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私の次は、誰を愛するつもり?

私の次は、誰を愛するつもり?

By:  幻の夢Completed
Language: Japanese
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娘が心臓発作を起こし、命を落としかけたそのとき。 24時間いつでも連絡がつくはずの黒川慎吾(くろかわ しんご)の電話は、何度かけてもずっと話し中だった。 危篤を告げられること三度。 ようやく娘の容体が安定し、ICUで経過観察となったあと、宮本奈月(みやもと なつき)は慎吾の秘書・川口穂香(かわぐち ほのか)が投稿したばかりのSNSで、ようやく彼の居場所を知った。 32歳になった慎吾は、以前にも増して端整な顔立ちをしていた。 年齢を重ねたことで、落ち着きと頼もしさまで身につけている。 カメラを見つめる表情は穏やかで、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。 その大きな手に包まれていたのは、ハイヒールを履いたまま、わずかに赤く腫れた女性の足だった。 【卒業してすぐ黒川社長の秘書になったことが、人生で一番正しい選択だった!ちょっと足をひねっただけなのに、社長はずっと電話で様子を聞いてくれて、最後にはわざわざ家まで来て薬まで塗ってくれた!】 そのときようやく、慎吾から電話がかかってきた。 男は淡々とした声で言った。 「どうした?」 「ずっと電話が話し中だった」 「忙しかった」 奈月の感情は、もう崩れる寸前だった。 「少し、私の話を聞く時間もないくらい忙しかったの!?」 「奈月」 慎吾は疲れたようにため息をついた。 「喧嘩する気はない。会社のことで忙しいんだ。俺にも余裕がないし、いちいちお前の感情に付き合ってられない。用がないなら切るぞ。今、忙しいんだ」 「娘が心臓発作を起こして、もう少しで――」 「お前が決めてくれ」 奈月が言い終えるより早く、慎吾は電話を切った。

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Chapter 1

第1話

穂香を秘書としてそばに置くようになってから、慎吾はいつもそうだった。

忙しくて家に帰る時間もない。奈月の話を聞く時間もない。家庭のことに気を配る余裕もない。

家具を買い替えるような些細なことから、引っ越し、娘の進学先まで、奈月が相談しても返ってくる言葉はいつも同じだった。

「好きに決めてくれ」

スマホの画面をもう一度、さっきのSNSの投稿に戻した。

そこに書かれている慎吾は、まるで奈月の知らない人のようだった。穏やかで、辛抱強くて、そこにはかすかな愛情さえ感じられた。

奈月はその文章を見つめ、それから顔を上げた。

ICUの病室を隔てるガラスには、自分の姿が映っていた。

ひどくやつれ、目は真っ赤に腫れ、今にも息絶えそうなほど憔悴している。

奈月はその場にずるずると座り込み、冷たい壁に後頭部を預けた。スマホを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。

母が慌ただしく駆けつけ、奈月が一人きりなのを見るなり、真っ先に尋ねた。

「慎吾は?」

奈月は首を横に振り、小さな声で言った。

「お母さん、私、離婚したい」

「どうして?」

母は理解できないという顔をした。

「あなたたち、大学を卒業してすぐ結婚したでしょう。二人で会社を始めた頃は、隙間風の入るような古いアパートに住んで、前の日の残り物で食いつないでたじゃない。あんなに苦しい時期を二人で乗り越えてきたのに、今は何もかも手に入ったでしょう。それなのに、どうして離婚なんて……」

