All Chapters of 私が去った後、社長は後悔で狂いそうだった: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

冬物の服をすべて引っ張り出し、次々とたたんでスーツケースに詰めていく。不意に玄関の扉が開く音がして、足音を忍ばせて誰かが近づいてくる気配がした。背後から大きな両手が伸びてきて、外気で冷えきった指先が私の両目を塞ぐ。「だーれだ」わざと低く抑えた声だった。出張から帰るたびに私をからかう、あの艶のある低音のままだった。以前の私なら「もちろん英輔でしょ」と笑って答え、甲斐甲斐しくその冷えた手を温めてあげていただろう。けれど今の私に、あの頃のような甘い感情はもうない。彼とじゃれ合う気分にもなれなかった。私はその手をそのまま外し、俯いたまま服をたたみ続けた。英輔は面食らったように固まり、冷えた指を握りしめると、眉を下げ、しゅんと肩を落とした。雨に濡れた子犬のように、哀れっぽく尋ねてきた。「嘉音、どうしたんだよ。1ヶ月も口をきいてくれないなんて、まだ拗ねてるのか?この前だって、お前が急に結婚式場に乗り込んできたせいで、俺が招待客への説明にどれだけ苦労したか分かってるのか」私は口元に、皮肉めいた笑みを浮かべた。1ヶ月前、親戚や友人全員の前で、私はすっかり笑いものになってしまった。新郎だったはずの彼が、大勢の参列者の前で別の女と結婚式を挙げたせいだ。それを見た母は心臓発作を起こし、私は惨めにも英輔の手で会場から追い出された。母の葬儀の日になっても、地元の人々は嘲るような目で私を指差した。「あの人でしょ、結婚式当日に旦那に逃げられたって。いい大学出てるくせに、30手前で独り身だなんてね」「本当にみっともないわね。お母さんまでショックで死なせちゃったんでしょう?昔から言うじゃない、娘なんて育てたって、いざというとき親の役には立たないって」母を見送った日の、あの胸にまとわりつくような重苦しさが再び私を包み込む。けれど涙は、とっくに涸れ果てていた。意識を現実に引き戻し、私は静かに口を開いた。「口をきいてないんじゃなくて……」別れましょう。その一言を言い切る前に、英輔は先回りするようにうなずき、大げさにため息をひとつ吐き出すと、まるで気にも留めていないように言った。「へー。口をきいてないんじゃなくて、俺に怒ってるんだろ?だから、ちゃんとメッセージで説明したんじゃないか。綾夏の新郎が逃げたんだよ。うちとあ
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第2話

「芝居をするなら最後まで演じ切らないとな。外し忘れただけだよ。嘉音、まさかまだヤキモチ焼いてるのか?」本当は、ヤキモチなど少しも焼いていなかった。ただ、ふとあの日のことを思い出しただけだ。食卓で、彼が私にプロポーズしたときのことを。手を差し出して結婚してほしいと言ってきたくせに、婚約指輪すら用意していなかった。忘れていたのだと彼は言った。指輪を着ける窮屈さが苦手だから、式の日に改めてオーダーメイドの品を贈ると約束した。けれど結局、その指輪は綾夏の指にぴったりと収まった。束縛が嫌いなはずの男が、結婚指輪を嬉々として着け続け、外そうともしない。ヤキモチ?もうそんな感情すら湧かなかった。この1ヶ月、自分を傷つけるように、新婚旅行で世界を巡る二人のニュースを追い続けていたけれど、心はもう波ひとつ立たなくなっていた。私は目を逸らし、返事もせずに彼の手からセーターを奪い返すと、静かに言った。「これ、母が手編みしてくれたセーターなの」英輔の手が、ふいに宙で止まった。彼は苛立ちを隠しきれない様子だったが、それでも口元を引き結び、怒りを押し殺したやわらかな声で言う。「そういえば、お前のお母さんの具合は?あれから1ヶ月も経ったんだから、もうだいぶよくなっただろ」彼は目を細めて笑った。「そもそも、あんな狭い式場じゃ嘉音には申し訳なかったと思ってたんだ。この機会に日取りを決め直して、盛大な式を挙げよう。