ミレイユの棺には、白い花ばかりが飾られていた。
彼女は赤い薔薇が好きだった。
十八歳の誕生日、セレスティアが贈った深紅の薔薇を抱きしめて、子どものようにはしゃいでいたことを覚えている。
『白い花なんて、死んだ人みたいで嫌よ。わたしのお葬式には絶対に飾らないでね』
あのとき、セレスティアはなんと答えたのだったか。
縁起でもないことを言わないで、と叱った。
確か、そんなありきたりな言葉だった。
ミレイユは口を尖らせ、それから、すぐに笑った。
『だって、わたしが先に死んだら、ティアは白い花を選びそうなんだもの。あなた、そういうところ、つまらないくらい真面目でしょう?』
そのつまらない白い花に囲まれて、ミレイユは眠っている。
六年前よりも頬が痩せていた。
瞼は静かに閉じられ、唇には淡い紅が引かれている。
生前の彼女なら、もっと濃い色にしてくれと文句を言ったに違いない。
死んだ人間は、好みを口にできない。
だから生きている人間は、死者を勝手に上品に整える。
生前の面倒な部分を削り取り、思い出しやすい形へと作り替えていく。
セレスティアは棺から目を逸らした。
「よく来られたものね」
背後から声をかけられた。
振り向かなくても誰か分かった。
侯爵夫人ベアトリス。ミレイユの母方の叔母である。
血のつながった姪を失ったばかりだというのに、化粧も衣装も崩れていない。喪服の黒は上質で、胸元には大粒の黒真珠が並んでいた。
悲しみ方にも、身分というものがあるらしい。
セレスティアは一礼した。
「ご無沙汰しております、侯爵夫人」
「挨拶は結構よ。あなたに礼儀を期待しているわけではありませんから」
「では、黙っていたほうがよろしいでしょうか」
「そういうところよ」
「どういうところでしょう」
ベアトリスの眉間に細い皺が寄った。
「人を怒らせるようなことを、平然と言うところ。ミレイユがあなたにどれほど苦しめられたか、少しも分かっていないのね」
周囲の人々が、露骨にこちらへ耳を傾けている。
誰も顔は向けない。
しかし、会話が途切れ、衣擦れの音まで小さくなった。
葬儀で聞く悪口は、普段の悪口より甘いらしい。
死者を悼むという大義がつけば、他人を責めることにも品位が生まれる。
「私は六年間、ミレイユ夫人とお会いしておりません」
セレスティアは静かに答えた。
「ですから、私が彼女を苦しめたというお話には、少々心当たりがありません」
「会わなかったからでしょう」
「会わないことで苦しめた、と?」
「そうよ。あの子はあなたとの仲直りを望んでいた。何度も手紙を書いたのよ。それなのに、あなたは一通も返事をしなかった」
セレスティアは少しだけ視線を伏せた。
返事をしなかったのではない。
読まなかったのだ。
封を切らずに送り返したものもある。火にくべたものもある。最後の数通は、届いたその日に処分するよう使用人へ命じた。
何が書かれていたかは知らない。
知りたくなかった。
「ミレイユ夫人が何を望まれたとしても、それに応える義務が私にあったとは思いません」
「冷たい人」
「そうでしょうね」
否定しなかったことで、ベアトリスはかえって言葉に詰まったらしい。
口元を歪め、扇子を握る指に力を込めた。
「婚約者を奪われたことを、まだ恨んでいるの?」
ようやく、本題が出た。
セレスティアは棺を見た。
白い花。
穏やかな死に顔。
死んだ人間は反論しない。
だから、今ここで自分が何を言っても、醜く見えるのは生き残った側だけだ。
「六年前のことです」
「時間の話をしているのではないわ」
「では、何をお聞きになりたいのでしょう。私がミレイユ夫人を許していたか。あるいは、亡くなったことを喜んでいるか」
「……そんなこと、口にするものではありません」
「口にしなくても、皆様が聞きたがっていることでしょう」
空気がさらに冷えた。
ベアトリスの顔が赤くなる。
怒りのためか、図星を突かれたためかは分からない。
「あなたには、人の心がないのね」
「あるから困っております」
思わず出た言葉だった。
ベアトリスが目を細める。
セレスティアは自分の胸元へ視線を落とした。
喪服の黒い布の下で、心臓は落ち着きなく脈打っている。
葬儀へ来なければよかった。
そう思っている。
同時に、来ないという選択をしなくてよかったとも思っている。
棺を見た瞬間、胸の奥に湧いた感情は悲しみだけではなかった。
驚き。
怒り。
安堵。
ざまあみろ、という卑しい声。
そんなはずはない、と否定する声。