そうだった。

あの頃は、わずかな食べ物さえ相手に残そうとするほど貧しくて、水を飲んで空腹をごまかしながら、それでも二人で馬鹿みたいに笑っていた。

何ひとつ持っていなかった。

あったのは、何の足しにもならない愛だけだった。

けれど今は、何もかも手に入った。

住む家はどんどん広くなり、車も増え、暮らしは豊かになっていった。

それなのに、二人の心だけは少しずつ離れていった。

奈月は静かに言った。

「慎吾の秘書ね、きれいで頭もよくて、人混みにいても目を引くような人なの」

「それがどうしたの?」

「お母さん、私はどこにでもいる普通の女だよ」

奈月は口元を歪めた。笑おうとしているうちに、唇に苦くしょっぱい味が滲んだ。

「何年も家のことばかりしてるうちに、平凡で、面白みもなくて……今じゃ、何の価値もないような普通の女になった」

母の声が厳しくなった。

「慎吾、浮気したの?」

奈月はゆっくりと首を横に振った。

慎吾が実際に浮気をしたわけではない。

少なくとも、奈月の知る限りでは。

けれど、裏切りは浮気だけではない。

心がほかの誰かに向くことだって、同じだった。

慎吾と一緒に会社を立ち上げた頃、奈月は彼の一番頼りになる右腕だった。慎吾が安心して背中を預けられる、かけがえのない仕事のパートナーだった。

事業が軌道に乗ってからは家庭に入り、慎吾を支える妻になった。

彼の成功を陰で支える、なくてはならない存在だった。

そして付き合い始めて10年目の今、奈月はただ、彼と日々の生活を回していく相手でしかなかった。

波風ひとつ立たない毎日の中で、慎吾の心を動かすこともない、ただそこにいるだけの存在。

奈月が慎吾にとって、もう特別な意味を持つ存在ではなくなった頃、穂香が現れた。

奈月と慎吾は夫婦なのに、いつからか互いが何を喜び、何に腹を立て、何を悲しんでいるのかさえ分からなくなっていた。

相手が毎日何をしているのかも知らない。

たまに顔を合わせても、黙っているか、穂香のことで言い争うかのどちらかだった。

やがて慎吾は、喧嘩をすることすら嫌がるようになった。

険しい顔のままドアを閉めて出ていき、奈月と顔を合わせようともせず、その声さえ聞きたがらなくなった。

夫はいるのに、夫がいないのと変わらない暮らしだった。

母はやはり娘が心配だった。

「だったら離婚しなさい。あなたもあの人と一緒に何年も頑張ってきたんだから、それなりに財産だってあるでしょう。離婚したって、これからちゃんと暮らしていけるわ」

奈月は娘の看病をしながら、離婚協議書の準備を始めた。

奈月も会社の創業者の一人だった。保有している株式は、慎吾より1%多いはずだった。

かつて株式を分けたとき、慎吾は真剣な顔で奈月に約束していた。

「奈月、俺たちのことを最後に決める権利は、ずっとお前に持っていてほしい。もし俺がいつか間違ったことをしたら、俺が築いたものを全部壊せるくらいの権利を、お前に渡しておく」

そう言ったあと、慎吾は笑って冗談めかして続けた。

「妻を大事にできない男なんて、失敗して当然だからな」

奈月は慎吾を破滅させたいわけではなかった。

ただ、自分のものを取り戻したかっただけだ。

ところが財産を整理している最中、弁護士から電話がかかってきた。

相手は戸惑った様子で確認してきた。

「宮本さん、現在、会社に宮本さん名義の株式はありません。こちらで確認したところ、宮本さんがお持ちだった株式は3年前に、ご主人によって川口穂香さん名義へ移されています。この件は、ご存じなかったのでしょうか。それとも、お忘れになっていたのでしょうか」

