LOGIN娘が心臓発作を起こし、命を落としかけたそのとき。 24時間いつでも連絡がつくはずの黒川慎吾(くろかわ しんご)の電話は、何度かけてもずっと話し中だった。 危篤を告げられること三度。 ようやく娘の容体が安定し、ICUで経過観察となったあと、宮本奈月(みやもと なつき)は慎吾の秘書・川口穂香(かわぐち ほのか)が投稿したばかりのSNSで、ようやく彼の居場所を知った。 32歳になった慎吾は、以前にも増して端整な顔立ちをしていた。 年齢を重ねたことで、落ち着きと頼もしさまで身につけている。 カメラを見つめる表情は穏やかで、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。 その大きな手に包まれていたのは、ハイヒールを履いたまま、わずかに赤く腫れた女性の足だった。 【卒業してすぐ黒川社長の秘書になったことが、人生で一番正しい選択だった!ちょっと足をひねっただけなのに、社長はずっと電話で様子を聞いてくれて、最後にはわざわざ家まで来て薬まで塗ってくれた!】 そのときようやく、慎吾から電話がかかってきた。 男は淡々とした声で言った。 「どうした?」 「ずっと電話が話し中だった」 「忙しかった」 奈月の感情は、もう崩れる寸前だった。 「少し、私の話を聞く時間もないくらい忙しかったの!?」 「奈月」 慎吾は疲れたようにため息をついた。 「喧嘩する気はない。会社のことで忙しいんだ。俺にも余裕がないし、いちいちお前の感情に付き合ってられない。用がないなら切るぞ。今、忙しいんだ」 「娘が心臓発作を起こして、もう少しで――」 「お前が決めてくれ」 奈月が言い終えるより早く、慎吾は電話を切った。
View More奈月は一晩中、病室で心春に付き添った。翌朝、目を覚ました心春が「おかゆが食べたい」と言ったため、奈月はほんの少しだけ病室を離れた。ところが戻ってくると、そこに娘の姿はなかった。奈月は一瞬で頭が真っ白になった。心春はとても聞き分けのいい子だ。勝手に病室を抜け出して遊びに行くようなことは一度もなかったし、病院にいることを嫌がったこともない。自分がいなくなればママが心配すると分かっている。だから、自分からどこかへ行くはずがなかった。真っ先に思い浮かんだのは、慎吾だった。奈月はすぐに電話をかけた。慎吾はすぐに出た。驚いた声が聞こえる。「奈月……気が変わったのか?」「心春、あなたのところにいるんでしょう?」娘を失う恐怖に、奈月は感情を抑えられなかった。声はすぐに涙で震えた。「慎吾、あなたが何を望んでるのか知らないけど、欲しいものなら何でもあげる。でも心春だけは連れていかないで。お願い……返して。私には、あの子しかいないの」慎吾の胸が詰まった。電話越しなのに、またあの奈月の姿が目に浮かんだ。逃げ場を失い、悲しみに打ちのめされながら、自分に縋っていた奈月。以前の慎吾は、そんな彼女を上から冷たく見下ろしていた。けれど今は、ただ胸が痛かった。息もできないほど痛かった。自分の頬を思いきり殴って、どうしてあんな残酷なことができたのかと問い詰めたくなる。あれほど生き生きとしていた奈月を、どうしてここまで追い詰めてしまったのか。慎吾は強く舌を噛み、その痛みで無理やり冷静さを取り戻した。「奈月、まず俺の話を聞け。心春は俺が連れていったんじゃない。病院の防犯カメラを確認してくれ。俺もすぐ戻る」奈月は電話を切ると、すぐに警察へ通報した。病院のすぐ近くに警察署があり、警察はすぐに駆けつけた。その話は直樹にも伝わった。ちょうど手術を終えたばかりだった直樹も、奈月と一緒に監視カメラの映像を確認しに向かった。そして奈月は、映像の中に、どうしても忘れられない顔を見つけた。足から力が抜けた。直樹に支えてもらわなければ、立っていることさえできなかった。穂香だった。奈月に対する敵意を隠そうともしなかった女。そんな穂香が、自分の娘に何をするのか。考えるだけで恐ろしかった。警察は簡単に事
幸い、ただ身体が冷えて熱を出しただけで、ほかに合併症はなかった。夜中まで慌ただしく対応が続き、ようやく三人とも胸を撫で下ろした。奈月は娘の手を握ったまま、少し申し訳なさそうに直樹へ言った。「また迷惑かけちゃったね、三宅先生」直樹はすぐに言った。「そういうの、もうやめましょうよ。よそよそしいです」そのとき、病室の外から看護師が直樹を呼ぶ声がした。直樹は壁の時計を確認し、奈月へ言った。「午前中に手術があるんです。もし僕と連絡がつかなかったら、僕の医局の隣にいる河野先生を訪ねてください。心春ちゃんのことは前から相談していて、今のところ僕以外では一番状態を把握している先生です」「分かった。行ってきて」慎吾はずっと黙っていた。直樹が病室を出て、奈月と二人きりになってから、ようやくゆっくりベッドのそばまで歩き、腰を下ろした。青白い娘の顔。熱のせいで不自然に赤くなった頬。慎吾は初めて、子どもが病気になったときの怖さを実感した。けれど奈月は、こんなことを5年間、一人で何度も乗り越えてきたのだ。「今さらだって分かってるけど……一度ちゃんと謝りたい」奈月は心春の額の汗を拭きながら、淡々と言った。「本当に悪いと思ってるなら、私たちから離れて。もう心春をあなたに会わせるつもりもない。私がいる限り、この子を傷つける人はもう誰一人近づけさせないから」慎吾は一瞬、言葉を失った。