『親友に婚約者を奪われた私ですが、彼女の葬儀で「娘をお願い」と遺言を渡されました』

『親友に婚約者を奪われた私ですが、彼女の葬儀で「娘をお願い」と遺言を渡されました』

last updateLast Updated : 2026-09-06
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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六年前、親友ミレイユに婚約者アルベルトを奪われたセレスティアは、二人を憎みながら自分の人生を立て直していた。だがミレイユの死後、「娘をお願い」という遺言とともに、五歳のノエルを託される。共同後見人となった冷徹公爵リュシアンはミレイユの兄であり、妹を許せないまま姪を守ろうとしていた。残された手紙、日記、記録を辿るほど、裏切りの裏には恐怖と弱さ、言えなかった助けが浮かび上がる。セレスティアは過去を都合よく美化も断罪もせず、ノエルの言葉を大人の解釈で奪わないよう向き合いながら、リュシアンと不器用に心を寄せ合い、血縁や許しだけでは決まらない新しい家族の形を築いていく。

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Chapter 1

第一話 親友の葬儀で、私は泣かなかった

 ミレイユの棺には、白い花ばかりが飾られていた。

 彼女は赤い薔薇が好きだった。

 十八歳の誕生日、セレスティアが贈った深紅の薔薇を抱きしめて、子どものようにはしゃいでいたことを覚えている。

『白い花なんて、死んだ人みたいで嫌よ。わたしのお葬式には絶対に飾らないでね』

 あのとき、セレスティアはなんと答えたのだったか。

 縁起でもないことを言わないで、と叱った。

 確か、そんなありきたりな言葉だった。

 ミレイユは口を尖らせ、それから、すぐに笑った。

『だって、わたしが先に死んだら、ティアは白い花を選びそうなんだもの。あなた、そういうところ、つまらないくらい真面目でしょう?』

 そのつまらない白い花に囲まれて、ミレイユは眠っている。

 六年前よりも頬が痩せていた。

 瞼は静かに閉じられ、唇には淡い紅が引かれている。

 生前の彼女なら、もっと濃い色にしてくれと文句を言ったに違いない。

 死んだ人間は、好みを口にできない。

 だから生きている人間は、死者を勝手に上品に整える。

 生前の面倒な部分を削り取り、思い出しやすい形へと作り替えていく。

 セレスティアは棺から目を逸らした。

「よく来られたものね」

 背後から声をかけられた。

 振り向かなくても誰か分かった。

 侯爵夫人ベアトリス。ミレイユの母方の叔母である。

 血のつながった姪を失ったばかりだというのに、化粧も衣装も崩れていない。喪服の黒は上質で、胸元には大粒の黒真珠が並んでいた。

 悲しみ方にも、身分というものがあるらしい。

 セレスティアは一礼した。

「ご無沙汰しております、侯爵夫人」

「挨拶は結構よ。あなたに礼儀を期待しているわけではありませんから」

「では、黙っていたほうがよろしいでしょうか」

「そういうところよ」

「どういうところでしょう」

 ベアトリスの眉間に細い皺が寄った。

「人を怒らせるようなことを、平然と言うところ。ミレイユがあなたにどれほど苦しめられたか、少しも分かっていないのね」

 周囲の人々が、露骨にこちらへ耳を傾けている。

 誰も顔は向けない。

 しかし、会話が途切れ、衣擦れの音まで小さくなった。

 葬儀で聞く悪口は、普段の悪口より甘いらしい。

 死者を悼むという大義がつけば、他人を責めることにも品位が生まれる。

「私は六年間、ミレイユ夫人とお会いしておりません」

 セレスティアは静かに答えた。

「ですから、私が彼女を苦しめたというお話には、少々心当たりがありません」

「会わなかったからでしょう」

「会わないことで苦しめた、と?」

「そうよ。あの子はあなたとの仲直りを望んでいた。何度も手紙を書いたのよ。それなのに、あなたは一通も返事をしなかった」

 セレスティアは少しだけ視線を伏せた。

 返事をしなかったのではない。

 読まなかったのだ。

 封を切らずに送り返したものもある。火にくべたものもある。最後の数通は、届いたその日に処分するよう使用人へ命じた。

 何が書かれていたかは知らない。

 知りたくなかった。

「ミレイユ夫人が何を望まれたとしても、それに応える義務が私にあったとは思いません」

「冷たい人」

「そうでしょうね」

 否定しなかったことで、ベアトリスはかえって言葉に詰まったらしい。

 口元を歪め、扇子を握る指に力を込めた。

「婚約者を奪われたことを、まだ恨んでいるの?」

 ようやく、本題が出た。

 セレスティアは棺を見た。

 白い花。

 穏やかな死に顔。

 死んだ人間は反論しない。

 だから、今ここで自分が何を言っても、醜く見えるのは生き残った側だけだ。

「六年前のことです」

「時間の話をしているのではないわ」

「では、何をお聞きになりたいのでしょう。私がミレイユ夫人を許していたか。あるいは、亡くなったことを喜んでいるか」

