秘書として働き始めて、早くも一ヶ月が経った。朝の執務室は、もうすっかり日常の風景になっている。 毎朝7時45分頃に到着し、智臣のスケジュール確認。それを終えてコーヒーの準備、昨日の議事録の整理から一日を始める。 最初は右も左もわからなかった秘書業務も、今ではかなりスムーズにこなせるようになった。「九条くん、今日の資料、よくまとまってるよ」 隣の秘書室から顔を出した井上さんが眼鏡を押し上げながら、穏やかに微笑んだ。「特に昨日の海外支社向けレポートは、非常に要点が分かりやすかった。社長も目を通したときに『問題ない』っていう一言だったから、かなり上出来だと思う」「ありがとうございます、井上さん」 俺は素直に頭を下げた。井上さんの「よくやっています」という言葉は、重みがあった。この人は会社の生き字引と呼ばれるだけあって、褒め言葉一つにも説得力がある。 そのおかげで、少しだけ胸が温かくなった。 欠陥オメガで、九条家からも見放された俺が、まさかこんな大企業で認められるとは思っていなかった。バイトを掛け持ちして何とか食いつないでいた頃を思えば、夢のような日々だった。 午前10時過ぎ、智臣が執務室に入ってきた。俺はいつものように資料を机の端に置き、今日の予定の報告をする。「社長、本日の午後から行われる会議用の資料をまとめました。重要ポイントは、赤線で引いてあります」 智臣は資料を受け取って静かにページをめくり、眼鏡の奥の視線が素早く文字を追う。赤線の位置、付箋の貼り方、要約の順番──どれも無駄がない。 わずかに視線を止めると、短く言った。「……よくやった」(……え?) 俺は一瞬、言葉を失った。智臣から直接「よくやった」と言われたのは、これで二回目だった。告げられたセリフを頭の中で反芻するだけで、心臓がどきりと跳ねる。「あ、ありがとうございます……」 声が少し上ずってしまったのが、自分でもわかった。智臣はそれ以上何も言わず、そのままモニターに向き直ったが、俺の胸には小さな喜びが広がっていた。 こんなことで嬉しいなんて、単純だ――それでもあの人が俺に向ける言葉は、仕事の評価しかない。だからこそ、その一言が胸の奥まで染み込んでしまう。それと――。(この人、本当に結婚式のことを……何も聞かないし責めないんだな) 一ヶ月経った今でも、智臣はあの日
Last Updated : 2026-09-06 Read more