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あなたを忘れてよかった
あなたを忘れてよかった
Author: タロ芋ポッピングボバ

第1話

Author: タロ芋ポッピングボバ
「そろそろ帰るわ。莉奈にお弁当を作らないといけないから」そう言って、貴子と健一は立ち上がった。「あんたはここで、少し頭を冷やしなさい」

2人が病室を出て、扉が閉まった瞬間、葵の胸を鋭い痛みが突き抜けた。

何も覚えていないはずなのに、世界中から見捨てられたような絶望だけが、あまりにも生々しく胸に残っている。

どうして――

どうして世の中には、実の娘よりも養女を大切にする親がいるのだろう。

それに、裕介という男……

部屋を間違えたのは彼だ。人違いをしたのも彼だった。

それなのに、責任を取るために結婚してくれたのなら、どうしてもう少し優しくしてくれなかったのだろう。なぜ彼女を冷たく突き放し、追い詰めなければならないのだろう。

考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。聞かされたばかりの、見知らぬ過去。それだけで、心臓を鈍い刃物で切りつけられているように痛むのに、記憶を持っていた今までの自分――来る日も来る日も、父にも母にも愛されず、夫にも顧みられない日々を送っていた自分は、いったいどれほど絶望していたのだろう。

葵はゆっくりと上体を起こし、一人で退院の手続きを済ませた。

けれど、病院を出たところで、足が止まった。どこへ行けばいいのか分からない。

両親の家も、自分と裕介の家もどこにあるのかは分からない。

そのことより悲しいのは――どちらの家にも、自分の居場所がないことだ。

病院の入口で、突然ざわめきが起こった。

葵が顔を上げると、細身で背の高い男が、華奢な女性を抱きかかえたまま、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。

男は仕立ての良い黒いスーツを身にまとい、張りのある肩のラインがひときわ目を引く。整った顔立ちもさることながら、一歩一歩に人を圧倒するような存在感があった。

その腕の中には、か細い女性が大切そうに抱かれていた。

青白い頬を男の胸元に寄せ、女性はぐったりと身を預けている。男は何度も彼女の顔を覗き込み、その様子を確かめるように腕の力を微かに強めていた。

その仕草には、彼女を誰にも渡したくないという強い独占欲さえ滲んでいる。歩幅もいつの間にか小さくなっていた。少しでも揺らして、彼女に負担をかけることがないように。

「そこをどいてくれ」

彼の声は決して大きくなかった。それでも、その一言だけで周囲の人々は彼を避けるように道を開けた。

「ねぇねぇ、あの人って、野崎裕介じゃない?」

背後から、誰かが小声で囁く。

「そうそう!南山市であんな雰囲気を出せる人って、彼以外いないんだから!かっこよすぎて、腰が抜けちゃいそう……」

葵はその場に立ち尽くした。

――この人が自分の夫、野崎裕介。

そして、彼が抱いているのは……おそらく、自分の義妹である川澄莉奈なのだろう。

裕介が葵の横を通り過ぎる。その瞬間、彼の足がほんのわずかに止まった。

漆黒の瞳が葵を一瞥する。冷たい視線が、まるで氷の刃のように肌を撫でた。

けれど、それも一瞬のことだった。裕介はすぐに視線を逸らすと、腕の中の莉奈を抱えたまま、足早に救急外来へ向かっていった。

葵の細い身体が、わずかに震える。それでも、彼の後を追うことはしなかった。

自分はこれからどうすればいいのだろう。そう考えていた、その時だった。

背後から足音が聞こえてきた。

振り返ると――そこには、先ほど去っていったはずの裕介が立っていた。

裕介はいきなり葵の手首を掴んだ。あまりの強さに、葵は思わず眉をひそめる。「葵はRhマイナスの血液型だろ?」

返事を待つことさえせず、裕介はそのまま葵を採血室へ引っ張っていく。

「莉奈が事故に遭って大量に出血した。病院の血液も足りない。少し血を提供してくれ」

「え……?」

葵が何かを言おうとしたその瞬間、裕介の手が葵の後頭部を押さえた。そして、身を屈める。

唇が重なった。

冷たく、短いキスだった。触れたと思った次の瞬間には、もう離れている。

「これで、血を提供してくれるか?」低く落ち着いた声。その瞳には、温度がまるでなかった。

葵は何が起きたのか理解する暇もないまま、採血室へと押し込まれた。

扉の向こうから、看護師たちの話し声が聞こえてきた。

「ねえ、あの人が、108回も自殺未遂を繰り返した野崎さんの奥さんなんだって。最初は野崎さんにキスしてほしくて自殺しようとしたらしいよ。2回目はデートしてほしくて、3回目は一緒に夜を過ごしたくて……って。毎回断られてるのに、よくそこまでやるよね」

「そうなんだ……じゃあ、今日ようやく野崎さんにキスしてもらえたと思ったら、川澄さんに輸血するためだったってこと?」

「本人としては、複雑でしょうね。やっとキスしてもらえたのに、理由は他の女のためなんだから……」

採血用の椅子に横たわった葵は、ガラス窓の向こうをぼんやりと眺めていた。裕介は莉奈の病床のそばに付き添っている。長い指で莉奈の白い手をそっと包み込み、身を屈めると、その手の甲に軽く口づけた。

けれど、葵の胸には何も響かなかった。嬉しく、苦しくもない。

針が血管に刺さる痛みさえ、まるで夢のようで、現実味がなかった。かつてなら胸が引き裂かれるほど苦しんだはずの感情も、記憶を失った今は、すべてが淡く溶けていた。

何もかも忘れてしまったことは、もしかすると、神様が自分に与えてくれた慈悲なのかもしれない。

400ccの採血を終えると、葵は青ざめた顔で採血室を出た。目の前が何度も暗くなり、足元がふらつく。

それでも、しばらく迷った末、葵は裕介の前まで歩いていった。「裕介……私たちの家の住所、教えてくれる?その代わり、プレゼントを用意するよ」

裕介が眉をひそめる。「今度はなんの真似だ?自殺を繰り返すせいで、とうとう自分の家まで忘れたのか?」

「誤解しないで。私、記憶を……」

「運転手を外で待たせてある」裕介は葵の言葉を遮った。「送ってもらえ」

「わかった。ありがとう」葵は静かに答えた。「プレゼントは、ちゃんと用意するね」

「いらない」裕介の声は、どこまでも冷たかった。「君からのプレゼントなんて欲しくない。俺の機嫌を取ろうとする必要もない」

葵は目を伏せた。唇の端が、ごくかすかに上がる。

――果たしてそうだろうか。

今度のプレゼントは、きっと気に入ってくれる。

車に乗り込んだ葵は、スマホの連絡先から弁護士の番号を探し出し、メッセージを送った。

【いつもお世話になっております。野崎葵です。離婚と親子関係の解消を希望しています。離婚協議書と絶縁状を作成していただけますか?】

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