「……そんなこと、口にするものではありません」

「口にしなくても、皆様が聞きたがっていることでしょう」

 空気がさらに冷えた。

 ベアトリスの顔が赤くなる。

 怒りのためか、図星を突かれたためかは分からない。

「あなたには、人の心がないのね」

「あるから困っております」

 思わず出た言葉だった。

 ベアトリスが目を細める。

 セレスティアは自分の胸元へ視線を落とした。

 喪服の黒い布の下で、心臓は落ち着きなく脈打っている。

 葬儀へ来なければよかった。

 そう思っている。

 同時に、来ないという選択をしなくてよかったとも思っている。

 棺を見た瞬間、胸の奥に湧いた感情は悲しみだけではなかった。

 驚き。

 怒り。

 安堵。

 ざまあみろ、という卑しい声。

 そんなはずはない、と否定する声。

 もう二度と謝られることも、言い訳されることもないのだという喪失感。

 どれも本物だった。

 どれか一つだけを選ぶことなど、できそうになかった。

「失礼いたします」

 セレスティアが会話を切り上げようとすると、ベアトリスは低い声で言った。

「泣きもしないのね」

 足が止まる。

「ミレイユは、あなたのことを親友だと言っていたわ」

「そうですか」

「あなたは違ったの?」

 すぐに答えられなかった。

 親友だった。

 少なくとも、あの日までは。

 ミレイユがアルベルトに口づけられているところを見るまでは。

 いや。

 見たあとでさえ、親友ではなくなったと認めるまでに、ずいぶん時間がかかった。

 嫌いになったからといって、好きだった時間が消えてくれるわけではない。

 人の心は、帳簿のようには整理できない。

 誤った数字に線を引き、正しい数字を書き直せば済むものではなかった。

「私が何と答えても、侯爵夫人のお気持ちは晴れないと思います」

「逃げるのね」

「ええ」

 セレスティアは顔を上げた。

「私は、逃げるのが得意なのです」

 その言葉に自分で傷ついた。

 だから、微笑んだ。

 傷ついていないふりをすることも、得意だった。

 ベアトリスのそばを離れ、礼拝堂の後方へ向かう。

 参列者たちの視線が追ってくる。

 聞こえよがしの囁きもあった。

「よく顔を出せたものだ」

「死んだのを確かめに来たのではなくて?」

「元婚約者の行方も分からないそうよ」

「あの子が夫を奪った罰だと思っているのかしら」

 誰かの不幸は、事情を知らない者にとって最上の物語になる。

 登場人物を善人と悪人に分けてしまえば、安心して楽しめる。

 婚約者を奪った女。

 奪われた女。

 悪いのはどちらか。

 可哀想なのはどちらか。

 六年前から、皆そればかり聞きたがった。

 セレスティア自身でさえ、何度も考えた。

 自分は可哀想な被害者だったのか。

 それとも、アルベルトが別の女を選んだ理由すら尋ねず、誇りを守るために何もかも捨てた、扱いづらい女だったのか。

「セレスティア・エルフォード嬢」

 低い男の声に呼び止められた。

 礼拝堂の柱のそばに、リュシアン・ヴァルクール公爵が立っていた。

 六年ぶりに見る彼は、記憶よりも痩せていた。

 黒髪は短く整えられ、喪服には皺一つない。妹の棺の前にいるというのに、顔には悲しみらしい悲しみが浮かんでいなかった。

 自分も同じように見えているのだろう。

 そう思うと、わずかに腹が立った。

「公爵閣下」

「来るとは思わなかった」

「私も、来るつもりはありませんでした」

「では、なぜ来た」

「招待状をいただきましたので」

「葬儀の知らせを、招待状とは呼ばない」

「そうでしたか。地方暮らしが長く、王都の言葉を忘れてしまったようです」

「相変わらずだな」

 リュシアンの声には、明らかな棘があった。

「何がでしょう」

「その話し方だ。丁寧な言葉で、相手の口を塞ぐ」

「閣下ほどではございません。閣下は丁寧な言葉すら使わずに塞がれますから」

 リュシアンが黙った。

 言いすぎた。

 だが謝る気にはなれなかった。

 彼もまた、六年前にミレイユと絶縁した。

 妹がアルベルトと結婚するなら、公爵家の敷居を二度とまたがせないと宣言したのは、この男だ。

 それなのに今は、喪主として立派に妹を弔っている。

 死んでから家族へ戻すくらいなら、生きているうちに一度くらい迎えに行けばよかったのだ。

「妹の顔は見たのか」

「拝見しました」

「何か思ったか」

「それをお答えする必要がありますか」

「質問に答えろ」

「お断りいたします」

 リュシアンの目が険しくなる。

 昔から、この男は命令すれば誰もが従うと思っていた。

 そして実際、ほとんどの者が従った。

 妹だけが従わなかった。

 だから見捨てた。

 セレスティアはそう考えている。

「妹は最後まで、君の名を口にしていたそうだ」

 胸の奥を、指で強く押されたような感覚がした。

 だが顔には出さなかった。

「誰からお聞きになったのですか」

「ノエルだ」

「五歳のお子様の言葉でしょう」

「嘘だと言いたいのか」

「幼い子供の記憶は、大人が望む形に変わります。周囲が何度も同じことを尋ねれば、子供はそれを自分の記憶だと思うこともある」

