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自分に読むラブレター

自分に読むラブレター

By:  涼木Completed
Language: Japanese
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私、黒瀬美月(くろせ みづき)は、海外機関で主任翻訳官を務める夫・黒瀬怜司(くろせ れいじ)と、仕事の都合で5年間、離れて暮らしている。 ビデオ通話をつないでも、怜司はいつも仕事に追われ、画面の向こうには赤や青の修正が入った原稿ばかりが映っていた。そんな彼に、私は一度だけ、自分で書いたラブレターをフランス語に訳して読んでほしいと頼んだことがある。 けれど怜司は、送った写真に目を通すこともなく、「2000ページの条約草案を確認しなきゃならない。これはまた今度な」と言ったきり、その話に触れることはなかった。 手紙はそれからずっと、日記帳の最後のページに挟んだままだった。 そんなある日、仕事の報告で久しぶりに帰ってきた怜司の荷物を片づけていた私は、スーツケースの中から一つの防水ケースを見つける。 中に入っていたのは、001から217まで番号が振られたフランス語の原稿だった。最初のページを訳してみると、それは仕事の資料ではなく、ひとりの女性が綴った日記だった。 スーパーの駐車場で野良猫を見かけたこと。そんな何気ない日常の一つ一つが、217ページにわたって丁寧で美しいフランス語に訳されている。 【最後のページには、怜司が送ったメールの写しが挟まっていた。翻訳もレイアウトもすべて終わった、完成した本は翌週パリへ送る】――そのメールが送られたのは、前年のバレンタインデー。 私には「仕事で忙しい」と言っていた夜だった。 しばらくその日付を見つめたあと、私は何も言わず、防水ケースを元の場所へ戻した。 そして、パリ行きの片道航空券を予約する。 ずっと読んでもらえなかった、あのラブレター。 もう怜司に訳してもらう必要はない。 今度は自分の手で訳して、自分のために読むことにした。

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Chapter 1

第1話

私はリビングのラグに腰を下ろし、日記帳の最後のページを開いた。そこには、少し黄ばんだ一枚の便箋が挟まっている。5年前、この手紙を書いた頃は、湖畔に立つ怜司の姿ばかり思い浮かべていた。

