All Chapters of 99.9%の運命よりも、君を選ぶ: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

第三章 99.9%の証明

 秘書として働き始めて、早くも一ヶ月が経った。朝の執務室は、もうすっかり日常の風景になっている。 毎朝7時45分頃に到着し、智臣のスケジュール確認。それを終えてコーヒーの準備、昨日の議事録の整理から一日を始める。 最初は右も左もわからなかった秘書業務も、今ではかなりスムーズにこなせるようになった。「九条くん、今日の資料、よくまとまってるよ」 隣の秘書室から顔を出した井上さんが眼鏡を押し上げながら、穏やかに微笑んだ。「特に昨日の海外支社向けレポートは、非常に要点が分かりやすかった。社長も目を通したときに『問題ない』っていう一言だったから、かなり上出来だと思う」「ありがとうございます、井上さん」 俺は素直に頭を下げた。井上さんの「よくやっています」という言葉は、重みがあった。この人は会社の生き字引と呼ばれるだけあって、褒め言葉一つにも説得力がある。 そのおかげで、少しだけ胸が温かくなった。 欠陥オメガで、九条家からも見放された俺が、まさかこんな大企業で認められるとは思っていなかった。バイトを掛け持ちして何とか食いつないでいた頃を思えば、夢のような日々だった。 午前10時過ぎ、智臣が執務室に入ってきた。俺はいつものように資料を机の端に置き、今日の予定の報告をする。「社長、本日の午後から行われる会議用の資料をまとめました。重要ポイントは、赤線で引いてあります」 智臣は資料を受け取って静かにページをめくり、眼鏡の奥の視線が素早く文字を追う。赤線の位置、付箋の貼り方、要約の順番──どれも無駄がない。 わずかに視線を止めると、短く言った。「……よくやった」(……え?) 俺は一瞬、言葉を失った。智臣から直接「よくやった」と言われたのは、これで二回目だった。告げられたセリフを頭の中で反芻するだけで、心臓がどきりと跳ねる。「あ、ありがとうございます……」 声が少し上ずってしまったのが、自分でもわかった。智臣はそれ以上何も言わず、そのままモニターに向き直ったが、俺の胸には小さな喜びが広がっていた。 こんなことで嬉しいなんて、単純だ――それでもあの人が俺に向ける言葉は、仕事の評価しかない。だからこそ、その一言が胸の奥まで染み込んでしまう。それと――。(この人、本当に結婚式のことを……何も聞かないし責めないんだな) 一ヶ月経った今でも、智臣はあの日
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明2

*** その日は、グループ全体の役員会議があった。智臣に同行し、30階の大会議室へ向かう。 エレベーターに乗り込むと、智臣はいつものように反対側の壁際へ立った。最上階から二人きりで下降するこの短い時間は、今でも少し緊張する。 エレベーターのドアが閉まり、静かな空間に二人の呼吸だけが残った。エレベーターが二十五階を過ぎた頃だった。 ふわりと、どこからともなく甘い香りが漂った。(誰か乗ってた……? いや、この密室にいるのは、俺と社長だけ。じゃあ、この香りは——) 俺は眉をひそめて、小さく首を傾げた。智臣が香水をつける人間ではないし、このエレベーターに他の人が入ってきたわけでもない。(――違う。この匂いは、俺自身から漂っている!) 自分の匂いを意識したその瞬間、胸の奥が熱を帯び、首筋がじんわりと火照り始めた。体温が上がっているのが、はっきりとわかる。 それは欠陥オメガの俺が、ほとんど経験したことのない感覚だった。(くっ……熱い) 息が少し乱れそうになるのを、必死に堪えた。指先がわずかに震え、甘い香りがさらに強くなった気がする。 しかし、それもほんの十秒ほどのことだった。不思議と香りはするすると引いていき、体を包んでいた熱も潮が引くように消えていく。まるで何事もなかったかのように、平常心が戻ってきた。 俺はそっと息を吐き、智臣の様子を横目で窺った。智臣は正面のフロア表示を見つめたまま、全く微動だにしない。表情はいつも通り冷たく整っており、何も気づいていないように見えた。 だが、ネクタイを直す右手だけが一瞬だけ止まり、彼の視線が俺の方へ動いた気がした。それは鋭く、探るような視線だった。 しかし、智臣は何も言わなかった。エレベーターのドアが静かに開き、30階に到着する。智臣は無言で先に歩き出し、俺は慌ててその後に続いた。 会議中も、時々自分の体調を気にした。さっきの異変は、本当に短かった。ヒートというには弱すぎるし、すぐに治まった。 ただの気のせいか、疲れが溜まっているだけかもしれない。 それでも智臣の隣に座っているだけで、胸の奥に小さなざわつきが残っている気がしてならなかった。 智臣は会議を淡々と進行させ、俺の存在など気にも留めていない様子だった。資料を要求するときも、指示を出すときも、いつもの事務的な声だけ。 何も、変わらない。 会
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明3

