LOGIN結婚二十二年目の誕生日、榊原美琴が夫から渡されたのは、病弱な異母妹へ肝臓を提供するための同意書だった。拒絶した美琴は、夫と妹の裏切り、父の遺産を狙って仕組まれた結婚の真相を知り、事故に見せかけて崖から突き落とされる。死の淵から彼女を救ったのは、五年前に亡くなったはずの初恋の男・九条冬真。すべてを奪われた妻は、危険な御曹司の庇護下で、自分の名前と人生を取り戻していく。
View More年齢:40歳
艶のある黒髪を肩下まで伸ばした、静かな品のある女性。色白で細身。長年の心労と地味な服装により、実年齢以上に疲れて見える。
十八歳で十五歳年上の征士郎と結婚し、二十二年間、榊原家の妻として暮らしてきた。
夫の会社では正式な役職を与えられていないが、経理、資金繰り、取引先との調整を実質的に担っている。
穏やかで我慢強く、誰かを切り捨てることが苦手。本来は数字への感覚が鋭く、膨大な帳簿から不自然な金の流れを発見できる。
長年の支配によって自信を失っているが、守られるだけではなく、自分の知識と判断で奪われた人生を取り戻していく。
年齢:44歳
身長188センチ。黒髪を短く整え、冷たい灰色の瞳を持つ。五年前の爆発事故によって、左脇腹から背中にかけて火傷痕が残っている。
巨大企業グループと裏社会の双方に影響力を持つ九条家の後継者。
敵には冷酷で、裏切った相手を決して許さない。感情を表に出さないが、美琴に対してだけは過剰なほど保護的になる。
美琴が十七歳だった頃に出会った初恋相手。かつて結婚を約束していたが、美琴が何も告げずに征士郎へ嫁いだため、自分は捨てられたと思っている。
五年前、爆発事故によって死亡したと報道されている。
年齢:55歳
白髪交じりの髪を丁寧に整えた、知的で柔和な印象の男性。榊原医療開発の専務。
対外的には誠実な経営者、年下の妻を二十二年間大切にしてきた献身的な夫として知られている。
怒鳴ったり暴力を振るったりするのではなく、恩、常識、家族愛、社会的立場を使って相手の判断を奪う支配型。
美琴の父が経営する会社の取引責任者だった頃、美琴へ近づき、十八歳の彼女と結婚した。
利益のためなら、妻の財産、労働、信用、身体まで利用する。
年齢:21歳
淡い栗色の長い髪と、大きな瞳を持つ。白や淡い色のワンピースを好み、病弱で庇護を必要とする少女に見える。
美琴とは父親が同じ異母姉妹。十九歳の年齢差がある。
実母の死後、十八歳で美琴の前へ現れた。その後、榊原家の養女となり、戸籍上は征士郎の義妹となる。
人前では純真で、姉を慕う健気な妹として振る舞う。実際には相手の罪悪感と庇護欲を利用し、欲しいものを自ら要求せず、周囲に差し出させることが得意。
美琴の服、部屋、家庭、夫、社会的な立場へ強い憧れを抱いている。
年齢:35歳
濃紺の髪を後ろへ流し、銀縁眼鏡をかけた長身の男性。九条家専属の弁護士で、冬真の側近。
法律、企業買収、相続、信託、医療法人の不正調査に精通する。
感情による復讐を嫌い、美琴にも証拠と権力の使い方を教える。
当初は美琴を、冬真の弱点となり得る危険な存在として警戒する。美琴を無条件に慰めず、経営者として自立するための厳しい現実を突きつける。
年齢:68歳
冬真の祖母であり、九条グループ会長。
銀髪を美しく結い上げ、和服を着こなす。老齢ながら背筋は伸び、わずかな言葉の矛盾も見逃さない。
血筋や肩書ではなく、危機における判断力と、守るべきものを選ぶ覚悟を重視する。
突然現れた美琴を歓迎せず、冬真の情によって守られるだけの女性なのか、それとも九条家と対等に交渉できる人物なのかを見極めようとする。
年齢:78歳
征士郎の母。小柄で上品な老婦人に見える。
榊原家の存続と社会的地位を何より優先する。美琴を名前ではなく「嫁」と呼び、妻が夫の家へ尽くすことを当然と考える。
華帆を榊原家の養女として迎える手続きを進めた人物。
美琴の犠牲によって華帆と胎児を救えるのであれば、それが家族として正しい選択だと本気で信じている。
死亡時年齢:58歳
美琴と華帆の父。桐生投資管理会社を一代で築いた実業家。
大胆な投資判断で知られた一方、家族関係には多くの秘密と後悔を残した。
美琴が十九歳になる直前に死亡。
生前、征士郎の狙いに気づき、美琴が四十歳になった時に初めて管理権を得られる信託財産を残している。
年齢:47歳
九条家と長年対立する勢力の幹部。
穏やかな口調と柔和な目を持ち、暴力よりも情報、契約、裏切りを利用する知性派。
五年前の爆発事故に関する情報を握っていると噂される。
冬真の敵とも味方とも断定できず、美琴へ意味深な忠告を与える。
榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方
美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも
離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在
久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も