書斎の扉が開き、怜司がコーヒーカップを手に出てくる。長旅の疲れが残っているのか、眉間にはうっすらとしわが寄っていた。

「コーヒーメーカー、水が入ってないけど」

「沸かしてないから」

私は便箋を折り、日記帳へ戻した。近づいてきた怜司はその手元にちらりと目を落とし、「今日はギャラリーに行かなかったのか?」と尋ねる。

「休みを取ったの」

それ以上は聞かず、今度は日記帳を見た。

「5年前のもの、まだ取ってあるんだな」

「うん」

「美月、いつまでも昔のことに浸ってないで、前を向いたほうがいい」

冷たい水をひと口飲み、怜司はキッチンへ向かう。その背中に、私は静かに声をかけた。

「怜司」

足を止めた彼が振り返る。

「前に言ってた、2000ページの条約草案。もう確認は終わったの?」

一瞬、意外そうな顔をしたものの、すぐに「とっくに終わった。去年の案件だ」と返された。

「そう」

私は立ち上がり、スカートについた糸くずを払う。

「去年のバレンタインデーに?」

その瞬間、怜司の目が冷たくなった。

「何が言いたい?」

「別に。ただ、少し気になっただけ」

「美月、俺がこっちにいられるのは半月だけだ。その間も内部会議がいくつも入ってる」

カップをキッチンカウンターへ置く音が、重く響いた。私はソファに置いていたスマホを手に取りながら、何でもないことのように続ける。

「200ページ以上あるフランス語の日記を、あそこまできれいに仕上げるのって、どれくらい時間がかかるのかなって思って」

そこで初めて、怜司の表情が変わった。

「俺の荷物を勝手に見たのか?」

「片づけていたら、防水ケースが落ちたの」

「あれは同僚から預かった仕事だ」

「仕事?」

思わず、乾いた笑いがこぼれた。

「スーパーの駐車場で野良猫を見かけたって書いてある外交文書もあるのね」

怜司の目に苛立ちが浮かぶ。

「あれは宮原瑠奈(みやはら るな)の語学訓練用の資料だ。チームで育てている新人で、フランス語が弱い。主任として、自然な語感を身につけさせるのも俺の仕事なんだ」

「私的な日記で?」

「生活に近い文章ほど、自然な表現は身につきやすい」

まるで、何も分かっていない部下へ説明するような口調だった。

「美月はこの業界の人間じゃない。専門的な訓練方法まで分からなくても仕方ない」

「そうね。私には分からないわ」

頷いてから、私は静かに続けた。

「だから、私の手紙には目を通す時間もなかったのに、バレンタインデーの夜を使って、彼女の日記を一冊の本に仕上げる時間はあったのね」

「あれはプロジェクトの仕上げだった!」

怜司の声が一段強くなる。

「瑠奈は翌日からパリの会議へ出る予定だった。あの資料は必要だったんだ。仕事なんだから仕方ないだろう」

また、その言葉だった。

この5年間、いったい何度聞いただろう。熱を出した夜には、「仕事なんだから、病院くらい一人で行ってくれ」誕生日には、「仕事なんだから、ケーキくらい自分で買えるだろう」