もう二度と謝られることも、言い訳されることもないのだという喪失感。
どれも本物だった。
どれか一つだけを選ぶことなど、できそうになかった。
「失礼いたします」
セレスティアが会話を切り上げようとすると、ベアトリスは低い声で言った。
「泣きもしないのね」
足が止まる。
「ミレイユは、あなたのことを親友だと言っていたわ」
「そうですか」
「あなたは違ったの?」
すぐに答えられなかった。
親友だった。
少なくとも、あの日までは。
ミレイユがアルベルトに口づけられているところを見るまでは。
いや。
見たあとでさえ、親友ではなくなったと認めるまでに、ずいぶん時間がかかった。
嫌いになったからといって、好きだった時間が消えてくれるわけではない。
人の心は、帳簿のようには整理できない。
誤った数字に線を引き、正しい数字を書き直せば済むものではなかった。
「私が何と答えても、侯爵夫人のお気持ちは晴れないと思います」
「逃げるのね」
「ええ」
セレスティアは顔を上げた。
「私は、逃げるのが得意なのです」
その言葉に自分で傷ついた。
だから、微笑んだ。
傷ついていないふりをすることも、得意だった。
ベアトリスのそばを離れ、礼拝堂の後方へ向かう。
参列者たちの視線が追ってくる。
聞こえよがしの囁きもあった。
「よく顔を出せたものだ」
「死んだのを確かめに来たのではなくて?」
「元婚約者の行方も分からないそうよ」
「あの子が夫を奪った罰だと思っているのかしら」
誰かの不幸は、事情を知らない者にとって最上の物語になる。
登場人物を善人と悪人に分けてしまえば、安心して楽しめる。
婚約者を奪った女。
奪われた女。
悪いのはどちらか。
可哀想なのはどちらか。
六年前から、皆そればかり聞きたがった。
セレスティア自身でさえ、何度も考えた。
自分は可哀想な被害者だったのか。
それとも、アルベルトが別の女を選んだ理由すら尋ねず、誇りを守るために何もかも捨てた、扱いづらい女だったのか。
「セレスティア・エルフォード嬢」
低い男の声に呼び止められた。
礼拝堂の柱のそばに、リュシアン・ヴァルクール公爵が立っていた。
六年ぶりに見る彼は、記憶よりも痩せていた。
黒髪は短く整えられ、喪服には皺一つない。妹の棺の前にいるというのに、顔には悲しみらしい悲しみが浮かんでいなかった。
自分も同じように見えているのだろう。
そう思うと、わずかに腹が立った。
「公爵閣下」
「来るとは思わなかった」
「私も、来るつもりはありませんでした」
「では、なぜ来た」
「招待状をいただきましたので」
「葬儀の知らせを、招待状とは呼ばない」
「そうでしたか。地方暮らしが長く、王都の言葉を忘れてしまったようです」
「相変わらずだな」
リュシアンの声には、明らかな棘があった。
「何がでしょう」
「その話し方だ。丁寧な言葉で、相手の口を塞ぐ」
「閣下ほどではございません。閣下は丁寧な言葉すら使わずに塞がれますから」
リュシアンが黙った。
言いすぎた。
だが謝る気にはなれなかった。
彼もまた、六年前にミレイユと絶縁した。
妹がアルベルトと結婚するなら、公爵家の敷居を二度とまたがせないと宣言したのは、この男だ。
それなのに今は、喪主として立派に妹を弔っている。
死んでから家族へ戻すくらいなら、生きているうちに一度くらい迎えに行けばよかったのだ。
「妹の顔は見たのか」
「拝見しました」
「何か思ったか」
「それをお答えする必要がありますか」
「質問に答えろ」
「お断りいたします」
リュシアンの目が険しくなる。
昔から、この男は命令すれば誰もが従うと思っていた。
そして実際、ほとんどの者が従った。
妹だけが従わなかった。
だから見捨てた。
セレスティアはそう考えている。
「妹は最後まで、君の名を口にしていたそうだ」
胸の奥を、指で強く押されたような感覚がした。
だが顔には出さなかった。
「誰からお聞きになったのですか」
「ノエルだ」
「五歳のお子様の言葉でしょう」
「嘘だと言いたいのか」
「幼い子供の記憶は、大人が望む形に変わります。周囲が何度も同じことを尋ねれば、子供はそれを自分の記憶だと思うこともある」
「便利な理屈だな」
「私が聞きたくない話を退けるには、便利でしょうね」
「君は……」
リュシアンが何か言いかけたとき、小さな声が割り込んだ。
「伯父さま」
二人の間に、金色の髪をした少女が立っていた。
五歳にしては小柄だった。