「便利な理屈だな」

「私が聞きたくない話を退けるには、便利でしょうね」

「君は……」

 リュシアンが何か言いかけたとき、小さな声が割り込んだ。

「伯父さま」

 二人の間に、金色の髪をした少女が立っていた。

 五歳にしては小柄だった。

 黒い喪服の裾から、細い靴が覗いている。髪には黒いリボンが結ばれていたが、片方が少しだけ曲がっていた。

 ミレイユなら、人前へ出す前に必ず直しただろう。

 そのことに気づいた自分が嫌だった。

「ノエル」

 リュシアンの声がわずかに和らぐ。

 だが彼は子供へどう話しかければいいのか分からないらしく、続く言葉が出てこなかった。

 ノエルは伯父を見上げたあと、セレスティアへ顔を向けた。

 大きな琥珀色の目。

 ミレイユの目とは違う。

 そう思った直後、少女が僅かに首を傾げた。

 その仕草が、ひどく似ていた。

 息が止まりそうになる。

「あなたが、セレスティアさまですか」

「ええ」

 声が硬くなった。

 もっと優しく答えるべきだったと思う。

 しかし、優しさを演じる余裕がなかった。

「お母さまのお友達だった人?」

「昔は」

「今は違うの?」

 子供は残酷だ。

 悪意なく、逃げ道のないところへ言葉を置く。

 セレスティアはリュシアンを見た。

 助けを求めたわけではない。

 ただ、この問いに彼ならどう答えるのか知りたかった。

 リュシアンは黙っていた。

 大人は、子供に正直であれと言う。

 けれど子供が本当に正直な質問をすると、途端に困る。

「今は、分かりません」

 セレスティアは答えた。

「死んだ人とは、仲直りも喧嘩もできませんから」

「お母さまは、あなたと仲直りしたがっていました」

「そう」

「手紙も書いていました」

「そうね」

「どうして返事をくれなかったの?」

 礼拝堂にいた者たちの耳が、またこちらへ向いた気がした。

 リュシアンが一歩前へ出る。

「ノエル。その話は、今は――」

「閣下」

 セレスティアは彼を止めた。

「尋ねられたのは私です」

「五歳の子供に何を話すつもりだ」

「それは、私が決めます」

「君は自分が正直なら、子供が傷ついても構わないのか」

「嘘をつけば傷つかないとでも?」

 二人が睨み合う。

 ノエルはその間で、少しも怯えていなかった。

 見慣れているのだろうか。

 大人が自分を挟んで争う光景を。

 セレスティアはしゃがんだ。

 少女と目線を合わせる。

 喪服の裾が床へ広がった。

「返事をしなかったのは、私がお母様を許したくなかったからです」

 ノエルの瞳が僅かに揺れる。

「お母さまが、悪いことをしたから?」

「ええ」

「お父さまを取ったから?」

 喉の奥が詰まった。

 誰がそんな言い方を教えたのだろう。

 いや、周囲の会話を聞いていれば、子供でも分かる。

「あなたのお父様は、私のものではありませんでした。人は物のように取ったり、取られたりするものではないから」

「でも、婚約者だったのでしょう?」

「そうね」

「だったら、お母さまが取ったんじゃないの?」

 大人顔負けの理屈だった。

 だが、それはノエル自身の言葉ではない気がした。

 誰かが何度も口にしていた言葉を、覚えてしまっただけだ。

「あなたのお母様とお父様は、私に隠れて愛し合っていました。それを知った私は、二人から離れました」

「お母さまが嫌い?」

 セレスティアは答えられなかった。

 ノエルは待っている。

 リュシアンも。

 周囲の参列者たちも。

 まるで裁判だ。

 死者を好きか嫌いか、どちらかに決めなければならない。

「嫌いでした」

 小さなどよめきが起きた。

 リュシアンの顔が強張る。

 ノエルは瞬きもせずに聞いていた。

「とても腹が立っていました。顔も見たくありませんでした」

「今も嫌い?」

「分かりません」

「死んだから?」

「死んだからです」

 ノエルは俯いた。

 靴の先を見つめている。

 泣くかもしれない。

 そう思ったが、少女は泣かなかった。

 代わりに、静かな声で聞いた。

「お母さまが死んで、うれしいですか?」

 礼拝堂の空気が、完全に止まった。

 セレスティアの頭には、数え切れない答えが浮かんだ。

 嬉しいわけがない。

 そんなことを聞いてはいけない。

 お母様はあなたを愛していた。

 子供を安心させるための、正しい言葉はいくらでもある。

 だが、どれも口から出てこなかった。

 棺の中のミレイユが、笑っている気がした。

『ティアは嘘が下手ね』

 昔、何度も言われた。

 本当は違う。

 セレスティアは嘘が下手なのではない。

 嘘をついたあと、その嘘を守るためにさらに嘘を重ねることが面倒なだけだ。

「嬉しくはありません」

 やっと答えた。

「では、悲しい?」

「悲しいだけでもありません」

「よく分からない」

「私にも、よく分かりません」

 ノエルはしばらくセレスティアを見つめていた。

「大人なのに?」

「大人でも分からないことはあります。むしろ大人になるほど、分からないことが増えるのかもしれません」

「お母さまも、そう言っていました」

「何を?」

