LOGIN財閥・九条家のΩ継承者である九条湊は結婚式当日に姿を消した。 世間では「政略結婚を嫌って駆け落ちした御曹司」と報じられたが、理由は誰も知らない。 湊は「欠陥Ω」だった。 フェロモン濃度が極端に低く、子どもを授かる可能性は極めて低い。自分が跡継ぎを望む相手と結婚する資格はないと考えた湊は結婚式場から逃げ出した。 半年後、ようやく大手製薬会社「一ノ瀬ライフサイエンス」に就職が決まる。その社長こそ、結婚式当日に置き去りにした婚約者――一ノ瀬智臣だった。 99.9%という運命を超え、お互いを一人の人間として愛することを選んだ二人が本当の幸せを掴むまでを描く、じれ甘オメガバース・ラブストーリー。
View More鏡に映る自分の姿を、一ノ瀬智臣は静かに見つめていた。今日は、九条財閥の御曹司との政略結婚の日。
漆黒のタキシードが長身を引き締め、胸元に挿した純白のブートニアが、わずかな光を受けて柔らかく輝いている。
整えられた黒髪、冷たいほどに端正な顔立ち、そしてアルファ特有の威圧感を湛えた瞳。すべてが完璧に計算され、整えられていた。それは誰が見ても非の打ちどころのない、新郎の姿だった。
コンコン、という控えめなノックが、控室の重厚な扉に響いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは一ノ瀬グループの専属医師で、白衣の袖口から覗く指先がわずかに緊張で強張っている。
手に持つ一枚の検査結果用紙が、今日という日の重さを象徴しているようだった。
智臣は椅子から立ち上がることもなく、無言でそれを受け取った。
結婚式当日に行われる最終適合検査。名家同士の政略結婚においては、ごく当たり前の、しかし極めて重要な儀式だった。
遺伝子レベルでの相性、フェロモン適合率、妊孕性など――それらすべてを数値化し、結婚の可否を「科学的に」判断する。
書類へ目を落とした智臣の視線は、一行に留まった。
適合率 99.9%
「……99.9%か」
突きつけられた結果を見ても、智臣の心は一つも動かなかった。
医師は眼鏡のブリッジを押し上げ、言いづらそうに視線を逸らした。
「この適合率は、非常に稀な数値です。ほぼ完璧と言ってよいでしょう。しかし……」
彼は一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「お相手の九条様のフェロモン濃度が、基準値を大幅に下回っています」
控室に重い沈黙が落ちた。窓から差し込む七月の強い陽光が、智臣の横顔を白く照らす。医師がかけている眼鏡のフレームが、その光を鋭く反射させた。
「詳しい検査を行わないと断定はできませんが……この数値では、妊孕性は極めて低い可能性が高いと考えられます」
医師の言葉を聞き、智臣はもう一度、検査結果に視線を落とした。
フェロモン濃度、ホルモン値、遺伝子適合率——無機質な数字の羅列が、一人の人間の価値だけでなく、結婚の可否や未来までも決めつけようとしている。
その事実に、智臣はほんのわずかではあるが眉根を寄せた。
完璧な数字が並ぶ紙一枚で人生が左右されることに、根源的な違和感を覚えたその瞬間だった。
『智臣。運命の番に出会えたからといって、それだけで幸せになれるわけじゃないのよ』
ふと、幼い頃に母から聞かされた言葉が脳裏をよぎる。
『運命はきっかけをくれる。でも、幸せは二人で築くものなの』
(運命の適合率と幸せになる確率は、比例するものじゃないってことだろうな――)
そんなことを考えた時、勢いよく扉が開かれた。
「社長!」
専属秘書の井上が、息を切らして控室に飛び込んできた。普段は冷静沈着な彼の顔が、明らかに青ざめている。
「九条様が……!」
智臣はゆっくりと顔を上げた。
井上は言葉を詰まらせながら、何とか言葉を続けた。
