Todos los capítulos de 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった: Capítulo 1 - Capítulo 10

23 Capítulos

第1話

出発の数日前、康司は寧々を抱きしめながら、何度も優しく約束してくれていた。今度の旅行だけは絶対にふたりきりにする、と。これまで我慢させてきた分、今回はふたりの時間を作って、誰にも邪魔させない、と。実のところ寧々は、彼の注文履歴をちらりと目にしたことがあった。特注のダイヤモンドリング。宛先は、旅行先のホテルに指定されていた。あのとき寧々は胸を熱くし、思わず目を潤ませた。ふたりはバタバタと籍を入れただけで、プロポーズも式も挙げていない。ずっと心の奥底で、そのことを寂しく思っていたのだ。康司はちゃんと覚えていてくれた。そう思うだけで、日々の疲れも吹き飛ぶようだった。だからこそ寧々は胸を躍らせて、丸1年待ち続けたこの旅行の出発の日を迎えたのだ。なのに、ふたりだけの世界だと思っていたのは、結局、自分ひとりの勝手な期待でしかなかった。胸が締め付けられるような苦しさがこみ上げ、息が詰まりそうになる。寧々はふたりのほうを見ることなく、黙って窓の外に顔を向けた。思えば、康司と付き合いだしてから今日まで、ふたりだけの世界なんて一度もなかった。デートのたびに、ちょっとした小旅行のたびに、ふたりきりで過ごすはずの時間のたびに、必ずと言っていいほど香代の姿があった。偶然居合わせることもあれば、あらかじめ康司と約束していることもある。だが大抵の場合、香代は呼ばれもせずにふらりと現れるのだ。そのたびに、康司の言い分はいつも同じだった。「寧々、お前だってこれからは香代のこと、家族みたいに思ってやってくれよ」「あいつはこの街でひとりぼっちで、身内も友達もいないんだ」「実家の親からも、気にかけてやってくれって頼まれてるし」「今回だけ、一緒に連れて行ってやろうよ、な?拗ねないでくれ」その言葉を聞くたびに寧々は、胸の内のもやもやとした落胆を呑み込んできた。他人のことで揉めたくない。心の狭い女だと思われたくない。そう自分に言い聞かせ、何度も何度も譲歩を重ねてきたのだ。だが、まさか思ってもみなかった。最初に譲ってしまったそのときから、康司とふたりきりの時間は、二度と手に入らなくなったのだ。……隣では、康司と香代が盛り上がった様子で、現地の観光地について話し込んでいる。「お前が言ってたあの旧市街の屋台、あんまり評判良
Leer más

第2話

飛行機が着陸し、乗客の波が手荷物受取所へと流れていく。寧々はその一角に立ち、静かに自分のスーツケースが出てくるのを待っていた。ターンテーブルがぐるぐると回る中、荷物を引き上げ、さきほどまで康司と香代が立っていたあたりへ目をやる。ふたりの姿はすでになかった。とっくに人混みへ消えている。こういう扱いにはもう、寧々もすっかり慣れきっていた。これまで何度旅行に出かけても、香代がいれば康司は決まって寧々を真っ先に置き去りにし、香代の世話ばかり焼いて、平気でその場にひとり残していく。心は不思議なくらい波立たなかった。重いスーツケースをひとりで引きながら、寧々は空港のロビーを一歩一歩抜け、タクシーを拾い、事前に予約しておいたホテルの住所を告げた。ようやくホテルに到着し、寧々はフロントへチェックインを申し出た。だがフロントスタッフは情報を確認すると、困ったような表情を浮かべた。「お客様、大変申し訳ございません。ご予約いただいたお部屋はすでにチェックインが済んでおりまして……あいにく現在は観光シーズンで満室となっており、代わりにご案内できるお部屋もございません」寧々はその場で凍りついた。さっと血の気が引いた。すぐさま康司に電話をかけた。呼び出し音が長く続き、二度目の電話でようやく相手がのんびりと電話に出た。電話の向こうは騒がしく、香代のはしゃぐ声も混じっている。「なんだよ、なんで今頃電話してくるんだ?俺たちはもうとっくにホテルに着いてるのに」康司の声はどこか投げやりだった。寧々は指先でスマホをきつく握りしめる。「私が予約した部屋、なんで勝手に取られてるの?じゃあ今夜、私はどこに泊まればいいの?」「そんなの、たいしたことじゃないだろ。香代がホテル取ってないって言うから、先に泊まらせてやったんだ」康司は至極あたりまえのように言った。「あいつ、怖がりで夜ひとりで寝るのが不安みたいなんだよ。俺は部屋のソファで寝て、そばについててやるよ。今日はどっか別のホテル探して泊まってくれよ。明日はまた一緒に回ればいいだろ」寧々がスマホを握りしめたまま反論しようとした、そのとき。受話口から唐突に、香代の声が飛び込んできた。「康司、ちょっと来て!このお風呂、お湯が水になったり熱くなったりするの」康司の声が一瞬にして優しくなる
Leer más

