LOGIN私、黒瀬美月(くろせ みづき)は、海外機関で主任翻訳官を務める夫・黒瀬怜司(くろせ れいじ)と、仕事の都合で5年間、離れて暮らしている。 ビデオ通話をつないでも、怜司はいつも仕事に追われ、画面の向こうには赤や青の修正が入った原稿ばかりが映っていた。そんな彼に、私は一度だけ、自分で書いたラブレターをフランス語に訳して読んでほしいと頼んだことがある。 けれど怜司は、送った写真に目を通すこともなく、「2000ページの条約草案を確認しなきゃならない。これはまた今度な」と言ったきり、その話に触れることはなかった。 手紙はそれからずっと、日記帳の最後のページに挟んだままだった。 そんなある日、仕事の報告で久しぶりに帰ってきた怜司の荷物を片づけていた私は、スーツケースの中から一つの防水ケースを見つける。 中に入っていたのは、001から217まで番号が振られたフランス語の原稿だった。最初のページを訳してみると、それは仕事の資料ではなく、ひとりの女性が綴った日記だった。 スーパーの駐車場で野良猫を見かけたこと。そんな何気ない日常の一つ一つが、217ページにわたって丁寧で美しいフランス語に訳されている。 【最後のページには、怜司が送ったメールの写しが挟まっていた。翻訳もレイアウトもすべて終わった、完成した本は翌週パリへ送る】――そのメールが送られたのは、前年のバレンタインデー。 私には「仕事で忙しい」と言っていた夜だった。 しばらくその日付を見つめたあと、私は何も言わず、防水ケースを元の場所へ戻した。 そして、パリ行きの片道航空券を予約する。 ずっと読んでもらえなかった、あのラブレター。 もう怜司に訳してもらう必要はない。 今度は自分の手で訳して、自分のために読むことにした。
View More「美月。フランス語で読んだ」雨の中、怜司は片膝をついたまま私を見上げていた。その目に浮かんでいるのは、絶望に近い懇願だった。「聞きたかったんだろう?本当に反省したよ。今度こそちゃんと向き合うから……頼む。もう一度だけ、機会をくれ」私は傘を差したまま、何も言わずに怜司を見下ろした。5年前、自信に満ち、自分の判断を疑うことさえなかった主任翻訳官が、今は自分で壊した関係にすがっている。それでも私は近づかず、手も差し伸べないまま、バッグから一枚の書類を取り出して怜司へ差し出した。離婚届だった。私の欄には、すでに署名してある。「怜司」目を合わせ、静かに告げる。「5年も遅れたのよ」怜司の瞳が大きく揺れた。「この手紙なら、ずっと前に自分で辞書を引いて、一語ずつ訳したわ。もう、自分に読んだの」離婚届を、怜司が握るラブレターの上へ重ねる。「署名して。最後まで、あなたを見損ないたくないの」それだけを残して背を向けた。水たまりを踏みながら歩き出しても、振り返らない。背中に怜司の視線を感じたまま角を曲がったが、追ってくる足音はなかった。ようやく分かったのだろう。本当に、私を失ったのだと。帰国して3日目、パリから荷物が届いた。差出人は怜司だった。ベランダの椅子に腰を下ろし、カッターでテープを切る。以前なら、中身が気になって手が震えたかもしれない。けれど今は、事務書類でも開くような気持ちで箱を開けた。中に入っていたのは、署名済みの離婚届だった。私の名前の隣には怜司の署名があり、力を込めすぎたのか、文字はわずかに乱れている。ほかには、以前の家に置き忘れていた予備の鍵と、小さなベルベットの箱が入っていた。蓋を開ける。あの高価なダイヤの指輪でもなければ、以前の出張先で何となく買ってきた冷蔵庫用のマグネットでもない。そこに収まっていたのは、手作りらしい銀色のブローチだった。形は、桔梗の花びら。小さなメモが添えられている。【美月へ。自分で作った。誰のためでもなく、お前のためだけに】【これからの人生が、幸せでありますように。今までごめん】私はしばらく、銀色の光を見つめていた。胸の奥がほんのわずかに揺れたものの、感動したわけでも、昔の気持ちが戻ったわけでもない。ただ、少しだけ苦く、切なかった。5年
怜司は、息を止めたように動きを止めた。「高熱を出して、ひとりで病院へ行った夜。点滴を受けながら何回電話しても、出てもらえなかった美月も、もういない」ケースを持つ怜司の手が激しく震え、その拍子に指輪がかすかな音を立てる。「あなたのお母様の葬儀でもそうだった。私がひとりで最後まで対応しているのに、あなたは仕事の電話一本で先に帰った。あのときの美月も、もういないの」私は退職届の入った封筒へ視線を移した。「仕事を辞めたのだって、あの場所で、自分が以前のように完璧ではいられないと気づいたからでしょう。同時通訳の速度が落ちて、後輩たちがすぐ後ろまで追いついてきたから」少し間を置いて、続ける。「あれほど誇っていた肩書きだって、もうあなたの自信を支えきれなくなった。だから手放しただけ」次に、指輪へ目を落とした。「それを買ったのも、今度こそ本当に私を失うって、やっと実感が湧いたからでしょう。もう私は、傷ついたことを自分でのみ込んで、何もなかった顔でミルクを温めながらあなたを待つことはない。ようやく、それが分かっただけよ」怜司をまっすぐ見る。「あなたがずっと愛していたのは、あなた自身よ」「仕事も、肩書きも、予定表も、罪悪感も。それに、今ここで必死になっている自分自身も――」そこで言葉を止めると、朝の風が私たちのあいだを抜けていった。