All Chapters of 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました: Chapter 11 - Chapter 20

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第10話 俺の名前を呼べ

 暗闇の底で、一定の間隔を刻む音がしていた。 短く、乾いた電子音。 それに重なるように、どこか遠くで空調の低い唸りが続いている。消毒薬の匂いが鼻の奥へ刺さり、唇には乾いた血のような苦みが残っていた。 美琴は息を吸おうとした。 胸の右側に鋭い痛みが走る。 喉からかすかな呻きが漏れた。身体を動かそうとしても、右肩は硬く固定され、脇腹には重い板を当てられたような圧迫感がある。頭の後ろも鈍く疼き、瞼の裏では白い光が何度も明滅した。 何が起きたのか思い出せない。 雨。 荒れた海。 濡れた柵。 薬指から抜かれた結婚指輪。 一本ずつ、柵から外されていく指。 ――死んでくれ、美琴。 記憶が戻った瞬間、美琴の呼吸が乱れた。 電子音が速くなる。「美琴」 低い声がした。 左手に、温かなものが触れる。 美琴は瞼を開いた。 視界は白く滲んでいた。天井の照明が霧の向こうに浮かび、その手前で黒い影が動いている。 何度か瞬きをすると、輪郭がゆっくりと形を持った。 男がベッド脇の椅子に座っていた。 短く整えられた黒髪。深い灰色の瞳。頬から耳元へ薄く残る火傷の痕。黒いシャツの袖を肘まで捲り、長い脚を組むこともなく、前屈みになって美琴を見つめている。 若い頃より頬は削げ、目元には冷たい影が刻まれていた。 以前の冬真は、黙っていてもどこか不遜な笑みを含んでいた。世界中を敵に回しても、自分だけは退屈しないと言い切るような顔をしていた。 今、目の前にいる男には、その軽さがない。 刃物のように研がれた静けさだけがあった。「……冬真」 名が喉まで上がり、声にならずに消えた。 美琴は唇を震わせた。 そんなはずはない。 冬真は死んだ。 五年前、爆発事故で亡くなった。新聞にも、報道にも、はっきりと名前が出ていた。 崖の下で見た姿は、死の間際に脳が見せた幻だったのだ。 ここも病院ではないのかもしれない。 自分はまだ、枝へ身体を引っかけたまま、雨の中で意識を失っているのかもしれない。「ここは……」「九条総合医療センターだ」 男は即座に答えた。 声まで同じだった。 美琴は左手を引こうとした。 その手は男の掌に包まれている。指先へ伝わる皮膚の硬さも、体温も、あまりに鮮明だった。「触らないで」 掠れた声が出た。 男の眉がわずかに動く。「痛
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第11話 葬儀に帰ってきた妻

 寺の本堂には、百合と白菊の匂いが満ちていた。 祭壇の中央には、榊原美琴の遺影が置かれている。 四年前、榊原医療開発の創立記念式典で撮られた写真だった。淡い灰色の着物をまとい、征士郎の半歩後ろに立っている。口元には控えめな笑みがあり、黒髪は隙なくまとめられていた。 その写真を選んだ者は、美琴がどんな気持ちで笑っていたのか知らない。 祭壇の前には、遺体の入っていない棺が置かれていた。 白布に覆われた棺の中には、崖上で発見された結婚指輪と、濡れて破れた美琴の靴が納められている。海上と崖下の捜索は続いていると説明されていたが、榊原家は生存の望みが薄いとして、事故から三日後には家族葬と追悼の場を整えた。 寺の駐車場には、黒塗りの車が絶え間なく入ってくる。 榊原医療開発の役員。 取引先の経営者。 華帆の移植に関わる病院幹部。 地方紙や経済誌の記者。 本来なら近親者だけで行われるはずの葬儀は、征士郎の意向で会社関係者へ開かれた。行方不明の妻を悼む夫と、姉を失った病弱な妹。その姿を公に見せることが、榊原家にとって必要だった。 本堂の前方に、征士郎が座っている。 黒い礼服は寸分の乱れもなく、髪も整えられていた。ただし頬には薄く影を入れ、目元は意図的に赤く見えるほど疲労を滲ませている。 弔問客が言葉をかけるたび、彼はゆっくり立ち上がった。「妻のために、お越しいただきありがとうございます」 声は低く掠れていた。「まだ遺体も見つかっていないのに、葬儀を行うことには迷いがありました。しかし、あの寒い海で一人にしておくより、せめて皆様に名前を呼んでいただきたいと思いまして」 深く頭を下げる。 人々は痛ましげに征士郎の肩へ触れた。「専務、お身体を大切になさってください」「奥様も、きっとご主人へ感謝しておられます」「二十二年間、本当に仲のよいご夫婦でしたものね」 征士郎は何も否定せず、唇を固く結んだ。 その隣には、喪服姿の華帆が座っていた。 顔色は白く、細い肩には黒い布地が重たそうに掛かっている。腹部はまだ目立たない。表向き、彼女の妊娠を知る者はいなかった。 華帆は遺影を見上げるたび、涙を零した。「お姉ちゃん……」 白い手で口元を覆い、嗚咽を漏らす。 駆け寄った女性職員が背中を撫でると、華帆はその腕へ縋った。「私が病気だから、お姉ちゃ
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第12話 死んだ女の離婚宣言

