All Chapters of 『親友に婚約者を奪われた私ですが、彼女の葬儀で「娘をお願い」と遺言を渡されました』: Chapter 11 - Chapter 20

22 Chapters

第十一話 父親に会いたいと言う子

 翌朝、ノエルは卵を残した。 昨日よりも少し多く。 半分ではなく、三分の二ほど。 けれど、それを責める者はいなかった。 小犬は食卓の下で丸くなっている。 布兎はノエルの膝の上。 青いリボンは、昨夜セレスティアが結び直したので、今は真っ直ぐだった。 その真っ直ぐさが、今朝のノエルには少し苦しそうに見えた。「残してもいいですか」 ノエルは小さく尋ねた。 いつもより声が細い。「もちろん」 セレスティアは答えた。「食べられない?」「少し、喉がぎゅっとします」「では、無理に食べなくていいわ」「お父さまは、残すと、もったいないって言いました」 リュシアンの手が止まった。 セレスティアも、スプーンを置く。 ノエルは皿の上の卵を見つめたまま続けた。「お母さまは、残してもいいって言う日と、残したら泣く日がありました」「泣く?」「はい。『私の作ったものじゃないのに、どうして私が責められるの』って。わたし、責めてないのに」 セレスティアは胸が痛んだ。 ミレイユが壊れていく過程を、ノエルは日々の食卓で見ていた。 薬の瓶や帳簿よりも、ずっと細かく。 大人たちが見落とした場所で。「今日は、残していい日です」 セレスティアは言った。「明日は?」「明日は明日、考えましょう」「今日の正解ですか」「ええ」 ノエルは少しだけ頷いた。 けれど、皿から目を離さない。 リュシアン
last updateLast Updated : 2026-08-26
Read more

第十二話 泣けば許されると思っている男

朝になっても、ノエルの箱は寝台の横にあった。 薄い木でできた、何の飾りもない箱。 高価ではない。 立派でもない。 ただ軽く、子供の手でも開けられる。 その中には、ノエルが父親へ書いた質問紙と、小犬の絵と、硬いパンの絵と、黄色い花の絵が入っている。 そして一枚だけ、短い紙。『今日は会わない』 昨日のノエルの答えだった。 朝、セレスティアが部屋へ行くと、ノエルはその箱の蓋を開けたり閉めたりしていた。 ぱたん。 少し間を置いて、また開ける。 また閉める。 何かを確かめるように。 小犬はその横で箱に鼻を近づけ、ノエルに額を押されていた。「小犬、これは食べ物ではありません」 ノエルは真剣に言った。 小犬はまったく分かっていない顔で尻尾を振った。「おはよう、ノエル」 セレスティアが声をかけると、ノエルは箱の蓋を閉めた。「おはようございます」「よく眠れた?」「少しだけ」「少しだけ、は?」「本当に少しだけです」「そう」 セレスティアは笑わなかった。 ノエルの目の下には、うっすら影がある。 眠れなかったのだろう。 父親が屋敷内にいる。 会いたい。 会いたくない。 泣いているかもしれない。 怒っているかもしれない。 そう考えながら、ぐっすり眠れる子供のほうが少ない。「箱を見ていたの?」「はい」「中身を確かめて
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more

第十三話 マルタのスープは好きでした

ノエルは、朝から箱を開けていた。 薄い木箱。 まだ新しい木の匂いがする。 中には、昨日までの紙が入っている。『今日は会わない』『今日は、まだ会わない』『お父さまは、何に対して、ごめんなさいですか』『大人が泣いても、わたしが慰めなくていい』 その紙を、ノエルは一枚ずつ出して、机の上に並べた。 読むわけではない。 ただ、並べる。 そしてまた箱に戻す。 その繰り返しだった。 小犬は床で丸くなっている。 候補の名前は、相変わらず「パン」のままだ。 本人――いや、本犬はそのことをどう思っているのか分からない。たぶん何も考えていない。 ノエルが紙を一枚戻すたび、小犬は尻尾を一度振る。「小犬、数えていますか」 ノエルが聞く。 小犬は尻尾を振った。「分かっていませんね」 セレスティアは扉のところで、それを少しだけ見ていた。 声をかける前に、ノエルが振り返る。「セレスティアさま」「おはよう」「おはようございます」「箱の整理?」「はい」「増えてきたわね」「増えました」 ノエルは少し困った顔をした。「箱がいっぱいになったら、伯父さまが新しい箱を持ってきます」「そうね」「高い箱を」「止めます」「お願いします」 ノエルは真剣だった。
last updateLast Updated : 2026-08-28
Read more