第3話

寧々は階段を下りながら、これまでの日々を何度も思い返していた。交際3年、結婚1年余り。香代のことさえ抜きにすれば、康司はいつだって自分に誰よりも優しい人だった。欲しいと思った小物、ずっと気になっていた食べ物、何気なく口にした好み。彼はそのすべてを覚えていて、いつも寧々に合わせてくれる。その日々の些細な優しさこそが、寧々の心を何度も揺らし、何度も譲歩させ、1年、また1年と我慢を重ねさせてきたのだ。今回もきっと、康司は同じ気持ちでいるはずだ。そう思っていた。だが、店の外のテーブルにたどり着いた瞬間、寧々の視線がぴたりと止まった。石造りのテーブルに着いているふたり。よく似た色味の淡い上着に、どこか呼応するようなデザイン。まるでさりげないペアルックのようだった。ふたりの距離はやけに近く、親しげな空気を漂わせている。皿の上にあったはずの、寧々がずっと楽しみにしていたご当地スイーツは、きれいさっぱりなくなっていた。ふたりだけの甘い空気に、第三者の入り込む隙間などなかった。康司は寧々に気づくと、一瞬固まり、それから軽く手を振った。声にはわずかな苛立ちが滲んでいる。「遅かったな。俺たちもう食べ終わったよ」傍らの香代が、軽やかで満足げな声で笑いながら口を挟む。「このスイーツ、めちゃくちゃ美味しかった!寧々さんがずっと食べたがってたのも納得だよ」空になった皿に目をやった康司の顔に、ほんの一瞬気まずさがよぎる。慌てて取り繕った。「お前は座って待ってて。もう一度並んで買ってくるから」寧々は黙って腰を下ろし、静かに彼の背中を見送った。だが、ものの2分もしないうちに、康司は戻ってきた。「並んでる人が多すぎて、無理だった。香代がずっと楽しみにしてたステージが30分後に始まるんだ。今から並んでたら絶対に間に合わない」康司は寧々を見つめ、優しく宥めるように言う。「な、また今度食べに来ようよ」寧々の胸の奥が、すーっと冷えていく。もっと早く気づくべきだった。香代の前では、自分のことなど、いくらでも後回しにされるのだと。寧々は小さく首を振った。「ふたりでステージを見てきて。このスイーツだけは、私は絶対に食べるから」康司は眉をひそめた。その表情は、まるで寧々をわがままだと責めているかのようだった。だが、そ
Leer más

