99.9%の運命よりも、君を選ぶ

99.9%の運命よりも、君を選ぶ

last update最後更新 : 2026-09-14
作者:  相沢蒼依剛剛更新
語言: Japanese
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故事簡介

GNアカデミー

Ω(オメガ)

α(アルファ)

CEO・社長・御曹司

BL

オフィス

財閥・九条家のΩ継承者である九条湊は結婚式当日に姿を消した。 世間では「政略結婚を嫌って駆け落ちした御曹司」と報じられたが、理由は誰も知らない。 湊は「欠陥Ω」だった。 フェロモン濃度が極端に低く、子どもを授かる可能性は極めて低い。自分が跡継ぎを望む相手と結婚する資格はないと考えた湊は結婚式場から逃げ出した。 半年後、ようやく大手製薬会社「一ノ瀬ライフサイエンス」に就職が決まる。その社長こそ、結婚式当日に置き去りにした婚約者――一ノ瀬智臣だった。 99.9%という運命を超え、お互いを一人の人間として愛することを選んだ二人が本当の幸せを掴むまでを描く、じれ甘オメガバース・ラブストーリー。

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第 1 章

プロローグ 結婚式の日

 鏡に映る自分の姿を、一ノ瀬智臣は静かに見つめていた。今日は、九条財閥の御曹司との政略結婚の日。

 漆黒のタキシードが長身を引き締め、胸元に挿した純白のブートニアが、わずかな光を受けて柔らかく輝いている。

 整えられた黒髪、冷たいほどに端正な顔立ち、そしてアルファ特有の威圧感を湛えた瞳。すべてが完璧に計算され、整えられていた。それは誰が見ても非の打ちどころのない、新郎の姿だった。

 コンコン、という控えめなノックが、控室の重厚な扉に響いた。

「失礼いたします」

 入ってきたのは一ノ瀬グループの専属医師で、白衣の袖口から覗く指先がわずかに緊張で強張っている。

 手に持つ一枚の検査結果用紙が、今日という日の重さを象徴しているようだった。

 智臣は椅子から立ち上がることもなく、無言でそれを受け取った。

 結婚式当日に行われる最終適合検査。名家同士の政略結婚においては、ごく当たり前の、しかし極めて重要な儀式だった。

 遺伝子レベルでの相性、フェロモン適合率、妊孕性など――それらすべてを数値化し、結婚の可否を「科学的に」判断する。

 書類へ目を落とした智臣の視線は、一行に留まった。

 適合率 99.9%

「……99.9%か」

 突きつけられた結果を見ても、智臣の心は一つも動かなかった。

 医師は眼鏡のブリッジを押し上げ、言いづらそうに視線を逸らした。

「この適合率は、非常に稀な数値です。ほぼ完璧と言ってよいでしょう。しかし……」

 彼は一度言葉を切り、深く息を吐いた。

「お相手の九条様のフェロモン濃度が、基準値を大幅に下回っています」

 控室に重い沈黙が落ちた。窓から差し込む七月の強い陽光が、智臣の横顔を白く照らす。医師がかけている眼鏡のフレームが、その光を鋭く反射させた。

「詳しい検査を行わないと断定はできませんが……この数値では、妊孕性は極めて低い可能性が高いと考えられます」

 医師の言葉を聞き、智臣はもう一度、検査結果に視線を落とした。

 フェロモン濃度、ホルモン値、遺伝子適合率——無機質な数字の羅列が、一人の人間の価値だけでなく、結婚の可否や未来までも決めつけようとしている。

 その事実に、智臣はほんのわずかではあるが眉根を寄せた。

 完璧な数字が並ぶ紙一枚で人生が左右されることに、根源的な違和感を覚えたその瞬間だった。

『智臣。運命の番に出会えたからといって、それだけで幸せになれるわけじゃないのよ』

 ふと、幼い頃に母から聞かされた言葉が脳裏をよぎる。

『運命はきっかけをくれる。でも、幸せは二人で築くものなの』

(運命の適合率と幸せになる確率は、比例するものじゃないってことだろうな――)