「ひっ、控室にも式場にも、いらっしゃいません! ご両家とも今、大騒ぎになっています!」
廊下の向こうから、慌ただしい足音と複数の声が近づいてくるのが聞こえた。それだけで、控室の空気が一瞬で張りつめる。
「九条様の行方がわからないということで、警備にも連絡を——」
「探さなくていい」智臣の低い抑揚の少ない声が、井上の言葉を断ち切った。
「社長……ですが!」
「逃げたんだろう」それは静かで、感情を押し殺した声だった。怒りとも諦めともつかない、しかし芯の通った響きに、井上が息を飲むのがわかった。
「きっと、彼には逃げなければならない理由があったということだ」
智臣は仕事の指示を出す時と同じ、落ち着き払った口調で言った。
井上は信じられないという表情を浮かべたまま、言葉を探している。
「しかし、本日はご結婚式です。国内外の報道陣も多数詰めかけており、すでに会場は……」
「分かっている」智臣は短く答え、検査結果の紙を静かに机の上に置いた。
99.9%――誰が見ても羨望の的となる数字。アルファである自分と、ほぼ完全に適合する稀有なオメガの青年が、結婚式場から忽然と姿を消した。
それが、彼が出した答えなのだろう。
智臣は、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。レンズの向こうの瞳は、冷たく澄んでいた。
「式は中止だ」
「社長……」 「後の対応は私がする。両家への説明も、私が直接行う」井上はなお何か言いたげに口を開きかけたが、智臣の静かな視線を受けて深く一礼し、医師と共に部屋を退出した。
再び、控室に深い静寂が戻ってきた。
智臣は一人きりになった部屋で、窓の外に広がる青空を見つめた。眩しいほどの陽光が、人生で最も祝福されるはずの日を、容赦なく照らしている。
だが、その祝福をすべて捨ててまで逃げなければならないほど、結婚相手の九条には耐えがたい理由があったのだろう。
智臣はまだ知らない。彼がなぜ逃げたのか。この後、どこへ向かうのか。そして、もう二度と会うことはないのか。
それでも、一つだけはっきりと決めていた。
「……追わない」
その選択だけは、誰にも譲るつもりはなかった。
その時の智臣は、まだ知らなかった。この選択が、自分の人生を大きく変えることになるとは――。
いつもどおり出社し、書類の確認や会議の準備を進める。 仕事に支障はない。日常は何ひとつ変わっていない。それなのに、気づけば湊のことを考えていた。 颯真と会うと言っていた湊は、どんな時間を過ごしたのだろう。何を話し、どんな気持ちになったのか。 気になっている。 だが、俺から訊ねるつもりはなかった。 湊自身が考え、答えを出すべきことだ。上司である俺が、必要以上に私的な関係へ踏み込む理由はない。 そう結論づけたところで、湊が出社してきた。「おはようございます」 「ああ、おはよう」 いつもどおりの挨拶を交わす。 湊は自分のデスクに向かい、資料を整理し、必要な連絡を取っている。見たところ、普段と変わった様子はなかった。 それを確認して、ほっとした。(……なぜ、ほっとしたのだろう?) 湊がいつもどおりに仕事をしている。それだけのことだ。特別な理由などないはずなのに、胸のつかえが取れたような気がした。 その後も湊と話すたびに、つい表情や声の調子を確かめてしまう。 颯真とのことを訊ねれば、気になっている理由のひとつは解消されるかもしれないが、何を知りたいのかと問われれば、うまく説明できなかった。 湊が颯真にどんな返事をするつもりなのか。それとも、会って何を話したのか。 考えてみても、どこまで知りたいのか、自分でもはっきりしない。 ただ、気になっている。 それ以上の言葉が見つからなかった。(……俺は、ほかの社員に対しても、こんなに細かく様子を気にしていただろうか) ふと、そんな疑問が浮かんだ。 すぐに答えは出なかった。 