*** 九州で開催される新薬発表会に、智臣と二人で出張することになった。 一ノ瀬ライフサイエンスが満を持して発表する、新たなる免疫調整剤のプレゼンテーションは、製薬業界ではかなり注目度の高いイベントだった。 社長の智臣がメインスピーカーとして登壇し、秘書として俺は資料管理とスケジュール調整を担当する。 リハーサルは無事に終了し、夜は発表会場から車で30分ほどの高級リゾートホテルに宿泊した。もちろん部屋は別だ。 智臣は最上階のスイートルーム、俺は三つ隣のデラックスシングルルーム。充分に距離が取られていることに、ほっとしていた。 しかし、その夜——午前二時を過ぎても、全く眠れなかった。身体が熱い。エアコンの温度を18度まで下げ、薄手の毛布一枚にしても、肌がじんわりと火照っていた。 喉の奥がカラカラに渇き、何度も水を飲んでも渇きが収まらない。胸の奥が苦しく、息をするたびに小さな疼きが走る。「……風邪、引いたのかな」 俺はベッドの上で体を起こし、額に手を当てた。熱はない。でも、身体の芯が熱を持っているような、奇妙な感覚が続く。 頭がぼんやりとして、思考が上手くまとまらなかった。下腹部や首筋にも、時折甘い疼きが波のように訪れては引いていく。欠陥オメガの俺は、ヒート症状がほとんど出ない体質だったはずなのに——今日は、明らかに様子がおかしい。 智臣のことが、ふと頭をよぎった。三つ隣のスイートルームに、智臣がいる。 今日のリハーサルでも、智臣はいつものように冷静で、堂々とした姿だった。俺のことは必要最低限にしか相手にせず、仕事の指示だけを出していた。 その存在を意識した途端に胸の苦しさが少し強くなった気がして、俺は慌てて首を振った。(馬鹿なこと考えてる場合じゃない……) 慌てて冷蔵庫から新しい水を取り出し、ゆっくりと飲んだ。それでも体温は下がらず、甘い香りが自分の体から微かに漂っていることに気づいて、顔をしかめた。 これはただの風邪だ。出張の疲れと緊張が溜まっただけ――そう自分に何度も言い聞かせながら、再びベッドに横になった。 しかし、夜はまだ長い。疼きは静かに、しかも確実に、俺の理性を少しずつ削っていった。自分では気付かないまま、甘い香りは部屋の空気に溶けていく。 そして、その香りは廊下を越え、静かなホテルの最上階をゆっくりと漂い始めていた。
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明4