 そんなことを考えた時、勢いよく扉が開かれた。

「社長!」

 専属秘書の井上が、息を切らして控室に飛び込んできた。普段は冷静沈着な彼の顔が、明らかに青ざめている。

「九条様が……!」

 智臣はゆっくりと顔を上げた。

 井上は言葉を詰まらせながら、何とか言葉を続けた。

「ひっ、控室にも式場にも、いらっしゃいません! ご両家とも今、大騒ぎになっています!」

 廊下の向こうから、慌ただしい足音と複数の声が近づいてくるのが聞こえた。それだけで、控室の空気が一瞬で張りつめる。

「九条様の行方がわからないということで、警備にも連絡を——」

「探さなくていい」

 智臣の低い抑揚の少ない声が、井上の言葉を断ち切った。

「社長……ですが!」

「逃げたんだろう」

 それは静かで、感情を押し殺した声だった。怒りとも諦めともつかない、しかし芯の通った響きに、井上が息を飲むのがわかった。

「きっと、彼には逃げなければならない理由があったということだ」

 智臣は仕事の指示を出す時と同じ、落ち着き払った口調で言った。

 井上は信じられないという表情を浮かべたまま、言葉を探している。

「しかし、本日はご結婚式です。国内外の報道陣も多数詰めかけており、すでに会場は……」

「分かっている」

 智臣は短く答え、検査結果の紙を静かに机の上に置いた。

 99.9%――誰が見ても羨望の的となる数字。アルファである自分と、ほぼ完全に適合する稀有なオメガの青年が、結婚式場から忽然と姿を消した。

 それが、彼が出した答えなのだろう。

 智臣は、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。レンズの向こうの瞳は、冷たく澄んでいた。

「式は中止だ」

「社長……」

「後の対応は私がする。両家への説明も、私が直接行う」

 井上はなお何か言いたげに口を開きかけたが、智臣の静かな視線を受けて深く一礼し、医師と共に部屋を退出した。

 再び、控室に深い静寂が戻ってきた。

 智臣は一人きりになった部屋で、窓の外に広がる青空を見つめた。眩しいほどの陽光が、人生で最も祝福されるはずの日を、容赦なく照らしている。

 だが、その祝福をすべて捨ててまで逃げなければならないほど、結婚相手の九条には耐えがたい理由があったのだろう。

 智臣はまだ知らない。彼がなぜ逃げたのか。この後、どこへ向かうのか。そして、もう二度と会うことはないのか。

 それでも、一つだけはっきりと決めていた。

「……追わない」

 その選択だけは、誰にも譲るつもりはなかった。

 その時の智臣は、まだ知らなかった。この選択が、自分の人生を大きく変えることになるとは――。

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プロローグ 結婚式の日
 鏡に映る自分の姿を、一ノ瀬智臣は静かに見つめていた。今日は、九条財閥の御曹司との政略結婚の日。 漆黒のタキシードが長身を引き締め、胸元に挿した純白のブートニアが、わずかな光を受けて柔らかく輝いている。 整えられた黒髪、冷たいほどに端正な顔立ち、そしてアルファ特有の威圧感を湛えた瞳。すべてが完璧に計算され、整えられていた。それは誰が見ても非の打ちどころのない、新郎の姿だった。 コンコン、という控えめなノックが、控室の重厚な扉に響いた。「失礼いたします」 入ってきたのは一ノ瀬グループの専属医師で、白衣の袖口から覗く指先がわずかに緊張で強張っている。 手に持つ一枚の検査結果用紙が、今日という日の重さを象徴しているようだった。 智臣は椅子から立ち上がることもなく、無言でそれを受け取った。 結婚式当日に行われる最終適合検査。名家同士の政略結婚においては、ごく当たり前の、しかし極めて重要な儀式だった。 