奈月はスマホを握る手に力を込めた。頭の中が真っ白になった。

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第1話
穂香を秘書としてそばに置くようになってから、慎吾はいつもそうだった。忙しくて家に帰る時間もない。奈月の話を聞く時間もない。家庭のことに気を配る余裕もない。家具を買い替えるような些細なことから、引っ越し、娘の進学先まで、奈月が相談しても返ってくる言葉はいつも同じだった。「好きに決めてくれ」スマホの画面をもう一度、さっきのSNSの投稿に戻した。そこに書かれている慎吾は、まるで奈月の知らない人のようだった。穏やかで、辛抱強くて、そこにはかすかな愛情さえ感じられた。奈月はその文章を見つめ、それから顔を上げた。ICUの病室を隔てるガラスには、自分の姿が映っていた。ひどくやつれ、目は真っ赤に腫れ、今にも息絶えそうなほど憔悴している。奈月はその場にずるずると座り込み、冷たい壁に後頭部を預けた。スマホを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。母が慌ただしく駆けつけ、奈月が一人きりなのを見るなり、真っ先に尋ねた。「慎吾は?」奈月は首を横に振り、小さな声で言った。「お母さん、私、離婚したい」「どうして?」母は理解できないという顔をした。「あなたたち、大学を卒業してすぐ結婚したでしょう。二人で会社を始めた頃は、隙間風の入るような古いアパートに住んで、前の日の残り物で食いつないでたじゃない。あんなに苦しい時期を二人で乗り越えてきたのに、今は何もかも手に入ったでしょう。それなのに、どうして離婚なんて……」そうだった。あの頃は、わずかな食べ物さえ相手に残そうとするほど貧しくて、水を飲んで空腹をごまかしながら、それでも二人で馬鹿みたいに笑っていた。何ひとつ持っていなかった。あったのは、何の足しにもならない愛だけだった。けれど今は、何もかも手に入った。住む家はどんどん広くなり、車も増え、暮らしは豊かになっていった。それなのに、二人の心だけは少しずつ離れていった。奈月は静かに言った。「慎吾の秘書ね、きれいで頭もよくて、人混みにいても目を引くような人なの」「それがどうしたの?」「お母さん、私はどこにでもいる普通の女だよ」奈月は口元を歪めた。笑おうとしているうちに、唇に苦くしょっぱい味が滲んだ。「何年も家のことばかりしてるうちに、平凡で、面白みもなくて……今じゃ、何の価値もないような普通
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第2話
奈月の背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。すっかり心が離れてしまったこの結婚生活の中で、慎吾は一体、奈月に隠れてどれだけのことをしてきたのだろう。奈月はすぐに慎吾へ電話をかけた。だが、何度かけても出ない。それ以上はかけ直さず、そのまま車で会社へ向かった。警備員や慎吾の秘書に止められても構わず、強引に社長室まで押しかけた。ドアをわずかに開けた瞬間、奈月はその場で立ち尽くした。室内では、慎吾が両手を脇に下ろしたまま立っていた。その胸に、穂香が強く抱きついている。慎吾の胸元に頬を寄せた穂香の顔は、涙で濡れていた。穂香は奈月に気づくと、涙を湛えた瞳に一瞬だけ挑発的な色を浮かべた。だがすぐに目を伏せ、涙声で言った。「私のこと、好きなんでしょう?それなのに、どうして受け入れてくれないの?」慎吾は答えなかった。ただ、指先だけが感情を押し殺すように、ゆっくりと握りしめられた。その反応を見て、穂香はさらに感情を昂らせた。何かを証明するように、慎吾がこれまで自分のためにしてきたことを、一つずつはっきりと口にした。「5年前、奥様が羊水塞栓で生死の境をさまよっていたとき、あなたは私の家にいて、料理中に切った私の傷を手当てしてくれた。