 本堂の出口まで、あと十歩もなかった。 美琴は杖を前へつき、左脚を慎重に運んだ。固定具に守られた足首が床へ触れるたび、骨の奥へ鈍い痛みが響く。縫合した脇腹も、呼吸に合わせて熱を持った。 それでも、足を止めるつもりはなかった。 背後では、まだ自分の葬儀が続いている。 白菊に囲まれた遺影。 遺体のない棺。 焼香の匂い。 騒然とする参列者たち。 美琴が二十二年間、妻として尽くした男は、そのすべてを背にして彼女を追ってきた。「待ちなさい、美琴」 征士郎の声が、本堂の梁へ反響した。 冬真の腕へ添えていた美琴の指が、わずかに強張る。 杖をつく音が止まった。 振り返ると、征士郎は祭壇の前から参列者の間を抜け、こちらへ歩いてきていた。先ほどまで弔辞を読んでいた男の顔には、憔悴した夫の面影が戻っている。 目元を赤くし、呼吸を乱し、失った妻が突然戻ってきたことに戸惑う男。 けれど美琴には、もう分かっていた。 どこまでが作られた表情なのか。 征士郎は本堂の中央で立ち止まり、周囲を見回した。「皆様、お騒がせして申し訳ありません」 深く頭を下げる。「妻は大きな事故に遭ったばかりです。頭部にも重い怪我を負っています。現在の発言を、どうかそのまま受け取らないでいただきたい」 ざわめきがわずかに静まった。 征士郎は言葉を選びながら、美琴へ手を伸ばす。「美琴。君は自分が何を言っているのか、分かっていない」「分かっています」「事故の衝撃で記憶が混乱しているんだ」「記憶は失っていません」「自分では、そう思っているだけかもしれない」 穏やかな声だった。 相手を案じ、傷つけないように真実を伝えようとする夫の声。 美琴は以前なら、その声を聞いただけで自分の判断を疑っただろう。 寝不足だから。 気持ちが不安定だから。 自分は間違っているのかもしれない。 二十二年間、そうして征士郎へ正しさを明け渡してきた。「君は崖から落ち、二日も意識を失っていた。目覚めて間もない状態で、離婚などという重大な判断ができるはずがない」 征士郎は参列者たちへも聞かせるように続けた。「九条家が、どのような説明をして妻をここへ連れてきたのかは分かりません。しかし、今の妻には十分な休養と治療が必要です。刺激を与えるべきではない」 病院幹部の一人が、険しい顔で美琴を
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第13話 九条家の婚約予定者