お前のお母さんにも喜んでもらいたいしな!」今日の英輔は機嫌がいい。英輔としては、もう十分こちらに歩み寄ってやったつもりなのだろう。これ以上突っぱねれば、また例のお坊ちゃん特有の癇癪を起こすに違いない。けれど、彼は忘れている。婚姻届を出す日、彼は区役所で本人確認書類を忘れたと言い、そのまま踵を返して、私を置き去りにし、婚約者が姿を見せなかった綾夏のウェディングドレス選びに付き合いに行ったのだ。私たちはそもそも、婚姻届すら出していない。だから私たちは、法律上は夫婦ですらない。今さら式の日取りを決め直す意味などなかった。ふと現実に引き戻され、私はただ物悲しく微笑んだ。「その必要はないわ」私のつれない態度が続いたせいで、英輔の顔つきが一気に険しくなる。彼が何か言いかけたそのとき、スマホが鳴った。画面に浮か
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第3話

「あの人が動画に映ってた、本社の小石川社長の結婚式で大暴れしたっていう女?あら、この前忌引きを口実に身を隠したんじゃなかったの?よく平気で顔を出せたものね」「どうせ辞表を出しに来たんでしょ。もう10年もこの会社にいて、いまだに主任止まりだもの。昇進申請を5回出して、5回とも通らなかったらしいわよ。本当に使えないったらないわ」こうした耳障りな陰口も、以前の私ならひどく落ち込んでいただろう。けれど今は、もう何も感じない。母の葬儀を取り仕切っていたあの時期、似たような嫌味は嫌というほど聞かされてきたからだ。私は周りの声など気にせず、福村萌(ふくむら もえ)の支社長室の扉をノックした。「どうぞ」萌は私の手にある書類に目を通すと、満足げにうなずいた。「嘉音、先日海外赴任の話を聞いたときは、正直信じられなかったわ。前に海外赴任を打診したときは、彼氏と離れたくないって断ったじゃない。今回はずいぶん思い切ったわね。明日、本社から視察が来る予定だから、一度顔を出してちょうだい。それで手続きは終わりよ。そういえば、あなたと私、同期入社だったわね。あなたのほうが仕事もできて、ずいぶん助けてもらったのに……今になってようやく吹っ切れたなら、それでいいと思うわ」私は目を伏せた。そう、タイミングが悪かったのだろう。同期の仲間たちは、みな幹部クラスまで昇進していたのに、私だけが10年間、その場に立ち止まったままだった。会社を出て、私は振り返り、10年間働き続けてきた会社の高層ビルを見上げた。この10年で、小石川グループはますます規模を広げ、支社のオフィスビルさえ見上げるほど立派になった。なのに、私と英輔の関係だけが、どうしてこんなにも呆気なく崩れ落ちてしまったのだろう。英輔と私の出会いは、典型的なシンデレラストーリーそのものだった。父を早くに亡くし、私は母ひとりの手で育てられた。当時の私は、授業以外の時間はほとんど、家庭教師などのアルバイトに費やしていた。そんなある日、バイトの報酬を踏み倒したうえに、友達まで連れて私を取り囲み、持っている金をすべて出せと迫ってきた女がいた。ひどく怯えていた私を、ボディガードを連れた英輔が助けてくれた。地面に倒れていた私を抱き起こし、食事に誘ってくれたのだ。彼は頬を赤らめながら、成績が
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第4話

首を振り、過去の記憶を振り払う。西日に長く伸びた影が、ひとつだけ地面に落ちていた。この世界に、私にはもう身内と呼べる人間は誰ひとりいない。何歩か歩くうちに、あたりはすっかり暗くなった。スマホを取り出し、タクシーを呼んで帰ろうとしたそのとき、耳元で聞き覚えのある笑い声がした。その声は、ひどく親しげだった。「綾夏、しっかり掴まってろよ。万が一落として怪我させても知らないからな!」振り返ると、ネオンが輝くバーの入り口が目に入った。英輔が綾夏をお姫様抱っこして、まるで恋愛映画のワンシーンのようにくるくると回っていた。