All Chapters of 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました: Chapter 21 - Chapter 30

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第20話 返ってきた印鑑

 白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第21話 理想の夫の記者会見

 榊原医療開発本社の一階ホールには、午前十時を過ぎる前から報道陣が集まり始めていた。 正面の壁には会社の紋章。中央には白い布を掛けた長机が置かれ、その前へ複数のカメラが並んでいる。照明の熱と機材の金属臭が、広い空間へ薄くこもっていた。 征士郎は開始予定時刻の五分前に現れた。 濃紺のスーツ。黒ではない。喪に服す夫ではなく、生還した妻を迎えたい男として見せるためだった。襟元は整い、頬にはわずかな疲労が残っている。無精髭はなく、ただ目の下だけを薄く落ちくぼませていた。 彼の隣には華帆がいた。 柔らかな灰色のワンピースに、薄い黒のカーディガン。顔色は白く、口元にはほとんど色がない。長い袖から覗く手首は細く、片手は胸元へ添えられている。 妊娠していることは伏せられていた。 記者たちが一斉に立ち上がり、光が何度も瞬いた。 征士郎は深く頭を下げた。「本日は、妻・美琴の件でお集まりいただき、ありがとうございます」 低く、静かな声だった。「まず、妻が生きて戻ってきたことを、夫として心から喜んでおります。事故現場では生存が絶望視され、家族葬まで行いました。あの時のことを思えば、今も妻がこの世にいるというだけで、言葉にできないほど救われています」 華帆が目元へ手巾を当てる。 記者の一人が、すぐに質問した。「奥様とは、その後お会いになりましたか」 征士郎は一瞬、言葉を飲み込むように伏し目になった。「いいえ」 会場がざわめく。「妻は現在、九条家の本邸にいると聞いております。しかし、家族である私たちには居場所の詳細も、治療状況も知らされていません。面会を求めても、弁護士を通せという回答しかありませんでした」「奥様ご自身が面会を拒否しているのでは?」「事故直後の妻が、どこまで自分の意思で判断できているのか。私はそこを心配しています」 征士郎は記者を正面から見た。「妻は崖から転落し、頭部にも重い傷を負いました。長年、不眠や強い不安にも苦しんでいた。そんな妻が目覚めて間もない時期に、家族から隔離され、五年間も生存を隠していた人物の保護下へ置かれているのです」 九条冬真という名を、征士郎はまだ口にしなかった。 先に、死亡を偽装した人物という形を置く。 記者たちの間で、紙をめくる音が増える。「九条家が奥様を監禁しているとお考えですか」「断定するつも
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第22話 二十二年分の数字

九条家の一室に運び込まれた段ボール箱は、朝から一つずつ机の脇へ積み上げられていた。榊原邸の台所の床下から取り戻した手書きの帳簿は、湿気を吸って端が波打ち、古いものほど紙が黄ばんでいる。美琴は表紙に記した年を確かめながら、それらを年代順に並べていった。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から、四十歳になった現在まで、抜けている月はほとんどなかった。二十二年という時間が、思い出ではなく、紙の厚みとなって目の前に積まれている。家計簿のように見える薄い大学ノートもあれば、会社の廃棄用紙を裏返して綴じたものもある。けれど中身は、食費や光熱費を記したものではない。銀行への返済日、手形の決済日、仕入先への支払い延期、役員が会社名義で落とした私的な会食費、不自然に膨らんだコンサルタント料、表の月次資料から消えた資金移動を、美琴が自分のために書き留め続けた記録だった。正式な肩書も社員証もなかった彼女は、会議室の外で聞いた数字と、征士郎が自宅へ持ち帰った資料と、取引先からかかってきた電話をつなぎ合わせ、会社が翌月を越えられるかを毎晩計算していた。「これを、全部お一人で?」久世朔臣は、銀縁眼鏡の奥で目を細めた。机の向かい側には彼が持ち込んだノートパソコンが開かれ、画面には美琴が入力した数字が年ごとに並んでいる。問いかけに驚きより確認の響きが強いところが、いかにも彼らしかった。美琴は古い帳面を一冊開き、二十年前の四月に引いた赤い線を指でなぞった。「最初は、会社が潰れたら困ると思っただけです。父の会社を救ってもらったのだから、今度は私が榊原家を支えなければいけないと……そう思っていました」口にすると、喉の奥へ乾いたものが引っかかった。救ってもらった、という言葉を二十二年間、何度使ってきただろう。征士郎に言われたからではない。喜和子に恩を説かれたからでもない。美琴自身がそう信じることで、朝から深夜まで働いても名刺一枚与えられず、経営判断へ口を出した時だけ「妻は家庭を見ていればいい」と笑われる日々に意味を与えていた。けれど、帳簿を一冊ずつ外へ出してみると、その意味だけがひどく脆かった。久世はページを数枚めくり、右端に並んだ小さな記号を見た。「△の横に二重線。これは何です」と尋ねられ、美琴は当時の記憶を探すまでもなく答えた。支払い延期を取引先が二度以上受け入れている印、翌月に現金が足りなければ取
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第23話 毎晩飲ませた薬

