All Chapters of 前世の愛を、置き去りにして生きる: Chapter 11 - Chapter 20

28 Chapters

第11話

心臓を見えない手にきつく掴まれ、そのまま放り出されたような衝撃を受けた。あとに残るのは、ぽっかりと穴が空いたような鈍い痛みだけだ。信じられないという思いと、裏切られたという怒り。そしてそれよりずっと深いところにある、自分でも認めたくないほどの不安が入り混じっている。彼女は、行ってしまった。ただ拗ねて家を飛び出したのではない。旅立つ準備はとっくに整っていた。彼女は、ずっと前からこの日のために動いていたのだ。振り返ることなく、彼のまったく知らない広い世界へと飛び立っていった。そして自分は、とんだ愚か者だった。彼女はほんの少し機嫌を損ねているだけだと、自分から離れられるはずがないと、いずれ戻ってくるはずだと、そう思い込んでただここにいたのだ。翌日。裕也は所長室の扉の前に立ち、深く息を吸ってから手を上げてノックした。「入れ」扉を開けると、所長は老眼鏡をかけ、書類を読んでいた。物音に気づいて顔を上げ、相手が彼だとわかると、いくらか意外そうな顔をする。「あぁ、裕也か。この時間、実験室にいるはずだろう。データは出たのか?」「まだです」裕也は机の前まで歩み寄り、立ち止まった。「所長、3日だけ、休みをいただきたいのですが」「休み?」所長は老眼鏡を外し、たちまち不快げに眉をひそめた。「今か?冗談だろう。プロジェクトは今、いちばんの正念場だぞ。一分一秒も無駄にはできない。お前はプロジェクトの中核だ。お前が抜ければ、進捗全体が止まってしまう!」「わかっています」裕也の声は穏やかだったが、注意深く聞けば、かすかな緊張がはっきりと滲んでいた。「3日だけです。私事があって、どうしても片づけなければなりません」「私事?」所長の眉間の皺がさらに深くなった。「このプロジェクトより大事な私事があるのか。お前はこれまで、そんなふうに優先順位を見誤る人間ではなかったはずだ」裕也は数秒黙り込んだ。「……妻のことです」自分の口からそんな言葉が出たことに、彼自身が驚いた。「妻が出ていきました。東雲に。私が迎えに行かなければなりません」所長は呆気に取られた。まるで初めて出会った見知らぬ人間を見るように、まじまじと見つめた。妻?あの、いつも静かで、存在感のひどく薄い早紀のことか?出ていった?「お前たち……喧嘩でもしたのか?」所長の口調
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第12話

「すみません、私は本当に彼女の夫なんです」裕也はそう言って、鞄の中から折り目のついた戸籍謄本の写しを取り出した。「これを見てください。彼女は私の妻です。彼女とは……少し行き違いがあって、突然家を出てしまったんです。ずっと心配していて」女性職員は差し出された書類に目を落としたものの、すぐに裕也へ返した。「事情はわかりました。ですが、たとえご家族の方であっても、ご本人の了承なしに住所や連絡先をお教えすることはできません」「でも、私は夫です」「先ほども申し上げましたが、榊山さんはご自身を『離婚』と届け出ておられます。大学として、それ以上ご家庭の事情に立ち入ることはできません」淡々とした口調だったが、拒む意思ははっきりしていた。「ご用件があるのでしたら、こちらから榊山さんにお伝えします。ご本人が面会を了承されれば、こちらからご連絡します。連絡先を残していただけますか」裕也は女性職員の事務的な表情を見つめ、これ以上食い下がっても無駄だと悟った。胸の奥に、重いものが沈んでいくような息苦しさを覚えた。「……わかりました。では、お願いします」掠れた自分の声が、ひどく遠く聞こえた。連絡先を書き残し、事務室を出る。そのあと裕也は、行くあてもないまま校内を歩き続けた。初秋の陽射しは柔らかく、プラタナスの葉を透かして、まだらな木漏れ日を落としていた。学生たちが三々五々、本を抱えて笑い合いながらそばを通り過ぎていく。その顔には若々しい活気と、未来への明るい憧れが満ちていた。彼らは始まったばかりの授業のことを語らい、ある文学流派について議論を交わし、新しく読んだ小説の感想を分かち合っていた。そのどれもが、裕也にとってはまったく縁のない別世界だった。そして、早紀が今まさに足を踏み入れている、新しい世界でもあった。彼は校舎前のベンチに腰を下ろし、昼から夕方まで、ただ座り続けた。太陽が少しずつ西へ傾き、空を温かい橙色に染めていくのを眺めながら。心の中のもつれた糸は少しもほどけず、むしろますますきつく絡まっていくばかりだった。翌日。彼は約束の時間に文学部の事務室を訪れた。女性職員は彼を見ると、小さく頷いた。「榊山さん、来ていますよ。奥の小会議室でお待ちです。ただ……」彼女は一拍置き、忠告するような口調で言っ
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第13話