「大人は、自分の気持ちが分からなくなるって」

 胸の奥で、何かが軋んだ。

 ノエルは小さな手を伸ばした。

 セレスティアに触れるのかと思った。

 しかし、その指は途中で止まり、そっと下ろされた。

「わたしは、お母さまが死んで悲しいです」

「ええ」

「でも、少しだけ安心もしました」

 リュシアンが息を呑んだ。

「ノエル」

「お母さま、ずっと怖がっていたから。夜になると扉を何度も確かめて、窓も閉めて、わたしに大きな声を出すの。朝になるとごめんなさいって泣くの。それが、もうないから」

 少女は淡々と話していた。

 泣かないようにしているのではない。

 泣いてもどうにもならないことを、すでに知っている顔だった。

「だから、わたしも悪い子です」

「違う」

 セレスティアの声が強くなった。

 ノエルの肩が僅かに跳ねる。

 しまったと思い、声を落とす。

「安心したからといって、お母様を愛していなかったことにはなりません」

「でも、死んで安心したのよ」

「一人の人に、二つの気持ちを持ってはいけないという決まりはありません」

「三つでも?」

「三つでも、四つでも」

「嫌いで、好きで、怖くて、会いたいでも?」

 セレスティアはすぐには返事ができなかった。

 それは、今の自分の気持ちそのものだった。

「ええ」

 ようやく頷く。

「全部、本当で構いません」

 ノエルは初めて、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 笑ったわけではない。

 ただ、息を吐いただけだった。

「お母さまも、あなたのことを、そう言っていました」

 セレスティアは何も言えなかった。

 少女はリュシアンのもとへ戻る。

 リュシアンが不器用にその肩へ手を置いた。

 ノエルは嫌がりもしなかったが、寄りかかりもしなかった。

 互いにどう接すればよいのか分からない伯父と姪。

 その姿を見ていると、胸が痛んだ。

「エルフォード嬢」

 今度は、年老いた男が声をかけてきた。

 公証人の徽章を胸につけている。

 灰色の髪を撫でつけ、分厚い書類鞄を抱えていた。

「私は王都公証人組合のオスカー・ベルンと申します。ミレイユ・レイモンド夫人の遺言状をお預かりしております」

「遺言状?」

「はい。葬儀の後、関係者立ち会いのもとで開封するよう、故人から依頼されておりました」

 オスカーはセレスティアとリュシアンを交互に見る。

「ヴァルクール公爵閣下。そして、セレスティア・エルフォード嬢。お二人に、ぜひ同席していただきたいのです」

 リュシアンの眉が寄る。

「なぜ彼女が必要だ」

「遺言の受取人として、お名前が記されております」

「私に?」

 セレスティアは思わず聞き返した。

 ミレイユから何かを受け取るつもりなどない。

 宝石も。

 手紙も。

 謝罪も。

 何一つ欲しくなかった。

「辞退いたします」

「内容をご確認いただく前に辞退することはできません」

「財産なら不要です」

「財産ではございません」

 公証人はノエルを見た。

 その視線だけで、嫌な予感がした。

「ミレイユ夫人は、一人娘であるノエル・レイモンド嬢について、特別な遺言を残されました」

 セレスティアの背筋が冷える。

 リュシアンの手が、ノエルの肩の上で強張った。

「夫人は、ノエル嬢の共同後見人として、お二人を指名しております」

「馬鹿な」

 リュシアンが低く吐き捨てる。

 セレスティアも同じ言葉を口にしかけた。

 だが、ノエルがこちらを見ていた。

 先ほどよりもずっと硬い顔で。

 捨てられるかどうかを確かめるような目だった。

「遺言状には、セレスティア様への個人的な文言もございます」

 公証人は鞄から、封蝋の施された書類を取り出した。

 赤い蝋には、ミレイユが結婚後に使っていたレイモンド家の印章が押されている。

「冒頭の一文だけ、故人の指示により、先にお伝えいたします」

 セレスティアは立ち上がった。

 逃げるべきだ。

 そう思った。

 六年前と同じように。

 何も聞かず、何も確かめず、背を向けてしまえばいい。

 けれど、足が動かなかった。

 公証人が書面を開く。

 乾いた紙の音が、やけに大きく響いた。

「セレスティアへ」

 死んだ親友の言葉が、他人の声で読み上げられる。

「私の娘を、あなたにだけは預けたくありません」

 ノエルの小さな顔から、色が消えた。

 セレスティアは息を止めた。

 公証人は一度言葉を切り、続きを読んだ。

「けれど、あなたにしか預けられません」

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第一話 親友の葬儀で、私は泣かなかった
