LOGINまだ今ほど暮らしが便利ではなかった頃、とある職員宿舎で、誰もが気づき始めていた。榊山早紀(さかきやま さき)の様子が、どこかおかしいことに。 朝の6時。以前なら早起きして浅村裕也(あさむら ゆうや)のために朝食を用意していたのに、今はもうキッチンに立とうともしない。彼が研究所で着る白衣に、丁寧にアイロンをかけることもなくなった。 昼の12時。以前なら昼休みになる頃を見計らって研究所まで弁当を届け、なかなか出てこない裕也を玄関先で待っていたのに、今はもう姿を見せない。 夜の10時。以前なら部屋の明かりをつけたまま、どんなに帰りが遅くなっても裕也を待っていたのに、今はもう先に休んでしまう。 そんな変化が、もう1週間も続いていた。 7日目の夜、10時半。裕也が部屋に戻ってきた。手にしていた研究資料を机に置き、上着を脱ぐと、ようやく灯りの下で本を読んでいる早紀に目を向けた。 「最近、どうしたんだ?」 それは今週、彼が彼女にかけた初めての言葉だった。 声は淡々としていた。まるで実験室で1滴ずつ落とされる試薬のように、正確で、冷静で、余計な感情が一切こもらない響きだった。 早紀はページをめくる手を止め、静かに顔を上げて裕也を見た。 灯りに照らされた彼は、相変わらず整った顔立ちをしていた。知的で涼やか、どこか気品を感じさせる端正な顔立ち。その表情には年齢にそぐわないほどの落ち着きがある。 宿舎の若い女性たちが口を揃えて「浅村先生はそこに立っているだけで、何も言わずとも目が離せなくなる」と噂するのも頷けた。 早紀もかつては、同じように彼を見つめていた。 けれど今は違う。一度人生を終え、過去に戻ってきた彼女は、もう自分の生き方を変えると決めていたのだ。
View More出版記念講演が終わったあと、早紀は宿泊先のホテルに戻った。窓辺に立ち、街の煌びやかな灯りを見つめる。頭の中を、今日壇上から見た裕也の眼差しがよぎった。穏やかで、もう執着も狂気もない、あの眼差し。彼女はしばらく立ち尽くしていた。それから静かに、自分自身に向けて呟いた。「全部、終わったのね」彼女は机に歩み寄り、新しい原稿用紙を広げた。万年筆を手に取る。そして、新しい本の最初の1行を書きつけた。【ある女は生まれ直したあと、自分がもう愛していないことに気づいた。苦しいだろうと思っていたが、やがて気づいた。愛さなくなったとき、人は自由になれるのだと。彼女は高く遠くまで飛び、前世では見たことのなかった景色を見た。かつて愛したあの男は、彼女の人生という本の中の一ページになった。ページをめくれば、それで終わり。そして彼女には、まだ書くべき無数のページが残っていた】歳月は静かに流れ、二人はそれぞれの道を歩んでいった。早紀は50歳のとき、国際的にも権威ある文学の生涯功労賞を受賞した。授賞式の壇上に立つ彼女は、フォーマルなドレスを纏い、優雅で落ち着いた佇まいだった。受賞スピーチの最後に、彼女はこう語った。本国語で述べたあと、英語でも同じ言葉を繰り返した。「暗闇の中で、諦めなかった自分自身に、感謝します」拍手は波のように押し寄せ、いつまでも鳴りやまなかった。裕也は60歳で定年退職した。古い荷物を整理していたとき、桐箱のいちばん下から、とうに色褪せてごわごわになった灰青色のマフラーを見つけ出した。ずっとずっと昔、早紀が編み物を覚え始めたばかりの頃、彼のために編んでくれたものだった。編み目は歪んでいたが、彼は何年もそれを愛用していた。彼はそのマフラーを取り出し、胸に抱きしめると、薄暗い納戸の中で一晩じゅう座り続けた。何も考えていないようにも、遠い昔を辿っているようにも見えた。早紀は70歳になり、回顧録を書き始めた。彼女を敬愛する若い女性作家が訪ねてきて、おずおずと尋ねた。「榊山先生、あの方を恨んだことはありますか?」早紀はちょうどお茶を淹れているところだった。それを聞いて微笑み、淹れたお茶を差し出した。「恨んでいないわ。恨みっていうのは、とても強い感情なの。まだ気にかけている、まだ影響を