手首に鋭い痛みが走り、早紀は眉をひそめた。振りほどこうとしても、裕也の手はびくともしない。「離婚届には、あなた自身が署名したでしょう」早紀は、怒りと動揺に染まった彼の目をまっすぐに見つめ、冷静な声で続けた。「私は、それを役所に提出しただけです。正式に受理されています。浅村先生、少し落ち着いてください」「落ち着けだと?」裕也は信じられないものを見るように彼女を見つめると、そのまま強く引き寄せた。互いの息遣いがわかるほど、距離が縮まる。「俺は、あのとき本気で離婚するつもりで署名したんじゃない。お前だって、それくらいわかっていたはずだ」「でも、署名したのはあなたです」「そんなことで、俺たちが終わったことになるのか?」裕也の声が低く震えた。「早紀、お前は俺の妻だ。俺はまだ、お前と離婚したつもりはない」早紀は静かに彼を見返した。「あなたがどう思っていても、もう受理されています。私たちは、もう夫婦ではありません」裕也は、まるで途方もない冗談でも聞いたかのように彼女を見つめた。「お前は俺の妻だ!言っておくが、俺が同意しない限り、お前はずっと俺の妻だ!あんな紙切れなど、無効だ!」「ちょっと!彼女を離してください!」様子のおかしさに気づいた女性職員が、慌てて割って入ろうとした。裕也はそれにも構わず、ただ早紀を強く掴んだまま、瞬きひとつせず、逃がすまいとするかのように彼女を見つめている。「お前は、いったい何が欲しいんだ」彼の声は掠れ、崩壊寸前の執着じみた響きを帯びていた。「言ってくれ!お前が望むことなら、何でも叶える!一緒に帰ってくれ。一からやり直そう。それでいいだろう?」早紀は、彼の目に、これまで見たことのないような狂気と苦しみが渦巻いているのを見つめながら、心は少しも動かなかった。あるのはただ、底の見えないほどの疲労と、冷たさだけだった。彼女はゆっくりと、自分の手首に食い込む彼の指を、1本、また1本と引き剥がしていった。力は強くなかったが、揺るぎない決意が込められていた。「私が欲しいのは、前世で生きられなかった人生よ。あなたに、それが返せる?」裕也は固まった。裕也が固まったのを見て、彼の指を引き剥がしていた早紀の手も止まった。「何……前世?」彼は呆然と彼女を見つめた。まるで意味が理解できないとい
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第14話