第4話

それから丸2日間、寧々はひとりで、この小さな街をくまなく歩き回った。康司からのメッセージは1件も届かない。ひと言の気遣いすらなかった。まるで、本来ふたりのものであるはずのこの旅行を、彼はすっかり忘れてしまったかのようだった。寧々もまた、まったく気にせず、自分のペースで食べ歩き、写真を撮り、景色を眺めて過ごした。3日目の朝、身支度を終えて出かけようとしたとき、スマホが不意に鳴った。康司からの電話だった。「この2日、全然連絡くれなかったんだよ。お前からも何も言ってこないし。今日はみんなで渓谷に行くんだ。山道が険しいから、危ないし一緒にいた方がいいだろ。お前も準備して一緒に来いよ」寧々はスマホを握りしめる。ちょうどいい機会だ、と思った。この際、離婚のことをはっきり伝えようと考えていたところだった。彼女は淡々と応じた。「わかった」集合場所に着くと、数日ぶりに会う寧々を一目見て、康司の胸に、言いようのない違和感が湧き上がった。彼女は静かにそこに立っていて、以前のように甘えて寄り添ってくる気配は、もうどこにもなかった。康司は無意識に一歩踏み出し、手を伸ばして彼女の手を取ろうとする。寧々はさりげなく体をかわし、その手を避けた。どこまでも他人行儀な口調で言う。「香代、足を怪我してるんでしょ?ちゃんと支えてあげて」康司の手が宙に浮いたまま止まる。康司は眉間にしわを寄せ、その表情には苛立ちと不満が滲んだ。「寧々、また皮肉か?たいしたことでもないのに、いつまで拗ねてるんだよ」言い終えるより早く、あらかじめ手配していた迎えの車が静かに滑り込んできた。昨夜の雨のせいで、山へ向かう道はぬかるんでいる。寧々は迷わず助手席のドアを開け、腰を下ろした。広々とした後部座席は、康司と香代に譲った。康司は一瞬戸惑ったが、すぐに自分を納得させるように言った。「まあ、お前は車酔いしやすいし、助手席のほうが楽だもんな。俺は後ろに座って、足を怪我している香代の面倒を見るから、それでちょうどいい」山へ向かう道はぬかるみ、車は絶えず大きく揺れた。後部座席では、康司は香代に寄り添い、楽しげに話し続けていた。優しい声で相槌を打ちながら、時折その脚を丁寧にさすってやっている。運転手はバックミラー越しにその様子を見て、
Leer más

第5話

寧々は丸1週間、病院で傷の療養を続けた。康司から届いたのは、あの日の夜に送られてきた1件だけ。素っ気ないひと言。【無事に下山できたんだろ?俺は香代を連れて市内の整形外科にいる。残りの日程は好きに楽しんでてくれ。香代の怪我が良くなったら、また合流するから】寧々は画面をしばらくじっと見つめ、指先を入力欄の上に浮かせたまま、結局何も返さなかった。それきり、康司からのメッセージは二度と届かなかった。擦り傷のことも、滑り落ちたときにできた痣のことも、一度も尋ねられなかった。渓谷にひとり取り残されて怖くなかったかと聞かれることも、なかった。だが、香代のタイムラインは、毎日のように更新されていた。1日目。写真には、病室につきっきりで香代にお粥を一口ずつ食べさせている康司の姿。2日目、康司は街中を車で探し回り、わざわざ香代の好きなスイーツやお菓子を買い集めてきていた。3日目、あらゆる人脈を使って整形外科の専門医に連絡を取り、診察にもずっと付き添っていた。その後も日々、足の腫れを和らげるために丁寧に揉んでやったり、しゃがみ込んで靴を履かせてやったり、夕方には車椅子を押して一緒に散歩に出かけたり。寧々はベッドに横たわりながら、ときおりそれを目にしたが、心はもう、少しも波立たなかった。旅程の最終日、リストに入れていた、参拝客の絶えない古い神社のことをふと思い出した。以前からずっと行きたいと考えていた場所だった。彼女はひとりで身支度を整え、タクシーで向かった。だが、鳥居をくぐり、参道を進んで境内の角を曲がった瞬間。見覚えのあるふたつの人影が、不意に目に飛び込んできた。康司と香代も、そこにいたのだ。目が合った瞬間、康司は明らかに一瞬固まり、驚きに顔を引きつらせたあと、すぐに責めるような表情を浮かべた。「無事だったなら連絡くらいくれよ?香代なんて毎晩自分を責めてたんだぞ、自分のせいでお前を巻き込んだって。俺はずっと、お前ならちゃんと無事に下山できるはずだって慰めてたのに」寧々は表情を変えず、視線をわずかに移す。少し離れたところにある、この神社で最も有名な「縁結び橋」に目を留めた。橋の欄干いっぱいに、赤い縁結びの札がびっしりと吊るされ、風に揺れている。その中でも、一等目立つ場所に、真新しい札が2枚掛かっていた。1枚に
Leer más

