All Chapters of 私の次は、誰を愛するつもり?: Chapter 11 - Chapter 19

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第11話

穂香の退職手続きが進んでいた頃、社内には不安が広がっていた。あれほど社長に気に入られていた秘書でさえ、あっさり切られたのだ。なら、自分たちはもっと簡単に職を失うのではないか。そう思うのも無理はなかった。とはいえ、会社の株式のほとんどは慎吾が握っていた。周囲が不満を抱いていても、表立って逆らうことなどできない。ただ慎吾の機嫌を損ねないよう、息を潜めて働くしかなかった。そうした、上に立つ者へ向けられる敬意と畏れ。それは長い間、慎吾が求め続けてきたものでもあった。貧しさにも、人の顔色をうかがって生きることにも、もううんざりしていた。だからこそ、自分より下の立場にいる人間から向けられる憧れや畏怖は、慎吾にとってひどく心地よく、虚栄心を満たしてくれるものだった。けれど今では、そんな毎日にさえ飽きていた。誰もが慎吾の姿を見るなり視線を逸らす。目が合えば何を言われるか分からないとでもいうように、必要以上に距離を取る。そんな日々が、来る日も来る日も変わらず続いていた。ふと、昔のことを思い出した。慎吾が会社で初めて社員を怒鳴りつけた日のことだ。あの頃、奈月は少しずつ会社の仕事から離れ始めていた。その日は慎吾を迎えに来るため、わざわざ会社まで来ていた。慎吾は社員を一通り叱り終えてから、ようやく奈月が社長室の入口に立っていることに気づいた。どれくらい前から見ていたのかは分からない。さっきまで怒鳴り散らしていた社長が、次の瞬間には気まずそうに黙り込んだ。奈月は昔から、慎吾がすぐ感情的になるところを好まなかった。まして、金や立場を手にした途端に横柄になるような人間になることを、ひどく嫌っていた。慎吾が落ち着かなかったのは、そのとき叱った社員が、実際にはそこまで大きなミスをしていなかったからだ。慎吾自身が長時間の残業で苛立っていて、必要以上にきつく当たってしまっただけだった。奈月は怒るだろう。そう思った。だが、奈月は何も言わなかった。ただ穏やかな声で社員に、「もう大丈夫。今日は帰っていいよ」と声をかけた。それから慎吾のために蜂蜜入りの温かい飲み物を作り、しばらく黙ってこめかみを揉んでくれた。その優しさと包容力に、慎吾は少しずつ緊張を解いていった。このまま何も言われずに済むのか
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第12話

実際のところ、奈月と娘の新しい生活は、驚くほど順調だった。海外に着いてから、二人はたくさんの親切な人に出会った。慣れない土地で困っている二人を見て、何かと助けてくれた近所の人。娘をかわいがり、通院のたびに快く手を貸してくれる現地の人。子どもを連れて大変そうな奈月を見かけると、さりげなく助けてくれる通りすがりの人もいた。奈月も、慎吾のもとを離れたあとの生活に不安がなかったわけではない。けれど、慎吾が差しかけてくれていると思っていた傘の下を離れてみて、初めて気づいた。外は、思っていたほど雨なんて降っていなかった。母からも心配して何度か電話がかかってきた。だが、結婚していた頃より奈月の様子がずっとよくなっていると分かると、それ以上あれこれ言わなくなった。奈月はほどなくして、新しい土地での暮らしに馴染んだ。その間に、娘の名前も変えた。黒川結月(くろかわ ゆづき)から、宮本心春(みやもと こはる)へ。まだ幼く、病院に通うことも多い心春だったが、周りのことはきちんと分かっていた。そして、とても聞き分けのいい子だった。名前を変えたその日、心春は近所の女性の家へ遊びに行き、甘えながら一緒に小さなケーキを作った。出来上がったケーキを大事そうに奈月の前まで運んできて、「お祝いしよう」と言った。奈月は心春を抱き上げた。「何のお祝い?」心春は小さな声で答えた。「これからは、ママだけの娘になったお祝い」奈月は娘の髪を撫でた。何度か息を整えて、ようやく普通の声を出した。「ママのせいでパパがいなくなったって、恨んだりしない?」「しないよ」心春はふっくらした腕を奈月の首に回した。「パパ、いつもほかの人と一緒にいたから、もう顔もあんまり覚えてないの。こはるは、ママがいればいい」そのケーキは、最後には二人できれいに食べきった。心春が奈月だけの娘になったことを祝うケーキ。そして、母娘二人の新しい人生を祝うケーキでもあった。心春は新しい環境にもよく馴染んだ。海外へ移ってから体調を大きく崩すこともなく、生活に馴染めず困ることもなかった。後天性の心臓病があるため、新しくできた友達も、遊ぶときにはいつも心春を気遣ってくれた。奈月が迎えに行くと、相手の親が心春に無理をさせないよう、わざわざ心臓病につ
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第13話