裕也は口を開きかけたが、ひどく喉が渇いて痛んだ。「母さん……」自分でも驚くほど掠れた声だった。そこには隠しようのない疲労と、かすかな脆さが滲んでいた。「早紀が言ったんです……俺たち、離婚したって」電話の向こうで、数秒の重い沈黙があった。それから母がため息をつき、声が沈む。「あの子、この前、うちにも電話をよこしてそのことを話していたわ。裕也、いったい何があったの?あなたたち、うまくいってたんじゃないの?どうして急に……」「俺は……」裕也は目を閉じ、ほとんど聞き取れないほどの小声で呟いた。「いろいろ、間違えてきたんだと思います」母は電話の向こうで、また長いこと黙り込んだ。「裕也」再び口を開いた彼女の声には重みがあり、それでいてどこかすべてを悟ったような響きがあった。「早紀さんは、本当にいい子よ。控えめで、よく気がついて、ずっと我慢してきたでしょう。そんな子が離婚まで決めたんだから、それだけ深く傷ついて、もうこれ以上は無理だと思ったってことよ。それでもまだ早紀さんとやり直したいなら、ちゃんと追いかけて、謝って、自分が変わるしかないわ。あの子がいつまでも同じ場所で待っていてくれるなんて、絶対に思わないことね。人の気持ちは、放っておけば少しずつ離れていくものだから。一度冷めてしまった気持ちを取り戻すには、今まで以上の誠意が必要よ。それに……早紀さんが、もう一度あなたに向き合ってくれるとは限らないんだから」裕也は受話器を握りしめながら、母の言葉を聞いていた。そのひと言ひと言が、まるで金槌のように胸の奥を強く打ちつけた。そうだ。彼女の気持ちは、冷めてしまった。そうさせたのは、ほかでもない自分だった。「ありがとうございます、母さん」彼は掠れた声で言った。「早く休んでください」電話を切り、電話ボックスを出た。夜風はさらに冷たさを増していた。彼は通りに沿って、あてもなく歩いた。まだ暖簾の出ている赤提灯の店の前を通りかかった。すり切れた暖簾の隙間から、くすんだ灯りが漏れている。彼は一瞬足を止め、ふらりと暖簾をくぐった。客は誰もおらず、カウンターに突っ伏して居眠りをしている店主がひとりいるだけだった。「もう店じまいだよ……」店主は顔も上げずにぼそりと言った。「焼酎をボトルで1本」裕也は掠れた
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第15話

世界が、濃い闇に呑み込まれていった。そして、彼の目に残っていた最後のわずかな光も、完全に消えた。彼はゆっくりと冷たい壁に沿って、その場に崩れ落ち、膝の間に深く顔を埋める。その広い肩が、抑えきれないほど激しく震えていた。その頃、灯りの消えた部屋の中、早紀はまだ眠っていなかった。彼女は机の前に座り、窓から差し込む淡い月明かりを頼りに、原稿用紙に一字一字ペンを走らせていた。ペン先が紙を滑る音が、かすかに響く。ときおり手を止め、顔を上げて窓の外へ目をやる。月明かりの下、路地の入り口に、ぼんやりとうずくまった人影があるのがかすかに見えた。彼女はそれを、数秒見つめ、それから静かに視線を戻した。手を伸ばし、厚いカーテンを引く。あの月明かりも、窓の外の人影も、完全に外へと締め出した。そして彼女は俯き、また書き続けた。彼女が今書いているのは、苦境の中で半生をもがき苦しみながらも、最後には自分自身の力で這い上がり、汚れを洗い流し、再び陽の下に立って新しい人生を歩み始める女性の物語だった。彼女は集中して、真剣に書いていた。口元には、かすかな、満ち足りたような笑みさえ浮かんでいた。まるで、窓の外で起きているあの無言の崩壊と、黙って待ち続ける姿が、自分にはまったく関係のないことであるかのように。ただ、この長い秋の夜に残された、すぐに忘れられる些細な出来事にすぎないかのように。東都から戻って以来、裕也はまるで別人のようになっていた。相変わらず毎日研究所へ通い、実験室にこもり、データを処理し、会議を開いてはいた。けれど誰の目にも、あの、研究のために生まれてきたかのような、常に冷静沈着で、何ものにも心を乱されることのなかった浅村先生の姿は、もうそこにはいなかった。彼は無口になり、沈鬱になり、しばしばぼんやりとするようになった。実験記録ノートを前にしたまま、半日もページをめくらないことがあった。会議の途中、ふいにどこか虚空を見つめ、目に光がなく、まるで魂がどこか遠くへ飛んでいってしまったかのような瞬間もあった。それ以上に多かったのは、仕事の合間、実験室の窓辺にひとりで立ち、外の曇った空や階下の葉の落ちた木の枝を眺めながら、長いこと動かずにいることだった。その背中からは、濃く拭いきれない疲労と、深い寂しさが
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第16話