綾夏は英輔の首にしっかりとしがみつき、スカートの裾を舞い上がらせながら、楽しそうに弾けるような笑い声をあげていた。ふたりを取り囲んだ人々が囃し立てる。「よし、あと3周!英輔、頑張れ!終わったら綾夏ちゃんと乾杯な!」「綾夏、綺麗すぎ!子供の頃、おままごとで綾夏の相手役を取り合って、英輔が誰にも譲らなかったよね。まさか本当に王子様とお姫様みたいになるなんて!」英輔は得意げに笑いながら、少し目を回している綾夏をそっと下ろした。まるで壊れ物に触れるような細心の手つきだった。それから二人は、周囲に促されるままグラスを手に取り、顔を見合わせて乾杯した。途端に、周囲の歓声はさらに高まり、手拍子まで起こった。「キス!キス!」英輔は一瞬固まったまま、動かなかった。綾夏が笑いながら彼をかばうように言う。「さっき、これが最後の余興だって言ってたじゃない。すっかり遅くなったし、みんなもそろそろ帰らなきゃ……」けれど次の瞬間、英輔は綾夏の腰を抱き寄せると、頭を下げてくちづけた。その目は見開かれたままだった。澄みきった優しい眼差しの奥に、隠しきれない独占欲が滲んでいる。そしてすぐさま視線を逸らし、綾夏の腰に回していた手をゆっくりとほどくと、額を押さえて、急に酔いが回ったふりをした。「帰る……頭、痛くて……っ」英輔が綾夏に向ける気遣いも、壊れ物を扱うように大切にする様子も、私は余すことなく目に焼きつけた。そして彼がふらつきながらスマホを取り出し、電話をかけるところまで、ただ黙って見ていた。直後、数メートル離れたところにいた私の手元で、スマホが鳴った。着信音を聞いた英輔は、私と目が合った瞬間、ハッと
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第5話

私は手を伸ばして別の箸を取り出し、素麺をひと口すすった。味など、まるでしない。顔も上げずに、私は英輔に答える。「どうせ、あなたの奥さんが面倒見てくれるんでしょ。私なんて必要ないでしょ」英輔の顔色がみるみる暗く沈み、露骨に怒りを滲ませながら、冷ややかに言い放つ。「奥さんって何だよ。夏田嘉音、嫉妬するにも限度があるだろ?あれはただの業界仲間との飲み会で、綾夏とはただの悪ふざけに決まってるだろうが!俺が好きで酒を飲んでるとでも思ってんのか、全部お前のためだろうが!」私は馬鹿馬鹿しいと思った。綾夏といちゃついていたときは、明らかに楽しんでいたくせに、今になってどうして被害者ぶるのだろう。英輔に目を向け、箸を止めて聞き返す。「私のため?」英輔は当然だと言わんばかりに答える。「そうだよ!親父が言ったんだ。俺が綾夏と形だけでも結婚すれば、会社の後継者に据えてやるって。だからこそ俺はお前と一緒にいられるし、お前を本社に異動させることだってできる。全部、お前とお前の出世のためじゃないか!」綾夏は気づかれないほどかすかに眉をひそめ、目の奥に悪意を滲ませながら、表面上は同調してみせた。「英輔の言う通りよ。知らなかったでしょうけど、嘉音さんを守るために、あなたが提出した昇進申請はずっと彼が握り潰していたの。あなたのためを思っての、本当に苦渋の決断だったのよ」私は思わず固まった。ぞっとするような寒気が頭のてっぺんまで駆け抜け、思わず身体が震えた。この数年、私は身体を削って働き、自分の力で英輔と肩を並べようとしてきた。なのに今、綾夏の口から告げられたのは、私のその努力がすべて英輔の手によって水の泡にされていたという事実だった。なら、徹夜で作り上げた企画書、胃から出血するまで接待の酒を飲んで取ってきた契約、そして休みも取れず、母の顔さえろくに見られなかったほど仕事に費やした日々――一体、何だったというのだろう。鼻の奥がつんとして、目の縁が一気に熱くなる。掠れた声で、私は英輔に問い詰めた。「本当なの?」英輔は少しも後ろめたそうな様子を見せず、それどころか褒めてほしいと言わんばかりにうなずいた。「ああ、そうだよ。安心しろ、いずれお前はうちのグループの社長夫人になるんだ。欲しいものは何でも手に入る。たかが数回の昇進機会