 ミレイユの棺には、白い花ばかりが飾られていた。 彼女は赤い薔薇が好きだった。 十八歳の誕生日、セレスティアが贈った深紅の薔薇を抱きしめて、子どものようにはしゃいでいたことを覚えている。『白い花なんて、死んだ人みたいで嫌よ。わたしのお葬式には絶対に飾らないでね』 あのとき、セレスティアはなんと答えたのだったか。 縁起でもないことを言わないで、と叱った。 確か、そんなありきたりな言葉だった。 ミレイユは口を尖らせ、それから、すぐに笑った。『だって、わたしが先に死んだら、ティアは白い花を選びそうなんだもの。あなた、そういうところ、つまらないくらい真面目でしょう?』 そのつまらない白い花に囲まれて、ミレイユは眠っている。 六年前よりも頬が痩せていた。 瞼は静かに閉じられ、唇には淡い紅が引かれている。 生前の彼女なら、もっと濃い色にしてくれと文句を言ったに違いない。 死んだ人間は、好みを口にできない。 だから生きている人間は、死者を勝手に上品に整える。 生前の面倒な部分を削り取り、思い出しやすい形へと作り替えていく。 セレスティアは棺から目を逸らした。「よく来られたものね」 背後から声をかけられた。 振り向かなくても誰か分かった。 侯爵夫人ベアトリス。ミレイユの母方の叔母である。 血のつながった姪を失ったばかりだというのに、化粧も衣装も崩れていない。喪服の黒は上質で、胸元には大粒の黒真珠が並んでいた。 悲しみ方にも、身分というものがあるらしい。 セレスティアは一礼した。「ご無沙汰しております、侯爵夫人」「挨拶は結構よ。あなたに礼儀を期待しているわけではありませんから」「では、黙っていたほうがよろしいでしょうか」「そういうところよ」「どういうところでしょう」 ベアトリスの眉間に細い皺が寄った。「人を怒らせるようなことを、平然と言うところ。ミレイユがあなたにどれほど苦しめられたか、少しも分かっていないのね」 周囲の人々が、露骨にこちらへ耳を傾けている。 誰も顔は向けない。 しかし、会話が途切れ、衣擦れの音まで小さくなった。 葬儀で聞く悪口は、普段の悪口より甘いらしい。 死者を悼むという大義がつけば、他人を責めることにも品位が生まれる。「私は六年間、ミレイユ夫人とお会いしておりません」 セレスティアは静か
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第二話 あなたにだけは預けたくない
「けれど、あなたにしか預けられません」 死んだ親友の言葉は、どうしてこんなにも勝手なのだろう。 セレスティアは、公証人の手にある遺言状を見つめた。 紙は薄い。 封蝋も、そこに押された印章も、特別なものではない。 それなのに、その一枚が急に重く見えた。 人ひとりの人生どころか、幼い子供の行き先まで決める重さを持っている。「読み間違いではないのか」 先に口を開いたのはリュシアンだった。 声こそ抑えているが、その低さに怒りが滲んでいた。 公証人オスカーは、慣れた様子で遺言状を確かめ直す。「間違いございません。故人の自筆であり、証人二名の署名もあります。作成日は三か月前です」「三か月前……」 セレスティアは呟いた。 事故で亡くなる三か月も前に、ミレイユは自分の死後を考えていたことになる。 病を患っていたとは聞いていない。 少なくとも、葬儀では事故死だと説明されていた。「妹は、自分が死ぬと知っていたのか」 リュシアンが尋ねる。「その点については、私からは何とも申し上げられません。遺言状を作成された理由を尋ねた際、夫人は『万一に備えて』とだけ」「万一に備えて、六年も会っていない女へ娘を預ける遺言を書くのか」「閣下」 オスカーは少しだけ声を硬くした。「私は遺言を作成した公証人ではなく、保管と執行を委任された者です。故人の真意までは存じません」「なら、誰が作成した」「王都西区の公証人、エドガー・ハインズです。ただし現在、療養のため王都を離れております」 出来すぎている。 セレスティアはそう思った。 事情を詳しく聞ける人間は、その場にいない。 死者は説明しない。 残された者だけが、断片を拾い集めて勝手に意味をつける。「続きがあるのでしょう」 セレスティアは言った。「ございます」「読んでください」「待て」 リュシアンが遮る。「なぜだ」「ここで読むおつもりですか」 セレスティアは周囲へ目を向けた。 葬儀の参列者たちは、遠巻きにこちらを窺っている。 聞こえないふりをしているが、誰も帰ろうとしない。 あと半刻もすれば、ミレイユの遺言にセレスティアの名があったという噂が王都中へ広がるだろう。「別室をご用意しております」 オスカーが言った。「関係者のみで、正式な開封と確認を行います。ノエル様にも立ち会って
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第三話 死んだ妹より、あなたのほうが冷たい
 葬儀の日の夕暮れは、妙に長かった。 太陽はとっくに西へ傾いているはずなのに、空の端に薄い金色が残り続けている。 まるで、一日が終わることを嫌がっているようだった。 セレスティアは公爵家の馬車の中で、膝の上に置いた遺言状の写しを見下ろしていた。 何度読み返しても、内容は変わらない。 共同後見人。 七日以内の署名。 信託財産。 乳母マルタの継続雇用。 ミレイユらしいと言えば、あまりにもミレイユらしい。 自分が死んだあとでさえ、人を振り回す。 人の感情を勝手に見抜いた気になって、逃げ道を塞ぐ。 けれど本当に腹立たしいのは、その読みが外れていないことだった。 セレスティアは七日間、考えると言ってしまった。 言わされたのではない。 自分で言った。 それが一番厄介だった。 向かいの席では、ノエルが小さな鞄を両腕で抱えている。 黒い革鞄だった。 子供が持つには地味すぎる。 