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前世の愛を、置き去りにして生きる

前世の愛を、置き去りにして生きる

By:  スギCompleted
Language: Japanese
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まだ今ほど暮らしが便利ではなかった頃、とある職員宿舎で、誰もが気づき始めていた。榊山早紀(さかきやま さき)の様子が、どこかおかしいことに。 朝の6時。以前なら早起きして浅村裕也(あさむら ゆうや)のために朝食を用意していたのに、今はもうキッチンに立とうともしない。彼が研究所で着る白衣に、丁寧にアイロンをかけることもなくなった。 昼の12時。以前なら昼休みになる頃を見計らって研究所まで弁当を届け、なかなか出てこない裕也を玄関先で待っていたのに、今はもう姿を見せない。 夜の10時。以前なら部屋の明かりをつけたまま、どんなに帰りが遅くなっても裕也を待っていたのに、今はもう先に休んでしまう。 そんな変化が、もう1週間も続いていた。 7日目の夜、10時半。裕也が部屋に戻ってきた。手にしていた研究資料を机に置き、上着を脱ぐと、ようやく灯りの下で本を読んでいる早紀に目を向けた。 「最近、どうしたんだ?」 それは今週、彼が彼女にかけた初めての言葉だった。 声は淡々としていた。まるで実験室で1滴ずつ落とされる試薬のように、正確で、冷静で、余計な感情が一切こもらない響きだった。 早紀はページをめくる手を止め、静かに顔を上げて裕也を見た。 灯りに照らされた彼は、相変わらず整った顔立ちをしていた。知的で涼やか、どこか気品を感じさせる端正な顔立ち。その表情には年齢にそぐわないほどの落ち着きがある。 宿舎の若い女性たちが口を揃えて「浅村先生はそこに立っているだけで、何も言わずとも目が離せなくなる」と噂するのも頷けた。 早紀もかつては、同じように彼を見つめていた。 けれど今は違う。一度人生を終え、過去に戻ってきた彼女は、もう自分の生き方を変えると決めていたのだ。

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Chapter 1

第1話

前世では、誰もが早紀を羨んでいた。とんでもない幸運に恵まれて、あの裕也に嫁げるなんて、と。

彼の前途は洋々たるものだった。若くして国内屈指の物理学研究所に入り、誰もが認める天才研究者であるばかりか、顔立ちも整い、佇まいにも気品がある。どこにいても人目を引くような人に嫁げるなんて、よほど前世で徳を積んだに違いない。

周囲は皆、そう口にした。

早紀自身も、かつては本気でそう信じていた。自分には不釣り合いだと思いながらも、身を焦がすほどの想いを胸に抱いて、彼に嫁いだのだ。

結婚初日、裕也は彼女にこう告げた。

「俺の中では、研究が常に一番だ。恋愛にかまける時間も、家庭を顧みる余裕もない。覚悟しておいてくれ」

早紀は頬を赤らめながらこくりと頷いた。

「わかってるわ。研究に打ち込んで。家のことは私に任せて」

彼女は本心からそう思っていたし、実際にその言葉通りに尽くした。

彼に時間がない分、家事はすべて彼女がひとりで背負った。洗濯も炊事も掃除も、彼の身の回りの世話のすべてを抜かりなく整えた。

彼がそうしたことに頓着しない分、誕生日も記念日もバレンタインも、他人が花や贈り物をもらう姿を横目に見ながら、決して羨んではいけないと自分に言い聞かせた。彼は大きな仕事をする人なのだから、恋だの愛だのにかまけるのは俗っぽいことなのだ、と。

彼が研究に没頭しているのだからと、交通事故に遭った時も自分で救急車を呼び、流産した時もひとりで病院へ赴いて手術を受け、身内の命日にもひとりきりで墓参りをした。

そのうち彼女は、彼の実験の邪魔になることを恐れるあまり、自分が癌だとわかっても秘密にした。こっそり化学療法を受け、意識が朦朧とするほどの吐き気に耐えながらも、何食わぬ顔で家に帰り、また彼のために洗濯をし、温かいご飯を作り続けた。

一方、裕也は研究だけに打ち込み、30歳で国内最高峰の科学賞を受賞し、35歳には国内最高峰の学士院会員に選ばれた。そして40歳、ついにノーベル賞を受賞し、世界中から注目を浴びる存在となった。

