紗英は祭壇を見つめた。
彼がこの世にいないことが信じられない。 白百合が、遺影を埋め尽くすように飾られている。 その濃厚な香りが鼻を刺した。 ふと、気になった。 どうして百合を使っているのだろう。雅人は百合の香りが苦手だったのに。 ホテルの装花に百合が使われているだけで、顔をしかめるほどだったのに。 「紗英さん」 低い声に呼ばれ、紗英は身体を固くして、振返った。 義母のざわめきが消える。
僧侶が入場し、読経が始まった。
紗英は、式場の中ほどの椅子に座り、絶望感に包まれながら祭壇を見つめていた。 やがて司会者が、遺族の挨拶を告げる。 「喪主、故・高槻雅人様のご母堂、高槻美津子様」 美津子が頭を下げる。 「故人のご令室、ご令室って……妻
「ご長男、
雅人の妻。
雅人の息子。流れ続けている読経の声が遠ざかった。
帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して