*** 翌朝。いよいよ本社主催の正式な共同研究発表会の日だった。国内外の製薬企業や研究機関の関係者を招いた、重要なイベントである。 俺はいつもより一時間早く会場に到着し、最終確認用の資料を抱えてエントランスを急いでいた。 胸の奥に、昨夜から消えない小さな違和感が残っている。(……寝れば治ると思ってたんだけど) 熱はないし、頭痛もない。ただ首筋のあたりが妙に熱を持ち、時折胸が締めつけられるような感覚があるだけだった。「九条くん、おはよう」 井上さんが穏やかな笑顔で声をかけてきた。「おはようございます、井上さん」「今日は本番だからね。緊張してる?」「少しだけです……大丈夫だと思います」 俺は無理に笑顔を作った。本当に、少しだけ緊張しているだけだと思っていた。そう――この時までは。 発表会場に向かうべく、社員たちが列を作っている。社長の智臣が先頭を歩き、そのすぐ後ろを井上さんが続いている。俺は資料を抱え、少し後方から二人を追っていた。 朝の空気は爽やかだったはずなのに、一歩進むごとに身体が熱を帯びていく。首筋が焼けるように熱い。胸が締めつけられて、息が上手く吸えない。 心臓の鼓動が、耳の奥で異様に大きく響く。(……なんだ、これ) 視界が、ふらりと揺れた。呼吸が浅くなり、肺が十分に空気を取り込めない。足が重く、膝に力が入らない。「九条くん?」 井上さんの声が遠くから聞こえた気がした。返事をしようとした瞬間、膝から、完全に力が抜けた。「っ……!」 俺はアスファルトの上に崩れ落ちた。抱えていた資料が派手な音を立てて散らばる。「九条くん!」 井上さんの叫び声が響き、周囲が一気に騒がしくなった。俺は地面に横たわり、肩で荒く息をしながら自分の体を抱きしめた。 熱い。苦しい。全身が内側から燃えるように熱を持ち、甘い疼きが波のように押し寄せてくる。(どうして……こんな……) その瞬間、ふわりと自分でも今まで感じたことのない、濃厚で甘い香りが体から溢れ出した。周囲にいたアルファの社員たちが、同時に顔を上げる。「……この香り、フェロモン?」「オメガの……? もしかして九条さんが?」「まさか、こんなところで……」 ざわり、と空気が大きく揺れた。 普段はほとんど匂いを発しないはずの欠陥オメガの俺から、明らかなフェロモンが漏れ始めている
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明5

** 病院に到着して三十分後。アルファ対応の特別隔離病室で、一通りの検査が終わった。 主治医はカルテを閉じると、静かな口調で智臣へ説明する。「原因は、おそらく99.9%の適合によるものです」 智臣は何も言わず、医師の続きを待った。「九条さんは、フェロモン濃度が極めて低い欠陥オメガです。本来ならヒートも軽く、一生このまま過ごす可能性もありました。しかし、99.9%という極めて高い適合率を持つアルファと長期間生活圏を共にしたことで、抑え込まれていた本能が急速に目覚め始めています」 ベッドでは、湊が点滴を受けながら眠っていた。頬は熱を帯び、額には薄く汗が滲んでいる。浅い呼吸を繰り返すたび、病室には淡く甘いフェロモンが漂った。「今後は、これまでより頻繁に同様の症状が現れる可能性があります」 医師は、少し言葉を選びながら続けた。「薬によって進行を遅らせることはできますが、完全に止めることは難しいでしょう」 智臣は、静かに目を閉じた。「……本人には、まだ話さないでください」 医師は驚いたように、目を瞬かせる。「ですが、ご本人にも知る権利が――」「責任は私が負います」 その一言で、医師は口を閉ざした。「……承知しました」 医師は軽く頭を下げ、病室を後にする。ドアが閉まり、部屋には静寂だけが残った。 規則正しく鳴る心電図。点滴が落ちる小さな音。そして、眠る湊の浅い寝息。 智臣はゆっくりと、ベッドの傍らへ歩み寄った。あと一歩――それだけで届く距離。しかし、その足はそこで止まる。 触れればいい。額の汗を拭いてやればいい。苦しそうな眉間を撫でてやればいい。 そんな簡単なことさえ、自分には許されなかった。(……今は駄目だ) 99.9%。その数字が意味するものを、この部屋で理解しているのは自分だけだった。不用意な接触は、湊のヒートをさらに加速させる。 そして――自分自身の理性も。 智臣はゆっくりと拳を握る。爪が手のひらへ食い込むほど強く。その痛みで、本能を押し殺すように。 その時だった。「……しゃ、ちょう……」 掠れた声が聞こえた。湊のつぶやきに反応して、智臣が顔を上げる。眠ったままの湊が、小さく眉を寄せていた。「……智臣、さん……」 初めて呼ばれた自分の名前。その二文字だけで、胸の奥が大きく揺れた。「……寝言か」 思わず苦笑
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明6

