LOGIN扉に触れた指先が、小さく震える。
中から聞こえてくる笑い声に、心臓が早鐘を打ち出す。
「なぁ雅臣、お前の奥さんさぁ――」
男の笑い声と、
「……ぁ……」
掠れた私の声を真似するような声が聞こえた。
どっと爆笑が起こる。
「お前、最低だな!」
「いや、似てるだろ?」
「本人より喋れてるじゃねぇか」
誰かが机を叩いて笑っている。
私は息を呑んだ。
その笑い声の中に紛れ、雅臣の苦笑いのような声が聞こえる。
けれど、止める言葉は、ひとつも聞こえなかった。
そのときだった。
「ねぇ、雅臣」
女性のどこか甘さを含んだ声。彩羽には聞き覚えがあった。あの日、スピーカーから聞こえてきた声だ。金城麗華――。
「どうして彩羽さんと結婚したの?」
あんなにも笑い声に満ちていたのに、部屋の中が静まり返った。
私も扉の外で、そっと耳をそばだて、雅臣の答えを待った。
しばらく沈黙が流れたあと、雅臣の低く優しい声が聞こえて来る。
「……彼女……彩羽には、恩がある」
小さく息を飲んだ。
聞こえてきた答えは、「好きだから」でも「愛しているから」でも、そのどれでもなかった。
ただ一言、「恩」という言葉だけ。
私の視界が、ぐらりと揺れた。脳裏に、五年前のあの日の記憶がフラッシュバックした。
◇
五年前。
音楽学院を卒業した私は、留学までの間、各地で歌う仕事をしていた。
会社の歓迎会や送迎会、イベントやホテルのレストランなどに呼ばれて、ジャズやオペラの歌を披露する、そんな仕事。
その中で、私は何度か雅臣の会社に呼ばれ、関わるうちにひっそりと優しい雅臣に心惹かれ始めていた。
その日も、桜小路コーポレーションの送別会があって、私は歌を歌うために呼ばれていた。
歌を披露しながらも、自然と目は雅臣を探してしまう。
食事を嗜みながら、私の歌を聞いてくれる人たち。そこから少し離れたカウンターの隅で、雅臣は一人、グラスを傾けていた。
ふと、誰かが話している声が聞こえた。
「桜小路社長はフラれたらしい」って。
「今日は海外に行くその人を送り出す日だったようだ」って。
雅臣のその背中が、ひどく寂しそうに私には見えて、放っておけなくて。私は自分の出番が終わると、衣装もそのままに、そっと彼に近付いた。
「大丈夫ですか?」
そう声を掛けると、雅臣は少しだけ笑った。
「はは。こんな姿を見られて、情けないな」
「いえ、そんな。私で良ければ、付き合います。お話聞くくらいしか、できないけど」
そう雅臣の隣に腰を下ろした、そのときだった。
「社長、こちらどうぞ!」
誰かが新しいグラスを差し出した。
雅臣が手を伸ばそうとした、その瞬間。
私は反射的に、そのグラスを受け取っていた。
「彩羽さん?」
「飲みすぎは身体に悪いですから。今日はもう十分飲みましたよね?」
前に「生まれつき胃が弱いんだ」って話してくれたことを覚えていた。色々な人に優しい人だから、楽しいイベントの最中だって、時々隠れてお腹をさすっているのも知っている。
今日だって……。失恋はきっと彼の心に大きな負荷を与えているはずだ。
だから、少しでも彼のことを守ってあげたくて、私は笑ってグラスを傾けた。
そして、中に入っていた真っ赤なお酒を一気に飲み干した、次の瞬間。
「……っ」
アルコールとは違う、焼けるように熱さが喉を通り過ぎていく。
視界が歪む。息ができない。
誰かの悲鳴が遠く聞こえた。
「救急車!」
床へ倒れ込む私を抱き起こす雅臣。
「ま……っ」
雅臣さん。
そう紡ぎたかったのに、声は掠れて、空気を漏らすことしかできなかった。
喉がただれるように痛い。
焦った顔で私を覗き込む雅臣の顔だけが、涙で滲んで見えた。