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第6話

以前の私なら、どちらがより相手に尽くしてきたかと、きっと言い争っていただろう。けれど今は、怒りに満ちた彼の顔を見つめながら、ふと笑みがこぼれた。「ありがとう」途端に英輔の怒りがすっと萎み、呆然とつぶやく。「何が?」私は口角を上げたまま、静かに返す。「教えてくれてありがとう。あなたの中で私は、あなたに寄りかからなきゃ生きていけない、哀れな女だったのね」言い終えると、食器をキッチンへ運び、蛇口をひねり、食器を洗う。戻ってきても、英輔はまだその場に立ち尽くしたまま、微動だにしなかった。綾夏がはちみつを溶かした白湯を差し出し、小さな声で言った。「英輔、酔い覚ましにこれ飲んで。昔から好きだったでしょ」英輔は上の空のまま、グラスを受け取ると、テーブルに置いた。頬を赤くしたまま、しばらくしてようやく小さな声で絞り出す。「そういうつもりじゃ……」私は取り合わず、すでに荷造りを終えていたスーツケースを引いて玄関を出た。外に出た直後、背後で何かがドア枠に叩きつけられ、グラスが派手に割れる音がした。甘くべたつく液体が、私の服や身体に飛び散った。続いて、コロンと小さな箱が床に転がる音がした。中から、手作りの陶器の指輪がふたつ転がり出てきた。転がった指輪を見下ろし、私は首を傾げた。背後で、英輔が悔しさをぶちまけるように叫ぶ。「それは俺が海外でわざわざ、お前のために作った指輪なんだぞ!ずっとお前のことを考えてたのに、嘉音、どうしてそんなに分からず屋なんだ。勝手に家を出ていくなんて!」私は思わず失笑した。彼はいったいどういうつもりなのだろう。指輪の内側には、英輔と綾夏の名前がアルファベットで刻まれている。誰がどう見てもペアリングだ。それを、よくも「私のために作った」などと言えたものだ。私は歩みを止めず、スーツケースを引いて近くのホテルでひと晩を過ごした。どうせ明日には、この街を離れるのだ。翌朝、身支度を整えて出社した私は、思いがけない光景に目を疑った。出社するなり、フロアから華やいだ歓声が耳に飛び込んできたのだ。「わあ、小石川社長と島貫副社長、本当にお似合いですね!お揃いの服まで着てるなんて最高!」「おふたりとも、私たちの憧れです!一緒に写真撮ってもらえませんか?」見れば、英輔と綾夏がこれ
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第7話

何かに思い当たったのか、彼は目を泳がせ、低い声で絞り出した。「どうして俺に言わなかったんだ……お母さんが亡くなったこと……」私は思わず失笑した。母はずっと、英輔という未来の婿を大切に思っていた。彼のもとに嫁げるなんて身に余る幸運だと言い、いつか英輔が「お義母さん」と呼んでくれる日を心待ちにしていたのだ。けれど母が最期に目にしたのは、英輔が別の女と結婚し、その母親を親しげに「お義母さん」と呼ぶ無残な姿だった。私は淡々と返す。「ご報告する必要なんてありましたか、社長。本社は、いち社員の家庭の事情にまで口を出すんですか?」英輔は、何かが少しずつ自分の手を離れていくような感覚に襲われた。その不安は刻一刻と膨らんでいく。歯を食いしばり、ついに彼の怒りが噴き出した。「必要ないわけあるか!俺は一応、お義母さんの婿なんだぞ!」「今、誰の娘婿になると言った?」その場にいた全員が呆気に取られる中、オフィスの扉が押し開かれた。ひとりの年配の男性が入ってくる。目尻に刻まれた深い皺の一本一本から鋭さが滲み出ており、声を荒らげずとも自然と威圧感を放っていた。英輔の父であり、グループの実権を握るトップ、すなわち会長・小石川寿明(こいしかわ としあき)だった。その場にいた全員が我に返り、一斉に頭を下げた。「会長、お疲れ様です!」寿明は軽くうなずくと、首を傾げて綾夏に笑いかけた。「綾夏、ふたりには各支社を回って顔を覚えてもらうよう言っておいたはずだが、何かトラブルでもあったのか?」先ほどの英輔の爆弾発言を思い出し、社員たちは一斉に息を呑んで口をつぐんだ。