「その棺を、今すぐ開けてください」 喪主である私が最後の花を手向けようとした、まさにそのときだった。 重い扉が開く音とともに男の声が礼拝堂を横切り、久瀬家の親族も、巨大企業グループの重役たちも、夫の死を嗅ぎつけて集まった報道陣も、一斉に後ろを振り返った。 六月の雨を黒い髪から滴らせながら立っていた男は、弔問客には見えなかった。黒いスーツこそ身につけているものの、ネクタイは緩み、濡れた革靴には泥が跳ね、なにより、死者を悼むために来た人間なら玄関に置いてくるはずの怒りを、隠そうともせずに目の中へ残していた。 私は、その顔を写真でしか知らなかった。「久瀬、朔也……さん」 私の夫、久瀬冬真の異母兄であり、八年前に久瀬家から追放された男。久瀬グループの医療部門で起きた情報漏洩事件の責任を問われ、取締役の地位も、保有していた株式も、家族と名乗る権利さえも奪われた人だった。 義母の雅世が、私のすぐ隣で息を呑んだ。けれど、その動揺はほんの一瞬で、彼女は葬儀の始まる前に私へ言ったときと同じ、背筋まで凍らせるような声を取り戻した。「警備は何をしているのです。この男を外へ出しなさい。冬真の葬儀を、これ以上汚させないで」「汚しているのは俺じゃない。棺の中にいるのが誰なのか確かめもせず、三十分後には焼こうとしている、あなたたちのほうだ」 朔也は歩き出した。警備員が二人、左右から腕をつかもうとしたが、彼は暴れることも怯むこともなく、濡れた上着の内側から一枚の紙を取り出した。「久瀬冬真は、この棺には入っていない」 礼拝堂に、ざわめきが走った。 最前列に並んでいた取締役たちは互いの顔をうかがい、後方ではカメラのシャッター音が雨粒のように重なった。誰かが配信を始めたらしく、広報担当者が青ざめて制止に向かったけれど、一度外へ流れた言葉は、もう久瀬家の力でも棺へ戻すことはできない。 私は白百合を握ったまま、朔也を見つめた。「どういう意味ですか」「言葉どおりの意味です。そこにいるのは弟じゃない」「冬真は四日前、久瀬グループ所有のクルーザーで事故に遭いました。海上保安当局が船内から遺体を収容し、歯の治療記録と所持品で本人だと確認したと、私は説明を受けています」「説明を受けた、ですか。あなた自身は確認していないんですね」 喉の奥が詰まった。 事故を起こしたクルーザーで
Last Updated : 2026-08-11 Read more