All Chapters of 心を閉ざして家出したら、家族全員が死ぬほど後悔した: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

私は、その場に立ち尽くしていた。悲しみと絶望が押し寄せ、今にも呑み込まれてしまいそうだった。折れた脚からは、今も血がにじんでいる。それでも、傷の痛みさえ霞むほど、息が詰まりそうだった。行方不明のはずの緋奈は、ダイヤモンドを散りばめたオートクチュールのドレスに身を包み、大勢に囲まれたその中心で、晴れやかな笑みを浮かべていた。祖母が亡くなる前、私に手渡してくれたエメラルドのネックレスまで、今は緋奈の首元にある。その深い緑が、彼女の気品をいっそう引き立てていた。父は、緋奈を見つめて目を細めている。その眼差しには、隠しようのない慈しみがあふれていた。母は緋奈の頬をそっと包み、親指で愛おしむように撫でた。見つめる目はどこまでも柔らかく、口元には優しい笑みが宿っている。そして、私の婚約者の蓮は、緋奈の腰を抱いていた。蓮が耳元で何かを囁くと、緋奈の耳がほんのり赤く染まる。蓮はそのまま身をかがめてドレスの裾を整え、やがてマイクを手に取った。「俺から緋奈へのプレゼントは、島だ。『念緋』と名づけた。大切な緋奈が無事に帰ってきてくれた、その記念にな」あまりに甘やかな口ぶりに、胸がきつく締めつけられた。緋奈は恥ずかしそうに蓮の胸元へ身を寄せ、会場からはどっと囃し立てる声が上がる。すぐそばで交わされる招待客たちの声が、嫌でも耳に入ってくる。「緋奈さん、クスタニアで行方不明になったって聞いたけど、3日目にはもう桐生さんが専用機を飛ばして迎えに行ったんですって」「藤宮夫妻も、この3か月はずっと緋奈さんにつきっきりだったそうよ。会社の株主総会にまで出なかったとか」「蓮さんだって、あの仕事人間が数百億円規模の買収案件まで延期したのよ。毎日あれこれ考えて緋奈さんを元気づけてたっていうんだから、よほど大事なのね」招待客たちの何気ない会話から、私の知らなかった3か月が容赦なく明らかになっていく。つまり、私が被災地へ戻って緋奈を捜し始めた頃には、緋奈はもう家にいたのだ。それなのに、誰からも知らせはなかった。私を捜しに来る人も、ひとりとしていなかった。強盗や暴動があちこちで起きていると知りながら、誰も何も告げず、私はたったひとり、3か月ものあいだ緋奈を捜し続けていた。死の淵を何度もくぐり抜け、どうにか生き延びてきた。全身の傷が熱を
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第2話

警備員に襟元をつかまれ、背中へ警棒を押しつけられた。「こんなところに忍び込んで、盗みでもするつもりか?」違うと言いたくても、痛みのせいで声にならず、かすかな息を漏らすのがやっとだった。クスタニアで生き延びるため、顔には煤を塗り、かつらをかぶり、拾ったぼろ布を身にまとっていた。緋奈の手がかりを一刻も早く家族へ知らせたくて、着替えることさえ忘れ、そのままここへ駆け戻ってきたのだ。こんな姿では、浮浪者と間違われても仕方がない。「あっ……!」肩甲骨へ再び警棒がめり込み、声が漏れた。賑わっていた宴会場が、ふっと静まり返る。集まった視線の先で、蓮が眉をひそめた。「何を騒いでる?」緋奈の腰を抱いた腕はそのままに、蓮は私へ一瞥をくれた。その眼差しは、汚れたものを見るように冷たい。「警備は何してるんだ。こんなのを中に入れるなよ」必死に口を動かしても、傷めた喉から出るのは掠れた音ばかりだった。「うるさい。さっさと片づけろ」せめて顔を見せようとかつらへ手を伸ばした瞬間、警備員に手首をねじ上げられた。続けざまにナプキンを口へ押し込まれ、粗い布が歯の間に食い込む。「静かにしろ!」声まで奪われた私は、床を這うようにして両親のほうへ近づこうとした。父は緋奈の皿に料理を取り分けていたが、こちらに気づくなり眉をひそめた。「目障りだ。