綾夏は一瞬にして顔色を失った。彼女は目に涙をにじませながら、無理やり取り繕った笑顔を作った。「実は嘉音さんは、英輔の親しい友人の奥様なんです。彼女が海外赴任すると聞いて、英輔はただ、友人の代わりに事情を確認しただけで……」寿明の鋭い視線に射すくめられ、英輔は唇を結んだまま沈黙し、うつむいて拳を握りしめている。寿明は眉を険しく寄せ、厳しい声で言った。「うちの会社で規則を破ろうとする者がまだいるのか?いったい誰がそんな馬鹿な真似を……見せてもらおうじゃないか」私は一歩前に進み出ると、淡々と口を開いた。「会長、それは誤解です。私は未婚です。以前お付き合いして
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第8話

記憶力がよく、一度目にしたものは決して忘れないはずの英輔が、まるで本当に婚姻届を出していない事実だけがすっぽり記憶から抜け落ちてしまったかのように、必死に食い下がった。「そんなはずないだろ!父さん、俺を騙さないでくれ!」寿明の表情は険しく、口調には明らかな苛立ちが混じっていた。「社内では『会長』と呼べと何度も言っているだろうが!社内で父親呼ばわりするな。公私の区別もつかないのか。どうやら今まで甘やかしすぎたようだな。お前の重要書類は、ずっと俺が金庫に鍵をかけて厳重に保管している。だいたい、お前がいつ俺に必要なものを出せと言った?」寿明は、あの日の記憶をひとつひとつ掘り起こさせるように続けた。「そもそもあの日、お前は綾夏のウェディングドレス選びに付き合っていたはずだろう。婚姻届を出す暇なんてあったのか?お前、最近疲れすぎて記憶がおかしくなっているんじゃないのか。これ以上、夏田のキャリアの邪魔をするのはやめなさい」その言葉には、ずっしりとした重みがあった。むしろ「これ以上彼女に付きまとうな」という強烈な警告だった。そしてその戒めは、てきめんに効果を発揮した。英輔はまるでハンマーで頭を殴られたような衝撃を受け、呆然と立ち尽くした。ようやく思い出したのだ。あの日、確かに私と婚姻届を出していなかったという揺るぎない事実を。なぜなら、私との結婚を口にしたあの瞬間から、彼はすでに少しだけ後悔し始めていたのだから。だからこそ、わざとぐずぐずと時間を潰して区役所へ向かい、わざと必要な書類を忘れたふりをして、ひどく申し訳なさそうな顔でこう言ったのだ。「ごめんな、嘉音。結婚式が終わってから、改めて婚姻届を出さないか?今日は日柄もあまりよくないみたいだしさ」そう言ったまさにそのとき、綾夏から、新郎用のタキシードを代わりに試着してほしいという連絡が入り、彼は逃げるようにその場を後にしたのだった。すべてを鮮明に思い出した彼は、ゆっくりと振り返り、まったく動じていない私をじっと見つめた。唇を震わせるばかりで、言葉ひとつ出てこない。私は寿明に向かって、静かに告げた。「こちらの小石川社長とは、実のところほとんど面識がありません。以前、私が彼を元恋人と見間違えてしまい、社長の結婚式でちょっとした騒ぎを起こしてしまったんです。ですから、今回もそ
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第9話

「嘉音、行かないでくれ!後継者の座なんかいらない。俺はお前と結婚したいんだ!今すぐ父さんに黙って必要な書類を持ち出してくるから、婚姻届を出そう。それでいいだろ?」私は知っている。英輔は30歳になっても家族に過保護に育てられたせいで、いまだに精神が子供のままなのだ。困った顔で謝りさえすれば、世界中の誰もが自分を許してくれると思い込んでいる。かつての私は、そんな彼の幼さを微笑ましく見守り、ずっと屈託なくいてほしいと願っていた。けれど今の私は、心底失望していた。彼が追いすがって懇願しているのは、私を愛しているからではない。単に、従順で扱いやすいおもちゃを失うのが怖いだけだ。だが世界は、彼の思い通りには回らない。そろそろ大人になるべきだ。