白い検査報告書が、机の上でかすかに音を立てた。久世が指先で向きを変え、美琴の正面へ滑らせたからだった。紙面には、採取された錠剤の外観、含有成分、製造番号、照合結果が整然と並んでいる。美琴は最初の数行を読み進めたところで、そこに書かれた薬品名が自分へ処方された記憶のないものだと気づいた。「確認されたのは二種類です」向かいに座る医師は、九条家の系列病院には所属していなかった。久世が利害関係のない第三者として選んだ医師で、持ち込まれた錠剤の分析も外部機関を通して行われているという。彼は美琴の表情を窺うような間を置かず、ただ必要な情報だけを順番に説明した。「一つは、美琴さんが処方を受けていた通常の睡眠導入薬です。問題はもう一つです。複数の錠剤から、処方記録に存在しない強い鎮静作用を持つ成分が検出されています。同じ袋に入っていても、すべてが同一ではありません」美琴は報告書へ視線を落としたまま、右手の親指を左の指先へ押しつけた。自分が毎晩飲んでいたのは、征士郎が寝室へ持ってきた小さな白い錠剤だった。水差しからグラスへ水を注ぎ、枕元へ置き、「今日は疲れているだろう」と穏やかに言われる。それが結婚生活の中であまりにも当たり前になっていて、いつから始まったのか正確には思い出せない。「長期間、混在した状態で服用していた可能性がありますか」久世が尋ねると、医師は資料を一枚めくった。「残っている錠剤だけでは期間までは特定できません。ただ、美琴さんがお話しになった症状とは矛盾しません」と答え、今度は美琴へ顔を向けた。眠気が翌朝まで残ること、頭が重いこと、集中しづらくなること、記憶が曖昧になること。聞かれるたびに、美琴は一つずつ頷いた。「朝、数字が出てこないことがありました」声にした途端、会議室の冷たい空気が蘇った。三年前、資金繰りが厳しくなった月の役員会で、取引先への支払額を尋ねられた時だった。前夜まで何度も確認していた数字が、口を開いた瞬間に頭から消えた。征士郎は隣から資料を取り上げ、「無理をしなくていい」と笑い、美琴に代わって答えた。別の日には、取引銀行との面談中に、前月の短期借入額を取り違えたことがあった。帰宅後、美琴は自分の帳簿を確かめ、書かれた数字と記憶の食い違いに青ざめた。その時も征士郎は怒らなかった。肩へ手を置き、「年齢のせいだ」「最近は物忘れが増えたな」と
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第24話 私が署名したことになっている

久世が持ち込んだ書類は、一冊のファイルには収まらなかった。午前中だけで三つの厚いバインダーが机を占領し、その横には複写された契約書、印鑑証明書、登記事項証明書、保険関係の資料が年代別に積まれている。美琴は椅子へ腰を下ろす前に、それらの背表紙へ貼られた年号を目で追った。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から現在まで、二十二年分。昨日まで数字として眺めていた時間が、今度は自分の名前を印刷された紙となって目の前へ現れていた。「集められるだけ集めました」久世は最初のバインダーを開いた。関連会社への貸付契約、債務確認書、役員責任に関する確認書、個人保証、株式の議決権委任、生命保険。ページをめくるたび、契約者欄や保証人欄に〈榊原美琴〉の文字が現れ、その横には見慣れた朱色の印影が押されていた。「これ……私の実印です」「印影だけ見れば、そうです。添付された印鑑証明書も真正です」美琴は唇を閉じた。実印は長いあいだ榊原家の金庫に保管されていた。結婚当初、喜和子から「大事な物は家の者がまとめて管理した方が安全です」と言われ、通帳と一緒に預けたことを覚えている。必要な時は征士郎が出してくれたし、美琴自身も、それを不自然だとは思わなかった。久世が一枚を指で押さえた。「署名もかなり似ています」と言う。美琴は自分の名を見つめた。榊原の『榊』を書く時に木偏を少し細くする癖、美琴の『琴』の最後をわずかに右へ流す癖まで似ている。急いで書いた自分の署名だと言われれば、数年前までなら疑わなかったかもしれない。「これだけ揃っていたら、私が違うと言っても……」「否定するだけでは弱いでしょうね」久世は慰めるような言葉を挟まなかった。だからこそ、美琴は視線を逸らさずに済んだ。彼が求めているのは、美琴を傷つけない説明ではなく、相手が否定できない材料だと分かっている。「一枚ずつ見せてください」「全部ですか」「はい。契約日と、金額と、相手先も」久世は一瞬だけ眼鏡の奥で目を細め、それから最初のバインダーを美琴の方へ押した。昼前まで、部屋には紙をめくる音とキーボードを打つ音だけが続いた。美琴は契約日を自分の帳簿へ書き写し、同じ年の資金繰り表と照合していった。最初に違和感を覚えたのは、十七年前の保証契約だった。榊原医療開発の関連会社が金融機関から借り入れた三千万円について、美琴が連帯保証人になったことにな
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第25話 会ったことのない医師