私はずっと、その言葉を信じてきた。

あの217ページの、美しく製本された日記を見るまでは。

スマホが鳴ると、怜司は画面を見てすぐに応答した。

「瑠奈」

ベランダへ移った途端、その声が無意識のうちにやわらぐ。

「例の活用形はメールしてある。そう、発音するときは舌の位置に気をつけて。分かった。じゃあ、今夜の食事会で」

通話を終えて戻ってくるなり、怜司は言った。

「今夜、チームの食事会がある。お前も来い」

「行かない」

「美月、意地を張るな。同僚はみんな、お前がこっちにいるのを知ってる。来なかったら、余計な勘繰りをされるだろ」

「周りからどう見られるかのほうが、私の気持ちより大事なの?」

眉をひそめた怜司は、ため息交じりに言った。

「少しは大人になってくれないか」

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第1話
私はリビングのラグに腰を下ろし、日記帳の最後のページを開いた。そこには、少し黄ばんだ一枚の便箋が挟まっている。5年前、この手紙を書いた頃は、湖畔に立つ怜司の姿ばかり思い浮かべていた。書斎の扉が開き、怜司がコーヒーカップを手に出てくる。長旅の疲れが残っているのか、眉間にはうっすらとしわが寄っていた。「コーヒーメーカー、水が入ってないけど」「沸かしてないから」私は便箋を折り、日記帳へ戻した。近づいてきた怜司はその手元にちらりと目を落とし、「今日はギャラリーに行かなかったのか?」と尋ねる。「休みを取ったの」それ以上は聞かず、今度は日記帳を見た。「5年前のもの、まだ取ってあるんだな」「うん」「美月、いつまでも昔のことに浸ってないで、前を向いたほうがいい」冷たい水をひと口飲み、怜司はキッチンへ向かう。その背中に、私は静かに声をかけた。「怜司」足を止めた彼が振り返る。「前に言ってた、2000ページの条約草案。もう確認は終わったの?」一瞬、意外そうな顔をしたものの、すぐに「とっくに終わった。去年の案件だ」と返された。「そう」私は立ち上がり、スカートについた糸くずを払う。「去年のバレンタインデーに?」その瞬間、怜司の目が冷たくなった。「何が言いたい?」「別に。ただ、少し気になっただけ」「美月、俺がこっちにいられるのは半月だけだ。その間も内部会議がいくつも入ってる」カップをキッチンカウンターへ置く音が、重く響いた。私はソファに置いていたスマホを手に取りながら、何でもないことのように続ける。「200ページ以上あるフランス語の日記を、あそこまできれいに仕上げるのって、どれくらい時間がかかるのかなって思って」そこで初めて、怜司の表情が変わった。「俺の荷物を勝手に見たのか?」「片づけていたら、防水ケースが落ちたの」「あれは同僚から預かった仕事だ」「仕事?」思わず、乾いた笑いがこぼれた。「スーパーの駐車場で野良猫を見かけたって書いてある外交文書もあるのね」怜司の目に苛立ちが浮かぶ。「あれは宮原瑠奈(みやはら るな)の語学訓練用の資料だ。チームで育てている新人で、フランス語が弱い。主任として、自然な語感を身につけさせるのも俺の仕事なんだ」「私的な日記で?」「生活
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第2話
怜司は小さく息を吐くと、クローゼットからシャツを取り出した。「19時。高梨千夏(たかなし ちなつ)も来る。支度しておけ」こちらの返事を待つこともなく、そのまま浴室へ入っていく。ほどなくしてシャワーの音が響き始めると、私はソファに置かれた怜司の上着へ目を向けた。襟元から、かすかなウッディ系の香りが漂ってくる。私が使っている香水ではない。スマホを手に取り、航空会社のアプリを開く。パリ行きの片道航空券を予約するのに、迷いはなかった。……19時、私たちはインターコンチネンタルホテルの個室にいた。長いテーブルを囲んでいるのは、海外機関で働く翻訳官たちと、その家族だった。左隣では千夏がエビの殻をむき、右隣には怜司、向かいには瑠奈が座っている。瑠奈は白いブラウスに身を包み、長い髪をゆるくまとめていた。薄化粧に見えるよう丁寧に整えられたメイクまで、どこにも隙がない。「怜司さん、これは私から」ワイングラスを持ち上げた瑠奈は、流暢なフランス語で乾杯の言葉を口にした。発音はきれいだった。怜司もグラスを上げ、軽く触れ合わせる。「前よりよくなった。ただ、鼻母音はもう少し抑えられる」「やっぱり主任は厳しいですね」瑠奈は舌を出し、無邪気そうに笑った。テーブルでは欧州での暮らしや業界の話で盛り上がっていたが、私は会話に加わることなく、静かに料理へ箸を伸ばしていた。「美月さん」ふと瑠奈に名前を呼ばれ、周囲の視線が一斉にこちらへ向く。「大学でフランス語を勉強していたって聞きました」「副専攻で少しだけ」「じゃあ、ちょうどよかった」瑠奈はバッグから深緑色の上製本を取り出し、怜司の前へ滑らせた。「この前、怜司さんに整えてもらった日記の見本が届いたんです」私の視線は、自然とその本へ吸い寄せられた。表紙には金色のフランス語が印刷されている。あの防水ケースに入っていた原稿と、まったく同じだった。「紙の感じ、どうですか?よくなければ刷り直してもらいます」怜司は本を手に取り、数ページめくった。「少し薄いな。もう少し厚みのある紙のほうが合う」「やっぱり。怜司さんに聞いて正解でした」嬉しそうに笑った瑠奈は、そのまま私へ顔を向けた。「美月さん、怜司さんって本当に細かいところまで見てくださるんですよ。私の日記なんて
