Share

第3話

Penulis: チビッコ
寧々は階段を下りながら、これまでの日々を何度も思い返していた。

交際3年、結婚1年余り。香代のことさえ抜きにすれば、康司はいつだって自分に誰よりも優しい人だった。

欲しいと思った小物、ずっと気になっていた食べ物、何気なく口にした好み。彼はそのすべてを覚えていて、いつも寧々に合わせてくれる。

その日々の些細な優しさこそが、寧々の心を何度も揺らし、何度も譲歩させ、1年、また1年と我慢を重ねさせてきたのだ。

今回もきっと、康司は同じ気持ちでいるはずだ。そう思っていた。

だが、店の外のテーブルにたどり着いた瞬間、寧々の視線がぴたりと止まった。

石造りのテーブルに着いているふたり。よく似た色味の淡い上着に、どこか呼応するようなデザイン。まるでさりげないペアルックのようだった。

ふたりの距離はやけに近く、親しげな空気を漂わせている。皿の上にあったはずの、寧々がずっと楽しみにしていたご当地スイーツは、きれいさっぱりなくなっていた。

ふたりだけの甘い空気に、第三者の入り込む隙間などなかった。

康司は寧々に気づくと、一瞬固まり、それから軽く手を振った。声にはわずかな苛立ちが滲んでいる。

「遅かったな。俺たちもう食べ終わったよ」

傍らの香代が、軽やかで満足げな声で笑いながら口を挟む。

「このスイーツ、めちゃくちゃ美味しかった!寧々さんがずっと食べたがってたのも納得だよ」

空になった皿に目をやった康司の顔に、ほんの一瞬気まずさがよぎる。慌てて取り繕った。

「お前は座って待ってて。もう一度並んで買ってくるから」

寧々は黙って腰を下ろし、静かに彼の背中を見送った。

だが、ものの2分もしないうちに、康司は戻ってきた。

「並んでる人が多すぎて、無理だった。香代がずっと楽しみにしてたステージが30分後に始まるんだ。今から並んでたら絶対に間に合わない」

康司は寧々を見つめ、優しく宥めるように言う。

「な、また今度食べに来ようよ」

寧々の胸の奥が、すーっと冷えていく。

もっと早く気づくべきだった。

香代の前では、自分のことなど、いくらでも後回しにされるのだと。

寧々は小さく首を振った。

「ふたりでステージを見てきて。このスイーツだけは、私は絶対に食べるから」

康司は眉をひそめた。その表情は、まるで寧々をわがままだと責めているかのようだった。

だが、そもそもこの旅行は、寧々への埋め合わせのためだったと思い直したのか、康司は苛立ちを抑えて言葉を継いだ。

「じゃあ食べ終わったら適当に時間を潰しててくれ。香代が楽しみにしてたステージが終わったら迎えに行くから。お前が楽しみにしてた今夜の花火のことは覚えてる。あとでいい写真、たくさん撮ってやるから」

言い終えるが早いか、康司は香代の手を引いて、そそくさと立ち去っていった。

寧々はひとりその場に残り、空になった皿に残るスイーツの欠片を見つめる。胸の奥がずしりと重くなる。

立ち上がって屋台の列に並ぶ。目の前にいるのはせいぜい5、6人。この程度の列なら、どんなに待っても10分もかからないだろう。

なのに康司は、人が多すぎると言い訳した。

列が混んでいて時間がかかるからではない。彼の頭の中には初めから香代が楽しみにしていたステージのことしかなく、寧々のために少しでも時間を割く気など、はなからなかったのだ。

あっという間に順番が回ってきて、寧々はようやく、ずっと食べたかったスイーツを手に入れた。

だが、口に運んだ瞬間、舌に広がったのは、いつまでも消えない苦みだけだった。

スイーツそのものの味がしないのか、それとも胸の底に溜まった悔しさのせいなのか。自分でも分からなかった。

寧々は何気なくスマホを取り出す。画面には、香代がたった今投稿した内容が表示されていた。

開いてみると、香代と康司が頬を寄せ合って微笑む写真。そして、人混みをかき分けてグッズを手に入れようとする康司の、汗だくの姿を捉えた1枚。

添えられた言葉。【康司がいてくれて本当によかった。人混みに揉まれながらグッズを手に入れてくれて、今日は最高に楽しかった】

寧々は静かに「いいね」を押し、スマホの画面を消してポケットにしまった。スイーツをゆっくりと食べ終え、ひとり通りを歩き出す。

あらかじめ立てておいた自分のルートに沿って、のんびりと街を巡る。ずっと気になっていた雑貨店を1軒1軒回り、気に入った小物をひとつずつ買い、リストに書き留めていた名物グルメを、ひとりでひとつずつ制覇していく。