大学病院の面談室には、消毒薬の匂いが薄く残っていた。壁際には肝臓の模式図と移植手術の説明資料が並び、中央のテーブルには、美琴が三度ここを訪れたことになっている面談記録が置かれている。面談日時、体調、提供意思、家族関係まで、記録の上ではすべて整っていた。久世は美琴の隣に座り、冬真は少し離れた壁際に立っていた。病院側からは移植部門の責任者と法務担当者も同席しているが、美琴が会いたいと求めたのは記録へ署名した医師本人だった。呼び出されて入ってきた五十代ほどの医師は、扉を閉めながら久世へ一礼し、それから美琴へ顔を向けた。その瞬間、医師の足が止まった。美琴は何も言わずに待った。男は一度瞬きをし、机の上の記録へ視線を落としたあと、もう一度美琴の顔を見る。確認するような視線が、目元から頬、髪へと動き、それでも何かを否定できないように口元だけが強張っていった。「先生」久世の声が静かに落ちた。「榊原美琴さんです。あなたが生体肝移植の提供候補者として、三度面談したと記録している本人です」医師は椅子へ座らなかった。手にしていたファイルを胸元へ抱えたまま、しばらく言葉を探している。美琴はその沈黙の意味を理解し始めていたが、自分から答えを与えなかった。やがて医師は乾いた唇を一度舐め、掠れた声で言った。「……違います」病院側の法務担当者が顔を上げた。久世は表情を変えず、「何がです」と尋ねる。医師は美琴から目を逸らさないまま、今度ははっきりと言った。「面談した女性とは、顔が違う」胸の奥へ冷たいものが差し込んだ。来院した記憶がない以上、記録が作られたか、別人が現れた可能性は考えていた。それでも、自分の代わりに誰かがこの部屋へ座り、自分の身体を切る話を聞いていたのだと思うと、背中に汗が滲んだ。「座ってください」久世に促され、医師はようやく椅子へ腰を下ろした。美琴は自分の呼吸を整えながら質問した。「その女性は、どんな人でしたか」と口にすると、医師はすぐには答えず、目の前の面談記録を開いた。逃げ道を探しているようにも、記憶と記録を照合しているようにも見えた。「年齢は……四十歳前後に見えました。髪は黒く、肩より少し長かったと思います。毎回マスクをしていて、眼鏡もかけていた。季節的にマスク自体は不自然ではありませんでしたし、本人は感染症を気にしていると説明されていました」「声は?
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第26話 消された面談映像