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第3話
怜司は何気ない手つきでエビを2尾取り、自分の皿へ置くと、使い捨ての手袋をつけて慣れた様子で殻をむき始めた。付き合い始めた頃、私にも同じことをしてくれた。「美月、俺がいるときくらい、自分でむかなくていい」あの頃は、そう言って笑っていた。むき終えたエビを取り箸でつまみ上げた怜司の手は、私の前を通り過ぎ、そのまま向かいに座る瑠奈の皿へ向かった。「この前、キーボードの打ちすぎで手首の腱鞘炎が出ただろう。無理してむくな」あまりにも自然な口ぶりだった。まるで、それが当たり前の気遣いであるかのように。瑠奈の頬がほんのり赤くなる。「ありがとうございます、怜司さん」千夏が息をのみ、信じられないものを見るように私へ目を向けた。私は何も乗っていない自分の小皿を見つめているうちに、急に胃の奥が重くなる。「少し席を外すね」椅子を引き、廊下の奥にある化粧室へ向かった。冷たい水で顔を洗うと、鏡の中の自分は思った以上に青ざめている。そこへ扉が開き、瑠奈が入ってきた。隣の洗面台で水を出しながら、鏡越しにこちらを見る。「美月さん、怜司さんを責めないでくださいね。あの人、仕事に集中すると、身近な人への気遣いまで回らなくなるんです」身近な人。その言葉だけが、妙に耳に残った。「ずいぶん、怜司のことを分かっているのね」「ジュネーブでは2年間、毎日のように一緒に仕事をしてきましたから」瑠奈はペーパータオルを一枚取り、指先をゆっくり拭きながら続ける。「怜司さんは、私と呼吸を合わせて働くことに慣れているんです。美月さんは5年間そばにいなかったんだから、急に生活へ戻ってこられて戸惑うのも無理ないと思いますよ」そう言ってこちらへ向き直り、まっすぐ目を合わせてきた。「私が美月さんなら、こんなことで感情的になったりしません。怜司さん、物分かりの悪い女性が苦手ですから」その顔には、挑発を隠そうとする気配すらない。「あなたの日記、よくできてたわ。完成版がパリに届いたら、何冊か余分に刷っておいたら?」瑠奈が目を瞬く。「2年間、毎日のように一緒にいた証なんでしょう。大切に残しておけばいいわ」それだけ告げ、私はペーパータオルを捨てて化粧室を出た。翌日、ギャラリーのオーナーから電話がかかってきた。「美月、パリから18世紀美術
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第4話
「出かけるの?」「瑠奈のほうで、少し厄介なことになった」靴を履きながら、怜司は短く答えた。「フランス代表団に同行してるんだが、通訳で致命的なミスをしたらしい。相手がかなり怒っていて、このままだと協議そのものが流れかねない」「今、午前1時よ」「向こうはまだ午後だ。時差がある」そう言いながら、怜司は玄関の扉へ手をかける。「会社のオンライン会議室へ行く。今すぐ調整しないと間に合わない」「私の書類は?」気づけば、私は扉の前へ回り込んでいた。「今夜、見てくれるって約束したでしょう」怜司は眉をひそめ、隠す気もない苛立ちをこちらへ向けた。「美月、今どっちを優先すべきか、それくらい分かるだろ」「優先すべきって……?」「瑠奈の件は国際協力に関わる案件だ。ここで交渉がこじれたら、迷惑を被るのは一人や二人じゃない」次第に声が強くなる。「お前の展覧会の書類なら、少し返事が遅れたくらいで、何もかも駄目になるわけじゃないだろ」「でも、明日の朝9時までにパリへ返せなかったら、私は今回の仕事を失うの」感情を抑え、ただ事実だけを伝えた。「私にとっては、大事な仕事なの」「お前の仕事?」怜司はかすかに笑った。「小さなギャラリーで雑用をしてるのが、そこまで大層な仕事か?」その言葉は、すぐには痛みに変わらなかった。ただ、冷たいものが胸の奥へ沈んでいく。「今は、そんなおままごとに付き合ってる場合じゃない」怜司に押しのけられ、肩が扉の枠へぶつかった。強い力ではなかったはずなのに、鈍い痛みがじわりと広がる。「交渉が片づいたら、朝戻って見る」そう言い残し、扉は目の前で閉ざされた。静まり返った廊下で、私はしばらく動けなかった。やがて扉へ背を預けたまま、ゆっくりと床へ座り込む。おままごと。怜司にとって、この5年間ひとりで積み重ねてきた私の仕事は、その程度のものだったらしい。けれど瑠奈の失敗には、何を置いても駆けつけるだけの価値がある。しばらくして立ち上がり、書斎へ戻った。パソコンの画面はまだついたままだった。メールを開くと、私が送った古フランス語の書類は受信箱に残されている。未読。一度も開かれていなかった。その一方で、送信済みメールの一番上には、ほんの1分前に送られた一通が並んでい