世界中に生中継されたインタビューで、司会者が彼に尋ねた。

「浅村先生、これほど輝かしい功績を残されたのは、ご家族の支えがあってこそでしょう。奥様についても少しお聞かせいただけますか?」

カメラの前の裕也は、あの涼やかで理知的な表情のまま金縁の眼鏡を押し上げると、ひどく抑揚のない口調で答えた。

「妻は、家族が決めた相手です。一生一緒に暮らしてきましたが、特別な感情を持ったことはありません。私の情熱と力はすべて、科学に捧げてきましたから」

彼はさらにこう続けた。

「恋だの愛だのは取るに足らないものです。永遠の価値があるのは、科学だけなのです」

インタビューが放送されると、国内外から絶賛の声が湧き上がった。

科学のために私情を捨てた立派な人物だと称える者もいれば、人類全体の未来を思う真の科学者だと褒め称える者もいた。

そして彼は言葉通り、自分のすべてを次の研究へと注ぎ込み、二度と家に戻ってくることはなかった。

だから彼は知らなかった。彼女が血を吐いて意識を失ったことも、癌が全身に広がって夜通し痛みに苦しんだことも。彼女が息を引き取った日、その亡骸が誰にも気づかれぬまま、3日間も静まり返った部屋に横たわっていたことさえ知らなかった。

異変に気づいた近所の人が、変わり果てた彼女を見つけるまでは。

早紀の魂は宙をさまよいながら、自分の葬儀がひどく簡素に済まされていくのを見ていた。裕也が実験室で訃報の連絡を受け、ただ「ああ」とひと言だけ返して淡々と電話を切る姿も。

一生をかけて、ようやく彼女は理解した。自分たちは決して、同じ道を歩む人間ではなかったのだと。

彼は輝かしい科学者だった。けれど彼の妻でいることは、あまりにも息苦しかった。

彼の心には、科学しかなかった。彼女の居場所は、最初からどこにもなかったのだ。

だから、過去に戻り、人生をやり直せると気づいた早紀が真っ先にしたのは、役所へ向かい、離婚届を提出することだった。

次に、高校時代の教科書を引っ張り出し、もう一度大学を目指して受験勉強を始めた。

そして今、彼女は裕也に黙って、すでに試験を受け終えていた。あとは、志望校の合格発表を待つだけだった。

科学者は素晴らしい。けれど、もう科学者の妻でいるのはごめんだった。

人生は長く、そして素晴らしい。今度こそ、自分のためだけに生きてみたい。

「なんでもないわ。最近、ちょっと忙しかっただけ」

早紀は手にしていた本、高校数学の問題集を静かに閉じた。

裕也の眉間の皺が、さらに深く刻まれる。

「何が忙しいんだ」

口調は相変わらず淡々としていたが、その目には理解できないという色が浮かんでいる。まるで彼女が忙しくしていること自体が、到底あり得ない不可解な出来事であるかのように。

彼にとって自分は、彼の身の回りの世話をして、家を守り、何も言わず支えてくれる存在でしかなかった。きっと、それ以上の存在だと考えたことすらなかったのだろう。

胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、その痛みもすぐに冷えていった。

誰かを愛するなら、まず自分を大切にしなければならない。前の人生の自分は、それすらできていなかった。自分で自分を粗末にし続けてきたのに、彼だけがそんな自分を大切にしてくれるはずもない。

家のことだけをして、彼のためだけに生きていた自分を、彼が愛してくれるはずなどなかったのだ。

その時、窓の外から近所のおばさんたちの話し声が聞こえてきた。ガラス越しでもはっきり聞こえるほどの、よく通る大声だった。

「早紀ちゃんは本当にいい子よね。何年も浅村先生の面倒をきちんと見てきたんだから。珍しく機嫌を悪くするなんて、よっぽど辛い思いをしたに違いないわ」

「聞いた話じゃ、この前彼女の誕生日だったのに、テーブルいっぱいにご馳走を並べて待ってたのに、真夜中になっても浅村先生は帰ってこなかったんですって。誰だって心も冷めるわよ」