直樹は回診を終えて病室を出たところで、ちょうど奈月が冷たく笑うのを目にした。思わず尋ねる。「何かあったんですか?」「別に」奈月は大して気にした様子もなく言った。「元夫が、また訳の分からないことしてるだけ」その言葉を聞いた直樹のほうが、なぜか少し居心地悪そうな顔をした。奈月はすぐに話題を変えた。「心春の具合はどう?」直樹は何か言いかけて、やめた。振り返り、病室の中を見る。心春は新しくできた友達と楽しそうにじゃんけんをしていた。直樹はそっと病室のドアを閉めると、声を落とした。「今、少し時間ありますか?話しておきたいことがあって。もしかしたら、少し踏み込んだ話になるかもしれません」奈月は迷わなかった。「もちろん」直樹はコーヒーを2つ買い、奈月を病院の中庭へ連れていった。二人は空いていたベンチに腰を下ろした。庭には、患者に付き添いながら散歩をしたり、話をしたりしている家族の姿が多かった。柔らかな日差しが肌に降り注ぎ、奈月は心地よさそうに目を細めた。直樹はコーヒーを一つ差し出した。しばらく迷った末、できるだけ奈月を傷つけなさそうな話題から切り出した。「前のご主人とは……気持ちがすれ違って、離婚されたんですか?」「ええ」奈月はコーヒーを受け取り、一口飲んだ。「向こうはもう私のことを好きじゃなかったの。私がそれに気づかなくて、手放そうとしなかったから、ずいぶん長いことしがみついちゃった」直樹はまた黙り込んだ。しばらくして、「すみません」とだけ言った。「謝ることじゃないよ」奈月には、何となく話の先が見えてきた。「もしかして、私と元夫の関係が心春にも影響してたって話?」案の定、直樹は頷いた。「子どもは、大人の感情にとても敏感です。特に両親のこととなると。奈月さんも気づいているかもしれませんが、心春ちゃんはとても繊細で、年齢のわりに聞き分けがよすぎるところがあります。そういう子は、両親の関係にも必要以上に敏感になります。奈月さんが心春ちゃんを大切にしていたとしても、ご主人との言い争いは、どうしても少なからず影響します。お父さんとお母さんの仲が悪くなるんじゃないか。自分が二人の負担になっているんじゃないか。そういう不安や緊張、恐怖が積み重なると、子どもはどん
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第14話

奈月はわずかに目を見開いた。だが、直樹はそれ以上説明するつもりはないらしい。ちょうどそのとき、患者が呼んでいると連絡が入った。直樹はすぐにふざけた雰囲気を引っ込め、いつもの信頼できる医師の顔に戻った。立ち上がってから見ると、奈月はまださっきの姿勢のまま少し身体を傾け、驚きから抜け出せずにいるようだった。普段の直樹なら、こんなときに相手をさらに困らせるようなことはしない。それは彼なりの礼儀でもあった。けれど、なぜかこのときだけは。奈月なら本気で怒ったりしないと分かっていたからか、立ち去る前に少しだけ意地悪をしたくなった。直樹はわざとらしくため息をついた。案の定、奈月が少し不安そうに彼を見る。一瞬だけ良心が痛んだものの、直樹は目を伏せ、いかにも傷ついたような小声で言った。「こんだけ長いこと気づいてもらえへんかったら、僕もちょっとしんどいんですけど」心春の主治医でなければ、「もう30にもなるのに、何拗ねてるの」って、奈月は危うくそう言い返すところだった。白衣姿で去っていく直樹の背中を見つめ、深く息を吸う。そうでもしなければ、追いかけて蹴りの一つでも入れそうだった。記憶というものは不思議だった。それまで、この男について何一つ覚えていなかったはずなのに。あまりにも聞き覚えのあるあの口調を耳にした途端、遠い記憶の底から、一人の青年の姿が浮かび上がってきた。奈月は大学で経営学を学んでいた。しかも、かなり成績のいい学生だった。図書館が開く時間から閉館するまで、一日中勉強していることも珍しくなかった。卒業を控えた時期には、慎吾と起業について相談しながら卒業論文も仕上げなければならず、ますます図書館に入り浸るようになった。当時は、図書館から救急車で運ばれる学生も珍しくなかった。難関大学だけあって、将来のために無理をする学生が多かったのだ。大学側が何度注意しても改善しなかったため、とうとう医学部の優秀な学生たちを図書館の前に配置し、具合の悪そうな学生がいないか見てもらうようになった。奈月が急いで図書館の前を通るたび、やけに明るくよく通る男の声が聞こえてきた。「なんや、しんどそうやな。無理せんと、はよ休み」標準語が当たり前の大学では、その軽い訛りが妙に耳に残った。奈月も珍しく思い
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第15話