そのあと、奥様が私をあなたのそばに置いておくことに耐えられなくなって、泣いて私を替えてほしいって訴えたときも、私が傷つけられるのを恐れて、奥様を精神科の医療施設に入れた。産後うつだって嘘までついて、私を守ってくれた。それに、奥様が娘さんを連れて海外旅行に行って、犯罪者に誘拐されて金を奪われたとき。助けを求められて、二人が無事に戻れないかもしれないって分かっていたのに、それでもあなたは、私が仕事で出した損失を埋めるために会社の資金を全部回してくれた」穂香の声は激しく震えていた。「慎吾。これでも、私のことなんて何とも思ってないって言える?」長い沈黙のあと、慎吾は掠れた声で言った。「俺がお前をどう思っていようと、奈月を裏切るようなことはできない」よくもそんな綺麗事が言えたものだ。奈月は無意識に唇を噛み切っていた。口の中に血の味が広がり、心は一気に底まで突き落とされた。娘と一緒に誘拐された、あのとき。いくら待っても助けが来ず、犯人たちはついに痺れを切らした。奈月と娘を
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第3話
奈月の耳の奥で、ずっと耳鳴りがしていた。一瞬、慎吾が何を言っているのか理解できなかった。慎吾が知っているのは、奈月が会社まで押しかけて騒いだということだけだった。産後まだ身体も戻りきらない中、命がけで子どもを産んでいたそのとき、夫が別の女のそばにいたと知った奈月が、どれほど傷ついたのか。慎吾は考えようともしなかった。あの日のことは、今でも覚えている。慎吾は人だかりから少し離れた場所に冷たい目をして立ち、心底理解できないという顔で尋ねた。「俺が浮気してないことは、お前だって分かってるだろ。それなのに、何をそんなに騒いでるんだ?」もう愛情がなくなったからこそ、慎吾には奈月の絶望が分からなくなった。奈月が取り乱すことも、責め立てることも、すべて面倒な言いがかりや感情論にしか見えなくなった。挙げ句の果てには、本来奈月のものであるはずの株まで、穂香への埋め合わせに使われた。大きな窓から差し込む斜めの陽射しが、奈月の目を眩ませた。ふと、このビルに会社を移したばかりの頃を思い出した。慎吾は奈月の手を取り、目を閉じるよう言った。何を見せるのかも教えず、意味ありげに少しずつ前へ連れていき、街を一望できる窓の前まで来て、ようやく目を開けさせた。奈月が目を開いた、その瞬間、慎吾は目の前で片膝をついていた。手には、貯金をすべてつぎ込んで作らせたダイヤの指輪。会議では誰を相手にしても堂々と話すようになった社長が、あのときばかりは言葉につまり、何度も噛んだ。それでも、「一生、奈月を愛して、大切にする」と、迷いなくはっきりと言った。窓の向こうの景色は、あの頃と何も変わっていない。変わってしまったのは、人のほうだった。奈月は自嘲するように口元を歪めた。振り返ると、穂香が面白いものでも見るような目で奈月を見ていた。さっきまでのか弱そうな態度は跡形もなく、口を開けば露骨な挑発が滲んでいた。「奥様、もう惨めだと思いません?慎吾はとっくにあなたのことなんて好きじゃないのに、いつまでしがみついてるつもりですか。そこまでして離れたくないんですか?」穂香は薄く笑った。「ここまで聞いても、まだ分からないんですか?慎吾にとっては、あなたの命より私のほうが大事なんですよ。私が一言言えば、あの人は何度だってあなたを置いて
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第4話