 九条家の本邸へ続く門は、雨に濡れた夜の中で、城門のようにそびえていた。 黒塗りの車が速度を落とすと、厚い鉄の扉が音もなく左右へ開く。門柱に家名を示す表札はない。ただ、傘を差した警備の男たちが等間隔に立ち、車内へ鋭い視線を向けていた。 杉と黒松に囲まれた石畳の先に、重い瓦屋根を載せた屋敷が浮かんでいる。古い日本家屋から硝子張りの渡り廊下が闇へ延び、灯りは多いのに、温かさより隙のなさを感じさせた。 美琴は膝の上の左手を見た。 薬指には、結婚指輪の白い跡が残っている。「気分が悪いか」 隣の冬真が言った。「大丈夫です」「その返事は信用しない」「では、少し疲れています」「最初からそう言え」 責められたわけではない。それでも身体が先に身構える。大丈夫と答えなければ、面倒をかける。弱さを見せれば、判断を奪われる。二十二年間で染みついた癖は、榊原邸を出ただけでは消えなかった。 車が玄関前へ止まった。 冬真が先に降り、美琴へ手を差し出す。「自分で降りられます」「知っている。降りられることと、転ばないことは別だ」 美琴は杖を外へ出し、残った手を彼の掌へ置いた。左脚の固定具が石畳へ触れた瞬間、膝から脇腹へ痛みが駆け上がる。 息を詰めた美琴の腰へ、冬真の腕が回った。「やはり歩かせるべきじゃなかった」「葬儀場では、歩く必要がありました」「今はない」 身体が浮いた。冬真が美琴を抱き上げている。「皆さんが見ています」「見せている」 玄関に並んだ使用人や護衛は表情を変えない。ただ、伏せた目の奥から、冬真の腕の中にいる女を値踏みする視線が向けられていた。 五年前に死亡したはずの後継者が、自ら抱いて本邸へ連れ帰った女。しかも、まだ榊原征士郎の妻である。「下ろしてください」「部屋までだ」「私が歩くかどうかも、自分で決めさせてください」 冬真の足が止まった。 彼は腕の中の美琴を見下ろし、やがてゆっくり床へ下ろした。左足に負担がかからないよう腰を支え、杖を握らせる。「倒れたら、次は聞かない」「分かりました」「分かっていない顔だな」「冬真も、私の言葉を聞かない顔をしています」 灰色の瞳が細くなる。「二十二年で、随分言うようになった」「言わなかった結果が、あの葬儀ですから」 冬真は黙り、美琴の歩幅へ合わせて廊下を進んだ。 通された
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第14話 燃やされた同意書

 九条家の東の離れに朝の光が差し込むより早く、久世は一通の連絡を受けた。 障子の外では、夜露を含んだ竹の葉が風に擦れている。美琴は寝台の上で、前日に渡された婚約予定者としての合意書を読み直していた。余白には、自分で加えた三つの条件が整然と書き直されている。 所有物として扱わないこと。 報復の方法を勝手に決めないこと。 財産と仕事を自分で管理すること。 まだ署名はしていない。 その紙へ視線を落としていると、廊下を急ぐ足音が近づいた。襖が開き、久世が入ってくる。普段と変わらぬ濃紺のスーツ姿だったが、銀縁眼鏡の奥の目は硬い。「榊原邸で、あなたの私物が処分され始めています」 美琴の指が紙の上で止まった。「私物?」「衣類、帳簿、手紙、医療関係の書類。庭へ運び出し、一部はすでに焼却しているようです」 脇腹の傷が、突然強く疼いたように感じた。「誰からの情報ですか」「榊原邸へ出入りしている業者です。美琴さんの死を前提に、部屋を整理するよう指示されたと」「私が生きていることは、昨日あれだけの人が見ています」「だから急いでいるのでしょう」 久世は机の上へ数枚の写真を置いた。 高い塀の外から撮られたものだった。榊原邸の庭に金属製の焼却容器が置かれ、黒い服を着た使用人が紙束を運んでいる。少し離れた場所には喜和子が立ち、杖の先で焼く物を選別していた。 炎の中に、見覚えのある緑色の箱があった。 四十歳の誕生日に渡された、高級ブランドの箱。 美琴は写真へ手を伸ばした。指先が細かく震える。「行きます」「医師は外出を認めていません」「私のものです」「その身体で争えば、傷口が開く可能性があります」「だから護衛と弁護士が必要なのでしょう」 久世は答えず、美琴の顔を見た。 襖の向こうから、冬真の声がした。「俺も行く」 黒いシャツの上へ上着を羽織りながら、冬真が入ってくる。眠っていなかったのか、目元には薄い影が落ちていた。「来ないでください」「なぜだ」「冬真が行けば、征士郎さんは九条家に脅されたと言います」「言わせておけばいい」「昨日、拳で壊さないと約束したばかりです」「殴らなければいいんだろう」「その顔で立っているだけでも、十分に脅しになります」 冬真の眉間に皺が寄る。「お前は俺を何だと思っている」「自覚のない脅威です」 久
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第15話 夫の会社を買う最初の一円