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第5話
ノートには、高度な翻訳技法や間違えやすい言葉が、余白もないほどびっしりと書き込まれていた。怜司がジュネーブ勤務の採用通知を受け取った日、彼はこのノートを私へ差し出した。「美月、これが今の俺の全財産だ」あの日の怜司は、目を輝かせていた。「俺の大切なものを預けられるのは、一番大切な人だけだ。帰ってきたら、ちゃんと迎えに行く」私はその言葉ごと、ノートを宝物のように大切にしてきた。自分でカバーをかけ、防湿ケースに入れ、ほこりひとつつかないよう気を配っていた。けれど今、そこに残っている言葉を見ても、胸に浮かぶのは皮肉な思いだけだった。大切なもの。かつて私に向けてくれた純粋な気持ちは、いつの間にか、別の女の日記を丁寧に仕上げるための熱意に変わっていた。私はノートを取り出し、自分の手でつけたカバーを外した。配送用の防水袋へ入れ、宛名には瑠奈の名前と住所を書く。急ぎの集荷を頼むと、30分ほどして荷物は持っていかれた。スーツケースを引き、玄関に立つ。最後に部屋を見渡すと、テーブルには昨夜怜司が飲み残した水があり、ソファには脱いだままの上着が残っていた。私は左手から結婚指輪を外し、玄関の小さなトレイへ置いた。金属が触れ合う澄んだ音が、静かな部屋に小さく響く。手紙も、メモも残さなかった。扉を開け、そのまま家を出る。空港へ向かう車の中で、千夏へメッセージを送った。【パリへ行ってくる】返事はすぐに届いた。【本気で決めたの?あの男に一言くらい言ってやらなくていいの?】【もういい。言い争っても意味がないし、惨めになるだけだから】窓の外では、見慣れた景色が後ろへ流れていく。そのとき、スマホが激しく震えた。画面に表示された怜司の名前をしばらく見つめてから、通話ボタンを押す。向こうは騒がしく、近くで誰かが話す声も聞こえた。「美月、何を考えてるんだ?今、オンライン会議が終わった。昨夜から一睡もしてない。いったい何がしたい?」徹夜明けらしい疲れと、抑えきれない苛立ちが声に混じっている。私は何も答えなかった。「怜司さん……」すぐそばから、瑠奈の遠慮がちな声が聞こえる。「これ、美月さんから届いたみたいなんですけど……」どうやら瑠奈は、怜司のすぐ近くにいるらしい。「何が届いた?」「急ぎの荷物で
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第6話
怜司がどれほどの勢いで家へ戻ったのか、私は知らない。あとから千夏が、メッセージアプリでその一部始終を教えてくれた。【美月、あの最低男、今すごいことになってるよ】送られてきた長い音声の向こうでは、何かを壊すような音まで響いていた。【家に飛び込んで、美月の物が全部なくなってるのを見た瞬間、私に電話してきたの。もちろん、どこにいるかなんて知らないって言ったけど】【そしたら今度は職場まで来て待ってたのよ。目なんて真っ赤で、もう完全に余裕なくしてた】私はシャルル・ド・ゴール空港の待合ロビーでイヤホンをつけ、千夏の声を静かに聞いていた。【実家に戻ったのかって聞くから、知るわけないでしょって突っぱねてやった。ついでに、後輩の日記でも直してればって。美月はもう家も引き払ったって伝えたら、どうなったと思う?】【その場で固まって、「昨日まで俺に書類を頼んでたのに」って、ずっとそればっかり言ってた】昨日まで頼っていたのだから、今日も離れていかない。怜司は、きっとそう思っていたのだろう。何度傷つけても、私は自分で気持ちをのみ込み、最後には同じ場所で待っている。彼にとって私は、ずっとそんな存在だった。思わず小さく笑い、千夏へ返信する。【あれ、見つけた?】【見つけたよ】返事はすぐに届いた。【パソコンの履歴も見たみたい。古フランス語の書類を、美月が自分で最後まで訳したことも分かったって】その頃、怜司は誰もいない家に立ち尽くしていた。玄関のトレイには私が置いていった結婚指輪、書斎の机には一枚の紙が残されている。家を出る前、最後に置いてきたものだった。責める言葉も、恨み言も書かず、彼がどこへ時間を使ってきたのかを数字にして並べただけだ。【3年間、1095日。瑠奈の私的な文章の編集と製本に使った時間312時間】【瑠奈の服や香水選びに付き合った時間48時間】【私の誕生日に使った時間0時間】【私が頼んだ緊急書類の確認に使った時間0時間】一番下には、一文だけ添えた。【黒瀬主任。数字は嘘をつきません。誰に時間を使ったかを見れば、心がどこにあったのかも分かります】どれだけ泣いて責めるより、そのほうが怜司には伝わると思った。彼が何より信じてきた、数字と事実だけを残したのだから。やがて、千夏から最後の音声メッセージが届い