第十四話 私はあの人を憎んでいました。それでも

 反論書というものは、怒りのまま書くとだいたい失敗する。 セレスティアは、それをよく知っていた。 領地で揉めごとが起きたときも、税の猶予を求める商人へ返書を書くときも、隣領の役人が妙な境界線の主張をしてきたときも、まずは怒りを机の端に置く。 置けないときは、紅茶を飲む。 それでも置けないときは、帳簿を一冊閉じる。 帳簿を閉じる音は、意外と人を冷静にする。 ただし、今回は無理だった。 机の端に置いたはずの怒りが、何度も勝手に戻ってくる。 レイモンド伯爵夫人側から届いた抗議状は、相変わらず書斎の机の上に置かれていた。 丁寧な紙。 整った筆跡。 礼儀正しい文体。 そして、その中にきれいに包まれた悪意。『亡きミレイユ・レイモンド夫人に対し長年の私怨を抱いていた女性が、その遺児の養育に関与することは、児童の精神的安定を著しく損なうおそれがある』 読むたびに、胸の奥が冷える。 腹が立つ。 腹が立つのに、完全には否定できない。 そこが一番厄介だった。「もう一度読む必要があるのか」 向かいの机で書類を確認していたリュシアンが言った。 セレスティアは抗議状から顔を上げた。「必要です」「君は自分で自分の傷口を確認しすぎる」「傷口の場所を知らずに戦うと、そこを刺されたとき倒れます」「刺される前から自分で刺しているように見える」「予行練習です」「やめろ」 低い声だった。 命令口調だが、以前ほど鋭くはない。 心配が混じっている。 それが分かるようになってしまったことが、少し腹立た
last updateLast Updated : 2026-08-29
Read more

第十五話 母親ではなく、祖母が娘を狙った

後見審査まで、あと三日。 そう聞いた夜から、ヴァルクール公爵邸は静かに忙しくなった。 忙しい、という言葉は少し違うかもしれない。 使用人が走り回るわけではない。 怒鳴り声が飛ぶわけでもない。 むしろ、屋敷全体の音は減った。 廊下を歩く足音は控えめになり、扉の開閉は慎重になり、食器の触れ合う音まで小さくなった。 静かすぎる屋敷は、かえって怖い。 ノエルはそれを敏感に感じ取ったらしい。 朝食の席で、スープを匙でかき混ぜながら言った。「みんな、忍者みたいです」 セレスティアは紅茶を吹き出しそうになった。 リュシアンは真顔で固まった。「忍者とは」「絵本に出てきました。音を立てない人です」「この国には忍者はいない」「でも、みんな忍者みたいです」 ノエルは真剣だった。 小犬――まだ正式には候補名のままの「パン」は、机の下で尻尾を振っている。 この犬はたぶん、忍者にはなれない。 足音が大きいし、すぐ椅子に鼻をぶつける。「使用人たちは、あなたを驚かせないように気をつけているの」 セレスティアが言うと、ノエルは匙を止めた。「驚かせないようにすると、かえって怖いです」「そうね」「普通にしてほしいです」 リュシアンが家令を見る。 家令はすぐに頭を下げた。「承知いたしました。少々、通常に戻します」「少々、通常」 ノエルが繰り返す。「それは普通ですか」「普通を急に戻すと、また不自然になるのでしょう」 セレステ
last updateLast Updated : 2026-08-30
Read more