遺伝子レベルでの相性、フェロモン適合率、妊孕性など――それらすべてを数値化し、結婚の可否を「科学的に」判断する。 書類へ目を落とした智臣の視線は、一行に留まった。 適合率 99.9%「……99.9%か」 突きつけられた結果を見ても、智臣の心は一つも動かなかった。 医師は眼鏡のブリッジを押し上げ、言いづらそうに視線を逸らした。「この適合率は、非常に稀な数値です。ほぼ完璧と言ってよいでしょう。しかし……」 彼は一度言葉を切り、深く息を吐いた。「お相手の九条様のフェロモン濃度が、基準値を大幅に下回っています」 控室に重い沈黙が落ちた。窓から差し込む七月の強い陽光が、智臣の横顔を白く照らす。医師がかけている眼鏡のフレームが、その光を鋭く反射させた。「詳しい検査を行わないと断定はできませんが……この数値では、妊孕性は極めて低い可能性が高いと考えられます」 医師の言葉を聞き、智臣はもう一度、検査結果に視線を落とした。 フェロモン濃度、ホルモン値、遺伝子適合率——無機質な数字の羅列が、一人の人間の価値だけでなく、結婚の可否や未来までも決めつけようとしている。 その事実に、智臣はほんのわずかではあるが眉根を寄せた。 完璧な数字が並ぶ紙一枚で人生が左右されることに、根源的な違和感を覚えたその瞬間だった。『智臣。運命の番に出会えたからといって、それ
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第一章 再会
 結婚式場から逃げ出した代償は、想像を遥かに超えていた。 九条家から即日勘当を宣告され、実家からの一切の支援を断たれた俺は、学生時代に住んでいた安アパートに舞い戻るしかなかった。 わずかな貯金とスーツケース一つ。それが二十六歳の俺に残されたすべてだった。 その後の半年は静かで、しかし確実に心を削る日々だった。 オメガが就職活動をする――その特性は、むしろ不利に働いた。「オメガなのに匂いがしない」「本当にオメガか?」と疑いの目を向けられ、面接官に不信感を抱かれることも多かった。それでも俺は笑ってごまかし、黙々とバイトを掛け持ちして何とか食い繋いだ。 普通のオメガに比べてヒートが極めて軽く、体調を崩すことなど滅多になかったのが功を奏した。 そして今日——全国展開する大手製薬会社『一ノ瀬ライフサイエンス株式会社』が経営する子会社の事務職員として内定をもらうことができた。 内定通知に記された会社名を見たとき、俺は一瞬だけ息を止めた。『一ノ瀬ライフサイエンス株式会社』一ノ瀬――その名前を見て、脳裏にあの男の顔が浮かんだ。半年前、結婚式場から逃げ出した俺を追うこともなく、ただ冷たい目で見送った男。 一ノ瀬智臣。(……まさか、俺のことなんて覚えてないよな) そう思ったところで、胸の奥に小さな不安が生まれた。 もし、あの検査結果を知っているとしたら。もし、俺が普通のオメガではないことまで知られていたら――。 けれど、こんな大企業で、しかも数ある子会社のひとつだ。半年前に逃げ出した俺のことなど、もう忘れているに決まっている。 そう自分に言い聞かせ、俺は内定を受けることにした。(――今日から社会人だ。しっかりやろう) 新品のスーツに袖を通し、ネクタイをきっちりと締める。鏡に映る自分は、まだ少し頰がこけているものの、少なくともオメガらしい弱々しさは見えなかった。 意気揚々と、子会社が入っているビルに向かったはずだったのに——。「九条湊くん、申し訳ない。急なお話なんだが……」 人事部の担当者は、気まずそうな顔で切り出した。「本社に出向してほしい。社長秘書がどうしても必要らしいんだ」「……本社?」 その言葉に、胸がざわついた。 一ノ瀬グループの本社。それはつまり――一ノ瀬智臣がいる場所だ。「社長秘書って……まさか」「そう。社長直々のご指名
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第一章 再会2