第6話

家に戻ると、寧々はスーツケースを玄関に置いたまま、まっすぐ浴室へ向かった。熱いシャワーを頭から浴びる。腕にできたかさぶたが水に濡れ、周囲が白くふやけていた。寧々は視線を落としたが、痛みはさほど感じなかった。これだけ長く留守にしていたのに、部屋は出かけた時のままだった。ローテーブルの上には飲みかけのミネラルウォーターが2本、ソファのクッションは斜めにずれ、テレビのリモコンは隙間に挟まったまま。髪を拭きながら浴室を出て、裸足で床を踏むと、この家がやけにがらんとしているように感じられた。スマホが震えた。手に取って見ると、香代がたった今投稿した内容だった。写真には、神社の境内に立つ灯籠と拝殿が写っていた。位置情報は、あの古い神社だった。添えられた言葉は、たったひと言。【想いが届きますように】。寧々は無表情のまま、画面をスワイプして流した。翌朝、寧々は玄関のチャイムで目が覚めた。上着を羽織って玄関を開けると、宅配業者が立っていて、封筒を差し出してきた。受け取ると、指先に硬い角の感触が伝わり、ふと、ある予感が胸をよぎった。封を切ると、2通の離婚届受理証明書がするりと滑り出て、彼女の手のひらに落ちた。寧々はその証明書をじっと見つめ、指の腹でその表面をゆっくりと撫でた。自分の分は鞄にしまい、もう1通はダイニングテーブルの上に置いておいた。康司の分は、彼が帰ってきたら自分で見ればいい。寝室へ向かい、寧々はクローゼットを開けて荷物をまとめ始めた。左側には自分のワンピースやコートが、右側には康司のシャツやスラックスが、きちんとハンガーに掛けられている。いつも着ている数着に手を伸ばすと、指先が何かに触れた。ハンガーをかき分けてみると、薄いピンクのニットカーディガンが出てきた。自分のものではない。このカーディガンには見覚えがある。去年の秋、香代が食事をしに家へ来たとき、帰り際にこのカーディガンを忘れて、そのままクローゼットの隅に掛けっぱなしになっていた。寧々はそれを引っ張り出し、ベッドの上に放った。引き出しを開けると、自分と康司の靴下が混ざり合っていた。中には派手な色でキャラクター柄のものが何足かある。自分が買った覚えはない。かすかに、香代がいつも使っている香水の匂いが染みついていた。それ
Leer más

第7話

康司は通りで足を止めた。ショーウィンドウに、ひとつの陶器のマグカップが飾られている。手作りの器には淡いくすみブルーの釉薬がかかり、表面には無造作な線が刻まれていて、遠くの山並みにも、雲のようにも見えた。数秒間見つめているうちに、康司の頭にふと寧々の顔が浮かんだ。先月、寧々がソファに丸まってスマホを見ながら、ぽつりとこぼしたことがある。手作りのカップをオフィスに置きたい、派手すぎないシンプルなものがいい、と。康司は店の扉を押して中に入り、そのカップを買った。店員は丁寧に薄紙で包み、紙袋に入れて手渡してくれる。康司は紙袋を提げて店を出ると、手元に目を落とし、口元をほころばせた。今回の旅行は、確かに自分に配慮が足りなかった。寧々はきっとまた怒っているだろう。もともとは、一緒に美味しいスイーツを食べて、花火を見て、縁結びの札を掛ける。そんな計画だったのに、毎回、香代のことで台無しにしてしまった。香代の世話を焼きすぎたのは自覚している。だが、幼い頃から見守ってきた妹のような存在で、親からも面倒を見てやってくれと頼まれていた。放っておくわけにはいかなかった。帰ったら、ちゃんと埋め合わせをしよう。康司は心の中で計画を練る。このカップもそのひとつだ。あとは、寧々がずっと食べたいと言っていたあの隠れ家的な料理店に連れて行き、週末には映画にも付き合おう。どこへも行かず、ふたりきりで。紙袋を提げてホテルのロビーに戻ると、香代が休憩スペースのソファに座ってスマホをいじっていた。康司の姿を見て目を輝かせ、すぐに彼の手にあるものへ視線を移す。「何買ったの?」身を乗り出して手を伸ばそうとする。康司はさりげなく手をよけ、触れさせなかった。「寧々に買ったカップだよ」香代の手が宙で止まり、口がすぐにへの字に曲がった。手を引っ込めると、ソファの背もたれに深く寄りかかった。「康司、今はもう寧々さんのことしか大事にしてないんだね。こんなに何日も遊んでるのに、私には何も買ってくれないし」康司は彼女の向かいに腰を下ろし、紙袋を脚のそばに置いた。「お前のことだって大事にしてるだろ」少し困ったような口調で言う。「足を怪我したとき、誰が抱えて山を降りた?病院で1週間付き添ったのは誰だ?食べたいもの、飲みたいもの、一度でも嫌な顔をし
Leer más