焦げた記録装置の前には、翌朝になってもまだ湿った臭いが残っていた。病院側が設置した立入禁止のテープの向こうで、情報管理部の職員が壊れたラックを撮影し、消防設備の業者が天井付近の配線を確認している。美琴は久世と並んで廊下に立ち、昨夜とほとんど変わらない黒い筐体を見つめていた。そこに自分の代わりとして面談を受けた女の姿が保存されていたはずだと思うと、焼け跡そのものより、何も映らなくなった画面の方が恐ろしく感じられた。病院の事務局長は、午前九時から始まった説明の席で「現時点では電気系統の不具合による可能性が高い」と繰り返した。老朽化した電源タップが発熱し、近くにあった記録装置へ延焼した可能性があるという。美琴は机の上に置かれた報告書へ目を落としたが、そこには昨夜嗅いだ焦げた樹脂の臭いも、他の機器がほとんど無傷だったことも書かれていなかった。「漏電なら、電源設備側に焼損が集中するはずですが」久世が尋ねると、病院側の施設担当者が資料をめくった。「詳細は現在調査中です」と答え、事務局長も同じ言葉を重ねた。誰も断定はしない。それでも、事故という言葉だけは何度も口にされた。美琴は彼らを責める代わりに、昨夜から一つだけ引っかかっていたことを尋ねた。「保存装置の上に、何か置かれていましたか」と言うと、施設担当者は意外そうに顔を上げた。昨夜、焼けたラックの足元に、消火設備の水とは違う濡れ方をした跡があった。濡れた床は広がっていたのに、ラック上部だけに不自然な光沢が残っていたのを、美琴は遠目に見ていた。その問いへ病院側が答える前に、扉が開いた。九条家から派遣され、病院側の許可を得て現場を確認していた調査員が入ってくる。四十代ほどの男は久世へ一礼すると、透明な証拠袋に入れられた綿棒と写真を机へ置いた。「電源設備からの発火とは考えにくいです。主電源周辺に最初の焦げはありません」事務局長の眉が動いた。「消防の正式な判断はまだ出ていません」と遮ろうとしたが、調査員は声を荒らげなかった。「こちらも火災原因を断定しているわけではありません。ただ、記録装置の通気口付近から液体成分が検出されています。床の消火水とは組成が違う。何らかの液体を装置へ直接かけた後、通電状態で異常が起きた可能性があります」美琴は写真へ視線を落とした。黒いラックの上面から側面へ、乾いた筋が何本も走っている。事故で
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第27話 妻の声を証拠にする

征士郎から面会の申し入れが届いたのは、面談記録への不正アクセスログを確認した翌朝だった。久世が印刷した一枚の文書には、夫婦間の誤解を解きたい、弁護士や第三者を介さず、美琴本人と静かに話す機会がほしいと丁寧な言葉で書かれている。署名は榊原征士郎。二十二年間、何度も見てきた几帳面な筆跡だった。美琴は紙を持ったまま、最後まで読み終えてもすぐには机へ戻さなかった。「断るべきです」久世は迷いなく言った。九条家の応接室には冬真もいて、ソファの背へ片腕を預けたまま、文面を見ることさえしない。「会う必要はない」と低く続けた彼の声には、征士郎へ対する露骨な嫌悪が滲んでいた。美琴は二人の言葉を聞きながら、紙の余白へ視線を落とした。「会います」冬真がゆっくりと顔を向けた。久世も眼鏡の位置を直し、「理由を聞いても」と尋ねる。美琴は文書を机へ置き、膝の上で指を組んだ。昨夜まで、自分名義の社員IDが医療記録の改ざんに使われていた事実を見ていた。その名前を使った側が今度は、自分を正常ではない妻として扱い、本人の記憶そのものを疑わせようとしている。「私が何を言っても、あの人は『美琴は混乱している』と言えば済ませられると思っています。だから、私の口から同じ質問をします。それでも同じ答えをするのか確かめたいんです」「二人きりを条件にしている」「場所はこちらで決めます。録音もします」久世の視線がわずかに鋭くなった。「それなら話は変わります」と言い、すぐに弁護士事務所の面談室を押さえる段取りへ移った。冬真だけはまだ納得していないらしく、無言のまま美琴を見ていた。灰色の瞳には、止めたいという意思が隠されていなかった。「冬真」「何だ」「一人で行かせるのが嫌なのは分かります。でも、あの人は私が一人では何も決められないと思ってきたんです」冬真の顎が僅かに硬くなる。それでも彼は反論しなかった。しばらくして、「終わったらすぐ出てこい」とだけ言った。その言葉に、美琴は小さく頷いた。面会は午後三時、久世が所属する法律事務所の会議室で行われることになった。室内には長方形の机と椅子が二脚だけ置かれ、机の下には小型の録音機器が設置された。隣室には久世と事務所の職員が待機し、音声は同時に保存される。冬真も建物内にはいるが、美琴が呼ばない限り入室しないと約束した。先に部屋へ入った美琴は、窓際から午後の
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第28話 夫婦財産の封鎖