 予想していた鋭い追及や冷たい非難は、何も起こらなかった。 一ノ瀬智臣は、こちらを真正面から見つめる。眼鏡の奥の瞳は相変わらず冷たく澄んでいて、結婚式前に見た見合い写真と何も変わらない。「とりあえず今日からよろしく頼む、九条湊」 低く落ち着いた声で、それだけ言った。(……え?) 俺は思わず、瞬きを繰り返した。続きを待ったが、智臣はそれ以上何も言わなかった。すぐにデスクに戻り、モニターに向かって指を滑らせ始める。 正直なところ、思いっきり拍子抜けした。 復讐されるんじゃないか。逃げ出したオメガをわざわざ自分の秘書に据えて、痛い目にあわせるんじゃないか。 そんな覚悟を決めていたのに、ただの「今日からよろしく」だけで終わり?「……あの、社長」 「初仕事だ。資料の整理を頼む」 智臣は俺の言葉を遮るように、淡々と指示を出した。「机の上にある三ヶ月分の会議議事録を、重要度順に分類してほしい。期限は今日の17時まで。わからないことがあれば、隣の秘書室にいる井上に聞いてくれ」 それだけ言うと、再び画面に視線を落としてしまった。それは俺の存在など、完全に業務の一部としてしか見ていないような態度だった。(……何なんだよ、これ) 俺は内心で大きく混乱しながら、指定されたデスクに座った。広々とした執務室の隅に用意された秘書用の席は、意外と快適そうだった。最新のPCと、必要な文具もすべて揃っている。 初めての秘書業務に、肩へ自然と力が入る。 アルファである智臣の近くにいるというだけで、出会い頭はあれほど体が熱くなったのに、不思議とヒートらしい症状が出ない。胸の奥が少しざわつく程度で、理性はしっかり保たれている。(たぶん、緊張してるから……かな) だからこそずっと警戒していたのに、肝心の症状が出ない。皮肉なことに、過度な緊張が体を抑え込んでいるらしい。 俺は深呼吸をして、目の前の分厚い資料に取りかかった。 会議議事録の山は想像以上に膨大で、内容も高度だった。一ノ瀬ライフサイエンスが手掛ける新薬開発プロジェクト、臨床試験の進捗、競合他社との提携交渉……どれも、今まで触れたことのない世界ばかりだった。 時間は容赦なく過ぎていく。智臣は時折、短い指示を投げた。「その資料の3ページ目の項目7、赤線を引いておけ」 「はい」 「来週の役員会資料に反映させ
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第一章 再会3
*** 17時を少し回った頃、井上さんが秘書室から労いの声をかけてくれた。「九条くん、お疲れ様。初日から、いきなり大量の議事録でごめんね」 言いながら、穏やかな笑顔を井上さんは浮かべる。 落ち着いた物腰なので、秘書長という肩書きがよく似合っていた。彼は智臣の第一秘書であり、社内では「右腕」と呼ばれる人物だと後で知った。「井上さん、今日はいろいろありがとうございました」 「時間あるかな? この後おこなわれる会議前に、社内を少し案内するよ。コーヒーでも飲みながら話そう」 井上さんは俺を連れて、秘書室に隣接した小さな休憩スペースへ案内してくれた。 自動販売機でアイスコーヒーを買ってくれ、向かい合って座る。「どう? 初日の感想は?」 「……正直、拍子抜けしています」 俺が素直に答えると、井上さんは小さく笑った。「だろうね。社長が君を直々に指名したって聞いたときは、みんな驚いたよ。特に君みたいな若い子を秘書に据えるなんて、かなり珍しいことだから」 井上さんはコーヒーを一口飲んでから、穏やかな口調で話し始めた。「一ノ瀬社長の仕事スタイルを、簡単に説明しておくね。まず覚えておいてほしいのは、社長は超合理主義だってこと。無駄を何よりも嫌う人だよ。無駄な会議は絶対に開かない。資料は事前にしっかり読んで、結論だけを簡潔に報告する。長々とした説明をすると、すぐに『要点は?』って切ってくるから注意して」 俺はこくりと頷いた。