金具は古く、角が擦り切れている。おそらくミレイユのものではなく、誰か大人のお下がりだろう。 隣に座る乳母マルタは、ずっと無言だった。 四十代半ばほどの女で、髪はきつく結い上げ、喪服の襟元まで隙なく整えている。痩せてはいるが、弱々しくはない。むしろ、骨ばった指には妙な力があった。 馬車が揺れるたび、ノエルの肩へ手を伸ばす。 労わるためではない。 位置を直すような触れ方だ。「ノエル様。背筋を」「はい」 ノエルはすぐに背を伸ばす。「鞄を膝に置きなさい。抱えるものではありません」「はい」 ノエルは鞄を膝に置く。 だが、指は金具のあたりを握ったままだった。 セレスティアはそれを見ていた。 マルタの視線がこちらへ向く。「お見苦しいところをお見せしました、エルフォード様。奥様の葬儀で、少々気が緩んでいるようでございます」 気が緩んで。 五歳の子供に対して使う言葉だろうか。 セレスティアは微笑まなかった。「お母様を亡くした日に気を張っているほうが、不自然ではありませんか」 マルタは一瞬、目を瞬かせた。 すぐに控えめな笑みを作る。「お優しいのですね」「そう聞こえましたか」「はい。ですが、子供は甘やかしすぎると、あとで本人が苦しみます」「そうですか」「奥様も、それはよくお分かりでした。ノエル様はお可愛らしいので、周囲が何でも許してしまい
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第四話 嫌いな女と同じ目をした子
朝が来た。 それだけのことに、セレスティアは少し驚いた。 昨夜、眠った記憶がほとんどない。 机の上には、ミレイユの手紙が置かれている。 開封はしていない。 封蝋もそのまま。 ただ、枕元に置く勇気はなく、かといって引き出しの中へ隠すこともできず、結局、机の中央に置いたまま夜を越した。 目を覚まして最初に見たのが、親友だった女の筆跡である。 目覚めとしては最低だった。「……おはよう、ミレイユ」 言ってから、自分で嫌になる。 死者へ挨拶をするほど寂しい女になったつもりはない。 いや、違う。 寂しい女ではあった。 ただ、それを自分で認めるのが癪だった。 窓の外では、公爵邸の庭師たちがすでに仕事を始めている。 白い花が多い。 昨夜も思ったが、この屋敷には白が多すぎる。 白い壁。 白い花。 白い石畳。 清潔で、上品で、どこか息苦しい。 ミレイユなら、三日で赤い薔薇を植え始めただろう。 そしてリュシアンと喧嘩になったに違いない。『お兄様の屋敷は、お墓みたいでつまらないわ』 そんな声が聞こえた気がして、セレスティアは眉間を押さえた。 思い出は、本人の許可なく勝手に蘇る。 厄介だ。 身支度を終え、廊下に出ると、ちょうどリュシアンが東棟のほうから歩いてきた。 昨夜と同じ黒い服ではない。 濃紺の上着に着替えている。 しかし顔色は、昨夜より悪かった。「おはようございます、閣下」「ああ」「眠れませんでしたか」「少しは」「少し、という言い方は、だいたい眠れていない人の言い方です」「君こそ、人の顔色を批評できる顔ではない」「私はもともとこの顔です」「私の顔が怖いと言われた仕返しか」「まだ根に持っていらしたのですか」「根に持つほどではない」「根に持つ方は、皆そう仰います」 リュシアンは言い返そうとして、やめた。 朝から口論する体力がなかったのかもしれない。 セレスティアも、今日は少しだけ口を慎もうと思った。 思っただけだった。「ノエルは?」「まだ起きていない」「本当に?」「使用人からは、そう報告を受けた」「ご自分で確認は?」「扉の前までは行った」「中へは?」「寝ている子供の部屋へ、勝手に入るわけにはいかないだろう」 思ったより常識があった。 少しだけ感心する。 だが、すぐに別の問題へ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第五話 いい子なら、捨てませんか
 レイモンド邸は、思っていたよりも静かだった。 人の住まなくなった屋敷の静けさではない。 つい昨日まで誰かが泣き、怒り、歩き回り、扉を閉め、窓の鍵を何度も確かめていた気配が、急に息を殺しているような静けさだった。 門には財務監査院の封印が貼られている。 黒い蝋に王国の紋章。 その厳めしさのわりに、門扉の隙間から見える庭は荒れていた。 枯れかけた草。 剪定されていない低木。 白い花が数本だけ、倒れるように咲いている。 ミレイユなら怒っただろう。 そう思った瞬間、セレスティアは自分の中の声にうんざりした。 何を見てもミレイユに結びつく。 赤い薔薇。 白い花。 曲がったリボン。 下手な縫い目。 そして、今は荒れた庭。 嫌いだと決めた相手ほど、どうして細かいことまで覚えているのだろう。「顔色が悪い」 隣でリュシアンが言った。「朝から何度目ですか、それ」「事実だからだ」「閣下も似たような顔をなさっています」「私は元からだと言われた」「ノエルにですね」「君も笑った」「笑っていません。肩が寒かっただけです」「今日も暖かい」「では、心が冷えているのでしょう」 リュシアンは門前で立ち止まり、こちらを見た。「緊張しているのか」「しています」 セレスティアは正直に答えた。 するとリュシアンは、少しだけ驚いたような顔をした。「何ですか」「いや。