湊の選択を尊重するべきだ。それは分かっている。 だから、余計なことは訊ねない。いつもどおりに接すればいい。 そう自分に言い聞かせ、俺は再び手元の書類に目を落とした。 *** 智臣と顔を合わせるたび、なんとなく落ち着かない。 何かが変わったわけではない。 いつもどおり挨拶をして、仕事の話をして、必要があれば相談する。智臣の態度も、これまでと何ひとつ変わっていなかった。 それなのに俺のほうが少しだけ、彼を意識してしまう。 原因に心当たりがないわけではなかった。 先日、颯真さんから告白されたことを、智臣に相談した。 真剣に話を聞いてくれたこと。俺の気持ちを尊重するようにと言ってくれたこと。 あの
俺からの連絡を受けた颯真さんは、会える日時をいくつかメッセージで送ってくれた。『湊くんが話をしたいと誘ってくれたこと、嬉しかったよ。でも、返事を急かすつもりはないから、心配しないでね』 そんな言葉が添えられていた。 俺は提示された日程の中から、休日に合わせて都合のいい日を選び、待ち合わせの日時を決めた。 約束の日。駅前で待ち合わせた俺たちは、颯真さんが勧めてくれた喫茶店へ向かった。 アンティーク家具が置かれた落ち着いた雰囲気の店で、俺たちは向かい合って席に着く。 注文した紅茶とスコーンが運ばれてきたところで、颯真さんが姿勢を正した。「メッセージにも書いたけど、返事は急がなくていいからね。湊くんが自分の気持ちを整理できるまで、僕は待っているつもりだよ」 「颯真さん……」 「最初は、君と直接話すこともなく、縁談を断ってしまっただろう?」 颯真さんは、少しだけ視線を落とした。その横顔に、かつての自分の判断を悔やむ気持ちが滲んでいるように見えた。「でも、こうして湊くんと直接会って、言葉を交わして、一緒に過ごす時間を重ねるうちに、君自身を知りたいと思うようになったんだ。それがいつの間にか、恋愛感情に変わっていた」 そう言って、颯真さんは顔を上げた。 自分の気持ちを伝えるときには、きちんと相手の目を見て話してくれる。そんな何気ない仕草にも、彼の誠実さを感じた。 俺は颯真さんと一緒にいると、無理に自分を取り繕う必要がない。気負わずに話せるし、自然体でいられる。 その心地よさは、今も変わらなかった。「ありがとうございます。俺の返事を待ってくれるだけでもありがたいのに、こんなふうに気遣っていただいて……」 「そんなに、かしこまらなくてもいいよ」 颯真さんは苦笑した。「僕がそうしたいから、そうしているだけなんだから」 本当に優しい人だと思う。 けれど、その優しさに甘えて、感謝や安心感だけで恋人になることを決めてしまうのは違う気がした。 いつか自分の気持ちに、嘘をつくことになるかもしれない。何より、誠実に想いを伝えてくれた颯真さんに、曖昧な気持ちのまま応えたくはなかった。「俺……颯真さんのことは、大切に思っています。でも、それが恋愛感情なのか、今はまだ分からないんです」 言い終えると、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 颯真さんは一瞬だ
颯真さんから告白された翌日、俺は仕事をしながら、何度もその言葉を思い返していた。『僕は、君のことが好きだ』 真っ直ぐに告げられた言葉には、迷いがなかった。以前の縁談を断ったことへの後悔だけではなく、今の俺自身を見て、気持ちを伝えてくれたのだと分かっている。 颯真さんはとても優しい。俺の考えを尊重してくれるし、一緒にいても無理に自分を取り繕う必要がない。隣にいると自然と肩の力が抜けるし、穏やかな時間を一緒に過ごすことについても、心地よいと感じている。 だからこそ、簡単に答えを出せなかった。 颯真さんを大切に思っている。それは間違いない。 けれど、その気持ちが恋愛感情なのかと聞かれたら、今の俺には確かな答えがなかった。 