「まったく、浅村先生も。いくら仕事が忙しいからって、それはないでしょう」

裕也の眉間の皺がさらに深くなり、振り返って早紀に釈明するように言った。「俺は誰の誕生日も祝ったことがない。その時間があれば、比較用のデータを一つはまとめられる」

早紀は黙り込んだまま、何も言い返さなかった。

その様子を見た裕也は、ポケットから2枚の映画の招待券を取り出し、無造作にテーブルの上へ置いた。

「職場でもらった。一緒に行くか。これで機嫌を直して、明日からはいつも通りにしてくれ」

早紀はテーブルの上の招待券に目を落とした。

映画館の名と上映作品が印刷された、2枚の小さな紙の券。前の人生の彼女なら、裕也から映画に誘われたというだけで、きっと嬉しくて眠れないほどだっただろう。けれど今は、ただ皮肉にしか思えなかった。

「行かないわ」彼女は静かにそう告げた。

裕也は一瞬、ぴたりと動きを止めた。

早紀を見つめるその目には、珍しく明らかな戸惑いの色が浮かんでいる。

結婚して3年、彼女が彼の言うことを拒んだことなど、ただの一度もなかったのだから。

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第1話
前世では、誰もが早紀を羨んでいた。とんでもない幸運に恵まれて、あの裕也に嫁げるなんて、と。彼の前途は洋々たるものだった。若くして国内屈指の物理学研究所に入り、誰もが認める天才研究者であるばかりか、顔立ちも整い、佇まいにも気品がある。どこにいても人目を引くような人に嫁げるなんて、よほど前世で徳を積んだに違いない。周囲は皆、そう口にした。早紀自身も、かつては本気でそう信じていた。自分には不釣り合いだと思いながらも、身を焦がすほどの想いを胸に抱いて、彼に嫁いだのだ。結婚初日、裕也は彼女にこう告げた。「俺の中では、研究が常に一番だ。恋愛にかまける時間も、家庭を顧みる余裕もない。覚悟しておいてくれ」早紀は頬を赤らめながらこくりと頷いた。「わかってるわ。研究に打ち込んで。家のことは私に任せて」彼女は本心からそう思っていたし、実際にその言葉通りに尽くした。彼に時間がない分、家事はすべて彼女がひとりで背負った。洗濯も炊事も掃除も、彼の身の回りの世話のすべてを抜かりなく整えた。彼がそうしたことに頓着しない分、誕生日も記念日もバレンタインも、他人が花や贈り物をもらう姿を横目に見ながら、決して羨んではいけないと自分に言い聞かせた。彼は大きな仕事をする人なのだから、恋だの愛だのにかまけるのは俗っぽいことなのだ、と。彼が研究に没頭しているのだからと、交通事故に遭った時も自分で救急車を呼び、流産した時もひとりで病院へ赴いて手術を受け、身内の命日にもひとりきりで墓参りをした。そのうち彼女は、彼の実験の邪魔になることを恐れるあまり、自分が癌だとわかっても秘密にした。こっそり化学療法を受け、意識が朦朧とするほどの吐き気に耐えながらも、何食わぬ顔で家に帰り、また彼のために洗濯をし、温かいご飯を作り続けた。一方、裕也は研究だけに打ち込み、30歳で国内最高峰の科学賞を受賞し、35歳には国内最高峰の学士院会員に選ばれた。そして40歳、ついにノーベル賞を受賞し、世界中から注目を浴びる存在となった。世界中に生中継されたインタビューで、司会者が彼に尋ねた。「浅村先生、これほど輝かしい功績を残されたのは、ご家族の支えがあってこそでしょう。奥様についても少しお聞かせいただけますか?」カメラの前の裕也は、あの涼やかで理知的な表情のまま金縁の眼鏡を押し上げる
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第2話