外へつまみ出せ」その声には、迷いひとつなかった。「痛い目を見せて、二度とここへ来させるな」警備員がすぐに私を引きずり始める。必死に抵抗し、つかまれた腕へ爪を立てた。「何してるのよ!」緋奈が苛立たしげにグラスを置いた。「いつまで手間取ってるの?早く追い出してよ。せっかくの誕生日なのに、こんな騒ぎで雰囲気が台なしじゃない!」「緋奈、そんなに怒らないの」母はすぐに緋奈を抱き寄せ、背中をあやすように撫でた。けれど、私へ向けられた目には一片の温かさもない。私はただ、母を見つめ続けた。お願い。ほんの一度でいいから、ちゃんと顔を見て。それだけで、きっと気づいてくれる。そう信じていたのに、母は嫌悪を隠そうともせず顔を背けた。「気味が悪いわ。早く追い出して。緋奈をこれ以上嫌な気分にさせないで」そのひと言で、最後まで手放せずにいた期待が、とうとう途切れた。それでも、
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第3話

痛みに痙攣する私を見下ろし、緋奈は冷ややかに言い放った。「人の誕生日を台なしにしたんだから、それくらいされて当然でしょう?」私がほとんど動けなくなって、ようやく警備員たちは手を止めた。片脚をつかまれ、そのまま会場の外へ引きずられていく。絨毯には、私が通った跡だけが赤く残っていた。視界がぼやけていく中、私はもう一度だけ宴会場を見た。母はマイクを手に、涙ぐんだ声で話していた。「緋奈、本当につらかったでしょうね。あんな危ない場所で、3日もひとりだったなんて……思い出すだけでも苦しくなるわ」そう言って、緋奈をぎゅっと抱きしめる。「あなたにもしものことがあったら、お母さん、生きていけない」父はそんな緋奈の髪を優しく撫で、蓮もすぐそばで笑っていた。4人の姿を眺めているうちに、ふっと笑いが漏れた。泣いているのに、笑っている。頬を伝った涙が口元まで落ちてきて、ただ、しょっぱかった。――馬鹿みたい。私はずっと、あの人たちに愛されていると思っていた。そう信じて、何もかも差し出してきた。とうとう、命まで削って。ただ、もう一度あの人たちに愛してほしかった。けれど、緋奈へ向けられる愛を見れば分かる。あれは、頑張って手に入れるものではない。何かを成し遂げなくても、聞き分けよく振る舞わなくても、ただそこにいるだけで惜しみなく与えられるものだった。私は、そんなふうに愛されたことが一度もない。意識を失う寸前、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。そして後悔だけが胸に残った。どうして私は、あの日この家へ戻ることを選んだのだろう。どうして、ほんの少しの愛が欲しいばかりに、ここまで自分を追い詰めてしまったのだろう。5歳のとき、育ての両親が交通事故で亡くなった。残された私は、親戚の誰にとっても厄介者だった。食べる量を減らし、夜が明ける前から家事をしても、あっちの家からこっちの家へと押しつけられ、まともな寝床さえ与えてもらえない。「疫病神」「お前のせいで親が死んだ」そんな言葉を浴びせられ、年上のいとこたちにいじめられるのも日常だった。冬にはあかぎれが裂けて血がにじみ、夏は蒸し暑さで背中じゅうに汗疹ができた。夜中、どうしても空腹に耐えられず、食べるものを探してこっそり外へ出た。野犬に追われ、夢中で逃げるうちに
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第4話

