私はリビングのラグに腰を下ろし、日記帳の最後のページを開いた。そこには、少し黄ばんだ一枚の便箋が挟まっている。5年前、この手紙を書いた頃は、湖畔に立つ怜司の姿ばかり思い浮かべていた。書斎の扉が開き、怜司がコーヒーカップを手に出てくる。長旅の疲れが残っているのか、眉間にはうっすらとしわが寄っていた。「コーヒーメーカー、水が入ってないけど」「沸かしてないから」私は便箋を折り、日記帳へ戻した。近づいてきた怜司はその手元にちらりと目を落とし、「今日はギャラリーに行かなかったのか?」と尋ねる。「休みを取ったの」それ以上は聞かず、今度は日記帳を見た。「5年前のもの、まだ取ってあるんだな」「うん」「美月、いつまでも昔のことに浸ってないで、前を向いたほうがいい」冷たい水をひと口飲み、怜司はキッチンへ向かう。その背中に、私は静かに声をかけた。「怜司」足を止めた彼が振り返る。「前に言ってた、2000ページの条約草案。もう確認は終わったの?」一瞬、意外そうな顔をしたものの、すぐに「とっくに終わった。去年の案件だ」と返された。「そう」私は立ち上がり、スカートについた糸くずを払う。「去年のバレンタインデーに?」その瞬間、怜司の目が冷たくなった。「何が言いたい?」「別に。ただ、少し気になっただけ」「美月、俺がこっちにいられるのは半月だけだ。その間も内部会議がいくつも入ってる」カップをキッチンカウンターへ置く音が、重く響いた。私はソファに置いていたスマホを手に取りながら、何でもないことのように続ける。「200ページ以上あるフランス語の日記を、あそこまできれいに仕上げるのって、どれくらい時間がかかるのかなって思って」そこで初めて、怜司の表情が変わった。「俺の荷物を勝手に見たのか?」「片づけていたら、防水ケースが落ちたの」「あれは同僚から預かった仕事だ」「仕事?」思わず、乾いた笑いがこぼれた。「スーパーの駐車場で野良猫を見かけたって書いてある外交文書もあるのね」怜司の目に苛立ちが浮かぶ。「あれは宮原瑠奈(みやはら るな)の語学訓練用の資料だ。チームで育てている新人で、フランス語が弱い。主任として、自然な語感を身につけさせるのも俺の仕事なんだ」「私的な日記で?」「生活
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