久世の事務所へ届いた裁判所提出用の書類は、厚さだけなら昨日まで積み上げてきた契約書と大差なかった。けれど、その一枚一枚が動かすのは過去ではなく、今日から先の金だった。美琴は応接室の長机へ広げられた申立書を前に座り、口座番号、会社名、不動産、保有株式の一覧を順番に確かめていた。榊原家名義の資産だけではなく、征士郎が実質的に支配する関連会社まで対象に含まれている。申立ての理由は明確だった。美琴名義の口座が本人不在のまま解約され、実印と印鑑証明書が長期間にわたって本人の意思を確認せず使われ、偽造の疑いがある委任状や保証契約が複数存在する。さらに医療記録の改ざんや社員IDの不正利用まで確認されている以上、今後も資産を別会社へ移し替えられる危険があると久世は説明した。財産の行方を確定させるまで、一定範囲の処分を止める必要がある。「ただし、向こうも同じことをしてきました」久世が別の書類を美琴の前へ置いた。征士郎側は、美琴が九条家の影響下にあり、夫婦共有財産を外部へ流出させる危険があるとして、美琴が新たに開設した口座と投資会社の活動停止を求めている。申立書には、九条家が巨大な資金力を背景に榊原医療開発を不当に追い詰めようとしているという主張まで添えられていた。美琴は数日前、自分の名前でようやく作った口座を思い出した。残高一円から始めた口座だった。金額に意味があったのではない。誰にも許可を取らず、自分の判断で開いたという事実に意味があった。その口座さえ止められる可能性があると聞いても、不思議と以前のような焦りは湧かなかった。「止められる可能性は高いですか」「双方とも一部は認められるでしょう。特に今は、どちらの資産が誰の意思で動かされたものか争いがあります。裁判所としても、決着がつくまで大きな移動は避けたいはずです」「父の信託も?」「管理権の帰属が争われれば、そこへ近づく手続きも遅れます」その答えに、美琴は初めて小さく息を止めた。四十歳になった自分へ父が残したものが、ようやく見え始めたところだった。それがまた凍結されれば、征士郎の会社を追うために使える資金も、父が何を守ろうとしていたのかを確かめる道も遠のく。窓際に立っていた冬真が、資料から視線を上げた。「なら、止まる前に別の手を打つ」と言う。久世が眉を上げ、美琴も彼へ顔を向けた。冬真は机へ近づき、榊原医療開発の
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第29話 判断できないのは誰か

家庭裁判所の待合室には、紙をめくる音さえ目立つほどの静けさがあった。美琴は膝の上に置いた薄いファイルへ両手を重ね、向かいの壁に掛かった時計を見ないようにしていた。昨日まで何度も久世と確認した資料が入っている。独立した医師の診断書、長年の筆跡を比較した鑑定書、本人の意思を確認せず変更された住所の記録、処方されていない鎮静成分の分析結果、そして二十二年間の資金繰り帳から抜き出した直近三か月の支払予定表だった。隣には久世が座り、そのさらに一席空けたところに冬真がいた。冬真は朝から必要以上に口を開かず、美琴が呼ぶまで部屋へ入らないと約束した夜と同じ距離を保っている。ここへ来る車の中でも、「嫌なら帰るか」と一度だけ尋ねただけだった。美琴は嫌ではないと答えたが、平気だとは言わなかった。怖さと判断力の有無は別だと、今なら自分でも分かっていた。「榊原美琴さん」職員に呼ばれ、美琴は立ち上がった。冬真も反射的に動きかけたが、美琴が小さく首を横へ振ると止まった。久世だけが代理人として隣を歩き、扉の前で美琴は一度だけ深く息を吸った。冷えた空気が肺へ入る感覚を確かめ、それから自分の足で審問室へ入った。征士郎はすでに反対側の席へ座っていた。濃紺のスーツに白いシャツ、姿勢も表情も普段と変わらない。妻の判断能力について深刻な懸念を抱き、やむなく申し立てた夫として見えるよう整えてきたのだろう。美琴と目が合うと、彼は眉をわずかに下げた。心配している時に作る、二十二年間見慣れた顔だった。征士郎側の代理人は、美琴が事故後に急激な行動変化を見せたと主張した。長年暮らした夫のもとを離れ、死亡したと報道されていた九条冬真の生存を十分な確認もなく受け入れ、その一族の保護下へ移ったこと。さらに榊原医療開発へ資産保全を申し立て、自ら投資会社を設立して夫の会社を攻撃しようとしていることを挙げた。精神的衝撃による判断力低下、第三者からの影響、財産管理能力への疑義があるという説明は、声を荒らげることなく整然と続いた。美琴は途中で口を挟まなかった。征士郎の代理人が「本人は現在、九条家の強い影響下にあります」と述べた時だけ、手元の紙へ視線を落とした。かつてなら、その言葉を聞くだけで冬真に迷惑をかけているのではないかと不安になったかもしれない。けれど今は、誰の利害がどこにあるかを考えること自体が、判断を手放さないた
last updateLast Updated : 2026-08-31
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