 九条家の東の離れでは、深夜を過ぎても灯りが消えなかった。 低い机の上には、榊原邸から持ち帰った六冊の大学ノートが並んでいる。 二十二年前の最初の一冊は、表紙の角が丸く擦れ、薄い青色もほとんど灰色へ変わっていた。最後の一冊には、つい数日前まで美琴が書き込んでいた数字が残っている。 美琴は左脚を台へ載せ、固定された右肩を庇いながら、頁を一枚ずつ開いていた。 そこには、榊原医療開発がまだ小さな事務所しか持たなかった頃の入金予定も、初めて病院経営支援事業へ進出した年の借入金も、征士郎が新社屋の建設を決めた夜に不足した資金も記されていた。 美琴の文字で。 美琴だけが理解できる記号とともに。 机の端に置かれた時計は、午前一時四十七分を示している。「もう休んでください」 向かいに座る久世が言った。 銀縁眼鏡の奥の目にも、薄い疲労が浮かんでいた。彼の前にはノートの内容を転記した表と、登記情報、決算公告、金融機関から入手した公開資料が広げられている。「あと少しです」「一時間前にも聞きました」「その時より、残りは減っています」「身体の回復も減っています」「医師からは、二時間以上同じ姿勢でいるなと言われているはずです」「一時間ごとに姿勢は変えました」「椅子から寝台へ移ることを、姿勢を変えるとは言いません」 美琴は筆記具を置いた。 それでも眠る気にはなれなかった。 目を閉じれば、庭の炎が浮かぶ。 焦げた臓器提供同意書。 父の会社名が記された封筒。 灰になった手紙や写真。 美琴が休んでいる間にも、征士郎は証拠を消し、金を動かし、自分に都合のよい記録を作るだろう。「今夜、これだけは整理しておきたいのです」「急いで誤れば、征士郎に反論の材料を与えます」「分かっています」「いいえ。あなたは今、二十二年間を一晩で取り返そうとしている」 久世の声は冷静だった。 慰める響きはない。 だからこそ、美琴は顔を上げた。「一晩では取り返せません」「なら、休むべきです」「ただ、忘れたくないのです」 美琴は最初のノートへ手を置いた。「この数字を書いた時、誰に何を言われたのか。どの支払いを延期するために頭を下げたのか。どの取引が実際には存在しなかったのか。時間が経てば、記憶の細部は薄れます」「記録は残っています」「記録を残した人間が、私だ
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第16話 一円の株主

 榊原医療開発の経理部で、最初に異変へ気づいたのは、入社三年目の女性社員だった。 午前八時四十二分。 前日の入出金を確認し、未処理の振込を取引先ごとに振り分けていた時、画面の最下段に見慣れない名義が表示された。 金額は一円。 送金元は、桐生アセットマネジメント株式会社。 振込人名義には、アルファベットでこう記されている。 KIRYU MIKOTO。 社員は何度か瞬きをした。 誤入金だと思い、取引先一覧を検索する。該当する会社はない。続いて法人情報を調べると、設立されたばかりの投資会社が一件だけ出てきた。 所在地は都内。 資本金、一円。 事業目的は、有価証券の取得、企業再生支援、経営調査、資産管理。 代表者欄は、非公開手続きの処理中となっている。「これ……」 社員の声に、隣の席の男が覗き込んだ。「一円?」「はい。返金した方がいいでしょうか」「振込手数料の方が高いだろ」 男は笑いかけ、名義を見たところで表情を止めた。 KIRYU MIKOTO。 経理部には、旧姓まで知る者が何人かいた。 榊原美琴。 二十二年間、役職も社員番号も持たないまま、経理部の奥の机で会社の金を動かしていた女。 葬儀の途中で生きて戻り、専務へ離婚を突きつけた女。 その旧姓が、見知らぬ投資会社の名義として会社の口座へ現れている。「部長を呼べ」 先ほどまでの軽い声が低くなった。 十分後、経理部長は画面の前へ立っていた。「誰か、奥様から連絡を受けた者はいるか」 誰も答えない。「この会社について調べろ。取引の有無、株主、役員、銀行、全部だ」「法人情報はまだ反映の途中です」「なら銀行へ照会しろ」「振込人の口座情報は、こちらからは確認できません」 経理部長は苛立ったように机を指で叩いた。 一円。 ただそれだけの入金だった。 それなのに、部屋の空気は大口取引の事故が起きた時より重くなっている。 専務室へ報告が上がったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。 征士郎は机の上へ置かれた印刷資料を一瞥した。「一円程度を報告しに来たのか」「振込名義が、桐生美琴となっております」 征士郎の指が止まった。 机の上には、来月までの資金繰り予定表が広げられている。美琴が会社から消えた後、経理部が作り直したものだった。 だが、どの数字にも確信がな
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第17話 消された身分