黒い喪服の裾から、細い靴が覗いている。髪には黒いリボンが結ばれていたが、片方が少しだけ曲がっていた。
ミレイユなら、人前へ出す前に必ず直しただろう。
そのことに気づいた自分が嫌だった。
「ノエル」
リュシアンの声がわずかに和らぐ。
だが彼は子供へどう話しかければいいのか分からないらしく、続く言葉が出てこなかった。
ノエルは伯父を見上げたあと、セレスティアへ顔を向けた。
大きな琥珀色の目。
ミレイユの目とは違う。
そう思った直後、少女が僅かに首を傾げた。
その仕草が、ひどく似ていた。
息が止まりそうになる。
「あなたが、セレスティアさまですか」
「ええ」
声が硬くなった。
もっと優しく答えるべきだったと思う。
しかし、優しさを演じる余裕がなかった。
「お母さまのお友達だった人?」
「昔は」
「今は違うの?」
子供は残酷だ。
悪意なく、逃げ道のないところへ言葉を置く。
セレスティアはリュシアンを見た。
助けを求めたわけではない。
ただ、この問いに彼ならどう答えるのか知りたかった。
リュシアンは黙っていた。
大人は、子供に正直であれと言う。
けれど子供が本当に正直な質問をすると、途端に困る。
「今は、分かりません」
セレスティアは答えた。
「死んだ人とは、仲直りも喧嘩もできませんから」
「お母さまは、あなたと仲直りしたがっていました」
「そう」
「手紙も書いていました」
「そうね」
「どうして返事をくれなかったの?」
礼拝堂にいた者たちの耳が、またこちらへ向いた気がした。
リュシアンが一歩前へ出る。
「ノエル。その話は、今は――」
「閣下」
セレスティアは彼を止めた。
「尋ねられたのは私です」
「五歳の子供に何を話すつもりだ」
「それは、私が決めます」
「君は自分が正直なら、子供が傷ついても構わないのか」
「嘘をつけば傷つかないとでも?」
二人が睨み合う。
ノエルはその間で、少しも怯えていなかった。
見慣れているのだろうか。
大人が自分を挟んで争う光景を。
セレスティアはしゃがんだ。
少女と目線を合わせる。
喪服の裾が床へ広がった。
「返事をしなかったのは、私がお母様を許したくなかったからです」
ノエルの瞳が僅かに揺れる。
「お母さまが、悪いことをしたから?」
「ええ」
「お父さまを取ったから?」
喉の奥が詰まった。
誰がそんな言い方を教えたのだろう。
いや、周囲の会話を聞いていれば、子供でも分かる。
「あなたのお父様は、私のものではありませんでした。人は物のように取ったり、取られたりするものではないから」
「でも、婚約者だったのでしょう?」
「そうね」
「だったら、お母さまが取ったんじゃないの?」
大人顔負けの理屈だった。
だが、それはノエル自身の言葉ではない気がした。
誰かが何度も口にしていた言葉を、覚えてしまっただけだ。
「あなたのお母様とお父様は、私に隠れて愛し合っていました。それを知った私は、二人から離れました」
「お母さまが嫌い?」
セレスティアは答えられなかった。
ノエルは待っている。
リュシアンも。
周囲の参列者たちも。
まるで裁判だ。
死者を好きか嫌いか、どちらかに決めなければならない。
「嫌いでした」
小さなどよめきが起きた。
リュシアンの顔が強張る。
ノエルは瞬きもせずに聞いていた。
「とても腹が立っていました。顔も見たくありませんでした」
「今も嫌い?」
「分かりません」
「死んだから?」
「死んだからです」
ノエルは俯いた。
靴の先を見つめている。
泣くかもしれない。
そう思ったが、少女は泣かなかった。
代わりに、静かな声で聞いた。
「お母さまが死んで、うれしいですか?」
礼拝堂の空気が、完全に止まった。
セレスティアの頭には、数え切れない答えが浮かんだ。
嬉しいわけがない。
そんなことを聞いてはいけない。
お母様はあなたを愛していた。
子供を安心させるための、正しい言葉はいくらでもある。
だが、どれも口から出てこなかった。
棺の中のミレイユが、笑っている気がした。
『ティアは嘘が下手ね』
昔、何度も言われた。
本当は違う。
セレスティアは嘘が下手なのではない。
嘘をついたあと、その嘘を守るためにさらに嘘を重ねることが面倒なだけだ。
「嬉しくはありません」
やっと答えた。
「では、悲しい?」
「悲しいだけでもありません」
「よく分からない」
「私にも、よく分かりません」
ノエルはしばらくセレスティアを見つめていた。
「大人なのに?」
「大人でも分からないことはあります。むしろ大人になるほど、分からないことが増えるのかもしれません」