慎吾にはもう何も期待していないはずなのに、「俺の大事な人」という言葉を聞いた瞬間、奈月の胸は鋭く痛んだ。慎吾が自分を庇ってくれた姿など、もう思い出せない。彼はとっくに、奈月ではない誰かの側に立っていた。奈月は手の甲で涙を拭い、深く息を吸って気持ちを落ち着かせた。そしてバッグから、離婚協議書と離婚届を含む手続き書類を取り出し、慎吾へ差し出した。掠れた、それでも静かな声で言った。「謝ってもいい。その代わり、これにサインして」慎吾は中身に目を通そうともしなかった。奈月のことなど気にかけていないのだから、そこに何が書かれているかにも興味はないのだろう。そのまま署名が必要な最後のページまでめくり、ろくに確認もせず名前を書いた。「これで満足か?」奈月は頷いた。胸の奥が、ほんの一瞬だけ軽くなった。あとは必要な手続きが済むのを待つだけだ。そうすれば、この馬鹿げた、奈月一人だけが夫婦でいようとしていた結婚生活も終わる。奈月は約束どおり、慎吾に促されるまでもなく自分から車に乗り込み、後部座席に座った。あまりにも素直なその態度に、慎吾はなぜか胸の奥がざわついた。二人が付き合い始めてから、助手席はずっと奈月の指定席だった。以前、穂香がたまたま助手席に座っているところを奈月に見られたことがある。そのとき奈月はハイヒールを脱ぎ、その車を叩いて傷だらけにした挙げ句、「次にやったら、車じゃなくてあなたを殴るから」と穂香に言い放った。それが今日はどうしたというのだ。本当に大人しくなったのか?慎吾は運転席に乗り込み、車を走らせた。バックミラーに映る無表情の奈月を見て、結局我慢できずに尋ねた。「なんで助手席に座らない?」「どこでも同じだから」慎吾は言葉に詰まった。すぐに視線を前へ戻し、ぶっきらぼうに言った。「そう思えるようになったなら、それでいい。どうせ同じ毎日を過ごすなら、いちいち揉めないほうが、お前だって楽だろ」奈月は皮肉げに口元を歪めた。もう慎吾と言い争う気にもなれなかった。会社に着くと、奈月はためらうことなく穂香の前に立ち、深く頭を下げた。「川口さん、失礼なことを言って申し訳ありませんでした。私が悪かったです。どうか気にしないでください」穂香はおずおずと慎吾の袖を掴んだ。目
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第5話
奈月はそのまま連れていかれ、半月もの間、身柄を拘束された。母は奈月を出してもらうために奔走し、ついには慎吾の前で膝をついてまで頼み込んだ。それでも、慎吾が態度を変えることはなかった。会社の機密情報を盗んだと認定されれば、拘束だけでは済まず、刑事責任を問われる可能性もある。慎吾が、書類を持ち出したのは奈月だと言い張る以上、奈月は何度も何度も事情聴取を受けるしかなかった。「私は取っていません」そう何度繰り返しても、誰も信じてくれなかった。唯一、奈月の潔白を証明できるはずだった防犯カメラの映像まで、なぜか壊れていて確認できなかった。日に日に白髪の増えていく母を見ながら、奈月の慎吾に対する憎しみは頂点に達した。同時に、自分自身のことも憎かった。気が弱く、何をするにも先のことばかり考えて決断できなかった自分。何が大切なのかも分からないまま、ここまで来てしまった自分。慎吾から離れる決心をするまで、あまりにも時間がかかりすぎた。その間に、一度だけ穂香が面会に来た。彼女は見せつけるように、なくなったはずの書類を奈月の前に差し出した。「知ってます?」穂香は楽しそうに笑った。「この書類、本当は次の日には見つかってたんです。それでもあなたがここから出られなかったのは、私が慎吾に『怖い』って言ったから。あなたに仕返しされるのが怖いって」穂香は口元を緩めた。「慎吾が何て言ったと思います?精神的に追い詰められていると、現実と自分の思い込みの区別がつかなくなることがあるんですって。周りのみんなから『あなたが盗んだ』って言われ続けたら、いつか自分でも、本当に自分がやったんだって思うようになるって。だから怖がらなくていいって言ってくれました。あなたには私を傷つけさせないって」穂香の声には、隠しきれない優越感が滲んでいた。「あなたが自分の非を認めない限り、ここから出られる可能性はないって。奈月さん。ここまで私の味方をしてくれる慎吾を相手に、あなたに何ができるんですか?」穂香は立ち上がった。そして、ふと思い出したように「あ」と小さく声を上げた。「そうだ。言い忘れてました。昨日、娘さん、また心臓の発作を起こしたそうですよ。危うく助からないところだったとか。あなた、生きてる娘さんにもう一度会えるんでしょう