彼は、あの大衆食堂を探し当てた。紆余曲折の末、あの日スープを運んでいた店員を見つけ出した。40代ほどの、実直そうな顔立ちの中年女性だった。最初、相手は目を泳がせ、しどろもどろになりながら、あくまで自分がうっかり滑っただけだと言い張った。裕也が身分証を見せ、彼女に不利益が及ばないようにすると約束し、さらに家計がかなり楽になるほどの金を差し出すと、女性はついに崩れ落ち、泣きながら真実を話した。「あ……藤咲さんです。あの人にお金を渡されて、わざと足を滑らせたふりをして、スープをかけるように言われたんです。ちょっとからかうだけだから、本当に火傷なんてしないって……私、家計が苦しくて、子どもの学費もかかって、それで……」裕也の顔から血の気が引いた。怒りと動揺を押し殺すように、低い声で問いかける。「研究資料を燃やしたのも……あいつなのか?」店員はしゃくり上げながら、何度も頷いた。「はい……あの人です!自分でマッチを出して書類に火をつけて、それを奥様の手に押しつけたんです。それから、自分は数歩後ろへ下がって、大声で助けを呼んで……私、怖くなってしまって……あのときは、もう何が何だかわからなくて……」「なぜあのとき、本当のことを言わなかった!?」裕也が低く唸るように言った。指の関節が白くなるほど拳を固く握りしめている。「私、怖かったんです!」店員はおびえて身を縮めた。「あの方、自分は研究者で、先生の後輩だって言っていて……私、逆らうのが怖かったんです。それに、あとになって先生まであの方の話を信じてしまったから、今さら本当のことを言っても信じてもらえないんじゃないかって……下手なことを言ったら、今度は私まで責められるんじゃないかと思って、それで……」裕也はよろめきながら後ずさり、壁に手をついて、ようやく倒れずに済んだ。耳の中でひどい耳鳴りがし、目の前が何度も暗くなる。心臓を、見えない手にきつく掴まれ、揉みしだかれ、今にも砕けそうだった。痛みで呼吸が苦しくなり、全身が冷え切っていく。彼はほとんど逃げるように、その食堂をあとにした。次は、薬局だった。明日香の写真を持って、一軒一軒、尋ね歩いた。ようやく街のはずれにある小さな薬局で、若い店員が彼女を覚えていた。「ええ、そういう女性の方、いらっしゃいました
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第17話

彼女の顔は蒼白で、目は赤く腫れ、かつての輝きや誇りはすっかり失われ、まるで嵐に打たれ、しおれた花のようだった。「先輩……」彼女はすがりつくように駆け寄り、彼の腕を掴もうとした。声には泣き声が混じっている。「私が悪かったんです。本当に反省しています!一度だけ、許してもらえませんか?私、研究所の仕事を失うわけにはいかないんです。何年も勉強して、あんなに苦労して、ようやくここまで来たのに。先輩、お願いします、同じ研究室でやってきたよしみで……」裕也は一歩下がり、彼女の手を避けた。その眼差しは冷たく、温かみなど少しもなかった。まるで、そこにある物を見るような目だった。「同じ研究室でやってきたよしみ?」彼は口元を歪めた。その笑みはひどく冷たかった。「明日香、お前に俺の後輩を名乗る資格はない。まして、情に訴える資格なんてない。俺が何を一番後悔しているか、わかるか?もちろん、お前の嘘を信じ、彼女を傷つけたことも後悔している。だが、それ以上に許せないのは、お前みたいな人間を、研究を理由に自分のそばへ置いてしまったことだ。そのせいで研究まで汚され、俺自身も彼女を……壊す側に回ってしまった」彼は、みるみる青ざめていく明日香の顔を見つめながら、一語一語、冷たく告げた。「お前に、愛を語る資格はない。彼女を傷つけた代償は、お前自身の人生で払ってもらう。それでようやく公平だ」言い終えると、彼はもう一度も振り返ることなく、身を翻して大股で去っていった。その背中には決然とした意志が滲み、未練のかけらもない。明日香はその場にへたり込み、廊下の先に完全に消えていく彼の背中を見つめながら、ついに耐えきれなくなった。顔を覆い、胸を引き裂くような声で号泣した。けれど今度ばかりは、誰も彼女のために足を止めてはくれず、ましてや同情して助け起こしてくれる者もいなかった。彼女が入念に仕組んだすべては、結局のところ、自ら墓穴を掘ったにすぎなかった。裕也は再び、所長室の扉をノックした。「入れ」扉を開けると、所長は頭痛をこらえるようにこめかみを揉んでいたが、彼だと気づくと一瞬驚いた顔をし、すぐに重いため息をついた。「裕也か、座れ。藤咲の処分の件か?もう通達は出た。あまり気にしすぎるな……」「所長」裕也は彼の言葉を遮った。口調は穏や
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第18話