その取材記事は新聞に載り、学内外で大きな反響を呼んだ。賛同する者もいれば、疑問を投げかける者もいた。多くの人が考えさせられていた。裕也は人に頼んで、その新聞を手に入れた。早紀の取材が載ったページを丁寧に切り抜き、自分のベッドの脇の壁に貼った。毎朝目覚めるたびに、そして眠る前に、必ず1度目を通した。写真の中の、落ち着きと自信に満ちた彼女の顔を見つめ、彼女の澄んだ力強い言葉を読み返しながら。そして、自分自身に言い聞かせた。「彼女の言う通りだ。俺はまず人としてどう生きるか、暮らしをどう営むか、どう変わるかを学ばなければならない。そのあとで、ようやく愛を語る資格が持てるんだ」もっとも、その愛を彼女に伝える機会は、もう二度と訪れないのかもしれなかったが。5年の月日は瞬く間に過ぎた。早紀は卒業し、大学に残って教鞭を執りながら、変わらず執筆を続けていた。彼女は国内で注目を集める若手作家、脚本家となった。作品は複数の言語に翻訳され、海外の文学賞もいくつか受賞した。大学で講演を行うと数百人を収容できる講堂が満席になり、廊下にまで人が立ち並んだ。若い女子学生が立ち上がって質問した。目を輝かせ、憧れと好奇心を滲ませながら。「榊山先生、離婚を後悔されたことはありますか?あの時代にあの決断をするのは、大変な勇気が必要だったのではないですか?」早紀は講壇に立ち、シンプルなシャツワンピースを身につけていた。柔らかな笑みを浮かべながらも、その眼差しは澄んで力強かった。「後悔したことはありません。あれは、私の人生で最良の決断のひとつでした。あの決断のおかげで私は自分自身を取り戻せたし、女性の人生には無数の可能性があるということもわかりました。ひとつの結婚に縛られる必要なんて、ないんです」別の学生が尋ねた。「では、恋愛を、まだ信じていらっしゃいますか?」会場が静まり返った。早紀は少し考え、真剣に答えた。「信じています。恋愛は、美しいものです。でも、それは人生に必須のものではないし、まして、すがりつくための命綱でもありません。自分を救えるのは、自分自身なんです。自分が十分に満たされていて十分に強ければ、恋愛が訪れれば、人生に彩りを添えてくれる。恋愛が訪れなくても、あるいは去ってしまっても、あなたは
「離して」早紀の声は、恐ろしいほど静かだった。「絶対に離さない!死んでも離さない!」裕也は顔を彼女の首筋に埋めた。熱い涙が瞬く間に彼女の襟元を濡らしていく。「早紀……俺が悪かった……本当にわかってるんだ……俺なんて要らないなんて言わないでくれ……お前がいないと……俺は生きていけない……本当に、生きていけないんだ……」彼の泣き声は掠れ、割れ、がらんとした廊下に響き渡り、他の病室から人が顔を出すほどだった。早紀はその場に立ったまま微動だにしなかった。彼に抱きしめられ、泣きながら懇願されても、そのまま動かなかった。顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ瞳の奥に、ほんのわずかな哀愁が一瞬よぎっただけだった。数秒後、彼女はゆっくりと手を上げた。腰にきつく回された彼の腕を、指を1本ずつ引き剥がしていく。