「どうして行かないんだ?」と、彼が尋ねた。早紀はすっと立ち上がった。「……もう寝るわ」寝室へ向かおうと踵を返したところで、裕也がついてきた。彼は彼女の前に回り込み、強引に行く手を塞いだ。「着替えろ。今すぐ行くぞ」早紀は彼を見つめながら、ふと前世の数え切れない瞬間を思い出した。彼が一度決めたことに、自分はいつもただ従うしかなかった。彼は国を代表する科学者なのだから、時間は何より貴重で、判断を間違えるはずもない。誰もが、そう思っていた。だから自分に異論があってはいけないし、不満があってはいけない。自分個人の考えなど、最初からあってはならないのだ。なおも拒もうとした早紀だったが、裕也はすでに上着を手に取り、彼女を半ば強引に外へ連れ出していた。1時間後、二人は映画館の席に並んでいた。上映されていたのは、若い男女のすれ違いと恋を描いた当時流行りの恋愛映画だった。早紀がスクリーンを見つめる隣で、裕也は薄暗い館内でも研究資料から目を離そうとしない。肩を並べて座っているのに、二人の間にはまるで別々の時間が流れているようだった。映画が終わったのは12時を少し回った頃だった。帰り道、裕也は車を走らせながらも、頭の中では実験データのことばかり考えていた。橋の中ほどまで来た、そのときだった。対向車線を走っていた1台のトラックが、突然こちらへ突っ込んできた。眩しいヘッドライト。恐ろしいほどの速度。まっすぐこちらへ向かってくる。「危ない!」早紀は思わず叫んだ。裕也は急ブレーキを踏んだが、すでに間に合わなかった。車は完全に制御を失い、ガードレールを突き破って橋の下へ転落する。冷たい川の水が、四方八方から一気に車内へと流れ込んできた。早紀は泳げない。凄まじい恐怖と息苦しさが、容赦なく喉元を締め上げる。必死にもがき、ドアを開けようとするが、圧倒的な水圧でびくともしない。混乱の中、運転席の裕也の姿が目に入った。彼は彼女を助けようとしたのではなかった。身を乗り出し、後部座席へと必死に手を伸ばしたのだ。そこにあったのは、彼が肌身離さず持ち歩いていた、重要な研究データと原稿の入った革鞄だった。川の水が瞬く間に頭の上まで満ち、早紀の意識が薄れていく。最後に目に焼き付いたのは、鞄を固く抱きしめたまま、力の限り車の窓を叩き割ろうと
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第3話
明日香が親しげに手を振り、裕也を引っ張るようにして近づいてきた。「すごい偶然ですね。ちょうど先輩と実験計画の相談が終わったところで、お礼にご馳走しようと思って。変な誤解はしないでくださいね」口調こそ愛想が良いが、その目には明らかな挑発の色が滲んでいた。裕也は早紀に軽く頷いてみせた。それが挨拶代わりだった。そのまま席につくと、持ってきた資料をめくり始める。まるで彼女がそこに存在しないかのように。「退院したのか」とも、「まだ足は痛むか」とも、労りの言葉はひと言もなかった。早紀は彼をじっと見つめた。とうに麻痺していたはずの場所が、それでもじくじくと疼く。10年の想い、3年の結婚生活。その果てに待っていたのは、人前ですら、まるでいないもののように扱われるという冷酷な現実だけだった。「誤解なんてしていません」彼女は静かに言った。「お二人はそちらで召し上がってください。私は私で頼みますから」明日香が一瞬、たじろいだ。こんな冷静な反応が返ってくるとは思っていなかったらしい。彼女は裕也をちらりと見たが、彼は顔を上げようともしない。気まずい空気が3人の間に流れた。ちょうどそのとき、店員がスープを運んできた。床が滑ったのか、それとも足を取られたのか、テーブルの脇まで来たところで体勢を崩し、スープの入った器が明日香のほうへひっくり返った。裕也の顔色が変わり、ほとんど反射的に早紀の腕を引いた。不意を突かれた早紀は、そのまま明日香の体に倒れ込む形になり、自分の背中で熱いスープを受け止めた。「あっ!」熱々のスープが服にしみ込み、目の前が真っ暗になるほどの熱さが背中を焼く。けれど裕也が真っ先に確かめたのは、明日香の無事だった。「手は大丈夫か?」彼は明日香の手を取り、念入りに確かめる。「火傷はないか?研究者にとって手は命だ。絶対に傷めるわけにはいかない」明日香は目を潤ませながら、しおらしく答えた。「……ちょっと熱かっただけです。大丈夫」「薬を買ってくる」裕也はすぐに立ち上がった。早紀のほうを見もせず、身を翻して店を出ていく。早紀はテーブルに突っ伏したまま、背中の焼けるような激痛にじっと耐えていた。けれど泣きもせず、痛いとも言わなかった。ゆっくりと体を起こすと、青ざめている店員に向かって静かに言った。「救急箱を貸
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第4話