早紀は笑いながらそれを受け取り、ありがとうと言って瓶を少し傾けて口をつけた。陽射しが少し上を向いた彼女の首筋に落ち、白く華奢な肌を照らしていた。裕也の目が鋭く細められ、血が一気に頭に上る。彼は考えるより先に数歩で駆け寄り、男子学生を強引に引き離し、早紀の前に立ち塞がった。その動きは荒々しく、ほとんど本能的だった。「何するんですか!?」男子学生はよろめきながらも体勢を立て直し、怒りの目で彼を睨んだ。早紀もこの突然の出来事に驚き、手にしていたサイダーの瓶を落としそうになる。顔を上げ、それが裕也だとわかると、すぐに眉をひそめ、隠しようのない苛立ちを浮かべた。「裕也、何のつもり?」裕也はその男子学生には構わず、ただ早紀を見つめ続けた。その目は恐ろしいほど血走っている。「……っ、話がしたい」彼の声は掠れ、極限まで抑え込んだ震えを帯びていた。「あなたと話すことなんて、何もないわ」早紀の声は冷たかった。彼を避けて通り過ぎようとする。「早紀!」裕也は勢いよく振り向き、彼女の腕を掴んだ。そして、あの男子学生も、周囲の学生も、通りすがりの教員までもが呆然と見つめる中――彼は早紀の前で、勢いよく両膝をついた。膝が冷たく硬い床にぶつかり、心臓が縮み上がるような、重く鈍い音が響いた。廊下は瞬時に静まり返った。すべての笑い声も、話し声も、足音も、消え失せた。まるで時が止まったかのように、誰もが呆然として、この光景を見つめている。身なりの整った、冷ややかな雰囲気をまとった、ひと目でただ者ではないとわかる男が、女子学生の前で膝をついているのだ。早紀も凍りついた。自分の足元に膝をつく裕也を、その青ざめた憔悴した顔を、そしてその目に浮かぶ、深い、痛々しいほどの懇願の色を見つめる。心臓が、何かにきつく掴まれたような感覚があった。けれどそれは、すぐにもっと深い冷たさと決別の意志に覆い隠される。「浅村先生、立ってください」彼女は1歩下がり、腕を引き抜こうとしながら、静かな、けれどよそよそしい声で言った。「みっともないですよ」裕也は立たなかった。彼は顔を上げ、瞬きひとつせずに彼女を見つめた。その目には押し寄せるような苦痛と悔恨、そして追い詰められたような狂気が渦巻いていた。「早紀、俺が間違っていた。
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第19話