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第7話
「美月さんも、あんなことで家を出るなんて。少し感情的すぎませんか?」怜司はゆっくり顔を上げ、充血した目で瑠奈を見た。「あんなこと?」「だって、そうでしょう?私の日記を本にしたのが気に入らなかっただけじゃないですか。でも、あれは仕事ですし。それに……」そこで言葉を切った瑠奈の目に、隠しきれない喜びがにじむ。「美月さんがいなくなったなら、怜司さんももう行ったり来たりしなくて済みますよね。これからは、もっと私のことを見てもらえるし。明日の会議資料も、また一緒に作ってもらえませんか?」その一言で、何かが切れた。怜司は目の前の無邪気そうな顔を見つめながら、初めてはっきりと嫌悪を覚えた。この女を優先するあまり、5年間そばにいてくれた美月を、どれほどないがしろにしてきたのか。それなのに瑠奈は少しも悪びれず、これからも当然のように自分の時間を求めている。「出ていけ」かすれた声に、瑠奈は戸惑って袖へ手を伸ばした。「怜司さん?」「出ていけって言ってるんだ!」怜司はその手を振り払い、立ち上がると玄関を指した。「このノートは……俺が何も持ってなかった頃、美月と一緒に夜遅くまで勉強して、少しずつ書きためたものだ。お前が勝手に触っていいものじゃない」瑠奈の顔から、さっと血の気が引く。「怜司さん、そんな……私だって、仕事のために……」「仕事?」怜司は笑った。けれど、その目には涙が浮かんでいた。「俺は本当に馬鹿だった。そんな言葉を、5年も言い訳にしてきたんだからな」机へ向かい、古フランス語の書類を手に取る。「美月が、どうしてこれを急いでたか分かるか?」紙の束を瑠奈の前へ放ると、書類が床へ散らばった。「パリへ行くためだ。自分の仕事を持つためだ。それなのに俺は、お前の通訳ミスをどうにかするために、美月をひとりで徹夜させた!」翌日、怜司は瑠奈を家から追い出すと、ジュネーブ本部にも正式な報告を入れたという。この2年間の業務上の問題点や、職務上の立場を私的な相談に使っていたことまで改めて確認され、その結果、瑠奈は主要案件から外され、補助的な校正業務へ回された。泣きながら怜司を訪ねても、執務室へ通してもらえなかったらしい。どれも、あとになって人づてに聞いた話だったが、聞いても心は動かなかった。もう、今さ
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第8話
振り返ると、展示室の入口に怜司が立っていた。ひどく痩せ、頬はこけている。顔には拭いきれない疲れがにじみ、黒いコートの腕には花束を抱えていた。桔梗だった。私が一番好きな花。けれど昔の怜司は、そのことを一度も覚えようとはしなかった。ある年のバレンタインデーには赤いバラを買ってきて、花粉が苦手だし、赤いバラは少し派手すぎると伝えると、「花を買ってきただけでも十分だろ。細かいこと言うなよ」と面倒そうに返された。今になって、ようやく私の好きな花を選べるようになったらしい。でも、もう必要なかった。怜司はただまっすぐに私を見つめていた。その目に浮かんでいるのは、これまで見たことのない弱さと、縋るような願いだった。こちらへ歩き出そうとした怜司から視線を外し、話していたフランス人コレクターへ短く断りを入れる。そのまま、別の展示スペースへ向かった。逃げたわけではない。ただ、そこに怜司がいないものとして振る舞っただけだ。彼はその場に立ち尽くしていた。桔梗の花束を抱えた姿は、行き先を失った客のようにも見えた。展覧会が終わるまで、怜司は帰らなかった。会場の隅から、私が来場者の間を歩き、フランス語で言葉を交わす姿を、ずっと見つめていた。最後の客を見送り、休憩スペースへコートを取りに行くと、そこでようやく怜司が近づいてきた。「美月」低い声には、こちらの反応をうかがうような慎重さがあった。私は手を止め、振り返る。「黒瀬さん。展覧会はもう終了しました。作品のご購入でしたら、担当者へお問い合わせください」ほかの来場者にするのと変わらない口調で告げると、怜司の顔からさっと血の気が引いた。「美月……その呼び方はやめてくれ」一歩近づき、私の手に触れようとしたため、半歩だけ下がった。「じゃあ、ほかに何て呼べばいいの?」静かに見返すと、怜司は息をのみ、目を赤くした。「瑠奈は外した。主要案件からも外した。今なら分かる。あいつがどういう人間だったのかも、俺がどれだけ間違ってたのかも」焦るように言葉を重ねる。「美月、許してくれないか。もう一度、やり直したい」必死になって言葉を並べる姿を見ているうちに、かえって気持ちは冷えていった。「瑠奈をどうしたかなんて、私には関係ないでしょう?」「美月……」「怜司。彼女を