「残業も嫌いなんだ。基本的に19時を過ぎたら『帰れ』って言うよ。社員のプライベートを尊重する人だから、家族がいる人は特に感謝してる。ただ——」 井上さんは、そこで少し声を低くした。「仕事に対しては非常に厳しい。ミスは絶対に許さないし、甘えも見逃さない。『できると言った以上は、責任を持ってやりきれ』が口癖だね。でも、社員に対しては意外と優しいんだ。体調不良の人が出たらすぐに休ませるし、優秀な人間にはしっかり還元する。ボーナスも業界トップクラスだよ」(何だか……思っていたのと、随分違う) 俺は心の中でつぶやいた。 冷徹で復讐心が強くて、逃げたオメガを徹底的に追い詰めるような人間だと思っていた。なのに今日一日接した智臣は、ただ淡々と仕事をこなす、合理性を極めたビジネスパーソンにしか見えなかった。「九条くん?」 「あ、すみません。
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第一章 再会4
*** 18時半。智臣の執務室に隣接する中会議室で、海外企業との緊急オンライン会議が始まった。相手はドイツの製薬大手「ヴァルハラ・ファーマ社」。新薬の共同開発に関する重要な調整会議だった。 井上さんが隣で、小さく耳打ちしてくれた。「通訳は外部の専門スタッフを入れているが、今日は少し遅れているみたいだな……」 画面越しにドイツ語と英語が飛び交う中、確かに通訳の声が遅れ始めていた。重要なニュアンスが置き去りにされ、社員たちの表情が徐々に硬くなっていく。 俺は資料を睨みながら、思わず口を開いていた。「Excuse me. May I interpret for a moment?」 自然に英語が滑り出た。会議室の空気が一瞬、凍りつく。 俺は構わず、ドイツ側担当者の発言を正確に、かつ簡潔に日本語へ通訳し始めた。相手の微妙なニュアンスや、ビジネス特有の婉曲表現も逃さないように心がける。九条家のしつけが、嫌でも体に染みついていた。 家は嫌いだったけれど、そこで叩き込まれたものは、確かに俺の武器になっていた。マナー、語学、交渉ごとの基本――幼い頃から毎日のように仕込まれたそれらは、勘当された今でも俺の身体に深く刻まれている。 社員たちの視線が、驚きに変わっていくのがわかった。特に、隣に座っていた井上さんが目を見開いている。「九条さん……英語、完璧じゃないか」 一人が小さく呟いた。別の社員も「通訳より自然だ……」と漏らす。 智臣だけは、表情を変えなかった。モニターを見つめたまま、淡々と言葉を落とす。「九条、そのまま続けて」 社長の一言だけで、会議は再び滑らかに進み始めた。俺は通訳を続けながら、時折智臣に目配せで確認を取った。彼は小さく頷くだけで、余計な言葉は一切発しない。 30分後、会議が無事に終了した。画面が切れた瞬間、会議室にどっと安堵の空気が広がったのが肌に伝わる。「九条くん、すごいな! あれだけのクオリティで即興通訳できるなんて」「ドイツ語もできるの?」 その場にいた社員たちから、次々と声が飛んでくる。井上さんも穏やかな笑顔で、俺の肩を軽く叩いた。「さすがは九条家のご子息だ。助かったよ」 俺は少し照れくさくなりながら、頭を下げた。「いえ……たまたまです」 本当は「たまたま」なんかじゃない。 九条家に生まれた時点で、俺はそうい
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第一章 再会5