「全部、あなた自身の問題よ。もう私には関係ない」怜司は何も言えないまま立ち尽くし、指輪のケースを差し出した姿勢のまま、唇だけがわずかに動いていた。私は鍵を回してガラス扉を開ける。中から、いつもの絵の具や溶剤の匂いが流れてきた。背後から追ってくる足音はない。「10分、終わったわ」振り返らずに告げる。「もう帰って」そのまま扉を閉めた。ガラス越しに、怜司はまだ同じ場所に立っていた。風にコートの裾を揺らし、ケースを差し出したまま。私はギャラリーの奥へ歩いていき、それきり窓の外には目を向けなかった。それから数日、怜司は姿を見せなかった。パリを離れ、国内に残っている最後の手続きを済ませるために一度帰国することになった日、ギャラリーを出ると細い雨が降っていた。傘を開き、何気なく振り返る。雨の中に、怜司が立っていた。傘も差さず、髪は濡れて額へ張りつき、全身びし
「美月」怜司が一歩横へ動き、扉の前を塞ぐ。距離は近かった。「10分だけくれ」徹夜のせいか、声はひどくかすれていたが、それでももう一度、「10分でいい」と繰り返した。鍵を差し込んだまま、私は手を止めて顔を上げる。「怜司。そんなふうに付きまとうなんて、あなたらしくないわね。昔は人に時間を無駄にされるのが一番嫌いだったでしょう。会議に3分遅れただけで、帰ったこともあったじゃない」怜司はわずかに喉を鳴らし、それから赤く充血した目で私を見つめた。「今の俺の時間は、全部お前に使う」そう言って差し出されたのは、分厚い封筒だった。風にあおられ、紙の端がかすかに震えている。「ジュネーブ本部へ出した退職届の控えだ。主任翻訳官を辞めた」鍵に添えた指が、ほんの一瞬だけ止まった。ジュネーブ本部の主任翻訳官――28歳の頃から怜司が務め、長いあいだ誇りにしてきた肩書きであり、何度も私を後回しにする理由として口にしてきた仕事でもあった。【今は忙しい】【この原稿を終わらせないといけない】【重要な会議がある】【この仕事がどれだけ大事か分かるだろう】その仕事を、彼は手放した。少し前の私なら想像もできなかっただろう。それでも驚きは一瞬で、私は差し出された封筒に手を伸ばさなかった。怜司はポケットから濃紺の小さなケースを取り出す。指が震えていて、蓋を開ける手元さえ危うかった。中に収まっていたのは、ダイヤの指輪だった。有名ブランドの限定品らしく、曇った朝の光の中でも、その石だけが冷たく輝いている。そのデザインには見覚えがあった。2年前、雑誌で見かけて、何気なくページの端を折ったことがある。「前に、指輪は一緒に店へ行って選びたいって言ってたよな」怜司は私の顔を見つめたまま、続ける。「あの時は、面倒がって悪かった。式も新婚旅行も、仕事が落ち着いてからでいいって、ずっと後回しにした」指輪ケースを少しこちらへ差し出し、息をのみ込むようにして言った。「美月。ジュネーブの仕事は全部手放した。俺、パリに残る。お前がキュレーターとして働くなら、俺は翻訳でも助手でも、何でもする。そばにいさせてもらえるなら、それでいい」光る指輪と、別人のようにやつれた怜司の顔を見つめる。雲の切れ間から差した朝の光が、彼の肩にも、指輪にも、退職届の入
振り返ると、展示室の入口に怜司が立っていた。ひどく痩せ、頬はこけている。顔には拭いきれない疲れがにじみ、黒いコートの腕には花束を抱えていた。桔梗だった。私が一番好きな花。けれど昔の怜司は、そのことを一度も覚えようとはしなかった。ある年のバレンタインデーには赤いバラを買ってきて、花粉が苦手だし、赤いバラは少し派手すぎると伝えると、「花を買ってきただけでも十分だろ。細かいこと言うなよ」と面倒そうに返された。今になって、ようやく私の好きな花を選べるようになったらしい。でも、もう必要なかった。怜司はただまっすぐに私を見つめていた。その目に浮かんでいるのは、これまで見たことのない弱さと、縋るような願いだった。こちらへ歩き出そうとした怜司から視線を外し、話していたフランス人コレクターへ短く断りを入れる。そのまま、別の展示スペースへ向かった。逃げたわけではない。ただ、そこに怜司がいないものとして振る舞っただけだ。彼はその場に立ち尽くしていた。桔梗の花束を抱えた姿は、行き先を失った客のようにも見えた。展覧会が終わるまで、怜司は帰らなかった。会場の隅から、私が来場者の間を歩き、フランス語で言葉を交わす姿を、ずっと見つめていた。最後の客を見送り、休憩スペースへコートを取りに行くと、そこでようやく怜司が近づいてきた。「美月」低い声には、こちらの反応をうかがうような慎重さがあった。私は手を止め、振り返る。「黒瀬さん。展覧会はもう終了しました。作品のご購入でしたら、担当者へお問い合わせください」ほかの来場者にするのと変わらない口調で告げると、怜司の顔からさっと血の気が引いた。「美月……その呼び方はやめてくれ」一歩近づき、私の手に触れようとしたため、半歩だけ下がった。「じゃあ、ほかに何て呼べばいいの?」静かに見返すと、怜司は息をのみ、目を赤くした。「瑠奈は外した。主要案件からも外した。今なら分かる。あいつがどういう人間だったのかも、俺がどれだけ間違ってたのかも」焦るように言葉を重ねる。「美月、許してくれないか。もう一度、やり直したい」必死になって言葉を並べる姿を見ているうちに、かえって気持ちは冷えていった。「瑠奈をどうしたかなんて、私には関係ないでしょう?」「美月……」「怜司。彼女を