「お母さまも、そう言っていました」
「何を?」
「大人は、自分の気持ちが分からなくなるって」
胸の奥で、何かが軋んだ。
ノエルは小さな手を伸ばした。
セレスティアに触れるのかと思った。
しかし、その指は途中で止まり、そっと下ろされた。
「わたしは、お母さまが死んで悲しいです」
「ええ」
「でも、少しだけ安心もしました」
リュシアンが息を呑んだ。
「ノエル」
「お母さま、ずっと怖がっていたから。夜になると扉を何度も確かめて、窓も閉めて、わたしに大きな声を出すの。朝になるとごめんなさいって泣くの。それが、もうないから」
少女は淡々と話していた。
泣かないようにしているのではない。
泣いてもどうにもならないことを、すでに知っている顔だった。
「だから、わたしも悪い子です」
「違う」
セレスティアの声が強くなった。
ノエルの肩が僅かに跳ねる。
しまったと思い、声を落とす。
「安心したからといって、お母様を愛していなかったことにはなりません」
「でも、死んで安心したのよ」
「一人の人に、二つの気持ちを持ってはいけないという決まりはありません」
「三つでも?」
「三つでも、四つでも」
「嫌いで、好きで、怖くて、会いたいでも?」
セレスティアはすぐには返事ができなかった。
それは、今の自分の気持ちそのものだった。
「ええ」
ようやく頷く。
「全部、本当で構いません」
ノエルは初めて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
笑ったわけではない。
ただ、息を吐いただけだった。
「お母さまも、あなたのことを、そう言っていました」
セレスティアは何も言えなかった。
少女はリュシアンのもとへ戻る。
リュシアンが不器用にその肩へ手を置いた。
ノエルは嫌がりもしなかったが、寄りかかりもしなかった。
互いにどう接すればよいのか分からない伯父と姪。
その姿を見ていると、胸が痛んだ。
「エルフォード嬢」
今度は、年老いた男が声をかけてきた。
公証人の徽章を胸につけている。
灰色の髪を撫でつけ、分厚い書類鞄を抱えていた。
「私は王都公証人組合のオスカー・ベルンと申します。ミレイユ・レイモンド夫人の遺言状をお預かりしております」
「遺言状?」
「はい。葬儀の後、関係者立ち会いのもとで開封するよう、故人から依頼されておりました」
オスカーはセレスティアとリュシアンを交互に見る。
「ヴァルクール公爵閣下。そして、セレスティア・エルフォード嬢。お二人に、ぜひ同席していただきたいのです」
リュシアンの眉が寄る。
「なぜ彼女が必要だ」
「遺言の受取人として、お名前が記されております」
「私に?」
セレスティアは思わず聞き返した。
ミレイユから何かを受け取るつもりなどない。
宝石も。
手紙も。
謝罪も。
何一つ欲しくなかった。
「辞退いたします」
「内容をご確認いただく前に辞退することはできません」
「財産なら不要です」
「財産ではございません」
公証人はノエルを見た。
その視線だけで、嫌な予感がした。
「ミレイユ夫人は、一人娘であるノエル・レイモンド嬢について、特別な遺言を残されました」
セレスティアの背筋が冷える。
リュシアンの手が、ノエルの肩の上で強張った。
「夫人は、ノエル嬢の共同後見人として、お二人を指名しております」
「馬鹿な」
リュシアンが低く吐き捨てる。
セレスティアも同じ言葉を口にしかけた。
だが、ノエルがこちらを見ていた。
先ほどよりもずっと硬い顔で。
捨てられるかどうかを確かめるような目だった。
「遺言状には、セレスティア様への個人的な文言もございます」
公証人は鞄から、封蝋の施された書類を取り出した。
赤い蝋には、ミレイユが結婚後に使っていたレイモンド家の印章が押されている。
「冒頭の一文だけ、故人の指示により、先にお伝えいたします」
セレスティアは立ち上がった。
逃げるべきだ。
そう思った。
六年前と同じように。
何も聞かず、何も確かめず、背を向けてしまえばいい。
けれど、足が動かなかった。
公証人が書面を開く。
乾いた紙の音が、やけに大きく響いた。
「セレスティアへ」
死んだ親友の言葉が、他人の声で読み上げられる。
「私の娘を、あなたにだけは預けたくありません」
ノエルの小さな顔から、色が消えた。
セレスティアは息を止めた。
公証人は一度言葉を切り、続きを読んだ。
「けれど、あなたにしか預けられません」