奈月は身体を強張らせたまま振り返った。そこには、ひどくやつれた顔をした慎吾が立っていた。奈月をまっすぐ見つめ、掴んだ手にも強い力がこもっている。その瞬間、消えかけていたはずの憎しみと怒りが、一気に押し寄せてきた。思いきり頬を何度か叩いてやりたい。そう思った。けれど、直樹に以前言われた言葉が、ぎりぎりのところで奈月を引き戻した。自分が先に崩れてはいけない。まして、もう自分の人生には関係のない人間のせいで、心春をもう一度傷つけるわけにはいかなかった。ほんの短い沈黙の間に、直樹も何かを察したらしい。心春の後頭部にそっと手を添え、そのまま自分の肩へ寄せた。まずは子どもを安心させるように言った。「大丈夫。怖くないよ」たったそれだけの言葉だった。それなのに慎吾は、一瞬、立っている力さえ失いそうになった。自分の娘なのに、ほかの男から「怖くないよ」と守るように声をかけられている。慎吾は、自分が父親としてどれほど何もしてこなかったのか、思い知らされた。慎吾は喉が詰まり、何も言えなかった。その間に奈月は、掴まれていた腕を強く引き抜いた。細く白い手首には、慎吾の指の跡が何本も赤く腫れて残っていた。慎吾は唇を動かし、慣れない言葉を絞り出すように言った。「……悪かった」奈月は何度か深く息を吸い、できるだけ平静を保った。「三宅先生、心春を先に先生のところへ連れていってもらえる?少し、話をしないといけないから」「分かりました」心春は直樹の首に腕を回したまま、潤んだ大きな目で奈月を見ていた。奈月は手を伸ばし、その頬をそっとつまんだ。「ママは大丈夫だから。あとで迎えに行くね。いい?」心春は素直に頷いた。それから慎吾をおそるおそる一度だけ見た。直樹に抱かれたまま何歩か離れたところで、突然、大きな声を上げた。「ママに離婚してって言ったの、こはるだよ!おじさん、ママを困らせないで!」慎吾の青ざめた顔から、さらに血の気が引いた。唇が震える。「結月……何を言ってるんだ。パパだぞ」「違う」心春ははっきりと言った。「黒川結月はもういないの。今は宮本心春。ママだけの子なの。こはるには、パパもいない」奈月は、これ以上慎吾のせいで心春を動揺させたくなかった。慎吾の腕を掴
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第16話

