FAZER LOGIN幸村寧々(ゆきむら ねね)は、このハネムーン代わりの旅行を丸1年、心待ちにしてきた。 抱えていた仕事はすべて同僚に引き継ぎ、毎晩のように睡眠時間を削って旅程を練り上げたのだ。誰にも邪魔されない、幸村康司(ゆきむら こうじ)とふたりきりの世界。それだけを夢見ていた。 搭乗のアナウンスが流れる中、寧々はそっと康司の肩に頭を預けた。抑えきれない喜びが、瞳の奥に滲んでいる。 だが、そのときだった。背後から、聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。 「やっぱり、見つけちゃった」 康司の幼馴染の東江香代(とうえ かよ)が、帽子とサングラスを外し、屈託のない笑みを浮かべながらふたりを見つめている。 康司の顔に、驚きと喜びの色が浮かんだ。慌てて隣の寧々に顔を向けると、早口で弁解を始める。 「寧々、誤解しないでくれよ。今回は本当に、彼女には何も知らせてない。まったくの偶然なんだ。 香代のやつ、ずっと家に閉じこもってて気分転換したかったんだってさ。たまたま同じ便のチケットが取れたらしくて……まさか、今から降りろってわけにもいかないだろ?今回だけ、一緒でもいいよな?」 寧々は何も言わなかった。ただ、当たり前のように隣へ腰を下ろした香代へと、冷ややかな視線を向ける。 本当にただの偶然だというなら、どうしてこんなにも都合よく、ふたりの隣の席を取れるというのだろうか。
Ver mais結婚式の日は、雲ひとつなくよく晴れていた。日差しが芝生一面を暖かく照らし、白いベールと花々が風にそよいでいる。招待客たちは並べられた白い椅子に思い思いに腰かけ、談笑の声が、会場の生バンドの軽やかな音楽に混じって漂っていた。康司は誰よりも早く来ていた。彼は最後列の端の席に座り、濃い色のスーツに身を包み、手元には厚みのあるご祝儀袋を置いていた。式はまだ始まっていない。招待客たちが次々と入場してくる。彼のそばを通りかかった何人かが、声を潜めて囁き合っていた。「あそこにいるの、寧々の元夫じゃない?」「そう、彼よ。聞いた話じゃ、新婚旅行に幼馴染を連れて行って、怪我をした寧々を山に置き去りにしたんだって」「今度の旦那さん、もう何年も彼女のことを想ってたらしいよ。まだ離婚してないころからずっと、静かに見守ってたって」「はぁ、大事にできなかったんだね」その言葉が軽く彼の耳に落ちても、彼は振り向かなかった。ただ視線は、白いバラの花びらが敷き詰められた前方のバージンロードに、瞬きもせず注がれていた。音楽が変わった。全員が顔を上げる。ウェディングマーチが響き渡り、通路の奥から寧々が現れた。彼女はウェディングドレスを身にまとい、長い裾を引いていた。ベールが薄く顔を覆っていたが、幸せそうに弧を描く目元までは隠しきれていなかった。父の腕に手をかけて、一歩、また一歩と進んでくる。淳哉は通路のもう一方の端に立ち、視線をずっと彼女に注いだまま、口元をわずかに緩めていた。寧々が一歩近づくたびに、康司の心はさらに少しずつ沈んでいった。彼は、婚姻届を出したあの日を思い出していた。あの日も、こんなふうによく晴れていた。区役所の記念コーナーで、寧々は花柄のワンピースを着て、康司と並んで婚姻届受理証明書を手にしていた。写真を撮り終えて区役所を出た瞬間、康司は嬉しさのあまり彼女を抱き上げ、くるりと回った。寧々は驚いて悲鳴を上げ、それから彼の首に抱きつき、いつまでも笑っていた。あのときの彼女の目には、これから始まるふたりの暮らしへの期待が、きらきらと輝いていた。写真の裏に、自分はこう書いた。「これからも、ずっと一緒に歳を重ねていこう」なのに、その約束を壊したのは自分だった。寧々は淳哉の前まで来た。父が彼女の手を、