英輔を見つめる私の眼差しは、驚くほど冷めきっていた。「帰りなさい。馬鹿なこと言わないで。後継者の座を手に入れるために、この10年、ずっとそのために頑張ってきたんでしょう。目の前まで来ているのに、いらないなんて言うつもり?」勢いに任せて私を追ってきた英輔も、次第に冷静さを取り戻していった。彼はスーツケースの取っ手を握る手にさらに力を込め、唇をわずかに引き結んだまま、頑なな様子で低く言った。「じゃあ、赴任するのはやめてくれないか。お前がこの街にいてくれるなら、俺に何を要求してもいい。昔、俺が話したこと、覚えてるか?うちの会社が、どうして海外赴任に厳しい条件を設けているのか。俺が生まれてすぐの頃、母はバリバリのキャリアウーマンで、海外市場の開拓を任されて赴任したんだ。それきり5年間帰ってこなかった。やっと戻ってきたと思ったら、腕に3歳の男の子を抱いて、金髪の外国人男性に親しげに抱き寄せられていた……その日から、父は狂ったように荒れた。猜疑心の塊になり、人を疑ってばかりの人間になったんだ。あんな裏切りに耐えられなかったんだよ。俺がお前との結婚に及び腰だったのは、怖かったからだ。お前が俺を愛さなくなる日が来たら、俺も父のような人間になってしまうんじゃないかって……」彼の言葉は、意外なほど率直で飾り気がなかった。これが、彼が心の奥底に押し込めてきたいちばん深い不安なのだと私は知っている。実際、彼の母親がしたことはそれ以上に酷かった。小石川家の財産の半分を手に入れるため、幼い英輔を密かに連れ
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第10話

睨み合いが続いていたそのとき、空港に突然、数十人の黒服のボディーガードが現れた。寿明が、綾夏を連れて追ってきたのだ。厳しい表情の父を目にした瞬間、英輔は反射的に怯えの色を浮かべ、スーツケースの取っ手を握っていた手をすぐに離した。私は胸の内で冷たく鼻で笑った。やはり、これが私の知る英輔だ。いつまで経っても大人になれない子供のままだ。寿明が口を開くより早く、英輔はごくりと唾を飲み込み、自分から私と数歩距離を取った。彼は何度も振り返りながら、それでも決意したように叫んだ。「嘉音、俺は待ってるからな。赴任なんて3年だけだろ。ずっとここで待ってる!」私はただ鼻で笑い、視線ひとつ向けることはなかった。あなたに待ってもらう必要など、私にはない。しかも彼は、まだ気づいてすらいない。家にあった私の荷物は、とうの昔にすべて運び出してある。私が生活していた痕跡など、もう何ひとつ残っていない。私の「家」は、母が息を引き取ったあの日に、すでに消え去っていたのだから。身を翻し、私は飛行機に乗り込んだ。二度と振り返らなかった。赴任先の国に着くと、迎えに来てくれた同僚の女性と食事をした。彼女は私より1年早く赴任していた田村莉子(たむら りこ)で、以前会社で何度か顔を合わせたことがある。私の姿を見るなり、彼女は肩を叩いて興奮気味に言った。「嘉音さん、やっと来てくれたんですね!うちの上司、毎日私に『あの人をこっちに引き抜いてこい』って言ってたんですよ。海外に来る気がないと思って声をかけなかったけど、こんなことならもっと早く連絡してたのに!」私は思わず口角を上げた。実は、この赴任先の大手企業からは以前から何度もそれとなく誘いを受けていた。うちの会社との提携を強化し、出向の枠を増やしてまで私を引き抜こうとしていたのだ。けれど当時の私は恋愛に夢中で、そのすべてを断っていた。今思えば、本当に馬鹿だったと思う。レストランで食事をしていると、テーブルに置いていたスマホが絶え間なく震え始めた。英輔からだった。私はわずかに眉をひそめた。ろくな用件があるはずがない。莉子は驚いた顔で言った。「これって、うちの小石川社長ですか?もしかして、嘉音さんに何か用事でも?早く出た方がいいですよ!」仕方なく、私は電話に出た。向
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