◇
次に目を覚ましたのは病院だった。
「命に別状はありません」
医師の声に、悪い体を引きずって駆けつけてくれた母は泣き崩れた。
私は安心して、自分の喉へ手を当てる。
「……」
声が出ない。
何度息を吸っても吐いても、何度口を開いても、どれひとつ音にならなかった。
やっと掠れた声が出るようになった頃、医師は静かに告げた。
「声帯の損傷が大きいです」
「以前と同じように歌うことは……難しいでしょう」
世界の時間が全て止まったように思えた。音が遠退いて、消えていく。
私は歌うために生きてきた。
最年少でコンクールに入賞し、教授からは『十年に一人の逸材』と言われた。
海外音楽院から留学の誘いも受けていた。
病気がちな母に、
『世界中の舞台で歌う彩羽を見たい』
そう言われ続けてきた。
その夢を、私は、自分の手で壊してしまった。
病室で、母は泣きながら私を抱きしめた。
『生きていてくれてよかった』
留学の手続きを進めてくれていた学院の先生も、留学先の講師も、友人も、誰一人として私を責めなかった。
それなのに、私は自分を許せなかった。
歌えない私には……母の夢まで奪ってしまった私には、生きている意味がない。
そう思った日から、人前で声を出すことが怖くなった。
喉は治っても、心が声を閉じ込めてしまった。
それが、心因性失声症の始まりだった。
◇
「じゃあ……」
雅臣の言葉を受けた麗華が静かに続ける。
「彩羽さんと結婚したのは、その恩を返すため?」。
雅臣は、何も答えない。
否定もしない。
その沈黙は、彩羽には充分すぎるほどの肯定に聞こえた。
「雅臣も気の毒だよな」
「本当に好きだった相手とは結ばれなかったんだから」
誰かがそう言う。
笑い声はもう聞こえなかった。
代わりに、同情だけが部屋を満たしていく。
震える指で、私はスマートフォンを取り出した。
昨日の着信履歴。
知らない番号。
ゆっくりと、発信ボタンを押す。
静かな着信音が、スピーカーを通して私の耳と……そして、扉の向こうの部屋の中から聞こえた。
私は静かに、その扉を開けた。
「……あれ?」
麗華がテーブルの上のスマートフォンを見つめている。
「誰かしら?」
私がスマートフォンを耳から離し、発信を止めると麗華のスマートフォンも着信音を鳴りやませた。
やっぱり、あの日、私に電話をかけてきたのは、金城麗華だった。
コツン、と私のヒールの音がひとつ、部屋の中に響いた。
全員の視線が、一斉に私へ向く。
雅臣の顔から、血の気が引いていくのが視界の端に映った。
「彩羽……!」
雅臣が私の名前を呼んでいる。けれど、私は何も答えない。
左手へ視線を落とす。
五年間、一度も外したことのない結婚指輪。この指輪にも、真っ青で美しいサファイヤが輝いている。
私はゆっくりと、それを抜いた。
冷たい金属の感触が、掌へ落ちる。
そして――……私は、麗華に向かって思い切り腕を振った。
乾いた金属音を立てて飛んだ指輪は、麗華の足元へ転がった。
部屋の空気が、凍りつく。
玄関の扉が閉まってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。 私はリビングのソファに座ったまま、膝の上で両手を握り締めていた。 雅臣と金城麗華はもう帰ったのか、とても静かだった。 それなのに、今にも玄関のチャイムが鳴るのではないかと思うと、落ち着かなかった。「……彩羽先輩」 名前を呼ばれ、顔を上げる。奏介くんが、私の前に膝をつき、心配そうな顔で私を見つめている。「頭、まだ痛みますか?」 私は小さく首を横に振る。けれど、奏介くんは険しい顔を崩さなかった。