寧々が淳哉の家に引っ越した日、彼が言ったのはただひと言だった。「好きなだけいていい」彼女はうなずき、スーツケースをゲストルームへ運び込んだ。最初の1ヶ月、ふたりはまるでシェアハウスの同居人のようだった。朝は彼が味噌汁を作り、彼女が目玉焼きを焼く。夜は彼が残業していると彼女がリビングの明かりをつけたまま待っている。ダイニングテーブルの両端に座って、それぞれ食事をとる。ときどき顔を上げて視線が合っても、また互いにうつむいた。ある夜、彼女が風呂から上がると、彼がベランダでしゃがみ込み、観葉植物の鉢を植え替えているのが見えた。指先が土まみれになっている。彼女は彼の後ろに立って言った。「その鉢、もう枯れかけてるよ。諦めたら?」彼は振り返らずに答えた。「水をやれば、まだ生きる」彼女は近づいてしゃがみ込み、黄ばんだ葉をじっと見つめたが、それ以上は何も言わなかった。その後、その植物は本当に生き返り、新しい若葉を2枚出した。彼女は毎朝ベランダを通るたびに、それを一目見るようになった。2ヶ月目、ふたりのあいだに、少しずつ暮らしのリズムが生まれ始めていた。彼女がスーパーへ行くと、彼は時間を見計らってメッセージを送る。【塩、買ってきて】彼女は【買ったよ】と返す。彼が家に着くと、塩はすでにキッチンの調味料棚に並んでいる。彼女が風邪をひいた日、彼は早めに退社し、帰りに風邪薬とりんごゼリーを買ってきた。彼女はソファに丸まってくしゃみをしていた。彼はゼリーをローテーブルに置いた。彼女はぼんやりしたまま、それをきれいに平らげた。横になろうとしたとき、体の上に毛布が1枚増えていることに気づいた。その夜、彼女は彼にメッセージを送った。【ありがとう】彼はすぐに返した。【礼なんていいよ。明日は体を冷やさないようにして】ある週末、雨が降っていた。ふたりはソファに丸まって映画を見た。ホラー映画だった。彼女は怖かったが口には出さず、ソファの隅っこでクッションを抱きしめていた。一番怖い場面で、彼女はびくりと身をすくめ、クッションが床に落ちた。彼が手を伸ばして拾い上げ、彼女に渡す。手の甲が彼女の指先に触れ、ふたりとも動かないまま、一瞬止まった。彼女はそれを受け取り、小さな声で言った。「……チャンネル
康司は頻繁に、偶然を装って寧々と出くわすようになった。最初はカフェだった。寧々は淳哉と窓際の席に座り、ふたりでコーヒーを飲んでいた。淳哉はスマホを見ていて、寧々は横を向いて窓の外を眺めている。康司は扉を押して入り、ふたりの隣の空席に座り、ブラックコーヒーを注文した。淳哉が顔を上げて彼をちらりと見ると、スマホを置き、寧々に顔を寄せて小声で何か囁いた。寧々はうなずき、ふたりは立ち上がって店を出ていった。コーヒーはまだ半分以上残っていて、その脇の小皿には手をつけていないクッキーが乗ったままだった。康司はその場に座り、店を出ていくふたりの後ろ姿を見つめながら、自分のコーヒーをひと口飲んだ。あまりの苦さに、思わず眉をひそめた。2回目はショッピングモールだった。寧々はスキンケア用品を選んでいて、淳哉はそばで買い物袋を提げて立っていた。康司は3階の吹き抜けの手すりから下を見下ろし、一目で彼女の姿を見つけた。急いでエスカレーターで下り、そのコスメカウンターのそばまで行き、向かいの店でメンズウェアを眺めているふりをした。