第8話

香代が外から戻ってきたとき、両手にはミルクティーのカップが1杯ずつ握られていた。ひとつを康司の前に差し出す。「はい、買ってきたよ。甘さ控えめ、氷なし。康司の好きなやつ」康司は受け取らず、顔を上げて彼女をちらりと見ると、表情が沈んだ。「香代、足の怪我はもうほとんど良くなっただろ。明日、帰るぞ」香代は一瞬固まり、ミルクティーのカップを宙に浮かせたまま、二度瞬きした。「でも、まだ回ってない観光地があるよ?前に、全部一緒に見て回るって約束してくれたよね。あの古い町並みも、あの花畑も、まだ行ってない」「行かない」康司の声は低かった。「寧々が怒ってる。急いで帰らないと」香代はふたつのミルクティーをテーブルに置き、口角を歪めた。「何をそんなに怒ってるの?私に少し多めに構ってくれただけでしょ、そんなに大げさにしなくても。それに、彼女はもう無事に帰ったんでしょ?何もなかったんだから」康司は何も言わず、スマホの画面を彼女のほうへ向けた。ずいぶん前に送ったメッセージなのに、いまだに既読がついていない。香代は身を乗り出してちらりと見ると、一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに何事もなかったように表情を戻し、顔を上げて言う。「あなたのこと、ブロックしたの?寧々さん、今回は怒りすぎじゃない?あなたも私が怪我したから心配で残ってくれただけで、彼女には何もなかったのに」「もういい」康司はスマホを引っ込め、指の腹で無意識に画面を撫でた。「とにかく、明日は絶対に帰る」香代は唇を結び、ほんの少し沈黙してから、ふいに小さな声でつぶやいた。「もしかして……寧々さん、誰かと出かけてるんじゃない?あなたに見られたくなくて、怒らせたり傷つけたりしたくなくて、それでブロックしたのかも」康司の眉がぴくりと吊り上がる。「何言ってるんだ?」香代は自分のスマホのロックを解除し、何度かタップしてから彼の前に差し出した。画面には寧々のSNSが表示されていた。最新の1件。文字はなく、写真が1枚だけ。写真に写っているのは、どこかのルーフトップレストランの夜景。テーブルにはグラスがふたつ並び、向かいには男が座っているらしい。だが、写真に写っているのは、テーブルの縁に置かれた腕だけだった。濃い色のシャツの袖、手首には銀色の腕時計、節立った指がグ
Leer más