「さっき、頭を打っていましたよね。念のため、病院へ行きましょう」【でも……】「大丈夫だと思っていても、あとから症状が出ることがありますから」 穏やかな声だったけれど、その表情は真剣だった。 私は少し迷ってから、頷いた。◇ 病院で診察を受け、大きな異常は認められないと説明された頃には、すっかり夜も更けていた。 奏介くんに送ってもらい、再び部屋へ戻る。 玄関の鍵を閉めた途端、ほっとしたはずなのに、ドアノブから手を離せなかった。 またあのふたりが来るかもしれない。 そう思うだけで、息苦しくなってしまう。「彩羽先輩。やっぱり、ここを離れませんか」 靴を脱ごうとしていた奏介くんが、静かに口を開いた。 私は驚いて顔を上げた。「今日みたいなことが、また起きないとは限りません」 奏介くんは一度言葉を切り、私を見つめ、続ける。「俺の住んでいるマンションで、隣の部屋が空いているんです。よかったら、そこへ移りませんか」【……隣?】「はい。何かあっても、すぐに駆けつけられますから。一緒に住むことは難しくても……せめて」【……それでも、奏介くんに、迷惑が……】 私は躊躇いがちに手を動かす。「迷惑だったら、こんな提案しませんよ」すぐに返ってきた言葉に、私は手を止めた。
――私、妊娠してるの。 麗華から告げられたその言葉が、雅臣の頭の中で何度も繰り返されていた。「妊娠……?」 雅臣は、麗華の細いお腹へと視線を向けたきり、黙り込んでしまっている。「……雅臣?」 不安そうに名前を呼ばれ、雅臣はハッと我に返った。「……ああ。すまない。とにかく、ここを出よう」 麗華の背中を支えながら、マンションの廊下へと出る。 彩羽の部屋の扉は、固く閉ざされたままだった。その向こうに、彩羽と白鳥奏介がいる。 先ほど見た光景が、脳裏をよぎる。白鳥の腕に抱き上げられた彩羽。自分には見せたことのないほど、無防備に身を預けていた姿。 麗華のお腹に宿っている小さな命よりもなぜか彩羽のほうが気になり、胸の奥がひどくざわついた。「雅臣……。お腹が、まだ少し痛いの」 麗華が小さく呟き、雅臣に体を預けるように寄りかかった。「病院へ行かなくて大丈夫なのか?」「大丈夫よ。少し休めば落ち着くと思うから」「……分かった。すぐに車を回す。今日は俺の家で休もう」 雅臣は、扉が開けられることのない彩羽の部屋をもう一度振り返ったが、すぐに麗華へと視線を戻し、彼女の体を支えながらマンションを後にした。◇ 自宅へ戻ると、雅臣は麗華をリビングのソファへ座らせた。「少し待っていろ。温かいものを持ってくる」「ありがとう」 麗華は嬉しそうに微笑んだ。 その笑顔に見送られながら、雅臣はキッチンへと向かう。 しかし、そこで足が止まった。「……どこだ?」 戸棚を開ける。皿やグラスは整然と並んでいる。別の引き出しには、調理器具が収められていた。 だが、茶葉が見当たらない。 紅茶くらい、どこかにあるはずだ。 雅臣は次々と戸棚を開けていくけれど、それでも、見つからない。「……ちっ」 小さく舌打ちが漏れた。 こんなとき、彩羽がいれば。 いつもなら、帰宅してソファへ腰掛ける頃には、温かい飲み物が用意されていた。 胃が弱い雅臣のために、刺激の少ないものを選んで。 仕事で疲れているときには、蜂蜜を入れた飲み物を出してくれたこともある。 だが、それがどこにしまわれているのか、雅臣は知らなかった。「……まったく。彩羽はいつまで意地を張るつもりなんだ」 彩羽が家を出てから、何もかもが面倒になった。 食事も、洗濯も、身の回りの細かなことも、今まで気にす