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第9話
「美月」怜司が一歩横へ動き、扉の前を塞ぐ。距離は近かった。「10分だけくれ」徹夜のせいか、声はひどくかすれていたが、それでももう一度、「10分でいい」と繰り返した。鍵を差し込んだまま、私は手を止めて顔を上げる。「怜司。そんなふうに付きまとうなんて、あなたらしくないわね。昔は人に時間を無駄にされるのが一番嫌いだったでしょう。会議に3分遅れただけで、帰ったこともあったじゃない」怜司はわずかに喉を鳴らし、それから赤く充血した目で私を見つめた。「今の俺の時間は、全部お前に使う」そう言って差し出されたのは、分厚い封筒だった。風にあおられ、紙の端がかすかに震えている。「ジュネーブ本部へ出した退職届の控えだ。主任翻訳官を辞めた」鍵に添えた指が、ほんの一瞬だけ止まった。ジュネーブ本部の主任翻訳官――28歳の頃から怜司が務め、長いあいだ誇りにしてきた肩書きであり、何度も私を後回しにする理由として口にしてきた仕事でもあった。【今は忙しい】【この原稿を終わらせないといけない】【重要な会議がある】【この仕事がどれだけ大事か分かるだろう】その仕事を、彼は手放した。少し前の私なら想像もできなかっただろう。それでも驚きは一瞬で、私は差し出された封筒に手を伸ばさなかった。怜司はポケットから濃紺の小さなケースを取り出す。指が震えていて、蓋を開ける手元さえ危うかった。中に収まっていたのは、ダイヤの指輪だった。有名ブランドの限定品らしく、曇った朝の光の中でも、その石だけが冷たく輝いている。そのデザインには見覚えがあった。2年前、雑誌で見かけて、何気なくページの端を折ったことがある。「前に、指輪は一緒に店へ行って選びたいって言ってたよな」怜司は私の顔を見つめたまま、続ける。「あの時は、面倒がって悪かった。式も新婚旅行も、仕事が落ち着いてからでいいって、ずっと後回しにした」指輪ケースを少しこちらへ差し出し、息をのみ込むようにして言った。「美月。ジュネーブの仕事は全部手放した。俺、パリに残る。お前がキュレーターとして働くなら、俺は翻訳でも助手でも、何でもする。そばにいさせてもらえるなら、それでいい」光る指輪と、別人のようにやつれた怜司の顔を見つめる。雲の切れ間から差した朝の光が、彼の肩にも、指輪にも、退職届の入
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第10話
怜司は、息を止めたように動きを止めた。「高熱を出して、ひとりで病院へ行った夜。点滴を受けながら何回電話しても、出てもらえなかった美月も、もういない」ケースを持つ怜司の手が激しく震え、その拍子に指輪がかすかな音を立てる。「あなたのお母様の葬儀でもそうだった。私がひとりで最後まで対応しているのに、あなたは仕事の電話一本で先に帰った。あのときの美月も、もういないの」私は退職届の入った封筒へ視線を移した。「仕事を辞めたのだって、あの場所で、自分が以前のように完璧ではいられないと気づいたからでしょう。同時通訳の速度が落ちて、後輩たちがすぐ後ろまで追いついてきたから」少し間を置いて、続ける。「あれほど誇っていた肩書きだって、もうあなたの自信を支えきれなくなった。だから手放しただけ」次に、指輪へ目を落とした。「それを買ったのも、今度こそ本当に私を失うって、やっと実感が湧いたからでしょう。もう私は、傷ついたことを自分でのみ込んで、何もなかった顔でミルクを温めながらあなたを待つことはない。ようやく、それが分かっただけよ」怜司をまっすぐ見る。「あなたがずっと愛していたのは、あなた自身よ」「仕事も、肩書きも、予定表も、罪悪感も。それに、今ここで必死になっている自分自身も――」そこで言葉を止めると、朝の風が私たちのあいだを抜けていった。「全部、あなた自身の問題よ。もう私には関係ない」怜司は何も言えないまま立ち尽くし、指輪のケースを差し出した姿勢のまま、唇だけがわずかに動いていた。私は鍵を回してガラス扉を開ける。中から、いつもの絵の具や溶剤の匂いが流れてきた。背後から追ってくる足音はない。「10分、終わったわ」振り返らずに告げる。「もう帰って」そのまま扉を閉めた。ガラス越しに、怜司はまだ同じ場所に立っていた。風にコートの裾を揺らし、ケースを差し出したまま。私はギャラリーの奥へ歩いていき、それきり窓の外には目を向けなかった。それから数日、怜司は姿を見せなかった。パリを離れ、国内に残っている最後の手続きを済ませるために一度帰国することになった日、ギャラリーを出ると細い雨が降っていた。傘を開き、何気なく振り返る。雨の中に、怜司が立っていた。傘も差さず、髪は濡れて額へ張りつき、全身びし
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