*** 医師が病室に入ってきたのは、朝食を終えた直後だった。 白衣の男性医師は、穏やかな笑みを浮かべて湊のベッドサイドに近づいた。後ろには看護師が一人、カルテを抱えてついてきている。「おはようございます、九条さん。体調はどうですか?」「……だいぶ楽になりました。ありがとうございます」 湊はベッドの上で上半身を起こし、丁寧に頭を下げた。点滴の針が刺さった右手が、まだ少し重く感じる。 医師はカルテをめくりながら、落ち着いた口調で説明を始めた。「診断は、過労とストレスによる軽い発熱です。発表会の準備などで、かなり緊張を溜めていたようですね。体調管理が甘くなると、急に倒れることもあります。特に、あなたのように真面目で頑張り屋さんの人は、要注意ですよ」 医師の言葉は明快で、至って普通の診断だった。湊は胸をなでおろす。(……そうか。やっぱり、疲れが出ただけだったんだ) 昨日の苦しさと熱が、ただの過労によるものだと言われ、妙に安心した。 欠陥オメガである自分が、ヒートで倒れたなんて最悪の事態は避けられたらしい。「安静にしていれば、今日の夕方には退院可能です。ただし、無理は禁物ですよ。責任の重い仕事ほど、知らないうちに心身へ負担が蓄積します。今回のように緊張が解けた瞬間に、症状が出る方も少なくありません」「はい……本当にすみません」 湊が頭を下げると、医師は「では、失礼します」と軽く会釈をして病室を出て行った。 しかし——医師はドアの外に出る直前、智臣にだけ目配せをした。智臣は無言でそれに応じ、医師の後を追うように病室から出た。 廊下の少し離れた場所で、二人は立ち止まった。 医師は声を低くして、智臣にだけ告げた。「本当のところは……あと数回で本格的なヒートになります。正直、このような進行速度の症例は私も初めてです。99.9%の影響が、かなり強く出ています。このままでは、抑えきれる期間が短くなっていくでしょう」 智臣は無言で、医師の言葉を聞いていた。表情は一切変わらない。 医師は少し心配そうに続けた。「九条さんには、過労と言っておきましたが……本来なら、ご本人にも説明すべき状態です」「……わかっている」 智臣の返事は短かった。 医師は軽く頭を下げて去っていった。 智臣は一人、廊下の窓際に立ち、しばらく外を見つめていた。朝の陽光が、彼
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第三章 99.9%の証明7

*** 退院して三日後、湊は会社に復帰した。体調はすっかり回復していた。 朝の通勤時も、いつものようにスーツに身を包み、意気込んで本社ビルへ足を踏み入れる。(――もう大丈夫) そう自分に言い聞かせながら、ロビーへ向かった。すると、井上さんが申し訳なさそうな表情で近づいてきた。「九条くん、おはよう」「おはようございます」「社長から伝言です。今日から移動する際は、車が別になります」「……え?」「九条くんは、第二車両を利用してください」 一瞬、言葉を失った。 今までは、智臣と同じ車で向かっていた。それが今日から突然、別々になるという。「何か……ありましたか?」 恐るおそる訊ねると、井上さんは困ったように笑うだけだった。「社長の判断です」 それ以上は、何も教えてくれなかった。 出張先へ到着すると、その違和感はさらに大きくなった。以前なら偶然一緒になることもあったエレベーターは、時間まで調整されているかのように一度も重ならない。 会議では、湊の席は智臣から最も離れた位置になっていた。 資料を渡そうとすると、「井上」 智臣は湊ではなく、井上さんを呼んだ。「こちらを」「承知しました」 井上さんが資料を受け取り、そのまま智臣へ渡していく。以前なら、俺が直接渡していたのに――。 その小さな違いが、胸に刺さった。 仕事の指示は、以前と変わらず的確だった。けれど、それ以外の会話は一切ない。目も合わない。近づこうともしない。資料も、必ず机の上へ置くようになった。 まるで、俺に触れること自体を避けているようだった。(やっぱり……迷惑だったんだ) 病院で倒れたこと。発表会を中止させてしまったこと。一晩中付き添わせてしまったこと。 その全てが、全部が社長の負担になった。だから距離を置かれている。 そう思うしかなかった。 昼休み。秘書室で一人サンドイッチを食べていると、井上さんが紙袋を持って入ってきた。「九条くん」「はい?」「社長から」 そう言って、まだ温かい紙コップを机に置いた。「温かいうちに飲んで」「……え?」 カップからは、ほのかにコーヒーの香りが立ち上っている。「社長が?」「そう」 井上さんは穏やかに笑った。「最近、少し疲れた顔をしているからって」 それだけ言うと、井上さんは自分の席へ戻っていく。 俺
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第四章 仕組まれた運命