 新しい携帯電話へ最初の朝日が映り込んだ。 画面には、前夜に登録したばかりの名前が並んでいる。 久世朔臣。 九条総合医療センター。 信託案件を担当する弁護士。 冬真。 榊原家の者は、一人もいない。 美琴は端末を伏せ、机の上へ置かれた書類へ目を向けた。 住民票の写し。 戸籍謄本。 病院が発行した診断書。 事故前の写真が残る社員証の複製。 桐生宗一郎の娘であることを示す古い戸籍資料。 今日は、自分の身分証明書を取り戻す日だった。 崖から落ちた時に所持していた鞄は見つかっていない。運転免許証も健康保険証も、駅の貸金庫から消えた実印も、すべて征士郎の側にある。 自分の名で会社を作り、銀行と交渉し、父の信託を取り戻すには、まず自分が榊原美琴であることを、公的な書類の上で証明しなければならない。「今日は外へ出ない選択もある」 障子の向こうから冬真の声がした。 返事をする前に襖が開く。 冬真は黒いシャツの上へ濃い灰色の上着を羽織っていた。視線は机の書類ではなく、美琴の左脚へ向けられている。「医師は長時間の移動を認めていません」「役所までは車で三十分です」「待ち時間を含めれば三十分では済まない」「久世先生が事前に連絡を入れてくださっています」「榊原も入れているかもしれない」 美琴の指が止まった。 冬真はその変化を見て、顎をわずかに引いた。「だから俺が行く」「来ないでください」「昨日と同じ理由か」「役所の窓口へ九条家の護衛を何人も並べれば、私が自分の意思で申請しているのか疑われます」「護衛は外へ置く」「冬真が入れば同じです」「俺は護衛ではない」「もっと目立ちます」 冬真の眉間へ皺が寄った。 だが美琴は視線を逸らさなかった。「久世先生と行きます。必要なら担当医にも電話で確認していただけます。緊急時の位置情報も、私の操作で送れるようにしました」「操作できなければ意味がない」「その場合は、久世先生がいます」「久世は殴られれば倒れる」「冬真も撃たれれば倒れます」 冬真が黙った。 廊下に控えていた久世が、眼鏡の位置を直しながら入ってくる。「時間です」「こいつを必ず連れて帰れ」「依頼人を荷物のように扱わないでください」「傷が開いたら、その場で病院へ戻せ」「医師の指示に従います」 久世の返答は、冬真
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第18話 妻を病人にする夫