奈月の言葉は容赦がなかった。慎吾に少しの逃げ道も残さなかった。奈月は、慎吾がこんなにも傷ついた顔をするところを見たことがなかった。勇気を振り絞って欲しいものをねだったのに、拒まれてしまった子どものようだった。その言葉が、何か恐ろしいものの引き金になった。慎吾は奈月の肩を掴んだ。肩の骨まで砕けそうなほどの力だった。「俺はただ、道を間違えただけだ!家庭を裏切ったつもりなんて一度もない。それなのに、どうしてそこまで冷たくできる?どうして一度くらい、やり直す機会をくれないんだ?奈月、俺たち何年一緒にいたと思ってる?あれだけ長く一緒にいたのに、お前にとってはそんなに軽いものだったのか?」「軽い?」奈月には、慎吾がどうしてそんなことを言えるのか理解できなかった。とうとう感情も声も抑えられなくなり、慎吾に負けないほど強い声で言い返した。「じゃあ教えてよ。あなたにとって、何がそんなに大事なの?私の命も、娘の命も、私たちがどれだけ苦しくて、怖くて、どうしようもなかったかも、あなたにとっては全部、軽いものだったんでしょう?結局、大事なのは自分の気持ちだけなの?前は、あなたのことを分かったつもりでいた。ただ私を愛さなくなって、だから嫌いになったんだって。でも、今になって分かった。やっぱり違った。あなたは私を愛してない。穂香のことだって愛してない。愛してるのは、自分だけ」肩に食い込んでいた力が緩んだ。慎吾の腕が力なく落ちる。奈月は冷たく笑った。「たぶん、あなたは最初から誰のことも愛してなかったんじゃない?私と付き合ったのだって、一緒に仕事をする相手として都合がよかったからでしょう。穂香に惹かれたのも、私がもうあなたの役に立たなくなって、面倒なことばかり言うようになったから。あなたが欲しかったのは、自分の気持ちを受け止めて、細かいことまで何も言わずに片づけてくれる人だったんだよ。最初から最後まで、一番得をしてきたのはあなた。だから今だって、自分がどれだけ苦しいか、どれだけ傷ついたかばかり気にしてる。私がどんな思いでいたかなんて、今まで一度もちゃんと考えたことなかったでしょう?」慎吾は苦しげに顔を歪め、信じられないというように奈月を見た。「どうして……俺がお前を愛してなかったなんて言えるんだ」慎吾は、奈
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第17話

慎吾と再会してから、奈月は彼につきまとわれるようになった。慎吾はもう、答えの出ない問いを繰り返したりはしなかった。ただ黙って、奈月からぎりぎり見えるくらい離れた場所に立ち、遠くから見守っていた。奈月の家の前には、いつの間にか花やお菓子が置かれるようになった。花にはまだ朝露が残り、お菓子はどれも、奈月がこちらへ来る前によく食べていたものばかりだった。奈月は捨てなかった。むしろ、届いたものは全部そのまま受け取った。慎吾が喜ぶ間もなく、今度は自分の口座に金が振り込まれていることに気づいた。奈月にとって慎吾は、ただの買い物代行でしかなかった。あれはもう慎吾からのプレゼントではない。奈月が自分で金を払い、慎吾に買ってこさせたものだった。慎吾は金を返そうとした。けれど奈月は一方的に慎吾をブロックしていて、もう連絡を取る手段が何一つ残っていなかった。次々と振り込まれてくる金を見るたび、慎吾は苛立った。一瞬、自分も奈月をブロックしてしまおうかとさえ思った。けれど、できなかった。そんなことをする気にはなれなかったし、また奈月を傷つけるのも怖かった。奈月はときどき、心春を連れて友人の家へ遊びに行った。奈月が大人同士で話している間、心春はほかの子どもたちと一緒に家の裏の庭へ走っていくことが多かった。慎吾も何度か心春の気を引こうとした。けれど、そのたびに完全に無視された。父親として、慎吾はあまりにも何もしてこなかった。娘の最初の5年間をほとんど一緒に過ごしていない。そんな父親を、今さら自分の生活に入れたくないと思われても当然だった。慎吾は焦らず待つことにした。子どもが喜びそうな人形やぬいぐるみも買った。呼び方も少しずつ変えた。もう「結月」とは呼ばず、奈月と同じように「心春」と呼ぶようになった。けれど、子どもの好き嫌いは、ときに大人の感情よりずっと残酷だった。心春は慎吾からのプレゼントを一度も受け取らなかった。顔を合わせる回数が増えると、ついには眉を寄せて言うようになった。「おじさんのこと、嫌い。今度から、もう来ないでくれる?」慎吾はしばらく呆然と立っていた。やがて心春の前にしゃがみ、目線を合わせる。慎重に尋ねた。「それ……ママに言えって言われたのか?」心春は首を横
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第18話