「違う!私じゃない、明日香さんがやったの!」早紀はかすれた声で必死に言い返したが、その声はあまりに弱々しかった。「違う?」裕也が冷たく言葉を遮った。眼鏡の奥の目には、明らかな失望の色が濃く滲んでいた。「明日香は、お前が書類に火をつけようとしているところを見たと言ってる。食堂の店員も、お前たちが言い争っていたあと、お前が書類を燃やしたのを見たと証言してるんだ。早紀、お前はただ物を知らないだけだと思っていた。でも、まさかここまで悪質なことをするとは思わなかった。自分がやったことを認めないばかりか、今度は明日香のせいにするのか。本当の研究者なら、あのデータがどれだけ大事かわかってる。命より大切に扱う人間だっている。それを、お前は嫉妬に任せて燃やそうとした。自分と同じように、誰もが嫉妬でそんな卑劣な真似をすると思っているのか!」彼の言葉の一つ一つが、毒を塗った鞭のように早紀の心を激しく打った。見知らぬ店員や明日香の言葉は信じるのに、何年も寝食を共にしてきた妻である自分の言葉だけは、彼はまったく信じようとしない。なおも言い返そうとした、そのとき、病室の扉がノックされ、研究所の総務担当者らしい男が二人入ってきた。二人は早紀に冷ややかな視線を向けたあと、裕也に向き直ると、途端に態度を改めた。「浅村先生、調査結果が出ました。焼失した研究資料については、早紀さんが関わった可能性が高いと判断されています。重要資料の管理に関わる問題ですので、本来なら7日間、研究所の施設内で待機していただき、事情聴取を受けてもらうことになります」早紀は耳を疑った。7日間、外へ出ることも許されず、研究所に留め置かれるということだ。そのとき、裕也が静かに口を開いた。「それなら、俺が行く」早紀は思わず彼を見た。「彼女はまだ怪我が治っていない。今の状態で7日間も研究所に待機させるのは無理だ。資料の管理責任は俺にもある。必要な事情聴取があるなら、俺が受ける」「ですが、浅村先生までそこまでなさる必要は……」「俺が行くと言っている」裕也の声に迷いはなかった。二人は困ったように顔を見合わせたが、やがて一人が小さく頷いた。「……わかりました。では7日間、研究所内で待機していただきます。その間、外出はできません」「構わない」裕也は短く答えた。
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第5話
早紀はますます声を上げて笑い、全身が震えるほどだった。裕也はちらりと早紀に目をやった。今日は妙に様子が違うとは思ったが、外で人を待たせていることもあり、深く考えることなくその場を離れた。「ゆっくり休め」もう一度そう告げると、扉を開けて出ていった。扉が閉まった瞬間、早紀の笑い声はぴたりと止む。涙が音もなくこぼれ落ちる。彼女は唇を強く噛みしめ、声が漏れるのを堪えた。そのとき、病室の扉が勢いよく開いた。明日香だった。彼女は扉を閉めると、ベッドの脇まで歩み寄り、早紀を睨みつけた。「意外だったわ」明日香が冷笑した。「あなた、先輩の中でそんなに大事な存在だったのね。自分が研究所に残ってでも、あなたを行かせたくないなんて」大事な存在。早紀は笑いたくなった。家政婦としては、確かに大事なのだろう。「何を笑ってるの?」その笑みに薄気味悪さを覚えたのか、明日香が声を荒げた。「言っておくけど、先輩が今回こんな目に遭ったのは、全部あなたのせいなんだからね!」彼女は突然詰め寄ると、早紀の腕から点滴の針を乱暴に引き抜いた。「先輩が見逃すつもりなら、私が代わりに罰を下してあげる!」早紀が状況を飲み込む間もなく、明日香は彼女をベッドから引きずり下ろし、外へと引っ張っていく。体に力が入らず、振りほどくことすらできなかった。明日香は彼女を廊下から病院の外へ、そして通りへと引きずり出した。ちょうど仕事帰りの時間帯で、通りには多くの人が行き交っていた。明日香は早紀を地面に放り出すと、周囲に集まった人たちに向かって大声で叫んだ。「ちょっとみんな、聞いてください!この人です!大事な研究資料をわざと燃やして、若くして国を代表する科学者になった浅村先生に、代わりに7日間も研究所に残らせたんですよ!」人々がざわめいた。「え、データを燃やした?」「浅村先生って、あの物理の研究をしてる先生?」「なんてことを。よくそんなことができるわね」明日香はさらに煽った。「浅村先生は、ずっと研究一筋でやってこられたんです。それなのにこの人は、嫉妬しただけで、先生が3年もかけて積み上げてきたものを全部台無しにしたんですよ!今だって、先生がこの人の代わりに罰を受けてるのに、本人は何食わぬ顔で病院にいるなんて……!」「ひどい女ね!」「許せ