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第6話
奈月は全身から血の気が引くのを感じた。とっさに看護師の腕を強く掴んだ。「慎吾はどこ?」看護師の目に憐れむような色が浮かんだ。奈月の娘はこの病院に何度も入院している。慎吾の娘でもあることは、誰もが知っていた。それなのに今、娘は命の瀬戸際にいる。その父親が、最後に残っていた酸素吸入器を持っていかせたのだ。看護師は早口で答えた。「1508号室です。急いで!」奈月は一瞬も迷わず、1508号室へ向かって走った。エレベーターは人でいっぱいだった。すぐに非常階段の扉を開け、これまでにないほどの勢いで15階まで駆け上がった。途中で立ち止まる余裕などなかった。ようやくたどり着くと、病室のドアを勢いよく開けた。慎吾が驚いた顔で入口を振り返った。奈月は何も言わず、穂香が使っていた酸素吸入器のマスクを強引に外し、装置を持ち出そうとした。だが次の瞬間、横から伸びてきた強い手に止められた。「奈月、今度は何をしてるんだ?」奈月は縋るように頼んだ。「慎吾、娘がもう危ないの。酸素吸入器がないと助からない。私には何をしてもいい。何を言ってもいい。でも、これだけは持っていかせて」慎吾は明らかに動きを止めた。そういえば奈月が電話で、娘の心臓のことを何か言っていた気がする。ようやく表情にわずかな焦りが浮かんだ。「どういうことだ?」奈月が答えるより早く、穂香が胸を押さえ、苦しそうに何度か息をした。泣きそうな声で尋ねる。「慎吾……苦しい。私、死んじゃうの?」慎吾の目つきが変わった。すぐに奈月の手からマスクを奪い取り、穂香につけ直した。奈月は取り返そうとしたが、慎吾に強く振り払われた。そのまま床へ倒れ、後頭部を硬い医療機器に強くぶつけた。「いい加減にしろ!」慎吾の声には、見下ろすような冷たさがあった。「奈月、穂香を困らせたいからって、とうとう娘まで利用するようになったのか?」奈月は青ざめた顔で言った。「違う……」立ち上がり、もう一度酸素吸入器を取りに行こうとした。だが慎吾にきつく遮られた。慎吾は苛立ったように、再び奈月を押し返した。「まだ違うって言うのか?どうしてこんなに都合よく、穂香が具合を悪くしたときに限って娘まで発作を起こすんだ」「慎吾!」奈月はつい
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第7話
慎吾の顔色は、見ているほうが息を呑むほど険しかった。スマホを握る指には力が入り、関節が白く浮き出ている。画面に残った「望みどおりにする」という言葉が、ひどく目についた。その一文を見つめているうちに、苛立ちも怒りも不快感も、一気に胸の奥へ押し寄せてきた。心臓が張り裂けそうだった。長年、人の上に立つ立場にいた慎吾は、いつの間にか自分の意に逆らわれることに慣れなくなっていた。取引先でさえ慎吾の機嫌をうかがう。まして、自分に頼って暮らしている奈月ならなおさらだった。慎吾は画面を消し、スマホを乱暴に脇へ放った。信じられなかった。奈月が自分に、あんな言い方をするなんて。どうしてそんなことができる?今まで我慢して下手に出ても効果がないと分かって、今度はやり方を変えたのか。そうやって、また自分の気を引こうとしているのだろうか。そう考えると、慎吾の表情はいくらか和らいだ。だが今度は、別の苛立ちが込み上げてくる。奈月のこういう回りくどいやり方には、もううんざりだった。慎吾の時間は貴重だ。日々扱っているのは何千万円、何億円という規模の仕事ばかり。奈月の感情にいちいち付き合い、根拠のない疑いに振り回されている暇などなかった。奈月は昔から感情が敏感すぎた。何度も疑っては思い詰める。慎吾は今では、顔を見るだけで息苦しさを覚えるほどだった。「社長」まだ風邪が治りきっていない穂香は、それでも仕事を休まず会社へ戻ってきていた。