しばらく歩いているうちに、寧々はふと気づいた。ひとり旅は、思っていたほど孤独なものではないらしい。

夕方には、ずっと食べたかった地元料理をひとりで味わい、お腹を満たしたあとは、ひとり川辺へ向かって花火の開始を待った。

夜空いっぱいに色鮮やかな花火が咲き乱れる。寧々はそれを静かに最後まで見届けた。

ポケットの中のスマホは静まり返ったまま、1件のメッセージも届かない。

夜、ホテルに戻ってようやく気づく。スマホはとっくに電池が切れ、自動的に電源が落ちていた。

充電ケーブルを挿し、起動するのを待つ。画面が灯った瞬間に届いたのは、たった1件。

5分前に届いたばかりの、康司からのメッセージだった。

【香代がステージを見終わったら靴擦れして歩けなくなったから、先に部屋に連れて帰るよ。花火、ひとりで見させて悪かった。帰ったら毎日、ふたりで花火しような】

寧々は無表情のまま、スマホの画面を消した。

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第23話

    結婚式の日は、雲ひとつなくよく晴れていた。日差しが芝生一面を暖かく照らし、白いベールと花々が風にそよいでいる。招待客たちは並べられた白い椅子に思い思いに腰かけ、談笑の声が、会場の生バンドの軽やかな音楽に混じって漂っていた。康司は誰よりも早く来ていた。彼は最後列の端の席に座り、濃い色のスーツに身を包み、手元には厚みのあるご祝儀袋を置いていた。式はまだ始まっていない。招待客たちが次々と入場してくる。彼のそばを通りかかった何人かが、声を潜めて囁き合っていた。「あそこにいるの、寧々の元夫じゃない?」「そう、彼よ。聞いた話じゃ、新婚旅行に幼馴染を連れて行って、怪我をした寧々を山に置き去りにしたんだって」「今度の旦那さん、もう何年も彼女のことを想ってたらしいよ。まだ離婚してないころからずっと、静かに見守ってたって」「はぁ、大事にできなかったんだね」その言葉が軽く彼の耳に落ちても、彼は振り向かなかった。ただ視線は、白いバラの花びらが敷き詰められた前方のバージンロードに、瞬きもせず注がれていた。音楽が変わった。全員が顔を上げる。ウェディングマーチが響き渡り、通路の奥から寧々が現れた。彼女はウェディングドレスを身にまとい、長い裾を引いていた。ベールが薄く顔を覆っていたが、幸せそうに弧を描く目元までは隠しきれていなかった。父の腕に手をかけて、一歩、また一歩と進んでくる。淳哉は通路のもう一方の端に立ち、視線をずっと彼女に注いだまま、口元をわずかに緩めていた。寧々が一歩近づくたびに、康司の心はさらに少しずつ沈んでいった。彼は、婚姻届を出したあの日を思い出していた。あの日も、こんなふうによく晴れていた。区役所の記念コーナーで、寧々は花柄のワンピースを着て、康司と並んで婚姻届受理証明書を手にしていた。写真を撮り終えて区役所を出た瞬間、康司は嬉しさのあまり彼女を抱き上げ、くるりと回った。寧々は驚いて悲鳴を上げ、それから彼の首に抱きつき、いつまでも笑っていた。あのときの彼女の目には、これから始まるふたりの暮らしへの期待が、きらきらと輝いていた。写真の裏に、自分はこう書いた。「これからも、ずっと一緒に歳を重ねていこう」なのに、その約束を壊したのは自分だった。寧々は淳哉の前まで来た。父が彼女の手を、