 家庭裁判所からの封筒は、九条家の東の離れへ届いた朝、白い机の上でひどく場違いに見えた。 厚みのある生成りの封筒。 宛名は、榊原美琴。 差出人には、家庭裁判所家事部と印刷されている。 美琴は寝台の脇に置いた杖へ手を伸ばすより先に、その文字を見つめた。 窓の外では、夜の名残を抱えた竹林が朝露に濡れている。風が吹くたび葉が擦れ、細い音が重なった。「開けます」 久世が封筒の端へ指をかけた。 美琴は頷いた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚も、歩く時には硬い装具が必要だった。机へ移るだけでも、脇腹の傷が呼吸に合わせて疼く。 それでも、美琴は寝台の上では読まなかった。 自分の名で届いたものを、横になったまま誰かに説明されるのが嫌だった。 杖をつき、椅子へ腰を下ろす。 久世が書類を一枚ずつ広げた。「成年後見開始の申立てです」 冬真の目が鋭くなった。 彼は窓際に立っていた。朝から黒いシャツの袖を捲り、昨夜ほとんど眠っていないことを隠そうともしていない。「誰が申し立てた」「榊原征士郎です」 答えを聞いた瞬間、室内の空気が冷えた。 冬真が机へ近づく。 久世は申立書の写しを冬真へ渡した。 美琴はその横から、印刷された文字を追った。 申立ての理由。 本人は長年にわたり抑うつ状態にある。 十九年前の流産後から情緒が不安定となり、不眠、被害的な発言、衝動的行動が見られた。 近年は妹の病気を過度に自分の責任と感じ、家族へ暴力を振るい、会社の重要書類を無断で持ち出した。 海岸での転落事故後、記憶が混乱し、献身的に支えてきた夫を殺人の加害者だと思い込んでいる。 現在は、五年間死亡を偽装していた九条冬真という反社会的な人物の影響下に置かれ、家族との接触を拒絶している。 適切な医療と財産保護のため、成年後見人を選任する必要がある。 美琴は、何度も同じ行を読み直した。 流産。 不眠。 暴力。 会社の書類。 崖からの転落。 どれも、完全な作り話ではなかった。 美琴は十九年前に子どもを失った。 眠れない夜もあった。 華帆の頬を打った。 会社から資料を持ち出した。 崖から落ちた。 けれど並べ方を変えれば、征士郎に殺されかけた妻は、夫を加害者だと思い込む病人になる。「ふざけるな」 冬真の声が低く落ちた。 申立書を持つ
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第19話 九条家の客ではない

 九条家本邸の会議室には、窓がなかった。 黒い木の長机と、壁際に並ぶ書棚。天井へ埋め込まれた照明は白く、朝とも夜ともつかない光を落としている。 美琴は長机の末席に座っていた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚にも硬い装具が巻かれ、椅子の脇には杖が立てかけてある。脇腹の傷は、長く座っているだけでも鈍く疼いた。 それでも、美琴は背筋を伸ばしていた。 机の中央には、九条家が美琴の保護へ使った費用の一覧が置かれている。 九条総合医療センターでの緊急手術。 集中治療室と個室の使用料。 二十四時間の警護。 崖上と周辺道路の調査。 久世の弁護士費用。 筆跡鑑定、医療記録の照会、役所への書類保全請求。 そこへ、独立した医療機関での精神鑑定費用まで加わっていた。 合計額を見て、美琴は一度だけ息を止めた。 普通に働いて返せる金額ではない。 正面には九条紫が座っている。 濃い墨色の着物に銀の帯。細い指で費用一覧の頁を押さえ、老いた目を美琴へ向けていた。 冬真は美琴の隣ではなく、長机の右側に座っている。腕を組み、会議が始まってから一度も資料へ視線を落としていなかった。 紫が口を開く。「あなたが本邸へ入ってから、九条家の人員と資金がどれほど動いたか、お分かりですか」「一覧を拝見しました」「数字を読める方なら、感想もあるでしょう」「私一人へ使うには、大きすぎる金額です」「その通りです」 紫は淡々と答えた。「あなたは夫に殺されかけ、崖下で冬真に拾われた被害者です。九条家が救助と治療を行ったこと自体を問題にするつもりはありません」 そこで言葉を切り、冬真を見た。「ですが、その後も病院、護衛、弁護士、調査員を継続して動かしている。冬真の私情によってです」「俺が決めた」 冬真がすぐに口を挟んだ。「美琴へ請求する必要はない」「あなたには聞いていません」「俺の金をどう使おうが――」「冬真」 美琴が呼んだ。 彼の顔がこちらへ向く。「私に話させてください」「お前が払う話ではない」「それを決めるための会議です」「決まっている。俺が払う」 冬真の声には、議論を終わらせる力があった。 だが美琴は目を逸らさなかった。「それでは、私はまた何も知らないまま、誰かが支払った場所に座ることになります」「榊原と同じにするな」「同じには
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