 病院から退院して一週間が経った。湊は表面上、いつも通りに働いた。 しかし、体は明らかに以前とは違っていた。 一日の疲れが出るからか、夜になると微かな熱がぶり返し、眠りも浅くなる。朝起きても疲労は抜けず、鏡に映る自分の顔色は以前より明らかに青白い。(――大丈夫。仕事だけはちゃんとしないと) 欠陥オメガの体が99.9%の影響を静かに、しかし確実に受け始めていた。 そして、その影響は仕事にもはっきりと表れ始めた。 午前中のことだった。 智臣に提出する重要な契約書類をまとめ、資料をデスクから持ち上げようとした瞬間、手元がふらりと滑った。 一枚だけ書類が落ちたので、拾い上げようと腰を上げた瞬間。  ——ばさっ。 厚い書類の束が床に散らばる。「あ……!」 慌てて拾い集めながら青ざめる。一部のページが折れ、順番も狂ってしまった。重要な数字が書かれたページが、床に散乱してしまう。「す、すみません……すぐに直します!」 智臣は無言でそれを見下ろしていた。表情は変わらないが、以前なら「大丈夫か?」と一言かけてくれたかもしれない。 今はただ、静かに「……落ち着いてやれ」とだけ告げた。 昼過ぎにもミスは起きた。海外取引先への緊急メールに、数字を一つ間違えて送信してしまった。 井上さんに指摘され、俺は慌てて訂正メールを送信した。幸い、大きな損失にはならなかったものの、取引先へ余計な混乱を招いてしまったことに変わりはない。「……申し訳ありません」 肩を落として頭を下げると、井上さんはため息をつくこともなく、穏やかな表情で俺を見つめた。「九条くん」「はい」「今日は、顔色が良くないね」 不意にそう言われ、思わず頬に触れた。「そんなこと……」「あるよ」 井上さんは少しだけ眉を寄せる。「病院を退院して、まだ日も浅い。無理をしていないかい?」 図星だった。夜になると熱っぽくなることも、朝になっても疲れが抜けないことも、本当は誰にも話していない。 でも――。「大丈夫です」 俺は無理に笑みを作った。「これ以上、ご迷惑はかけられませんから」 その言葉に、井上さんは一瞬だけ言葉を失った。社長が距離を置いている理由も、この体に起きている変化も、自分はすべて知っているからこそ、何も言えなかった。(――違うんだ、九条くん。君は迷惑なんかじゃない
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第四章 仕組まれた運命2