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第22話

    寧々が淳哉の家に引っ越した日、彼が言ったのはただひと言だった。「好きなだけいていい」彼女はうなずき、スーツケースをゲストルームへ運び込んだ。最初の1ヶ月、ふたりはまるでシェアハウスの同居人のようだった。朝は彼が味噌汁を作り、彼女が目玉焼きを焼く。夜は彼が残業していると彼女がリビングの明かりをつけたまま待っている。ダイニングテーブルの両端に座って、それぞれ食事をとる。ときどき顔を上げて視線が合っても、また互いにうつむいた。ある夜、彼女が風呂から上がると、彼がベランダでしゃがみ込み、観葉植物の鉢を植え替えているのが見えた。指先が土まみれになっている。彼女は彼の後ろに立って言った。「その鉢、もう枯れかけてるよ。諦めたら?」彼は振り返らずに答えた。「水をやれば、まだ生きる」彼女は近づいてしゃがみ込み、黄ばんだ葉をじっと見つめたが、それ以上は何も言わなかった。その後、その植物は本当に生き返り、新しい若葉を2枚出した。彼女は毎朝ベランダを通るたびに、それを一目見るようになった。2ヶ月目、ふたりのあいだに、少しずつ暮らしのリズムが生まれ始めていた。彼女がスーパーへ行くと、彼は時間を見計らってメッセージを送る。【塩、買ってきて】彼女は【買ったよ】と返す。彼が家に着くと、塩はすでにキッチンの調味料棚に並んでいる。彼女が風邪をひいた日、彼は早めに退社し、帰りに風邪薬とりんごゼリーを買ってきた。彼女はソファに丸まってくしゃみをしていた。彼はゼリーをローテーブルに置いた。彼女はぼんやりしたまま、それをきれいに平らげた。横になろうとしたとき、体の上に毛布が1枚増えていることに気づいた。その夜、彼女は彼にメッセージを送った。【ありがとう】彼はすぐに返した。【礼なんていいよ。明日は体を冷やさないようにして】ある週末、雨が降っていた。ふたりはソファに丸まって映画を見た。ホラー映画だった。彼女は怖かったが口には出さず、ソファの隅っこでクッションを抱きしめていた。一番怖い場面で、彼女はびくりと身をすくめ、クッションが床に落ちた。彼が手を伸ばして拾い上げ、彼女に渡す。手の甲が彼女の指先に触れ、ふたりとも動かないまま、一瞬止まった。彼女はそれを受け取り、小さな声で言った。「……チャンネル

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第21話

    康司は頻繁に、偶然を装って寧々と出くわすようになった。最初はカフェだった。寧々は淳哉と窓際の席に座り、ふたりでコーヒーを飲んでいた。淳哉はスマホを見ていて、寧々は横を向いて窓の外を眺めている。康司は扉を押して入り、ふたりの隣の空席に座り、ブラックコーヒーを注文した。淳哉が顔を上げて彼をちらりと見ると、スマホを置き、寧々に顔を寄せて小声で何か囁いた。寧々はうなずき、ふたりは立ち上がって店を出ていった。コーヒーはまだ半分以上残っていて、その脇の小皿には手をつけていないクッキーが乗ったままだった。康司はその場に座り、店を出ていくふたりの後ろ姿を見つめながら、自分のコーヒーをひと口飲んだ。あまりの苦さに、思わず眉をひそめた。2回目はショッピングモールだった。寧々はスキンケア用品を選んでいて、淳哉はそばで買い物袋を提げて立っていた。康司は3階の吹き抜けの手すりから下を見下ろし、一目で彼女の姿を見つけた。急いでエスカレーターで下り、そのコスメカウンターのそばまで行き、向かいの店でメンズウェアを眺めているふりをした。寧々が美容液のボトルを手に取り、成分表に目を通していたが、ふと動きを止めた。何かに気づいたように顔を上げると、康司の視線とぶつかった。彼女はその美容液を棚に戻し、淳哉の腕を引いて立ち去った。康司は2歩追いかけたが、寧々が振り返り、冷淡な目で彼を一瞥した。3回目、4回目、5回目。康司が現れる場所は、どんどん増えていった。寧々と淳哉が食事に行けば、彼は隣のテーブルに座った。寧々が書店へ行けば、彼は別の本棚の向こうに立っていた。寧々が公園のベンチで日向ぼっこをしていれば、彼は数十メートル離れた別のベンチに座って、彼女を見つめていた。寧々の反応は、無視から苛立ちへと変わっていった。あるとき、とうとう我慢できなくなった寧々が、彼の前まで歩み寄って言った。「一体、何のつもりなの?」康司は立ち上がり、手にしていた紙袋を差し出した。「前に、街の南にあるあの店のケーキが食べたいって言ってただろ。買ってきた」寧々は受け取らず、彼を見つめた。「いらない」振り返って歩き去った。彼は昔、彼女を口説いていたころにしていたことを、今になってまた一からやり始めた。朝早くに朝食を買い、彼女が住むマンショ

