穂香の退職手続きが進んでいた頃、社内には不安が広がっていた。あれほど社長に気に入られていた秘書でさえ、あっさり切られたのだ。なら、自分たちはもっと簡単に職を失うのではないか。そう思うのも無理はなかった。とはいえ、会社の株式のほとんどは慎吾が握っていた。周囲が不満を抱いていても、表立って逆らうことなどできない。ただ慎吾の機嫌を損ねないよう、息を潜めて働くしかなかった。そうした、上に立つ者へ向けられる敬意と畏れ。それは長い間、慎吾が求め続けてきたものでもあった。貧しさにも、人の顔色をうかがって生きることにも、もううんざりしていた。だからこそ、自分より下の立場にいる人間から向けられる憧れや畏怖は、慎吾にとってひどく心地よく、虚栄心を満たしてくれるものだった。けれど今では、そんな毎日にさえ飽きていた。誰もが慎吾の姿を見るなり視線を逸らす。目が合えば何を言われるか分からないとでもいうように、必要以上に距離を取る。そんな日々が、来る日も来る日も変わらず続いていた。ふと、昔のことを思い出した。慎吾が会社で初めて社員を怒鳴りつけた日のことだ。あの頃、奈月は少しずつ会社の仕事から離れ始めていた。その日は慎吾を迎えに来るため、わざわざ会社まで来ていた。慎吾は社員を一通り叱り終えてから、ようやく奈月が社長室の入口に立っていることに気づいた。どれくらい前から見ていたのかは分からない。さっきまで怒鳴り散らしていた社長が、次の瞬間には気まずそうに黙り込んだ。奈月は昔から、慎吾がすぐ感情的になるところを好まなかった。まして、金や立場を手にした途端に横柄になるような人間になることを、ひどく嫌っていた。慎吾が落ち着かなかったのは、そのとき叱った社員が、実際にはそこまで大きなミスをしていなかったからだ。慎吾自身が長時間の残業で苛立っていて、必要以上にきつく当たってしまっただけだった。奈月は怒るだろう。そう思った。だが、奈月は何も言わなかった。ただ穏やかな声で社員に、「もう大丈夫。今日は帰っていいよ」と声をかけた。それから慎吾のために蜂蜜入りの温かい飲み物を作り、しばらく黙ってこめかみを揉んでくれた。その優しさと包容力に、慎吾は少しずつ緊張を解いていった。このまま何も言われずに済むのか
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