***  湊が帰ったあと。智臣は眼鏡を外し、指で目頭を強く押さえる。理性を張り詰め続けた疲労が、肩や首筋に重く残っていた。  静まり返った執務室で、ようやく一息ついたその時——コンコン、と控えめなノックが響いた。 「失礼します。社長」  井上が入室してきた。いつもの穏やかな笑みを浮かべている。 「お疲れ様です」 「ああ……」  智臣は眼鏡をかけ直し、短く頷いた。  井上はデスクの前に立ち、今日一日の出来事を思い出すように小さく笑った。 「九条くん、先ほど帰られましたね」  智臣は答えず、机上に置かれた書類へ視線を落とした。井上はその様子を見て、くすりと笑う。 「今日一日、見ていて思いましたが……随分と、距離を置かれていたようでしたが」 「当然だ」 「そこまで、徹底する必要があるんですか?」 「必要だからだ」  智臣の声は低く、迷いがない。  井上は少し間を置いてから、話題を変えるように明るい声を出した。 「それにしても、今日の昼食には驚きましたよ」 「……サンドイッチか」 「ええ。社長のために、自分から昼食を持ってきた社員なんて、初めて見ました。あの九条さんが『社長、お昼食べてください』って言ったときの顔ったら……」  あの現場を井上に見られていたことに、智臣は一瞬だけ言葉を失った。  そして同時に、湊の顔が脳裏に鮮明に蘇る。少し緊張した表情で、でも真剣に差し出してきた小さなサンドイッチの包み。  不慣れな環境でも、秘書として役に立とうとする姿。 (きっと…… 秘書としての責務。それだけのつもりだったのだろう)  智臣は無言でデスクの端を指で軽く叩いた。井上は面白そうに目を細める。 「社長、嬉しかったでしょう?」 「……」 「その沈黙が答えですね?」 「仕事を止められただけだ」 「はいはい、そうですよね」  井上は笑いながらも、すぐに表情を引き締めた。 「しかし、今日一番驚いたのは、夕方の会議での九条くんの活躍でした」 「英語か」 「ええ。正直、通訳の方より上手かったです。発音も自然で、交渉のニュアンスも完璧に捉えていました。ドイツ語の部分も、迷いなく理解して即座に対応していましたね」  智臣は静かに目を伏せ、その時の湊の姿を思い
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第二章 仕事と違和感
*** 二日目、三日目と日が経つにつれ、俺の中で違和感はますます大きくなっていった。 一ノ瀬智臣は、徹底的に俺に対して「距離を置いて」扱っていた。 朝、執務室に入って挨拶をしても、彼はデスクから顔を上げることなく「よろしく」と短く返すだけ。視線を合わせることはほとんどない。 資料を渡す時もそうだ。俺が近づこうとすると、智臣は必ずと言っていいほど「そこに置いて」と机の端を指差す。 直接、彼から手渡しされることは一度もなかった。まるで、俺に触れること自体を避けているかのように。 エレベーターでも同じだった。 今日も最上階からロビーへ下りる際、たまたま二人きりになった。 狭い空間に、アルファである智臣の存在感が重くのしかかる。俺は壁際に寄って、できるだけ小さくなろうとしたが、智臣は反対側の壁に寄り、俺から最大限の距離を取った。 視線はフロア表示パネルに固定されたまま、一切動かない。 それゆえにエレベーター内は、沈黙が痛いほどだった。わずか30秒の下降時間が、永遠のように感じられた。(……やっぱり、嫌われてるんだろうな) 俺は、心の中で小さくため息をついた。 逃げ出したオメガを、わざわざ自分の傍に置いたのは、復讐か何かだと思っていた。 でも現実は逆だった。智臣は俺を「存在しないもの」のように扱い、必要最低限の指示しか出さない。 それは冷たいというより、まるで俺を「触れたくない何か」として遠ざけているようにさえ見える。 欠陥オメガである俺のフェロモンがほとんど出ないから、余計に不快なのかもしれない。 それとも結婚式当日、逃げ出した俺のことを今でも軽蔑しているのだろうか。 昼休み前、井上さんがコーヒーを淹れながら、ふと声をかけてきた。「九条くん、最近少し疲れてる? 社長のペースに慣れないかな」 「……いえ、大丈夫です。ただ、社長があまり近づいてこないので……少し、距離を置かれている気がして」 井上さんは眼鏡の奥で、優しく目を細めた。「社長は元々、人と物理的な距離を取るタイプなんだよ。特に相手が若い男性の場合、余計にね。誤解を与えないように、気を遣ってる部分もあると思う」 「そうなんですか?」 「……まあ、超合理主義者だから、余計な感情を混ぜたくないってのもあるだろうけど」 井上さんの言葉は優しかったが、俺の違和感を完全に払拭す
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第二章 仕事と違和感2