幸い、ただ身体が冷えて熱を出しただけで、ほかに合併症はなかった。夜中まで慌ただしく対応が続き、ようやく三人とも胸を撫で下ろした。奈月は娘の手を握ったまま、少し申し訳なさそうに直樹へ言った。「また迷惑かけちゃったね、三宅先生」直樹はすぐに言った。「そういうの、もうやめましょうよ。よそよそしいです」そのとき、病室の外から看護師が直樹を呼ぶ声がした。直樹は壁の時計を確認し、奈月へ言った。「午前中に手術があるんです。もし僕と連絡がつかなかったら、僕の医局の隣にいる河野先生を訪ねてください。心春ちゃんのことは前から相談していて、今のところ僕以外では一番状態を把握している先生です」「分かった。行ってきて」慎吾はずっと黙っていた。直樹が病室を出て、奈月と二人きりになってから、ようやくゆっくりベッドのそばまで歩き、腰を下ろした。青白い娘の顔。熱のせいで不自然に赤くなった頬。慎吾は初めて、子どもが病気になったときの怖さを実感した。けれど奈月は、こんなことを5年間、一人で何度も乗り越えてきたのだ。「今さらだって分かってるけど……一度ちゃんと謝りたい」奈月は心春の額の汗を拭きながら、淡々と言った。「本当に悪いと思ってるなら、私たちから離れて。もう心春をあなたに会わせるつもりもない。私がいる限り、この子を傷つける人はもう誰一人近づけさせないから」慎吾は一瞬、言葉を失った。そこでようやく気づいた。奈月は、自分がこっそり心春に会っていたことを、ずっと知っていたのだ。おそらく、子どもから父親まで奪っていいのかと考え、あえて止めずにいたのだろう。それなのに、会わせているうちに、とうとう心春は病院へ運ばれることになった。今回の発熱まで慎吾一人の責任とは言えない。それでも、申し訳なさは消えなかった。何か埋め合わせをしたかった。だが離婚後、財産の大半は奈月のものになっている。今さら少しばかり金を渡したところで、奈月が喜ぶとも思えなかった。慎吾は自分の指を強くつねった。皮膚が切れ、血が滲む。突然、口を開いた。「会社を、お前に渡そうか。お前の株も取り戻した。時間があるときに一度戻って、手続きだけしてくれないか」奈月には、もうどうでもよかった。何気なく答える。「現金にしてくれれば
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第19話

奈月は一晩中、病室で心春に付き添った。翌朝、目を覚ました心春が「おかゆが食べたい」と言ったため、奈月はほんの少しだけ病室を離れた。ところが戻ってくると、そこに娘の姿はなかった。奈月は一瞬で頭が真っ白になった。心春はとても聞き分けのいい子だ。勝手に病室を抜け出して遊びに行くようなことは一度もなかったし、病院にいることを嫌がったこともない。自分がいなくなればママが心配すると分かっている。だから、自分からどこかへ行くはずがなかった。真っ先に思い浮かんだのは、慎吾だった。奈月はすぐに電話をかけた。慎吾はすぐに出た。驚いた声が聞こえる。「奈月……気が変わったのか?」「心春、あなたのところにいるんでしょう?」娘を失う恐怖に、奈月は感情を抑えられなかった。声はすぐに涙で震えた。「慎吾、あなたが何を望んでるのか知らないけど、欲しいものなら何でもあげる。でも心春だけは連れていかないで。お願い……返して。私には、あの子しかいないの」慎吾の胸が詰まった。電話越しなのに、またあの奈月の姿が目に浮かんだ。逃げ場を失い、悲しみに打ちのめされながら、自分に縋っていた奈月。以前の慎吾は、そんな彼女を上から冷たく見下ろしていた。けれど今は、ただ胸が痛かった。息もできないほど痛かった。自分の頬を思いきり殴って、どうしてあんな残酷なことができたのかと問い詰めたくなる。あれほど生き生きとしていた奈月を、どうしてここまで追い詰めてしまったのか。慎吾は強く舌を噛み、その痛みで無理やり冷静さを取り戻した。「奈月、まず俺の話を聞け。心春は俺が連れていったんじゃない。病院の防犯カメラを確認してくれ。俺もすぐ戻る」奈月は電話を切ると、すぐに警察へ通報した。病院のすぐ近くに警察署があり、警察はすぐに駆けつけた。その話は直樹にも伝わった。ちょうど手術を終えたばかりだった直樹も、奈月と一緒に監視カメラの映像を確認しに向かった。そして奈月は、映像の中に、どうしても忘れられない顔を見つけた。足から力が抜けた。直樹に支えてもらわなければ、立っていることさえできなかった。穂香だった。奈月に対する敵意を隠そうともしなかった女。そんな穂香が、自分の娘に何をするのか。考えるだけで恐ろしかった。警察は簡単に事
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