智臣さんに相談したことで、頭の中は少し整理できた。相手を傷つけないためだけに答えを決めるのではなく、自分がどうしたいのかを考える。智臣さんの言葉は、俺が見失いかけていたものを思い出させてくれた。 曖昧な気持ちのまま返事をするのは、颯真さんに対して誠実ではない。 すぐに答えを出すことはできなくても、今の自分の気持ちと、これから考えるための時間がほしいことは伝えられるはずだ。 俺はスマートフォンを手に取り、颯真さんの連絡先を開いた。 メッセージの入力欄に言葉を打ち込んでは消し、しばらく画面を見つめる。文章だけで伝えるより、会って話したほうがいい。 そう決めて、俺は短いメッセージを送った。『颯真さん、少しお話ししたいことがあります。お時間をいただけませんか』 送信したあと、胸の奥に緊張が広がった。 それでも、逃げずに向き合うと決めたのは俺自身だ。 颯真さんからの返信を待ちながら、俺はスマートフォンを伏せ、目の前の仕事に意識を戻した。 *** 書類に目を通し、必要な指示を出し、午後の会議に向けて資料を確認する。 普段と何も変わらない仕事のはずだった。 それなのに、ふとした瞬間に湊のことが頭をよぎる。 昨日、湊は俺に相談してきた。兄さんから告白されたことも、自分の気持ちが分からないことも、包み隠さず話してくれた。 信頼できる相手だから、相談した。 それだけのことだ。 俺は書類に視線を戻した。 湊が俺を頼ってくれたことに、特別な意味を見いだす必要はない。相談を受けた以上、できる限り冷静に助言するのは当然だ。
以前、颯真に話していた、行ってみたい場所のひとつ。週末の休日、俺は約束どおり水族館へ出かけた。 二人で薄暗い通路をゆっくりと歩く。大きな水槽の向こうで魚たちが泳ぎ、照明が水の揺らぎを柔らかく映していた。「颯真さん、このクラゲ、光り方がきれいですね」 「ああ。落ち着くね」 颯真さんは俺の隣で足を止め、水槽を眺めた。 俺から話しかければ穏やかに耳を傾け、無理に話題を広げようともしない。 気を張らずに話せる空気が、そこにはあった。仕事の上下関係も、これまでの複雑な事情も、今だけは脇に置いておける。 俺は、颯真さんと過ごす時間を心地よく感じていた。 しかし帰り際、水族館の出口近くで、颯真さんは歩みを緩めた。「湊くん」 そっと呼びかけられ、俺は足を止めた。 颯真さんは真っ直ぐに俺を見つめる。「僕は、君のことが好きだ」 目が合った瞬間に告げられた突然の告白に、俺は言葉を失った。 颯真さんが俺を大切にしてくれていることには、気づいていた。以前の縁談を後悔していることも、最近の言葉や態度から薄々感じ取っていた。 それでも、まさか本当に告白されるとは思っていなかった。「……颯真さん」 「返事は急がなくていい。君自身の気持ちを、ゆっくり考えてほしいんだ」 颯真さんはそれ以上を求めず、静かに微笑んだ。 俺は、ただ頷くことしかできなかった。 帰宅後も、告白のことが頭から離れなかった。 誰かに相談したい。けれど、この話を誰にすればいいのか分からない。友人に話すほど気軽な内容でもなく、九条家に伝えれば、大騒ぎになるのは火を見るより明らかだった。 迷った末に、俺の頭に浮かんだのは智臣だった。 なぜ、真っ先に智臣を思い浮かべたのだろう。 冷静に話を聞いてくれるからだろうか。きっと感情に流されず、俺の話を整理してくれるはずだ。 そう考えれば、相談相手に選ぶ理由としては十分だった。 翌日、仕事を終えた俺は、意を決して智臣の執務室へ向かった。 *** 「社長。少し、ご相談したいことがあるんですが……」 いつもとは違う湊の様子に、俺は手を止めた。「何だ?」 湊はためらいながらも、言葉を選んで話し始めた。「……昨日、颯真さんに告白されたんです」 俺の思考が、一瞬止まった。 颯真が湊に好意を抱いていることには、薄々気づいていた。食事会での