*** 執務室のドアが静かに閉まる音がした。 九条湊が出て行ったのを確認して、智臣はようやく深く息を吐いた。背もたれに体を預け、眼鏡を外して指で目頭を押さえる。 机の上には、湊が最後に置いていった報告書が残されていた。智臣はそれを手に取り、ゆっくりとページをめくった。指先に、ほんのわずかな甘い香りが残っている。 欠陥オメガだという彼のフェロモンは、普段はほとんど感じられないはずのものだった。 しかし、智臣の前では違う。「……早すぎる」 低い独り言は、誰にも聞こえなかった。 99.9%という数字は、文字通り「危険水域」だ。こうして彼の香りを感じる時点で、すでに予想より進行が早い。不用意に近づけば、彼の体を無理やり目覚めさせてしまう。 智臣は報告書を閉じて静かに目を伏せ、無意識に右手を握った。それでも、指先に残る甘い香りは消えない。 隣の秘書室から井上がやって来るなり、いつもの穏やかな声で言った。「社長、相変わらず距離を置かれていますね」 「当然だ」 智臣は即答した。「99.9%適合の相手に、不用意に近付くのは危険だからな」 井上は、小さく微笑みながら続けた。「九条くんは、気付いていませんよ。あの様子だと、自分が嫌われていると思い込んでいるようです」 智臣の唇が、わずかに歪んだ。「……だからだ」 井上は、社長の横顔を見ながら静かに訊ねる。「一つ、お聞きしてもいいですか」 「何だ」 「どうして、九条くんを秘書にされたんです?」 智臣はしばらく答えなかった。井上から顔を逸らし、夜景を見つめたまま静かに口を開く。「理由は三つある」 井上は、少しだけ目を丸くした。「まず一つ目。九条家は、必ず九条湊を探す」 「……やはり」 「子会社では守れない。本社、それも私の管理下に置くのが一番安全だ」 井上は静かに頷いた。「二つ目」 智臣は眼鏡の位置を直す。「99.9%適合の症例は前例がない。経過を観察する必要がある」 「九条くんの体を、ですか」 「ああ。私も含めてだ」 「それは研究対象……ということですね」 「ああ」 そこで智臣は、一拍置く。「三つ目は――」 井上が続きを待つ。「彼の仕事ぶりを見ただろう」 智臣は、机の上の報告書へ目を向けた。「資料整理は正確だった。英語もドイツ語も使える。しかも状況判断が
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第二章 仕事と違和感3
*** アパートのドアを閉めた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。 狭いワンルームのベッドに倒れ込むように座り、きつく締めていたネクタイを乱暴に緩める。 今日も結局、智臣とはほとんど言葉を交わさなかった。必要な指示だけが淡々と飛んでくるだけで、プライベートな会話など一度もない。(本当に……嫌われてるんだろうな) 天井を見つめながら、俺は小さく笑った。笑うしかない。 結婚式場から逃げ出した自分が悪いのに、こうして同じ会社の同じフロアで働いていること自体が奇跡のような話だ。  復讐を覚悟していたのに、返ってきたのは怒りでも皮肉でもなく、徹底した距離だった。 智臣の顔が脳裏に浮かぶ。 あの完璧な横顔、感情をほとんど見せない、眼鏡のレンズの奥にある瞳、必要以上に近づかない姿勢。資料を渡すときでさえ、俺が近づくと微かに体を引くような仕草。 