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第20話

    康司はホテルへ駆けつけたが、フロントは寧々が3日前にすでにチェックアウトしたことを告げた。彼はロビーに呆然と立ち尽くし、フロントに彼女の行き先を尋ねた。しかし、フロントは首を振るだけだった。彼は連絡先を上から順に確認し、少しでも連絡がつきそうな知人すべてに片っ端から電話をかけたが、寧々の居場所を知る者は誰もいなかった。最後に、彼は淳哉の番号へ電話をかけた。3回の呼び出し音のあと、電話がつながった。電話の向こうは静かだったが、康司はある声を聞き取ってしまった。寧々が、笑っている声だった。その瞬間、彼の全身がこわばった。「お前ら、今どこにいる?」淳哉は何も答えなかった。そのまま電話が切れ、ツーツーという音だけが虚しく残った。康司はスマホを握りしめたままホテルのロビーに立ち、人脈の広い友人に電話をかけ、淳哉が今どこにいるのか調べてもらえないかと頼んだ。相手は何をするつもりなのかと尋ねてきたが、康司は理由は伏せ、「今回だけ頼む」とだけ押し通した。20分近く待ったところで、淳哉が海沿いの街のビーチリゾートにいるらしいと連絡が来た。康司は一番早い便を予約し、飛ぶような勢いで空港へ向かった。着陸した頃にはすでに空は暗くなりかけていた。タクシーを拾い、その場所へまっすぐ向かってもらった。潮の香りを含んだ冷たい海風が、開け放たれた車窓から勢いよく吹き込んでくる。遠くに、砂浜に点々と灯る光が見えた。花火がひとつ、またひとつ打ち上がり、赤、金、紫と、夜空の半分を昼間のように明るく照らし出していた。康司は車を降り、足を取られる柔らかな砂を踏みしめながら前へ進んだ。花火の光が彼の顔を照らし出しては、また暗闇へ戻す。ついに彼は寧々の姿を見つけた。彼女は波打ち際に近い砂浜に立っていて、横顔が花火の暖かな光に縁取られている。淳哉は彼女のすぐそばに、少し距離を空けて並んで夜空を見上げていた。康司の胸が、重く沈んだ。彼は歩み寄った。歩調はどんどん速くなり、最後には寧々の目の前まで駆け寄った。「寧々」彼はあえぎながら口を開いた。声はかすれていた。「頼む、もう一度だけ、俺を許してくれ。本当に一度だけでいいんだ」寧々は彼を見つめ返した。ふたりの頭上で花火が幾度も弾け、光と影が交錯する。彼女はしばらく静