「すぐに緋奈の荷物を元の部屋へ戻して。何ひとつ残さず、全部よ」使用人たちにそう言いつけると、母はちらりと私を見た。責めるような色が、その目にわずかに滲む。「緋奈のものまで欲しがるのはやめなさい」胸が詰まった。「違うの。私が頼んだんじゃ――」けれど、言葉は最後まで届かなかった。母はもう私に背を向け、緋奈を慰めている。仕方がないのだと思った。両親には、緋奈と過ごした15年がある。すぐに同じように愛してもらおうなんて、望むほうが無理なのだ。焦らなくていい。少しずつ、本当の家族になっていけばいい。いつかきっと、私のことも緋奈と同じように愛してくれる。そう信じていた。実際、時が経つにつれ、私と2人の距離は少しずつ近づいていった。学校で1位を取れば、父は珍しく顔をほころばせ、私の肩を叩いた。「さすが俺の娘だ」ピアノコンクールの金賞も、ゴルフ大会の成績も、国際コンテストの結果も、父はことあるごとに取引先へ自慢していた。母も、何かと私の世話を焼いてくれた。体にいい料理を用意してくれたり、美容サロンへ連れていってくれたり、買い物に出れば私に似合う服を選んでくれる。頭痛と不眠に悩んでいると知ってからは、白檀の櫛でゆっくり髪を梳きながら、頭をほぐしてくれることもあった。けれど、そんな時間も、緋奈がひとたび甘えればあっけなく崩れた。「お姉ちゃんに、いじめられたの……」涙を浮かべてそう訴えれば、それだけで悪いのは私になる。何があったのかを聞いてもらえることすらなかった。緋奈が欲しがるものは、私が譲る。いつしか、それが当たり前になっていた。だから争わなかった。腹が立っても黙り、悲しくても泣かず、不満ひとつ口にしない。どれほど傷ついても、平気な顔をしていた。聞き分けのいい子でいれば、いつか私のことも心から愛してくれる――そう信じていたから。毎年、誕生日が近づくと、緋奈は決まって泣きそうな顔で訴えた。「お父さん、お母さん……お姉ちゃんを見ると、私が本当の娘じゃないって思い知らされるの。だから、お祝いする気持ちになれなくて……」そのたびに、遠ざけられるのは私だった。自分の誕生日なのに家へ入ることさえ許されず、庭でひとり、宴が終わるのを待つ。18歳の誕生日も、同じだった。初秋の風が肌に冷
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第5話

蓮はそのケーキを口にした直後、激しい呼吸困難を起こし、病院へ運ばれた。あとになって、緋奈が病室でずっと蓮の手を握り、泣きながらこう言っていたと看護師から聞いた。「お姉ちゃんも、きっとわざとじゃないよ」その前後に緋奈が何を話したのか、私には分からない。ただ、それを境に、蓮は何かあるたび私を責めるようになった。「緋奈をいじめるのはやめろよ。あの子はただでさえ不安なんだ。いつ家を追い出されるかって、毎日怯えてるんだから」違うと何度説明しても、聞き入れてはもらえなかった。その日も、緋奈のひと言だけで誰もが彼女の味方についた。とうとう堪えきれなくなった私は、声を荒らげた。「もういい加減にして!いつまでそんな芝居を続けるの?みんな、もう十分あなたの味方でしょう?それでもまだ足りないの?」ところが、その日の夜。緋奈は泣き腫らした目で私の前に立ち、深く頭を下げた。「ごめんなさい。わざとじゃなかったの。ただ怖かっただけ。みんなに愛されなくなるのも、今の暮らしを失うのも怖くて……」埋め合わせがしたいから、一緒に旅行へ行こう。そう誘われ、私は結局うなずいてしまった。けれど、旅行先のクスタニアでマグニチュード7.8の大地震が起きた。救援が遅れるなか、街では暴動まで広がり、その混乱のさなか、緋奈は姿を消した。私は救援隊に保護され、ひと足先に帰国した。空港に降り立った直後、頬に激しい衝撃が走った。父に平手打ちされたのだ。左耳の奥で鋭い音が弾け、そのまま耳鳴りが止まらなくなった。あとで、鼓膜が破れていたと知った。「どうして帰ってきたのがお前なんだ!」続いて、取り乱した母が飛びかかり、私の髪をつかんだ。「全部あなたのせいよ!こんなことなら、家に連れ戻さなければよかった!」引きちぎられそうな痛みに耐えきれず、私はその場に崩れ落ちた。周りでは、同じように救助された人たちが家族と抱き合い、涙を流している。帰ってきたことを喜ばれる人たちの中で、私だけが、生きて戻ったことを実の家族に責められていた。「蓮……」嗚咽を堪えながら、彼の名を呼んだ。死ぬかもしれないと思った恐怖も、言葉にならない悔しさも、全部蓮に受け止めてほしかった。けれど蓮は、私を抱きしめるどころか、いきなり首をつかんだ。背中が壁へ叩き