男子学生は我に返ったように、慌てて頷くと、身を翻して走り去った。裕也はそれが聞こえていないかのように、ただそこに膝をついたまま、微動だにしなかった。まるで、すべての生気を失い、今にも崩れ落ちそうな石像のようだった。まもなく、警備員が駆けつけた。膝をついている裕也を見て一瞬戸惑ったものの、警備員たちはすぐに両脇から腕を取って立たせた。「すみませんが、ここでは困ります。お引き取りください」裕也は抱えられても、抵抗しなかった。ただその視線は依然として、早紀が去っていった方角にじっと向けられ、彼女が振り返ることなく、階段の角に消えていくのを見つめていた。その背中は決然として、未練のかけらもない。「早紀。早紀……っ」彼は低く呼び続けた。掠れて、割れた声で。警備員は彼を校舎の外へ、さらに校門の外へと連れ出した。車の行き交う通りのそばに立たされた裕也は、ぼんやりと、目の前を流れていく人々や車を眺めていた。世界は騒がしいのに、彼の中には、ただ死んだような静けさしかなかった。心の中の底なしの穴が恐ろしい速さで広がり、彼に残されたわずかな理性と生気を呑み込んでいく。どこへ行けばいいのか、わからなかった。行ける場所などあるのだろうか。結局、裕也は記憶を頼りに、早紀が借りている古びたアパートの前までたどり着いた。中へ入ろうとはせず、扉を叩くこともしなかった。ただ向かいの冷たい壁にもたれ、その場にゆっくりと腰を下ろした。前と同じように。そして今度は丸3日、そこを動かなかった。ほとんど食べず、水もろくに飲まず、まともに眠りもしないまま、ただ固く閉ざされた扉と、ときおり明かりの灯る窓を見つめ続けた。まるで、何も言わず、ただひたすら待ち続ける石像のようだった。2日目の夜、雨が降り始めた。秋の雨は冷たくしとしとと降り続き、瞬く間に彼の髪と服を濡らしていった。唇が紫色になるほど凍え、全身が震えていたが、それでも彼は頑なにそこを動かなかった。まるでこんな自虐的なやり方で自分自身を罰し、そして、わずかな憐れみを乞うように。3日目。雨はまだやまなかった。彼は高熱を出していた。額は焼けるように熱く、目の前は何度も暗くなり、激しい悪寒に震え続けた。それでも彼は、なんとか気力を振り絞り、アパートの入口を
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第20話

早紀は彼の前まで歩み寄り、静かに足を止めた。傘の縁を伝い落ちる雨水が、彼の足元で小さな水しぶきを立てている。裕也が弾かれたように顔を上げ、それが彼女だと気づいた瞬間、死んだように光を失っていた瞳に、強い光が宿った。「早紀……」彼は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び崩れるようにへたり込んだ。ただ顔を上げ、すがるように見つめることしかできない。早紀は目を伏せ、彼のあまりにも惨めな姿を静かに見下ろした。濡れそぼった髪が額に張りつき、顔は異様なほどに紅潮している。唇はひび割れて皮が剥け、目はひどく血走っていた。上質な毛織りのコートも泥水にまみれ、しわだらけになって体にまとわりついている。かつての、涼やかで気品に満ちた隙のない裕也の姿など、もうどこにもなかった。彼女は数秒黙り込んだあと、手にした傘を彼のほうへ差し出す。「裕也、もうやめて」その声は静かで、嫌悪も憐れみもなく、ただ、はっきりとした隔たりだけがあった。「こういうことをされると、困るの」裕也は傘を受け取ろうとはせず、勢いよく手を伸ばし、彼女の差し出した手首を掴んだ。その手は焼けるように熱かったが、力はほとんど入っておらず、ただ弱々しくすがりついているだけだった。「じゃあ、許してくれ……」彼は彼女を見上げた。その目には、痛々しいほどの懇願の色が浮かんでいる。声は掠れ、ひどく割れていた。「一緒に帰ってくれ。いいだろう?全部変える、お前の言うことなら何でも聞くから……」早紀は掴まれるままにし、ことさら振りほどこうとはしなかった。ただ静かに彼を見つめている。長いことそうしてから、ゆっくりと首を振った。「裕也、もう、あなたを恨んではいないの」裕也の瞳が、一瞬ぱっと明るく輝いた。けれど、続く早紀の言葉が、その儚い希望を完膚なきまでに消し去っていく。「でも、もう愛してもいない。私たち、もう終わったのよ。帰って。あなたの研究所に、あなたの実験に、あなたが本来歩むべき人生に。私たちはここまでよ」裕也の目の光が急速に失われ、底の見えない暗闇へと沈んでいく。彼女の手首を掴む手に抑えようもなく力が入り、激しく震え出した。「どうして……愛せなくなったんだ?」彼はうわ言のように呟いた。答えの見つからない、迷子の子どものように。
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