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第6話
裕也は一瞬たじろぎ、思わず手を伸ばして彼女を支えようとした。けれど扉の外からまた急かす声が飛んできた。「浅村先生!早くしてください!もう実験が始まります!」裕也は彼女を一瞥したあと、結局その手を引っ込めた。「自分で薬を塗っておけ」彼はそう言った。「もう二度と、こんな騒ぎは起こすなよ」言い終えると、背を向けて出ていった。床に座り込んだ早紀は、扉の向こうに消えていく彼の背中を見つめながら、ふいに笑い出した。涙と血が入り混じり、顔じゅうを濡らしていく。その後何日も、裕也は帰ってこなかった。早紀の額の傷はゆっくりとかさぶたになり、体の痛みも少しずつ和らいでいった。けれど心に空いた穴だけは、日に日に大きくなっていく。冷たく凍えるような風がそこを吹き抜けていくばかりで、二度と塞がることはなかった。その日の午後、裕也の両親が訪ねてきた。手には、故郷の菓子や漬物、それに果物が入った紙袋を提げている。二人とも若い頃に海外留学を経験し、帰国後はそれぞれ大学や研究機関で長く働いてきた人だった。物静かで、何かと裕也を立てる早紀のことも、いつも穏やかに気遣ってくれていた。食事の席で、裕也と早紀のあいだに漂う、誰の目にも明らかな冷え切った空気を見かねたのか、母がテーブルの下でそっと父の足を蹴った。父はそれを察すると、軽く咳払いをして箸を置き、なるべく穏やかな口調で切り出した。「お前たちも結婚してずいぶん経つだろう。そろそろ子どものことも考えてみたらどうだ?私たちも歳を取ってきたし、できれば元気なうちに孫の顔を見たいと思っていてね」裕也は顔も上げず、いつもの淡々とした調子で答えた。「今は研究が大事な時期なんです。子どもができれば、どうしても時間を取られる。今はまだ考えられません」母が眉をひそめ、たしなめるように息子を見た。「いくら仕事が忙しくても、それだけじゃ暮らしていけないでしょう。家庭のことだって、ちゃんと考えなきゃ。早紀さんは、子ども好き?」話の矛先が、早紀に向いた。食卓が一瞬静まりかえり、裕也の手も止まった。早紀は箸を持つ手に、そっと力を込めた。好きか、と聞かれれば。好きだった。けれど前世、裕也が望まなかったから、彼女は諦めた。長い間、避妊を続け、死ぬまで我が子を持つことはなかった。でも、今度は違
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第7話
明日香が飛び込んできた。「先輩!気を確かに!」彼女は大声で叫びながら駆け寄り、裕也を引き剥がした。「何か薬を盛られてるんです、しっかりして!」引き剥がされた裕也はよろめきながら数歩下がったが、目はまだ焦点が定まらない。彼は頭を振り、そのめまいと火照りを振り払おうとするように、かすれた声で言った。「……どういうことだ?」それを聞いた明日香は、ほっとしたような表情を見せたかと思うと、すぐさま怒りと悲痛の入り混じった表情に切り替え、身を翻して早紀を指差し、鋭い声で言い放った。「先輩!この人です!先輩に薬を飲ませたのは、この人なんです!私、本当はこんなこと言いたくありませんでした。お二人は夫婦だし、余計な口出しはしたくなかった。でも、こんな卑劣なことまでされたら、もう黙っていられません!」裕也と早紀が何か言うより先に、明日香は身を翻し、チェストの前まで駆け寄った。そして迷うことなく、避妊具をしまってある引き出しを開ける。「見てください!これにまで穴が開けてあるんです!」明日香は早紀を振り返り、声を荒らげた。「早紀さん、子どもはいらないって言ってたくせに、裏ではこんなことしてたんですか?先輩が研究のことで頭がいっぱいなのを知ってるから、こんな手まで使って子どもを作ろうとして、先輩を自分のそばに縛りつけようとしたんでしょう!?