寧々が美容液のボトルを手に取り、成分表に目を通していたが、ふと動きを止めた。何かに気づいたように顔を上げると、康司の視線とぶつかった。彼女はその美容液を棚に戻し、淳哉の腕を引いて立ち去った。康司は2歩追いかけたが、寧々が振り返り、冷淡な目で彼を一瞥した。3回目、4回目、5回目。康司が現れる場所は、どんどん増えていった。寧々と淳哉が食事に行けば、彼は隣のテーブルに座った。寧々が書店へ行けば、彼は別の本棚の向こうに立っていた。寧々が公園のベンチで日向ぼっこをしていれば、彼は数十メートル離れた別のベンチに座って、彼女を見つめていた。寧々の反応は、無視から苛立ちへと変わっていった。あるとき、とうとう我慢できなくなった寧々が、彼の前まで歩み寄って言った。「一体、何のつもりなの?」康司は立ち上がり、手にしていた紙袋を差し出した。「前に、街の南にあるあの店のケーキが食べたいって言ってただろ。買ってきた」寧々は受け取らず、彼を見つめた。「いらない」振り返って歩き去った。彼は昔、彼女を口説いていたころにしていたことを、今になってまた一からやり始めた。朝早くに朝食を買い、彼女が住むマンショ
康司はホテルへ駆けつけたが、フロントは寧々が3日前にすでにチェックアウトしたことを告げた。彼はロビーに呆然と立ち尽くし、フロントに彼女の行き先を尋ねた。しかし、フロントは首を振るだけだった。彼は連絡先を上から順に確認し、少しでも連絡がつきそうな知人すべてに片っ端から電話をかけたが、寧々の居場所を知る者は誰もいなかった。最後に、彼は淳哉の番号へ電話をかけた。3回の呼び出し音のあと、電話がつながった。電話の向こうは静かだったが、康司はある声を聞き取ってしまった。寧々が、笑っている声だった。その瞬間、彼の全身がこわばった。「お前ら、今どこにいる?」淳哉は何も答えなかった。そのまま電話が切れ、ツーツーという音だけが虚しく残った。康司はスマホを握りしめたままホテルのロビーに立ち、人脈の広い友人に電話をかけ、淳哉が今どこにいるのか調べてもらえないかと頼んだ。相手は何をするつもりなのかと尋ねてきたが、康司は理由は伏せ、「今回だけ頼む」とだけ押し通した。20分近く待ったところで、淳哉が海沿いの街のビーチリゾートにいるらしいと連絡が来た。康司は一番早い便を予約し、飛ぶような勢いで空港へ向かった。着陸した頃にはすでに空は暗くなりかけていた。タクシーを拾い、その場所へまっすぐ向かってもらった。潮の香りを含んだ冷たい海風が、開け放たれた車窓から勢いよく吹き込んでくる。遠くに、砂浜に点々と灯る光が見えた。花火がひとつ、またひとつ打ち上がり、赤、金、紫と、夜空の半分を昼間のように明るく照らし出していた。康司は車を降り、足を取られる柔らかな砂を踏みしめながら前へ進んだ。花火の光が彼の顔を照らし出しては、また暗闇へ戻す。ついに彼は寧々の姿を見つけた。彼女は波打ち際に近い砂浜に立っていて、横顔が花火の暖かな光に縁取られている。淳哉は彼女のすぐそばに、少し距離を空けて並んで夜空を見上げていた。康司の胸が、重く沈んだ。彼は歩み寄った。歩調はどんどん速くなり、最後には寧々の目の前まで駆け寄った。「寧々」彼はあえぎながら口を開いた。声はかすれていた。「頼む、もう一度だけ、俺を許してくれ。本当に一度だけでいいんだ」寧々は彼を見つめ返した。ふたりの頭上で花火が幾度も弾け、光と影が交錯する。彼女はしばらく静
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