第十六話 私はあの人を憎んでいました。それでも

 審議室は、思っていたよりも明るかった。 高い窓から入る光。 磨かれた長机。 壁際に並ぶ椅子。 記録官の机には、インク壺と白い紙が整然と置かれている。 人の運命を決める部屋というものは、もっと暗く、冷たく、湿った場所であってほしかった。 こんなにも清潔で、明るく、よく磨かれた部屋で、五歳の子供の居場所が話し合われる。 そのことが、セレスティアには少し気味悪く思えた。 長机の向こうには、審査官が三人。 中央に王国後見局の長官。 左右に財務監査院の監査官と、貴族家裁定官。 その横に記録官。 そして、少し離れた席にレイモンド伯爵夫人。 黒衣をまとった老婦人は、まるで悲しみに耐える名家の未亡人のように見えた。 銀髪は美しく結い上げられ、胸元には控えめな真珠。 手袋をはめた手は、膝の上で静かに重ねられている。 その顔には、穏やかな笑み。 ノエルが言っていた。 おばあさまは、笑うと怖い。 確かに、と思った。 怒鳴る人間より、ずっと怖い。 リュシアンはセレスティアの隣に座った。 包帯を巻いた手が、机の上に置かれている。 その手を見ると、少しだけ落ち着いた。 机を割るほど怒った手。 ノエルの背中に触れる前に「触れていいか」と聞く手。 反論書を書いた手。 完璧ではない。 むしろ不器用で、失敗ばかりの手だ。 だが今は、隣にある。「エルフォード様」 中央の長官が口を開いた。「本日は、ノエル・レイモンド嬢の後見および一時保護に関す
last updateLast Updated : 2026-08-31
Read more

第十七話 このままでは、母親と同じことになる

 共同後見人になった最初の朝、セレスティアは眠れなかった。 正確には、少し眠った。 椅子に座ったまま、机に肘をつき、額を手の甲へ乗せた姿勢で、ほんの一刻ほど意識が落ちた。 目が覚めたときには首が痛く、右手の指先にはインクがついていた。 机の上には、昨夜見つかった手紙が置かれている。『ノエルに会わせてくれ。 このままでは、あの子の母親と同じことになる』 何度読んでも、意味が定まらなかった。 脅し。 警告。 父親の焦り。 あるいは、誰かに書かされた文章。 アルベルトの字であることは間違いなさそうだった。 しかし、彼は監視下にいる。 自由に公爵邸の門番へ手紙を渡せる状態ではない。 ならば、誰がこれを届けたのか。 侍女長エレナか。 ジル・サルヴァか。 レイモンド伯爵夫人の手の者か。 それとも、公爵邸の中にまだ誰かいるのか。 考えれば考えるほど、屋敷の壁が薄くなる気がした。 昨日、ノエルは「今日は安心してもいい」と箱に書いた。 小犬の名前はパンになった。 共同後見が認められた。 その夜に、この手紙だ。 大人の世界は本当に、子供が安心した瞬間を狙って壊しに来る。 最低だった。「起きているか」 扉の向こうから、リュシアンの声がした。 いつもより低い。 この男も眠っていないのだろう。「起きています」「入る」
last updateLast Updated : 2026-09-01
Read more