声にはまだ少し掠れが残っている。ドアを半分ほど開け、きちんとした笑顔を浮かべて立っていた。仕事らしい口調の中に、ほんの少し親しげな響きを混ぜて言った。「大西社長が会議室でお待ちです。今日は機嫌もよさそうですし、今回の話は順調にまとまりそうですよ」慎吾は気持ちを切り替え、こめかみを揉んだ。無理やり私情を頭から追い出す。「分かった。すぐ行く」「はい」穂香が手際よく仕事をこなす姿を見ながら、慎吾はふと思った。奈月も穂香の半分くらい聞き分けがよければ、ここまでこじれなかったのかもしれない。奈月のせいで沈んでいた気分をいつものように切り替え、慎吾はすぐ仕事へ戻った。もともと筋金入りの仕事人間だった。いったん仕事に没頭すると、ほかのことがまるで目に入ら
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第8話
慎吾は奈月の誕生日の前日まで仕事に追われていた。奈月にはあえて連絡しなかった。驚かせるつもりだったからだ。自分でも少し気恥ずかしく、どこか落ち着かなかった。何しろ長い付き合いだ。二人とも、こうした記念日らしいことにはもうずっと無頓着になっていた。その日は珍しく定時で仕事を切り上げた。帰り際、穂香に「今夜、一緒に食事しませんか」と呼び止められたが、少し考えた末に断った。奈月のために、わざわざ時間を空けたのだ。それなのに家へ帰って慎吾を待っていたのは、どこまでも続く暗闇だけだった。広い邸宅には、一つも明かりがついていない。周囲の家々が明るく照らされている中、そこだけが取り残された廃墟のように見えた。慎吾は険しい顔で奈月に電話をかけた。だが、またしても電源が入っていないという案内が流れた。とうとう苛立ちが限界に達し、以前この家で働いていた家政婦へ連絡した。相手は電話に出ると、丁寧に言った。「黒川さん、お久しぶりです」慎吾は怒りを抑えながら言った。「俺が家にいないからって、こんなに仕事を怠ってたのか?家中ほこりだらけじゃないか。どうして掃除してない?娘は心臓が悪いんだ。ほこりの多いところに長くいさせられないことくらい、分かってるだろ」電話の向こうがしばらく黙った。「黒川さん、奥様から聞いていないんですか?少し前に契約を終了して、私たちはもう辞めています」「……何?」「奥様が、もうこちらには住まないから家政婦も必要ないとおっしゃって」慎吾のこめかみが脈打った。「いつの話だ?」「たしか、2か月くらい前です」2か月前――慎吾は電話を切った。ネクタイを緩め、疲れ切ったようにソファへ腰を下ろした。どれくらいそうしていたのか分からない。けたたましい着信音で、浅い眠りから引き戻された。慎吾は反射的に奈月だと思い、苛立った声で電話に出た。「誰の許可を取って家政婦を辞めさせた?奈月、お前最近ますます勝手になってないか?何でも一人で決めて、俺に相談する気はないのか?」だが受話口から聞こえてきたのは、明らかに弱った穂香の声だった。「社長……睡眠薬をビタミン剤と間違えて飲んじゃって……病院に来てもらえない?私、こっちに家族もいなくて、ほかに誰を頼ればいいのか分から
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第9話
離婚?慎吾が最初に感じたのは、あまりにも馬鹿げているということだった。奈月が自分と離婚するなんて、あり得るはずがない。あれほど自分を愛していた。この何年、どれだけ揉めても、どれだけ取り乱して人目も気にしなくなっても、それでも離婚しようとはしなかった。そんな奈月が、本当に自分から離れていけるはずがない。それに、慎吾には自分から離婚届を書いた覚えもなければ、裁判を起こされたという通知を受け取った覚えもない。奈月が勝手に離婚できるはずなどなかった。慎吾は声を低くした。「今は冗談を言ってる場合じゃない。自分のミスをごまかすために、適当なことを言うな」秘書は少し黙った。