先輩が研究所にとってどれほど大切な人かわかってますよね?今、子どもができたら研究にだって影響が出る。それでも、自分のためなら先輩の邪魔をしても構わないっていうんですか!?」裕也は一気に前へ出て、その避妊具をひったくった。見れば、確かにいくつもの小さな穴が開いている。彼は勢いよく振り返り、早紀を見た。その目は瞬く間に、氷のように冷たくなっていた。「早紀」裕也は冷えた声で言った。「今までは、ただ物を知らなくて、嫉妬深くて、考えが狭いだけだと思ってた。でも、俺が間違ってたみたいだな。卑怯なだけじゃない。まさか、ここまで手段を選ばない人間だとは思わなかった」薬の効果がまだ完全には抜けきっていない裕也は、次の瞬間、よろめきながら机に駆け寄ると、果物ナイフを掴み取った。「な、何をするんですか!?ばかな真似はやめてください!」明日香が驚いて声を上げ、止めようと動きかけたが、ふいに足を止め、その目には
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第8話
駅の構内は、多くの人でごった返していた。発車を知らせるベルの音や駅員の声、子どもの泣き声が入り混じり、ホームには列車の煙と人いきれが漂っている。早紀は東雲市に行くため、その日のうちに乗れる一番早い列車の切符を買った。指定された席は窓際だった。旅行鞄を網棚に載せ、静かに腰を下ろす。向かいには、幼い子どもを抱いた若い母親が座っていた。2、3歳くらいだろうか。子どもは先ほどからぐずり続け、母親は困ったようにあやしながら、すっかり疲れた顔をしている。早紀は鞄から、紙に包んで持ってきた手作りのおにぎりを一つ取り出した。「よかったら、お子さんにどうぞ」女性は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに礼を言って受け取ると、小さくちぎって子どもの口へ運んだ。子どもはぴたりと泣きやみ、小さな口でもぐもぐと食べ始める。女性はようやく安堵したように額の汗を拭い、早紀を見た。「お嬢さん、ひとりで東雲へ?親戚の家?それともお仕事?」早紀は小さく首を振った。「大学へ行くんです」「大学?」女性はいくらか驚いた様子で、早紀を上から下まで眺めやった。この時代、ひとりで大学へ進学する若い娘などそう多くはない。「どちらの学校?」「東雲大学文学部の国文学専攻です」女性の目がみるみる見開かれた。隠しようのない羨望と敬意が、その顔にありありと浮かぶ。「まあ、東雲大学なの?すごいじゃない!東雲大に入るなんて、本当に立派ねえ」早紀は微笑んだだけで、それ以上は言葉を返さなかった。代わりに旅行鞄から真新しい、しっかりした表紙のノートを取り出し、最初のページを開く。万年筆で、一文字一文字、丹念に書きつけた。【私の新しい人生】文字は丁寧に整っていて、一字一字に確かな力がこもっていた。書き終えるとノートを閉じて胸に抱き、冷たい背もたれに体を預けて静かに目を閉じた。列車はごとごとと規則正しい音を立てて進んでいく。彼女を乗せて、まったく新しい、未知の、けれど希望に満ちた未来へと。……夜中の2時。裕也はくたびれきった体を引きずって、ようやく職員宿舎に戻ってきた。廊下の電灯は切れており、彼は暗闇の中を手探りで階段を上り、鍵を開けて部屋へ入る。部屋の中は真っ暗で、物音ひとつしない。手探りでドア脇のスイッチを押した。薄暗い灯りがつき
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第9話
彼は体を起こし、枕元の明かりを点けた。サイドテーブルに置いてあった、昨夜読み終えられなかった外国語の学術誌を手に取る。あの見慣れた数式とデータで頭の中を埋め尽くし、この訳のわからない胸のざわつきを追い払おうとしたのだ。けれど、びっしり並んだ文字と記号の上を虚しく目が滑るばかりで、一文字も頭に入ってこない。普段なら瞬時に没頭でき、安らぎと平静を取り戻せる研究の世界のはずなのに、今はまるで霧がかかったように、見知らぬもののようで、ひどく味気なく感じられた。苛立ちまぎれに学術誌を閉じ、サイドテーブルへ放り投げる。体を起こしてベッドを出ると、スリッパを引きずるようにして書斎へと向かった。