君が素直に認めるとは思わなかった」「私も毎日少しずつ成長しています」「一言多いところは変わらない」「そこは成長対象外です」 財務監査院の役人が封印を外し、扉を開けた。 年配の男で、名をバルドと言った。 彼はリュシアンに深く頭を下げたあと、セレスティアへ少し探るような視線を向けた。「エルフォード伯爵令嬢でいらっしゃいますね」「はい」「故レイモンド夫人の……」「元親友です」 役人は言葉に詰まった。 言いにくい関係を先に言われると、人はだいたい困る。「失礼いたしました」「お気になさらず。私自身、どう名乗るべきか迷っておりますので」 リュシアンが横から低く言う。「役人を困らせるな」「困らせていません。補助しています」「補助という言葉の意味が私と違うらしい」 バルドは咳払いをした。「屋敷内は最低限の確認を済ませております。貴重品、帳簿類、薬品類は押収
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第六話 いい子でいれば、置いていかれないと思っている
 ミレイユの葬儀が終わって二日後、セレスティアは再び彼女の屋敷を訪れていた。 六年前なら、どれほど事情を説明されても、この家の敷居をまたぐ自分など想像できなかっただろう。親友だった女が、自分の婚約者だったアルベルトと暮らし、その娘を育てた家である。門柱を見るだけでも胸の奥に古い傷が疼くような場所へ、今のセレスティアは自分の意思で来ていた。 ただし、ミレイユを許したからではない。 死んだからといって、されたことが消えたわけでもない。 理由は一つだった。 この家に、五歳のノエルがいるからだ。「先に申し上げておきますが、本日の話し合いで恒久的な後見方針まで決める必要はありません。まずノエル嬢の現在の生活環境を確認し、誰がどの範囲まで日常の判断を担うか、当面の体制を整えることが目的です」 応接室でそう説明したのは、後見関係の手続きを担当するエリス・モーランだった。三十代半ばほどの女性で、感情を挟まない話し方をするが、冷たいという印象はない。むしろ、今のセレスティアには、その事務的な口調の方がありがたかった。 向かいにはリュシアン・ヴァルクールが座っている。ミレイユの兄であり、この二日で何度か顔を合わせることになった男だが、相変わらず愛想はない。黒い上着も、背筋を崩さない座り方も、葬儀の日からほとんど変わらなかった。 その隣にはアルベルトもいる。 六年前にセレスティアとの婚約を捨て、ミレイユを選んだ男。 昔なら、同じ部屋へいるだけで胸が苦しくなったのかもしれない。しかし今は、嫌悪とも怒りともつかない疲労の方が先に立った。人間というのは不思議なもので、六年も経つと、大恋愛の終わりだと思っていた男を見ても「そこに座られると資料が取りにくい」と思えるようになるらしい。「アルベルト様については、実父であること自体に争いはありません。ただし、故人の遺言には、ノエル嬢の生活についてセレスティア様とリュシアン公爵へ相談するよう明記されています」 エリスの説明に、アルベルトが苦い顔をした。「相談ではなく、ほとんど俺を信用していない書き方だっただろう」 セレスティアは思わず彼を見る。「そこを気にするんですか」「気にするだろう。俺は父親だ」「父親だからこそ、今まで何をしていたのかも確認されるんでしょう」「分かっている。分かっているけど、君に言われると……い
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第七話 六年間、開けなかった手紙
朝、セレスティアが目を覚ましたとき、寝台の端に小さな重みがあった。 ノエルは横向きになって眠っていた。 腕には布兎。 足元には、まだ名前のない小犬。 いや、名前の候補はある。 パン。 犬にパン。 昨夜その候補を聞いたとき、セレスティアは笑えばよいのか、泣けばよいのか分からなかった。 硬くなっても捨てられなかったもの。 お腹が空いた夜に、そこにあるだけで少し安心できるもの。 ノエルにとってパンとは、食べ物であると同時に、見捨てられないためのお守りだったのかもしれない。 その名を小犬につけようとしている。 可愛いだけではない。 痛々しい。 でも、痛々しさごと大切にしたい名前だった。「……ん」 ノエルが小さく身じろぎした。 まだ眠っている。 寝顔は年相応に幼い。 起きているときのほうが、ずっと大人びて見える。 つまり、この子は起きている間、ずっと身構えているのだ。 それを思うと、胸が苦しくなった。 セレスティアはそっと寝台から降りようとした。 その瞬間、ノエルの手が寝間着の袖を掴んだ。「……行かないで」 寝言だった。 セレスティアは動きを止める。 ノエルの目は閉じている。 起きていない。 それでも、指だけがぎゅっと袖を握っている。「行きません」 小声で答えると、ノエルの指から少しだけ力が抜けた。 眠っていても、聞こえているのだろうか。 それとも、そういう言葉を待ちながら眠っているのだろうか。 どちらにしても、痛い。 人に必要とされることは、こんなにも痛いものだったか。 セレスティアはしばらくそのまま座っていた。 窓の外は薄曇り。 朝日は弱く、部屋の中に柔らかな灰色の光が落ちている。 小犬が床の上で目を開け、こちらを見た。 そして、くぅん、と小さく鳴いた。「あなたまで起きましたか」 セレスティアが囁くと、小犬は尻尾を一度だけ振った。 犬はいい。 言い訳をしない。 ただ腹が減れば鳴き、眠ければ寝る。 人間も本来はそのくらい単純でもよかったのではないか。 そう思ったところで、扉が控えめに叩かれた。 ノエルの指が袖を掴んだままなので、セレスティアは返事だけをした。「はい」「私だ」 リュシアンの声だった。 朝から少し低い。 寝起きなのか、また眠れていないのか。「どうぞ、と言