第十八話 赤を捨てないで

 箱が怖くなる、ということがある。 普通なら、そんなことは考えない。 箱はただの箱だ。 木でできていて、蓋があって、中にものを入れる。 それだけのものだ。 けれどノエルにとって、今の箱はただの箱ではなかった。 自分の言葉を入れる場所だった。 大人が泣いても慰めなくていい、と書いた紙。 今日は会わない、と決めた紙。 自分は数字ではない、と書いた紙。 お父様が怖い。でも心配でもある、と書いた紙。 その全部が入っている箱だった。 そこへ、知らない誰かの言葉が勝手に入り込んだ。『お母さまみたいになりたくないなら、赤い花を捨てて』 その紙は、もう箱にはない。 セレスティアが預かり、証拠用の封筒に入れた。 封筒には、ノエル自身がこう書いた。『わたしの言葉ではない紙』 それでも、箱の中に一度入ってしまったという事実は消えない。 ノエルは朝から、箱の蓋を開けられずにいた。 手を伸ばす。 触れる。 でも、開けない。 その横で、パンが箱の角を嗅いでいた。「パン」 ノエルが小さく呼ぶ。 パンは顔を上げる。「食べないで」 パンは尻尾を振った。 まったく分かっていない。 その分からなさに、ノエルは少しだけ笑った。 けれど笑いはすぐ消えた。「パンはいいですね」 ぽつりと言う。「何が?」 セレスティアは、少し離れた椅子に座ったまま聞いた。 近
last updateLast Updated : 2026-09-02
Read more

第十九話 温室に残された薬草箱

 レイモンド邸へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。 窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。 朝の通りにはパン屋の匂いがあり、馬車の車輪が石畳を叩く音があり、子供を連れた母親が露店の前で値切る声がある。 世界は、こちらの事情など知らずに普通に動いている。 ノエルの箱に知らない紙が入れられたことも。 赤い薔薇の花瓶から、ミレイユの紙片と鍵の片割れが出てきたことも。 その紙片に「赤を捨てないで」と書かれていたことも。 街の人々にとっては、何の関係もない。 それが少し羨ましく、少し腹立たしかった。「顔が怖いぞ」 向かいに座るリュシアンが言った。 セレスティアは窓から目を離す。「閣下に言われたくありません」「私は元からだ」「私も最近、元からということにしておきます」「便利な言葉を覚えたな」「あなたから学びました」 リュシアンは少しだけ眉を動かした。 馬車の中には、他に財務監査院の監査官が一人同乗している。 彼はずっと書類に目を落としているが、たぶん聞こえている。 最近、この人は公爵家周辺の会話に慣れてきたらしく、余計な反応をしない。 それはそれで、少し申し訳ない。「緊張しているのか」 リュシアンが尋ねた。 セレスティアは一瞬だけ迷い、正直に答えた。「しています」「温室が怖いか」「温室そのものではなく、ミレイユの隠し方が怖いのです」「隠し方?」「彼女は、昔から秘密を遊びにするところがありました」 セレスティアは膝の上の手を見下ろした。
last updateLast Updated : 2026-09-03
Read more

第二十話 ノエルへ渡さないで

朝、ノエルは青いリボンを何度も触っていた。 布兎の耳に結び直されたリボン。 昨日までと同じ場所にある。 だが、同じではない。 一度ほどかれ、端の縫い目を開かれ、中に隠されていた鍵の片割れを取り出された。 セレスティアが丁寧に縫い直し、結び直したが、布にはわずかに跡が残っている。 ノエルはその跡を指先でなぞった。 怒っているようにも見える。 悲しんでいるようにも見える。 確かめているようにも見える。「痛そうですか」 ノエルが尋ねた。 朝食の前だった。 いつもの小部屋。 机の上には今の箱。 箱は淡い黄色の布袋に入っている。 青い紐は、三人で決めた面倒な結び方できちんと結ばれていた。 パンはその下で丸くなっている。 昨日、箱を食べなかったので、ノエルに「少しえらい」と言われていた。「布兎が?」 セレスティアが聞き返すと、ノエルは頷いた。「リボンのところ」 セレスティアは、布兎の耳をそっと見た。 針を入れた跡は小さい。 だが、ノエルには大きく見えるのだろう。「少し、跡はあります」「痛い?」「痛かったかは分からないわ。でも、大切に直しました」 ノエルは布兎を抱きしめた。「布兎は、怒っていますか」「どうかしら」「わたしなら、怒ります」「そうね」「勝手に秘密を入れられて、あとで開けられて」「ええ」「布兎も、箱に紙を入れたほうがいいですか」
last updateLast Updated : 2026-09-04
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status