デスクライトを点け、机の前に座って最新の実験記録ノートを広げる。無理やりにでも、未解決のデータと数式に意識を向けようとした。ここは自分の領域であり、自分の王国だ。ここでなら、すべてを掌握できる。時間が一分一秒と、無情に過ぎていく。窓の外の空は濃い黒から深い藍色へ、やがてうっすらとした灰白色へと変わっていった。朝の最初の光がようやく重いカーテンの隙間から差し込み、乱雑な机の上へ落ちる。裕也は顔を上げ、充血して乾ききった痛む目をこすった。目の前の記録ノートには、最初に無意識に書きつけた意味のない記号がいくつかあるだけで、あとは真っ白なままだった。彼は、白紙のノートを前にして一晩中ぼんやりしていたのだ。何ひとつ考えられなかった。何ひとつ進められなかった。こんなことは、これまで一度もなかった。彼は椅子の背に深くもたれ、目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。胸の奥にわだかまる、あの言いようのない重苦しさを体から追い払おうとするように。大丈夫だ。一時的な不調にすぎない。彼女がすねて出ていったのは、単に自分の気を引いて、頭を下げさせたいだけだろう。彼は彼女のことを、誰よりもよく知っているつもりだ。高校しか出ておらず、生まれてこの方この小さな町を出たこともない。外とのつながりもほとんど自分を通じてしか持たない、そんな専業主婦が、いったいどこへ行けるというのか。3日と経たないうちに。長くても3日だ。外で苦労し、痛い目を見て、俺から離れれば自分は何者でもないのだと思い知れば、おとなしく戻ってくる
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第10話
枕元にあった外国語の学術誌を手に取り、読書でこのまとわりつく雑念を頭から追い払おうとした。しかし紙面に目を落としても、そこに見えるのは複雑な数式やデータではなく、灯りの下で静かに本を読んでいる早紀の伏し目がちな横顔だった。彼女が読んでいたのは、確か高校数学の参考書だったはずだ。かなり古びていて、角がすっかり丸くなっていた。3日目の午後、裕也はついにじっとしていられなくなった。助手の小林を呼びつける。「小林、ひとつ頼みがある」彼は言葉を濁してから、早紀の実家の住所を告げた。「行って、あいつが戻っているか確認してこい。戻っているなら、いつこちらに帰るつもりか聞いてくれ」小林は戸惑ったが、まったく表情の読めない裕也の顔を見て、それ以上は何も尋ねず、短く返事をして部屋を出ていった。2時間後、小林が戻ってきた。どこか困惑した顔をしている。「浅村先生、聞いてきました。早紀さんの実家では、戻ってきていないとのことです。お父様もひどく心配なさっていて、『喧嘩でもしたんですか。娘は嫁いでから、あまり実家に電話をよこさなくなったんです』と何度も聞かれました」戻っていない?裕也は万年筆を握る指先に、わずかに力を込めた。「他に何か言っていたか?」「早紀さんに何かあったのかと、ひどく心配そうにされていました。私は何もない、研究所で少し用があって聞いているだけだと答えておきましたが。これは……」「わかった。もう行っていい」裕也は冷たく彼の言葉を遮った。小林は慌てて部屋を出て、そっと扉を閉める。裕也は椅子の背に深くもたれかかり、静かに目を閉じた。実家には戻っていない。では、いったいどこへ行ったというのだ。友人の家か?彼女に、特別親しい友人がいた記憶はない。結婚してからというもの、彼女の生活はほとんど自分とこの家を中心に回っていたのだから。昨日から胸の奥に芽生えていた得体の知れない不安が、じわじわと広がっていく。だが彼はすぐに、それを持ち前の理性で強引に押し込めた。たぶん、どこか遠い親戚の家にでも身を寄せているのだろう。あるいは、安い宿にでも泊まって、自分に対して意地を張っているだけかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。彼は必死に自分にそう言い聞かせた。けれど、それから数日が経っても、生活
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