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第19話

    康司は高級な手土産の紙袋をいくつも提げて、寧々の実家の玄関前に立っていた。指先をチャイムの上に浮かせたまま、長いあいだためらってから、ようやく押した。ドアを開けたのは寧々の父だった。彼は康司を見た瞬間、表情をわずかに硬くし、体を横にずらして彼を家の中へ通した。康司は玄関に差し入れを積み上げ、小さく身を縮めるようにして靴を脱ぐ。その動作はどこまでも慎重だった。寧々の母がキッチンから出てきて彼を一瞥したが、何も言わず、また奥へ戻っていった。康司はリビングの中央に立ち、掌は汗ばんでいた。父の背中を見つめていたが、ふいにその場に土下座した。膝がフローリングの床に当たり、ゴツンと鈍い音を立てる。父が振り返り、一瞬呆気に取られたあと、深く険しいしわを眉間に寄せた。「お義父さん、お義母さん、お願いします。助けてください!」康司の声は震え、目元が赤くなっている。「寧々が会ってくれません。電話もブロックされて繋がらないし、どこにいるのかもわからないんです。俺と香代の間には、本当に何もありません。香代は、俺が小さいころから見てきた妹のような存在で、ご両親が早くに亡くなる前、俺に面倒を見てやってくれと託されただけです。一線を越えたことなんて、誓って一度もありません。どうか俺のために、寧々にひと言話してやってください。寧々にもう一度だけチャンスをください。一度だけでいい。これからは絶対に彼女を一番に優先します。他の誰も見ませんから」彼は土下座したまま、ローテーブルの上に積んだ手土産に目を向けた。高級な果物や滋養食品、老舗の和菓子。何軒もの店を回って選んできたもので、丁寧な包装も崩れていなかった。寧々の父は彼の正面に立ち、うつむいて彼を見つめたまま、長いこと黙っていた。それからようやく口を開いた。「お前、寧々と結婚の挨拶に来た日、うちのリビングで何を誓ったか覚えているか?」康司はハッとして、一瞬固まった。「お前は、彼女を一番に優先すると言った。一生、彼女につらい思いや悲しい思いはさせないと言い切ったんだ」寧々の父は淡々と、しかし怒りを押し殺した声で続けた。「俺たちの前ではいつも、彼女を心から大事にしているように振る舞っていたな。娘は本当にいい男と結婚したと、俺たちもずっと思っていた。今回、あの子に会いに行って、すべて

  • 置き去りのハネムーンが、ひとり旅になった   第18話

    家に戻った康司は、ドアを閉めるとそのまま扉に背を預け、ずるずると座り込んだ。明かりのないリビングは、暗く静まり返っている。やがて起き上がると、裸足のまま中へ入り、すべての部屋の明かりを片っ端から点けて回った。寝室、書斎、キッチン、ベランダ。ひとつひとつ歩き回り、すべての戸棚を開け放って中を確かめた。クローゼットの寧々の服はきれいさっぱりなくなり、空っぽになっていた。引き出しの中にあった彼女の物も、何もかもなくなっていた。彼はしゃがみ込み、ベッドサイドテーブルを漁った。一番下の段で、指先にヘアゴムが触れた。黒色で、彼女の髪の毛が数本絡みついていた。それを掌の中でぎゅっと握りしめる。まるで命綱でもつかむように。彼はベッドに倒れ込み、枕に深く顔を埋めた。枕カバーには、まだ彼女の匂いがわずかに漂っていた。ごくかすかだったが、それを必死に吸い込んだ。うつ伏せのまま、掌のヘアゴムを握りしめ、消えかかった匂いを嗅ぎながら、いつの間にか眠りに落ちていった。翌朝、玄関のチャイムが鳴った。康司は勢いよくベッドから跳ね起きた。心臓が早鐘を打つ。スリッパも履かずに飛び出し、ドアを開けた。口元に浮かびかけた笑みが、そのまま凍りついた。香代が戸口に立っていた。スーツケースを提げ、足元には大きな紙袋がふたつ置かれている。ピンクの花柄ワンピースを着て、髪を下ろし、薄化粧を施して彼を見上げた。「康司、どうして私の荷物、玄関の外に放り出したの?やっと拾い集めてきたんだよ」康司の表情が、みるみるうちに冷えていった。彼は何も言わず、体を横に向けて戸口を塞ぐように立った。香代は首をかしげて中をのぞき込み、彼の肩越しに視線を走らせると、すぐにダイニングテーブルの上の離婚届受理証明書を見つけた。彼女は一瞬固まり、スーツケースを置いて中へ足を踏み入れた。「これ……」香代はその証明書をじっと見つめ、手を伸ばして取り上げた。数秒間そのまま眺めたあと、顔を上げて康司を見た。口調はどこか軽かった。「寧々さん、あなたと離婚したの?やっぱり、あの男のせい?」康司は勢いよく振り返った。目は赤く充血し、声は喉の奥から絞り出すように発せられた。「……黙れ」香代はその底冷えするような怒鳴り声に、肩を一瞬びくりと震わせた。唇を噛みし

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status