動きはゆっくりだったが、有無を言わせぬ強い意志がこもっていた。「裕也」彼女は彼に背を向けたまま、恐ろしいほど静かな声で言った。「私たち、終わったの。あなたがデータを選んだとき。実験を選んだとき。明日香さんを信じたとき。母のかんざしを叩き割ったとき。あのときすでに、完全に終わっていたのよ。もう、あなたを恨んではいない。でも、もう、愛してもいない。これから先、あなたが生きようが死のうが、幸せだろうが不幸だろうが、私にはもう、何の関係もない。もう私を放して。そして、あなた自身も解放してあげて」最後のひと言を言い終えると、彼女はついに最後まで残っていた指を引き剥がした。熱く、絶望に満ちたその抱擁から完全に抜け出した。そして足を踏み出し、振り返ることなく廊下の先へと歩いていった。足取りは落ち着いていて、背筋はまっすぐだった。躊躇いのひとつも、未練のひとつもなかった。裕也はその場に取り残されたように、固まっていた。ただ涙だけが、堰を切ったように溢れ出した。血の気の失せたやつれた頬を伝って、止めどなく流れ落ちていく。彼は、遠ざかっていく彼女の背中を見つめ続けた。やがてそれは、階段の角に完全に消えていった。まるで、彼の世界に残っていた最後のかすかな光と、生きる意味のすべてを一緒に持ち去っていったかのように。「早紀……」彼は呟くように、その名を呼んだ。そして膝から力が抜け、そのまま力
どれほど泣いただろうか。喉が完全に潰れて、声が出なくなるまで。涙が涸れ果てて、あとにはただ焼けつくような痛みだけが残るまで。彼はようやく、ゆっくりと体を起こした。顔じゅうが涙で濡れ、目は無残に腫れ上がり、その姿はまるで行き場を失った犬のように、みすぼらしかった。彼はよろめきながら立ち上がり、喫茶店を出て深い夜の闇の中へと歩いていった。宿には戻らなかった。代わりに、まだ営業している小さな酒場に入っていく。「いちばん強い酒を」彼は掠れた声で言った。店主は彼をひと目見て、それ以上何も尋ねず、瓶をひとつ差し出した。彼は受け取り、栓を開けると、瓶に直接口をつけ、そのままあおった。1本、2本、3本。焼けつくような酒が喉と胃を灼き、鋭い痛みをもたらす。けれど彼は、それを心地よいとさえ感じた。もっと痛みが要る。この身を引き裂くような苦痛で、自分を呑み込もうとしている果てしない絶望を麻痺させる必要があった。飲み続けるうちに、自分がどれほど飲んだのか、もうわからなくなっていた。ただ天地がぐるぐると回り、目の前のすべてが揺れ動き、砕け散っていくように感じるだけだった。胃の中に、焼けた刃を突き立てられたような痛みが走った。かき回され、切り裂かれ、その痛みに床の上でうずくまり、全身から冷や汗が噴き出した。そして焼けつくような、鉄臭い液体が喉から一気にせり上がってきた。暗い赤色の血が、冷たく汚れた床に飛び散った。痛々しいほどの光景だった。店主はひどく驚いて、慌てて救急車を呼んだ。裕也は病院に運ばれ、緊急処置を受けた。胃出血。重症だった。点滴や止血処置が行われ、必要に応じて輸血も施された。一晩じゅう、慌ただしい処置が続いた。目を覚ましたのは、真っ白な病室の中だった。腕には点滴の管が繋がれ、鼻には酸素チューブが差し込まれ、全身が、手を持ち上げる力すら残っていないほど衰弱していた。医師は厳しい口調で、このまま飲み続ければ命に関わると告げた。彼は目を閉じたまま、何も答えなかった。その後2日間、彼はほとんど何も口にせず、口も利かず、医師や看護師の治療にもろくに応じなかった。ただ目を開けたまま、天井を見つめ続けた。眼差しは虚ろで、まるで魂を抜き取られた抜け殻のようだった。医師や看