扉を開けた先に立っていたのは、雅臣と金城麗華だった。 心臓が大きく脈打つ。「……どうして」 掠れた声が漏れる。雅臣は私を見るなり、小さく息を吐いた。「彩羽、迎えに来たぞ。そろそろいいだろう。一緒に帰ろう」 その声は、まるで何事もなかったかのようだった。「麗華も彩羽と仲直りしたいそうだ。だからこうやって一緒に来てくれた」雅臣が麗華を見て微笑む。私は二人を交互に見てから、ゆっくり首を横に振った。「……帰らないわ」 掠れた声で短くそう答えた、そのときだった。「彩羽先輩?」 部屋の奥から奏介くんの声が響く。 その声が聞こえた瞬間、雅臣の表情が一瞬にして険しくなる。 リビングから姿を現した奏介くんは、玄関先に立つ雅臣と金城麗華を見ると、一瞬だけ目を見開いた。「……桜小路さん」 雅臣は奏介くんを見据えたまま、低く呟く。「……どうして、お前がここにいるんだ」 その場の空気が、一瞬で張り詰めた。奏介くんは落ち着いた様子で私の隣に立つと、「今日は、リハビリセンターから彩羽先輩を送ってきただけです」 それだけを淡々と告げる。雅臣は眉間に深い皺を寄せた。「送る?」「はい」「送るだけで、部屋の中まで上がるのか?」 その言葉には、あからさまな疑念が滲んでいた。 私は慌てて首を振る。「……私が、お礼に、お茶を……」 けれど、うまく声にならない。 その様子を見て、麗華が口元へ手を添え、小さく笑った。「あら……ごめんなさい」 申し訳なさそうな表情。しかし、その瞳だけはどこか楽しそうに弧を描いていた。「雅臣。どうやら私たち、お邪魔し
晩餐会から一週間が過ぎた。 桜小路家のリビングは、今日も静まり返っていた。 広い部屋に整えられた家具。 高級感のあるインテリア。 けれど、そこには人の気配がなかった。「……彩羽」 仕事から帰宅した雅臣は、ネクタイを緩めながらリビングを見回す。 当然のように返ってくると思っていた「おかえりなさい」の声はない。 キッチンにも、ダイニングにも、どこにも彩羽はいなかった。「あいつは……まだ帰っていないのか」 小さく息を吐く。 彩羽が荷物をまとめ家を飛び出してからもう何日も経っている。 そろそろ頭も冷えただろうと、晩餐会の後に彼女がいる場所を突き止めて連れ帰ろうとしたけれど、「帰らない」と言われたことを思い出し、雅臣は顔を苦々しく歪めた。「まったく……今回は意地になりすぎだ」 額へ手を当てる。 離婚だなんだと言っていたが、あれは感情的になっているだけだ。 今までは何があったって大人しく自分の傍にいてくれたじゃないか。 友人たちは軽い冗談を言っただけだし、麗華とのことだって……。 雅臣はもう一度、深くため息を吐く。 彩羽は自分の妻で、何不自由なく過ごさせてきたはずだ。それなのに、麗華に嫉妬して当たるなんてどうかしている。 けれど、それももう少し時間を置けば落ち着くだろう。 雅臣はそんなことを考えながら、ジャケットを脱いでクローゼットのある寝室へと入った。 本棚の横にある大きな棚。そこには、小さなジュエリーケースが整然と並んでいる。 一つ。また一つ。彩羽へ贈ってきた九十九個のサファイヤの贈り物。 雅臣は一番新しいベルベットのケースを取り出した。 蓋を開く。中には、深い青色のサファイア。 けれど、その表面には小さな欠けがあった。 あの日、彩