*** その日の仕事が終わったのは、20時を回った頃だった。 最近の連続した失敗を取り戻そうと、一人で残業を続けていた。 秘書室に、コピー機の低い音だけが響いている。最後の資料を綴じ終え、小さく息をついた、その時だった。「九条」 背後から静かな声がした。 振り返ると、執務室から出てきた智臣が立っていた。「まだ帰っていなかったのか」「……少し、仕事が残っていて」 慌てて頭を下げる。 今日も迷惑ばかりかけた。そんな思いが消えない。 智臣は数秒だけ湊を見つめたあと、短く言った。「夕食は?」「……まだです」「そうか」 それだけ言って歩き出す。(やっぱり……) そう思った瞬間だった。振り返ることもなく、智臣が立ち止まる。「来い」 それだけだった。 エレベーターを降りると、智臣は会社の裏通りへ向かって歩き始めた。黙って後ろを歩く。 辿り着いたのは、会社から徒歩五分の小さな暖簾の掛かった定食屋だった。  見るからに古びた店構えで、店内はサラリーマンや近所の人が数組いるだけで、落ち着いた雰囲気が漂っている。(……え?) 思わず、立ち止まりそうになった。一ノ瀬グループの社長が来るような店には、とても見えない。 しかし、智臣は迷いなく暖簾をくぐった。「いらっしゃい……おっ、社長」 店主が笑う。「今日は二人かい」「ああ」 智臣は慣れた様子でカウンターへ座った。「いつもの。もう一つ同じものを」「はいよ、社長!」 店主が気さくに応じる。どうやら常連らしい。 隣に座りながら、戸惑いを隠せなかった。 智臣が連れて行くなら、もっと格式の高い店を想像していた。 なのに目の前にあるのは、味噌汁とご飯がセットになった普通の定食。そのギャップが、なぜか胸にじんわりと温かいものを灯した。 料理が運ばれてくると、智臣は静かに箸を動かし始めた。俺も恐るおそる食べ始める。 味噌汁は優しい味わいで焼き魚は香ばしく、ご飯はふっくらと炊けていた。高級レストランでは味わえない、素朴で心がほっとする味だった。 しばらく無言で食事が進んだ後、智臣がぽつりと言った。「今日は――」 俺は箸を止めて、顔を上げる。「よく最後まで立て直した」 一瞬、意味が分からなかった。「……え?」「午前中は乱れたが、午後は一件もミスをしていない」 智臣は味
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more

第五章 運命という名の檻

 退院から二週間が経過した頃、湊の体に再び異変が訪れ始めた。 昼間は、なんとか平常を装えていた。 仕事中は集中力を振り絞り、一つでも失敗を減らそうと必死だった。以前のように迷惑をかけたくない。その思いだけで、どうにか一日を乗り切っている。 しかし、夜になると決まって高熱がぶり返すようになった。 アパートの狭い部屋でベッドに横になると、じんわりと体温が上がっていく。 首筋や胸の奥が熱を持ち、微かな疼きが波のように押し寄せては、静かに引いていく。 フェロモンの香りも、以前より明らかに濃くなっていた。 枕やシーツに移った甘い香りに気づくたび、小さく眉を寄せる。「……こんな匂い、前はしなかったのに」 ぽつりと零した声は、静かな部屋に吸い込まれていった。 布団を抱き寄せ、額の汗を手の甲で拭う。(……まだ大丈夫) そう、自分に言い聞かせる。 病院では「過労とストレス」だと言われた。 だから、これは疲れが抜け切っていないだけ。少し休めば、また元に戻る。 そう信じたかった。 欠陥オメガの自分が、本格的なヒートを迎えるなど、考えたくもない。 考えた瞬間、それが現実になってしまう気がした。 夜だけ熱が出る。朝になれば、不思議なくらい何事もなかったように熱は引く。だから、仕事は続けられる。まだ、大丈夫――そう思い込もうとしていた。 けれど、体は正直だった。 智臣のことを思い浮かべるだけで、胸の奥が小さくざわめく。 あの定食屋で向かい合って食べた夕食。「無理をするな」と静かに告げられた声。 そして、帰り際に初めて呼ばれた自分の名前。『……湊』 その一言を思い出しただけで、胸の奥に熱が灯る。鼓動が少しだけ速くなり、首筋にじんわりと熱が集まっていく。(違う……) これは病気のせいだ。社長のことを考えたからじゃない。 そう否定すればするほど、熱はゆっくりと全身へ広がっていく。 布団の中で膝を抱え、小さく息を吐いた。「……まだ、大丈夫」 誰に聞かせるでもない、小さな独り言。 それは自分を安心させるための言葉ではなく、崩れそうになる心をどうにか繋ぎ止めるための、儚い呪文だった。 その後の智臣の態度は、ますます冷たく、徹底したものになっていった。 朝の送迎は、完全に取りやめになった。 以前は同じ車で会社へ向かうこともあったが、今で
last updateLast Updated : 2026-09-06
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status