再び口を開いたとき、その声には気まずそうな響きが混じっていた。「冗談ではありません、社長。半月ほど前に、離婚が成立したことを示す書類が弁護士から会社に届いていました。ただ、その頃はちょうど大西社長との商談が大詰めで……川口さんが、今は社長に知らせないほうがいいと言ったので。それで……」つまり、自分が離婚したことを、周りはみんな知っていた。知らなかったのは、慎吾だけだったのか。まるで笑い話だった。奈月もまだ自分と同じように意地を張っていると思い込み、いつか向こうから折れて戻ってくるものだと、ずっと待っていた。それでも連絡が来ないから、自分から誕生日の準備までして、歩み寄るきっかけを作ってやろうとしていた。「誰が勝手に、俺に届いたものを止めていいと言った?」「川口さんが……」「もういい」慎吾は苛立たしげに遮った。「彼女はただの秘書だ。会社の判断を勝手に決める権限なんてない。それくらい、いちいち俺が言わないと分からないのか?」秘書はすぐに黙り込んだ。慎吾もそれ以上話す気になれず、電話を切った。丸一日かけて、離婚協議書の控えと、提出された離婚届の写しを手に入れた。そこには、夫婦関係が破綻するに至った理由が、一つひとつ細かく書かれていた。慎吾のしたことが百件以上にわたって並べられ、最後には、双方の合意により婚姻関係を解消するという内容で締めくくられていた。財産分与も明確だった。財産分与については、慎吾側の有責行為を理由に、会社に関する資産を除き、婚姻中に築いた財産の大半を奈月が取得する内容になっていた。
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第10話
穂香は、慎吾の目に宿っていた強い光が、自分の姿を認めた瞬間にすっと消えていくのを見た。慎吾はすぐに興味を失ったように視線を外し、穂香がほとんど聞いたことのない冷たい声で尋ねた。「何しに来た?」穂香は胸の奥に湧いた不快感を押し込み、いつもどおり落ち着いた足取りで慎吾のそばまで歩いた。「謝りに来ました。すみません、社長。離婚のことを黙っていたのは私です。ただ、あんなことまでわざわざ今伝える必要はないと思って……」「黙れ」慎吾は鋭く遮った。「勝手に判断するな。俺の結婚が、お前にとってはそんなにどうでもいいことなのか?」穂香は、慎吾が自分に怒鳴るところなど一度も見たことがなかった。呆然としたまま唇を開いたが、声は出なかった。「もういい」慎吾は急に何もかもどうでもよくなったように、乾いた笑いを漏らした。「考えてみれば、お前はただの他人だ」「……私が、他人?」穂香は震える声で繰り返した。慎吾は重だるい眉間を強く押さえた。「今回の件は、重大な判断ミスだ。休暇が終わったら人事と話をする。副社長は解任。役職は課長まで下げて、総務部の庶務担当へ異動してもらう。それから、お前名義になってる株も返してもらう。副社長じゃなくなるなら、持ってる必要もないだろ。法務から連絡させる」慎吾はそこで一度言葉を止めた。「……あれはもともと、奈月のものだ」穂香は、自分が何を言われたのか信じられなかった。声まで尖る。「私を総務に回すの?」「不満か?」慎吾はちらりと穂香を見た。その目には苛立ちと圧があり、まるで取るに足りない相手が逆らおうとしているのを見るようだった。穂香は慎吾をまっすぐ見返した。「ある。私の学歴も経歴も、どこが足りないの?どうして私が総務なの?」分からなかった。ついこの前まで、この男は自分をどうしようもなく大切にしていたはずだ。妻や娘の評判も、尊厳も、命さえ後回しにして、自分を喜ばせようとしていた。それなのに奈月と離婚した途端、どうしてこんなにも冷たくなれるのか。慎吾があれほど自分を想っているのなら、奈月と別れたあとは自分と結婚するものだと思っていた。「慎吾、こんなのひどいよ」穂香は慎吾の袖を強く掴んだ。ほとんど縋るような声だった。「今は気持ちが落ち着い
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