エレベーターで二人きりになったときの、あの重い沈黙。 全部、俺を拒絶しているようにしか感じられない。 それなのに仕事のことだけは、誰よりも正当に評価してくれる。 でも時々、ふと思う。 ——本当に、それだけだろうか? 結婚式場から逃げた俺を、なぜか彼は追いかけもしなかった。本当に嫌っているだけなら、わざわざ俺を秘書に指名する理由なんてあったのだろうか。 それとも、これはもっと長い時間をかけた、計画的な復讐なのだろうか。 俺はベッドに横になり、腕で目を覆った。 欠陥オメガの俺が、あの完璧なアルファの側にいること自体が、場違いな気がして仕方ない。 フェロモンがほとんど出ない体。普通のオメガならすぐに感じるはずのヒートも、智臣の前でさえ緊張で抑え込まれている。 家が嫌いだった。九条の名前が嫌いだった。でも、その家で学んだ語学やマナーが、大事な会議で役に立ったことも事実だった。得たものも、失ったものも、結局は九条家から逃れられない。「もういい加減……忘れたいのにな」 小さく呟いた声は、部屋の暗闇に吸い込まれるように消えた。 智臣は俺をどう思っているのか。あの距離は、本当に拒絶なのか。 その答えだけが、どうしても見つからなかった。
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第二章 仕事と違和感4
*** 入社から一週間が経ったある日の夕方。執務室の空気は、いつもより少しだけ重く感じられた。 智臣が来週の国際会議資料の最終確認をしている最中で、俺は隣のデスクで関連データをまとめていた。「この部分の数値、最新版に差し替えてくれ」 「はい、わかりました」 急いで新しい資料をプリントアウトし、確認してもらうべく智臣のデスクに向かった。焦っていたせいか、手元がわずかに狂ってしまった。 ——カサッ。 厚い資料の束が、手から滑り落ちた。「あ……!」 床に散らばる紙を慌てて拾おうとした瞬間、智臣も同じく手を伸ばした。指先が、ほんの少しだけ触れたわずか一瞬、智臣の人差し指と俺の中指が紙の端で軽く重なった瞬間だった。 心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。胸の奥で、何かが静かに波打つ。息を吸うことすら忘れるほど、一瞬だけ時間が止まった気がした。(……え? 何だこれ?) 俺は息を詰めたまま、智臣の指を見つめた。しかし、それを意識した瞬間にはもう、その感覚は綺麗に消えていた。胸のざわつきは波が引くように引いていき、平常心が戻ってくる。(……気のせい?) 智臣は表情一つ変えず、落ちた資料を拾い上げて机の隅に置く。 その動きは、普段と何一つ変わらない。けれど机に資料を置いたあと、智臣の右手がほんの一瞬だけ止まった。 そして、ゆっくりと握り込まれる。爪が手のひらに食い込むほど強く。「資料ありがとう」 淡々とした声。しかも、視線もすでに資料に戻っている。 俺は「はい……」と小さく答え、拾い集めた書類を整理しながら、心臓の鼓動を抑えていた。 あれは一体、何だったのだろう。 智臣の近くにいるだけで時折感じる緊張とは、明らかに違う。もっと深く、静かで、でも確かに「何か」が動いたような感覚。 これまで一週間、どれだけ近くにいても感じなかったものが、指先が触れたほんの一瞬だけ顔を覗かせた。(こんなの初めて……かも) これが、智臣との間で起きた初めての「違和感」だった。 ヒートではない。ここで初めて智臣と対峙した時に感じたような、強い疼きや熱とは全然違う。 ただ胸の奥底で小さく波打つような、抑えきれない何かの兆しを感じて、俺は自分の指先をそっと握りしめた。 SS級のアルファだから……? いや、そんなことは今まで一度もなかった。 それにこれまでは、緊張で
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