そこでようやく気づいた。奈月は、自分がこっそり心春に会っていたことを、ずっと知っていたのだ。おそらく、子どもから父親まで奪っていいのかと考え、あえて止めずにいたのだろう。それなのに、会わせているうちに、とうとう心春は病院へ運ばれることになった。今回の発熱まで慎吾一人の責任とは言えない。それでも、申し訳なさは消えなかった。何か埋め合わせをしたかった。だが離婚後、財産の大半は奈月のものになっている。今さら少しばかり金を渡したところで、奈月が喜ぶとも思えなかった。慎吾は自分の指を強くつねった。皮膚が切れ、血が滲む。突然、口を開いた。「会社を、お前に渡そうか。お前の株も取り戻した。時間があるときに一度戻って、手続きだけしてくれないか」奈月には、もうどうでもよかった。何気なく答える。「現金にしてくれれば
慎吾と再会してから、奈月は彼につきまとわれるようになった。慎吾はもう、答えの出ない問いを繰り返したりはしなかった。ただ黙って、奈月からぎりぎり見えるくらい離れた場所に立ち、遠くから見守っていた。奈月の家の前には、いつの間にか花やお菓子が置かれるようになった。花にはまだ朝露が残り、お菓子はどれも、奈月がこちらへ来る前によく食べていたものばかりだった。奈月は捨てなかった。むしろ、届いたものは全部そのまま受け取った。慎吾が喜ぶ間もなく、今度は自分の口座に金が振り込まれていることに気づいた。奈月にとって慎吾は、ただの買い物代行でしかなかった。あれはもう慎吾からのプレゼントではない。奈月が自分で金を払い、慎吾に買ってこさせたものだった。慎吾は金を返そうとした。けれど奈月は一方的に慎吾をブロックしていて、もう連絡を取る手段が何一つ残っていなかった。次々と振り込まれてくる金を見るたび、慎吾は苛立った。一瞬、自分も奈月をブロックしてしまおうかとさえ思った。けれど、できなかった。そんなことをする気にはなれなかったし、また奈月を傷つけるのも怖かった。奈月はときどき、心春を連れて友人の家へ遊びに行った。奈月が大人同士で話している間、心春はほかの子どもたちと一緒に家の裏の庭へ走っていくことが多かった。慎吾も何度か心春の気を引こうとした。けれど、そのたびに完全に無視された。父親として、慎吾はあまりにも何もしてこなかった。娘の最初の5年間をほとんど一緒に過ごしていない。そんな父親を、今さら自分の生活に入れたくないと思われても当然だった。慎吾は焦らず待つことにした。子どもが喜びそうな人形やぬいぐるみも買った。呼び方も少しずつ変えた。もう「結月」とは呼ばず、奈月と同じように「心春」と呼ぶようになった。けれど、子どもの好き嫌いは、ときに大人の感情よりずっと残酷だった。心春は慎吾からのプレゼントを一度も受け取らなかった。顔を合わせる回数が増えると、ついには眉を寄せて言うようになった。「おじさんのこと、嫌い。今度から、もう来ないでくれる?」慎吾はしばらく呆然と立っていた。やがて心春の前にしゃがみ、目線を合わせる。慎重に尋ねた。「それ……ママに言えって言われたのか?」心春は首を横
奈月の言葉は容赦がなかった。慎吾に少しの逃げ道も残さなかった。奈月は、慎吾がこんなにも傷ついた顔をするところを見たことがなかった。勇気を振り絞って欲しいものをねだったのに、拒まれてしまった子どものようだった。その言葉が、何か恐ろしいものの引き金になった。慎吾は奈月の肩を掴んだ。肩の骨まで砕けそうなほどの力だった。「俺はただ、道を間違えただけだ!家庭を裏切ったつもりなんて一度もない。それなのに、どうしてそこまで冷たくできる?どうして一度くらい、やり直す機会をくれないんだ?奈月、俺たち何年一緒にいたと思ってる?あれだけ長く一緒にいたのに、お前にとってはそんなに軽いものだったのか?」「軽い?」奈月には、慎吾がどうしてそんなことを言えるのか理解できなかった。とうとう感情も声も抑えられなくなり、慎吾に負けないほど強い声で言い返した。「じゃあ教えてよ。あなたにとって、何がそんなに大事なの?私の命も、娘の命も、私たちがどれだけ苦しくて、怖くて、どうしようもなかったかも、あなたにとっては全部、軽いものだったんでしょう?結局、大事なのは自分の気持ちだけなの?前は、あなたのことを分かったつもりでいた。ただ私を愛さなくなって、だから嫌いになったんだって。でも、今になって分かった。やっぱり違った。あなたは私を愛してない。穂香のことだって愛してない。愛してるのは、自分だけ」肩に食い込んでいた力が緩んだ。慎吾の腕が力なく落ちる。奈月は冷たく笑った。「たぶん、あなたは最初から誰のことも愛してなかったんじゃない?私と付き合ったのだって、一緒に仕事をする相手として都合がよかったからでしょう。穂香に惹かれたのも、私がもうあなたの役に立たなくなって、面倒なことばかり言うようになったから。あなたが欲しかったのは、自分の気持ちを受け止めて、細かいことまで何も言わずに片づけてくれる人だったんだよ。最初から最後まで、一番得をしてきたのはあなた。だから今だって、自分がどれだけ苦しいか、どれだけ傷ついたかばかり気にしてる。私がどんな思いでいたかなんて、今まで一度もちゃんと考えたことなかったでしょう?」慎吾は苦しげに顔を歪め、信じられないというように奈月を見た。「どうして……俺がお前を愛してなかったなんて言えるんだ」慎吾は、奈