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第6話

あのとき、家族が私へ向けた眼差しを思い出した。あったのは、失望と憎しみだけだった。浴びせられた言葉は、今も耳の奥にこびりついている。彼らは、緋奈ではなく私が帰ってきたことを憎んでいた。だから私は、緋奈を連れ戻さなければと思った。まだまともに体も動かないまま、危険を承知でもう一度クスタニアへ戻った。けれど、着いて間もなく見知らぬ男たちにさらわれた。連れていかれたのは、明かりひとつない地下室だった。男たちに囲まれ、鉄の棒で何度も打たれる。鈍い音が響くたび、皮膚が裂けるように痛んだ。顔に大きな傷のある男に押さえ込まれたとき、夢中で抵抗し、その耳に噛みついた。「この女!」怒鳴り声とともに頬を張られ、傷めていた左耳をまともに殴られる。意識が朦朧とするなか、男たちが私をどう始末するか話している声が聞こえた。死にたくない。その一心で隙を見つけ、錆びついた地下配管を這って外へ逃げた。折れた脚を引きずり、ゴミ捨て場で拾ったぼろ布をまとい、煤で顔を汚したまま、それでも緋奈の行方を聞いて回った。一歩進むたびに痛みで視界が霞んだ。そこまで思い出したところで、意識が病室へ戻ってくる。怜司は急かすこともなく、ただ黙って待っていた。「医師が言ってた。前の傷もまだ治ってないのに、またひどい怪我をして、かなり血も失ってる。感染もあるから、しばらくはちゃんと休んだほうがいいって」そう言って、ギプスで固定された私の脚へ目を落とす。「骨折したところは、もう処置してもらった。ただ、これから天気が崩れると痛むことがあるかもしれない。冷やさないようにして」「……ありがとう」小さく礼を言ってから、少し迷って尋ねた。「でも、どうしてそこまでして助けてくれたの?私たち、前に会ったことがある?」怜司は一瞬黙り、ふいに身をかがめた。指先が、私の鼻先を軽くなぞる。あまりに親しげな仕草に、思わず息を止めた。「薄情だな。とっくに俺のこと忘れてたんだ」怜司は小さく笑う。「昔、町外れの大きな木の下で、俺に飴を半分くれただろ」思わず目を見開いた。記憶の奥から、物置の陰で小さく身を縮めていた、痩せた少年の姿が蘇る。近所の子どもたちに石を投げられ、父親のいない子だとからかわれていた、あの子。「……まさか」「やっ
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第7話

「蓮が前に言ってた。怜司とは昔から折り合いが悪いって。何かあったの?」そう尋ねると、怜司は少し不満そうに答えた。「俺が美月を見つけるより先に、あいつが美月の隣にいた。十分すぎる理由だろ?」あまりにも当然のように言われて、返す言葉がなかった。「でも、それならどうして今まで一度も会わなかったの?」怜司は少し目を細めると、長い指で私の頬をつまみ、そのまま顔を近づけてきた。「昔の美月は、蓮しか見えてなかっただろ。ほかの男が目に入る余地なんてあった?」隠すつもりもないらしい。呆れて何も言えずにいると、ちょうどそのときスマホが鳴った。画面に表示されたのは、蓮の名前だった。私が手を伸ばすより早く、怜司が通話ボタンを押す。「美月、いつまで意地張ってるんだ?もう何日経ったと思ってる。明日は父さんの60歳の誕生日だ。ふざけてないで、遅れずに来い」出るなり、不機嫌そうな声が飛んできた。私が口を開くより先に、怜司がさらりと答える。「分かった」そして、そのまま電話を切った。思わず怜司を見ると、本人は何食わぬ顔をしている。一方、電話を切られた蓮は、しばらくスマホの画面を睨んでいた。――今の男は誰だ?どこかで聞いた覚えのある声だった。すぐにかけ直したものの、つながった途端に切られる。3回、4回と繰り返しても拒まれ、ついには電話そのものがつながらなくなった。美月が自分の電話に出ない。