研究センターでの初めてのリハビリを終え、夕暮れの街を奏介くんの車がゆっくりと走っていた。 車内には上品で穏やかなクラシックが小さく流れている。 私は窓の外へ視線を向けながら、今日一日の出来事を思い返していた。 歌えなかったけれど、不思議と心は軽かった。 音楽はまだ、自分の中に残っている。そう教えてもらえたから。「今日は、お疲れさまでした」 信号で車が止まる。ハンドルを握る奏介くんが私のほうを見た。「初日としては、本当に良かったと思います」 私は少しだけ眉を下げながら笑って頷いた。【歌えなかったけどね】 手話でそう返すと、奏介くんは小さく首を横へ振る。「歌えなかった、じゃありません」 一拍置いて続ける。「今日は音楽に戻れた日です」 その言葉に、私は静かに目を伏せた。胸の奥が、また少しだけ温かくなる。とくとくと心臓が高鳴っている。瞼の裏に、学生時代、大きなホールで歌った日のことが昨日のことのように思い浮かんだ。◇ 車は住宅街へ入り、やがて私のマンションの前で停まった。「着きましたよ」 奏介くんは車を降りると、助手席のドアを開けてくれる。 私は「ありがとう」と唇を動かしながら車を降りた。けれど奏介くんは、すぐには歩き出さなかった。 周囲を静かに見回している。 道路の向こう。 駐車場。 建物の影。 まるで誰かがいないか確認するように視線を巡らせている。 私は不思議に思って首を傾げた。しばらくして、奏介くんはようやく安心したように小さく息を吐き出した。「……今日は、大丈夫そうですね」 私はその言葉の意味を理解して、胸が少し締めつけられた。 奏介くんは、晩餐会の後にあった出来事を考えてくれていたのだ。 雅臣が突然現れた、あの日のことを――。 奏介くんはその
翌朝。スマートフォンの通知音で目を覚ますと、画面には奏介くんからのメッセージが届いていた。『おはようございます。研究センターでの初回面談ですが、来週の月曜日、午前十時で母が予約を取っているようです。』 その下には、住所と当日のスケジュールが添えられている。『迎えに行きますので、ご安心ください』 私は画面を見つめ、小さく微笑んだ。 いよいよ始まる。私が歌の世界へと戻る、本当の意味での第一歩が。◇ 翌週の月曜日。 奏介くんに連れられて研究センターの前までやって来た私は、一度足を止めた。 白を基調とした近代的な建物を見上げる。 病院というより、小さな音楽ホールのような落ち着いた雰囲気だった。 奏介くんに案内されてロビー入ると、グランドピアノが置かれ、壁には学生たちの演奏会の写真や海外の音楽祭のポスターが飾られている。(素敵……) 思わず見惚れていると、隣に立つ奏介くんが優しく笑った。「緊張しますか?」 私は少しだけ考えてから頷く。「大丈夫です。ここには、先輩の味方しかいません」 柔らかい声とそっと私の背中を押してくれるような奏介くんの微笑みに、不思議と肩の力が抜けた。私はゆっくりと深呼吸をしてから、もう一度奏介くんに頷き返した。◇ 案内された診察室には、奏介くんのお母さまと、言語聴覚士の女性が待っていた。「彩羽さん、来てくださってありがとう」 柔らかな笑顔で迎えられ、私は頭を下げる。 向かい合って座り面談が始まると、お母さまは一冊のファイルを開いた。「彩羽さんが入院されていた病院から、カルテを見せてもらったの」 私は静かに頷く。「劇薬による化学熱傷だったのね……」 お母さまはカルテのコピーに視線を落としながら、慎重にページをめくる。「喉の粘膜がかなり傷ついていたみたいね。痛みも相当強かったでしょう」 私は当時を思い出すように目を伏せた。 唾を飲み込むことも苦しかった。 常温の水さえ痛かった。あの頃は、生きているだけで精一杯だった。「でも、今は少しだけ声が出ているのよね?」 お母さまはカルテを閉じ、私を真っ直ぐ見つめた。 私はゆっくり頷き、掠れた声で答える。「……少しだけ、です。ほとんど掠れてしまっていて、声になっているといいのかどうか……」 一言、そう話しただけで喉がひりつく。「それに……たくさん