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第八話 お母さまは、あなたの名前を呼んで死にました
子供に悪い知らせを伝えるとき、大人はたいてい、少しだけ嘘をつく。 大丈夫。 心配いらない。 すぐ終わる。 怖くない。 そのどれもが、優しさから出た言葉であることは分かる。 けれどセレスティアは、それらの言葉が昔からあまり好きではなかった。 大丈夫ではないから、そう言うのだ。 心配があるから、心配いらないと言うのだ。 すぐ終わるものなら、わざわざ励まさない。 怖くないものなら、怖くないと言う必要もない。 子供は、大人が思うほど鈍くない。 むしろ、大人の言葉の裏にある震えを、誰より早く嗅ぎ取る。 だからこそ、ノエルの小部屋へ向かう廊下で、セレスティアは何度も息を整えなければならなかった。 隣を歩くリュシアンも、いつもより無口だった。 いや、いつも無口ではある。 だが今の沈黙は、言葉を節約している沈黙ではない。 何を言えばいいか分からず、全部喉の奥に詰まらせている沈黙だった。「閣下」「何だ」「顔が怖いです」「……努力している」「努力してそれですか」「君は本当に、今言うことか」「今だからです。ノエルは、あなたの顔だけで『全部自分が悪いのかもしれない』と思います」 リュシアンは足を止めた。 眉間に指を当て、深く息を吐く。 そして、少しだけ口元を緩めようとした。 失敗した。 怖さの質が変わっただけだった。「やめましょう」 セレスティアは言った。「笑わないほうが自然です」
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第九話 表だけなら、読めます
手紙には、中身を読まなくても刺さるものがある。 セレスティアは、そのことを初めて知った。 ヴァルクール公爵家の書斎には、朝の光が斜めに差し込んでいた。 机の上には、小さな木箱が一つ置かれている。 昨日、金庫へ移された手紙の箱から、リュシアンが選んで持ってきたものだった。 中には、ミレイユがセレスティアへ宛てて書きながら、一度も投函しなかった手紙が十数通だけ入っている。 全部ではない。 全部など、無理だ。 箱を開けた瞬間、また逃げたくなる自信があった。 だから今日は、表だけ。 封を切らない。 中身は読まない。 宛名と日付を見るだけ。 それが、今日の正解だった。「本当に、表だけですか」 ノエルが椅子の上で背筋を伸ばして尋ねた。 膝の上には布兎。 足元には小犬。 名前はまだ正式には決まっていない。 だがリュシアンが今朝、うっかり「パン」と呼んでしまい、小犬が盛大に尻尾を振ったため、屋敷の使用人たちの間ではすでに半分ほど決定した空気になっている。 ノエルはそれを察して、少しむっとしていた。 名前を決めるのは自分だと、昨夜から三度も言っている。 そのたびにリュシアンは真顔で謝った。 公爵が五歳児に犬の命名権について謝罪する姿は、なかなか貴重だった。「ええ。表だけ」 セレスティアは答えた。「封は開けません」「中に怖いことが書いてあるかもしれないから?」「そうね」「でも、嬉しいことも書いてある
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第十話 十歳になったら読む手紙
 金庫の扉が閉まる音は、思っていたよりも重かった。 鉄と魔石を組み合わせたヴァルクール公爵家の金庫は、開けるときにも、閉じるときにも、屋敷そのものが小さく息をするような音を立てる。 ノエルはその音を聞いて、布兎を胸に抱いたまま、ほんの少し肩を揺らした。 布兎の耳には、セレスティアの青いリボンが結ばれている。 曲がったまま。 昨日、ノエルはそれを直さなかった。 セレスティアが戻ってきたら直してもらう、と言った。 だから今も、そのリボンは少し斜めに結ばれている。 正直、見ていると直したくなる。 だが、直さない。 曲がったリボンにも、今は意味がある。「二段目、左の箱」 リュシアンが確認するように言った。 ノエルは真剣な顔で頷く。「二段目、左の箱」「鍵は私が持つ」「鍵は伯父さま」「開けるときは、君とセレスティアに知らせる」「勝手に読まない」「読まない」 リュシアンの声は硬かった。 硬いが、嘘ではない。 ノエルは今度、セレスティアを見る。「セレスティアさまも、勝手に読まない」「読みません」「でも、読みたくなったら?」 なかなか鋭い。 セレスティアは少しだけ言葉に詰まった。「読みたくなったら、まずあなたに言います」「読みたいですって?」「ええ」「わたしが駄目と言ったら?」「読みません」「本当に?」「本当に」 ノエルはまだ疑っている顔だった。
last updateLast Updated : 2026-08-25
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