それどころか、知らない男が代わりに出た。なぜか、それがひどく癇に障った。その頃、怜司は私のスマホを手にしたまま尋ねた。「で、本当に行くの?」私は少しだけ笑って、首を横に振った。翌日、桐生家では蓮の父の60歳を祝うパーティーが開かれた。蓮は何度も会場の入口へ目を向けていた。招待客に話しかけられてもどこか上の空で、気づけばまた外を見ている。やがて父に席へ戻るよう促され、渋々その場を離れた。「美月は一緒じゃないのか?」「……たぶん遅れてるだけだ。もうすぐ来ると思う」そう答えたものの、蓮自身も落ち着かなかった。それから2時間が過ぎても、私は現れなかった。パーティーも終わりに近づいた頃、蓮はたまらず会場の隅へ移り、私に電話をかけた。けれど、呼び出し音がむなしく続くだけだった。そのとき、贈
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第8話

電話越しにも、2人が怒っているのが伝わってきた。先に口を開いたのは父だった。「美月。本気で婚約を解消するつもりなのか?」「うん。もう蓮とは結婚したくない」「正気か!」たちまち声が荒くなる。「桐生家との婚約だぞ。お前ひとりの都合で、勝手に白紙にできると思ってるのか!」そのとき、電話の向こうで人の気配がした。次に聞こえてきたのは、蓮の声だった。「美月、どういうつもりだ」苛立ちを抑えきれない声だった。「勝手に婚約破棄できるとでも思ってるのか?今日中に戻ってこい。来ないなら、おばあさんからもらったネックレスを壊すから」「……蓮」思わず目を閉じた。ここまでされるなら、もう先延ばしにする意味もない。終わらせよう。全部。怜司はここ数日仕事が立て込んでいたため、私はひとりで藤宮家へ戻った。リビングには両親が並んで座り、その向かいに蓮がいた。私を見るなり、蓮が立ち上がる。目の下には濃い隈ができていた。ろくに眠っていないのだろう。やがて、その視線が私の首元で止まった。服の隙間から、ガーゼが覗いている。「……首、どうしたんだ?」蓮が手を伸ばしてきた。私は反射的に半歩下がる。今は、触れられたくなかった。まさか避けられるとは思わなかったのだろう。蓮の手が宙で止まった。「美月」母が厳しい声で私を呼んだ。「最近のあなた、本当にどうしたの?緋奈につらく当たったかと思えば、あんな危険な場所に連れていって置き去りにして……そのうえ今度は、勝手に婚約まで解消するなんて」私は黙って母を見た。「やっぱり、緋奈の言うことしか信じないんだね。緋奈から電話が来たときには、もう私がわざと置き去りにしたって決めつけてたんでしょう?」母の顔を見たまま、続ける。「私が何を言っても、最初から聞くつもりなんてなかった。今までだって、私の言葉を信じてくれたこと、あった?」母は何も言えなかった。「もう疲れたの。ずっと我慢して、譲って、聞き分けのいい子でいようとして……そうしないともらえない愛なら、もういらない」これ以上、話しても仕方がない。2階へ向かおうとしたところで、蓮に腕をつかまれた。「待てよ。それ、どういう意味だ?」その瞬間、緋奈の顔色が変わった。みるみる目
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第9話

重い沈黙を破ったのは、緋奈だった。私のそばまで駆け寄ると、傷ついたような顔でこちらを見上げる。「お姉ちゃん。お父さんとお母さんを恨んでるのは分かるよ。でも、蓮さんは悪くないでしょう?」一度ためらうように口をつぐんでから、ぽつりと続けた。「ほかに好きな人ができたからって、蓮さんまで……」その言葉に、蓮の表情が変わった。「……ほかに好きな男がいるのか?」答える間もなく腕をつかまれ、そのまま物置へ連れ込まれたかと思うと、扉が勢いよく閉まり、暗闇の中に蓮の声だけが響いた。「少しそこで頭を冷やせ」「それから、本当に婚約をやめるのか、もう一度よく考えろ。落ち着いたら話を聞く」足音が遠ざかっていく。