第9話

康司は病院の廊下を、行ったり来たりしていた。香代は救急外来に運び込まれた。高熱による急性扁桃炎に加え、足の怪我もまだ治りきっておらず、さらに体を冷やしたことでかなり消耗しているため、点滴を受けながら経過を見ることになり、そのまま入院したという。康司は廊下の突き当たりの窓辺に立ち、外のどんよりとした曇り空を眺めていた。頭の中がぐちゃぐちゃに絡まって、どうにも整理がつかない。しばらくすると医師が出てきて、マスクを外しながら告げた。「大したことはありませんよ。体が冷えただけです。それに最近はもともと体が弱っていて、免疫力が落ちていたようですね。点滴で解熱と炎症を抑えれば大丈夫でしょう。ただし、夜はもう体を冷やさないように気をつけてください。布団がちゃんとかかっていなかったんじゃないですか?それとも、冷水シャワーでも浴びましたか?」康司はふと固まった。昨夜、寝る前に浴室の水音が長く続いていたのをうっすらと覚えている。その後、香代が出てきたとき、ちょうど水を取りに行こうとした彼と鉢合わせたのだ。バスタオルを巻いて部屋へ向かう彼女の全身は不自然なほど赤くなっていたのに、顔面は血の気を失い、唇は紫になっていた。あのとき一瞬、疑問がよぎったものの、深く考えず、ただ長湯をしていただけだろうと思い込んでいた。今になって思い返せば、この季節、どれだけ熱い湯を長く浴びたとしても、肌は赤くなるものの、あんなふうに顔面蒼白になるはずがない。康司は眉をひそめたが、医師の言葉には答えず、ただ「わかりました」とだけうなずいた。医師が去ったあと、香代は目を覚まし、枕にもたれて半身を起こしていた。だが顔色はまだひどく悪い。康司が入ってくるのを見て、香代は無理に笑ってみせた。声はひどくかすれていた。「康司、ごめんね。今日帰る予定だったのに、私の体が弱いばっかりに」康司は何も言わず、病院食のトレーをベッドサイドテーブルに置くと、スプーンでひと口すくい、ふうふうと冷ましてから彼女の口元へ運んだ。香代は彼を見つめ、ふいにまた目元を赤くして、顔をそむけて口を開こうとしなかった。「もう、行っていいよ」布団に埋もれたような、くぐもった声だった。「私、ここでひとりでも大丈夫だから。どうせ点滴を受けるだけだし。寧々さんのところに戻ってあげて。遅れちゃだめ
Leer más

第10話

香代の熱は、下がってはまた上がり、上がってはまた下がった。1日目、めまいがすると言われ、康司は航空券を翌日に変更した。2日目、胃が痛いと言われ、朝から昼まで吐き続けたので、康司はまた便を変更した。3日目、医師から退院してもいいと言われた。香代は荷物をまとめて病院の玄関まで来たところで、今度は足首が痛くて歩けないと言い出し、階段のところにしゃがみこんでどうしても動こうとしなかった。康司はしゃがんで足首を確認したが、多少腫れてはいるものの、歩けないというほどではない。康司は3度目の便の変更をした。4日目。予約した便は午後2時発だった。康司は朝早くからふたり分のスーツケースに荷物をまとめ、ホテルの入口に置いておいた。香代にメッセージを送ったが、返事はなかった。電話をかけると、長く呼び出したあとにようやくつながった。電話の向こうの声は、寝起きの鼻声混じりで、力なく柔らかかった。「康司……なんかまた具合悪くて。胃がキリキリ痛くて。今日、もう1日だけ延ばしてもらえない?あと1日だけ。明日は絶対に帰るから」康司はスマホを握ったままロビーに立っていた。近くではフロントの女性がチェックアウトの手続きの確認をしていて、彼をちらりと見る。康司は手を振って、少し待ってくれと合図した。電話の向こうで、香代はまだ延々と言い訳を続けていた。「多分、昨日出前で頼んだものに当たっちゃったのかも。夜中に何回もトイレに起きて、今もう体に力が入らなくて、本当に起きられないの……」康司は黙って最後まで聞き、それからひどく低い声で言った。「香代、俺、お前の航空券は取ってない」電話の向こうが、ふと静かになった。「この数日、お前が帰るのを延ばしたいって言うたびに、俺は便を変更していた」康司の口調はひどく平坦だった。「でも今回は最初から、お前の分は予約してない。チケット代は口座に振り込んでおいた。受け取ったなら、自分で帰りたくなったときの便を取ればいい」香代はほんの少し黙り込んだあと、声の調子が急に変わった。「どういうつもり?最初から私を置いていくつもりだったの!?」「置いていくわけじゃない。お前が風邪をひいて熱を出して、足を挫いただけだろ。別に不治の病ってわけじゃないだろ。医者だっていつでも動けるって言ってたのに、お前が勝手に
Leer más
ANTERIOR
123
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status