その瞬間、閉ざされた暗闇の中で逃げ場を失ったクスタニアの地下室での恐怖が一気に蘇り、背中を冷たい汗が伝った。「いや……やめて……」脚から力が抜け、震える声とともに呼吸もどんどん浅くなっていく。耳の奥では、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。「開けて!」堪えきれずに叫ぶと、すぐに足音が戻ってきて、ドアノブが回った。扉が開く――そう思った瞬間、私は泣きながら叫んでいた。「怜司、助けて!」ドアノブの動きが止まった。「……今、誰の名前呼んだ?」蓮の声が、一段低くなった。「ほかの男の名前を呼べるくらいなら、そこでしばらく頭を冷やしてろ」足音はそのまま遠ざかっていった。私は壁際にうずくまり、震える手で何度も扉を叩いた。やがて声も掠れ、指先にも力が入らなくなっていく。もう耐えられないと思ったそのとき、外がにわかに騒がしくなり、次の瞬間、激しい音とともに扉が開いた。蓮と怜司が、ほとんど同時に中へ入ってくる。私は考えるより先に怜司へ駆け寄っていた。「怜司……!」その胸にしがみつき、肩へ顔を埋めた途端、堪えていた嗚咽がこぼれた。「大丈夫」怜司が私の腰を抱き寄せる。「もう大丈夫だ。怖がらなくていい」そう言いながら、ゆっくり背中を撫でてくれた。その様子を見た蓮の顔が険しくなる。「美月から離れろ!勝手に触るな!」蓮は怜司を引き離そうと私へ手を伸ばしたが、触れられる寸前、私は反射的に身を引いた。それを見て、蓮の手が止まった。「……美月?」そこでようやく、私
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第10話

緋奈の目がわずかに泳ぎ、指先が無意識に服の裾をつかんだ。その様子を見ていた怜司は、ゆっくりと周囲を見渡した。「それでもまだ、緋奈の言うことを信じるのか?」父が緋奈へ向き直る。「緋奈。あのとき、お前は泣きながら電話してきたな。美月にわざと危険な場所へ置き去りにされたって。あれはどういうことだ?」緋奈の顔がこわばった。「本当だよ!」すぐさま声を上げる。「本当にお姉ちゃんが私を置いていったの!あの電話だって、もう二度とお父さんたちに会えないかもしれないって怖くて……」怜司は呆れたように笑った。その声に、緋奈の肩がびくりと揺れる。「じゃあ聞くけど、美月が命がけでクスタニアへ戻ってから、何があったか知ってる?」誰も答えない。「拉致された。何度も殴られて、散々痛めつけられて、襲われかけて……最後には脚まで折られた」「……何?」蓮の顔色が変わり、次の瞬間には緋奈の腕をつかんでいた。「お前、俺に何て言った?」「蓮さん……」「美月が全部仕組んで、お前を置き去りにしたって言ったよな?」声が荒くなる。「美月はちゃんと準備してるから安全だ、心配する必要なんかないって……そう言っただろ!」蓮は緋奈を睨みつけた。「だから俺は、少しくらい苦労すれば反省するだろうって……放っておいたんだぞ!」緋奈の体が震え始める。「全部、お前が仕組んだのか?」怜司の声には、はっきりと怒りが滲んでいた。「美月は何度も死にかけた。それがお前の言う安全か?」緋奈は答えられない。「折れた脚を引きずって、それでもお前を捜してた。少しでも手がかりが見つかれば、すぐ家へ知らせようとしてたんだ」怜司は両親へ視線を移した。「その間、あんたたちは何してた?」両親も、顔を上げられなかった。「こいつの誕生日を祝ってた」誰も動かなかった。「3か月だ。3か月もの間、美月を捜した人間はひとりもいなかった」怜司の話によれば、緋奈は最初から旅行を利用して私を消すつもりで、現地の男たちに拉致を依頼していた。ところが地震と暴動によって計画が狂うと、自分だけ安全な場所へ逃げ、それでも私を陥れるため家へ電話をかけたという。そして3日後、今度は自分が被害者であるかのように振る舞って救助されていた。話を聞くう
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