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九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む
九十九の贈り物は初恋の呪い~声を失った償い妻は世界の歌姫となり、元夫の復縁を拒む
Penulis: 暁万里

第1話 あなたのためのスープ

Penulis: 暁万里
last update Tanggal publikasi: 2026-08-27 10:21:19

 コトコトと、小さな鍋が優しい音を立てていた。

 私はお玉でゆっくりとスープをかき混ぜる。

「……ん」

 ひと口味見をして、そして小さく頷いた。

(今日は少し薄味かな)

 夫の桜小路雅臣は、生まれつき胃が弱い。

 仕事が忙しくなるとすぐ食欲が落ちてしまうから、味付けはいつも控えめを心掛けていた。

 冷蔵庫から刻んだパセリを取り出し、最後にふわりと散らす。

 湯気とともに立ち上る優しい香りに、自然と頬が緩んだ。

(今日は結婚記念日だもん)

 ――結婚五周年。

 そして、私の誕生日。

 今夜は久しぶりに二人で食事へ行く約束をしていた。

 雅臣はここ数ヵ月、海外との大型契約でほとんど家に帰れていない。

 だけど、今日はゆっくり二人で過ごそうと、何日も前から約束していた。

 ふと、鼻歌を歌おうと息を吸う。

 けれど……。

「……ぁ」

 喉が震えただけで、声は出なかった。

 彩羽はゆっくり目を閉じ、小さく笑う。

「……」

 もう五年になる。

 それでも時々、昔の癖が抜けない。

 歌うことは、呼吸をすることと同じだったから。

 リビングの隅には、一台のアップライトピアノ。

 その上には、学生時代に受賞したコンクールのトロフィーが並んでいる。

 『最年少金賞』

 『教授推薦特別賞』

『未来のプリマドンナ』

 そんな文字が刻まれた盾も、今では静かに埃をかぶっていた。

 その横には、一枚の写真。

 病院のベッドで笑う母と、制服姿の自分。

 写真の中の母は、優しく笑っている。

『いつか世界中のお客さんの前で歌う彩羽を見てみたいな』

 幼いころから歌うことが好きだった私。

 そして、母の夢。

 それを叶えるために、私は走り続けてきた。

 世界的なオペラ歌手になる。

 それが私の人生であり、命だった。

 ――五年前、すべてを失うまでは。

 テーブルの上でスマートフォンが震えた。

 画面に映る『雅臣』の名前を見て、私は自然と笑顔になる。

 ビデオ通話をタップすると、スーツ姿の雅臣が画面いっぱいに映った。

『彩羽』

 穏やかな声だった。

 仕事中とは思えないほど柔らかな笑顔に、彩羽の胸は温かくなる。

『彩羽、悪い』

 その一言で、彩羽はすべてを察した。

『これから本社で役員との打ち合わせが入った。今日のディナー、行けそうにない』

 少しだけ胸が痛んだ。

 でも、それを顔には出さない。

 雅臣は桜小路グループを背負う社長だ。

 忙しいことくらい、結婚する前から分かっていた。

 彩羽は笑顔を作り、『大丈夫』と唇だけを動かして頷く。

『埋め合わせは必ずするよ。プレゼントも用意してある』

『だから今日は許してくれ』と言う雅臣はとても申し訳なさそうだ。

 私がこくこくと頷いて返すと、雅臣はひとつ息を吐いた。

そして、少しだけ画面の中をまるで覗き込むかのように顔を近付けてきた。少しだけその顔に笑顔が戻っている。

『今日、ちゃんと夕飯は食べるんだぞ。最近また痩せただろ?』

 それから、と雅臣は続ける。

『今日は雨で、夜も冷える。風邪も引かないように気をつけて。分かった?』

 私は口を開く。

「……う」

 明るい声で答えたかったけれど、上手く音が乗ってくれない。せめて。と、笑顔を作ってゆっくりと頷く。

『よし』

 そんな私を見て、雅臣は安心したように笑った。

『じゃあ、会議に行ってくるよ。愛してる』

 その言葉に、自分の頬が少し熱くなった。きっと赤くなっているに違いない。

 恥ずかしいけれど、隠すような相手でもない。

 画面が切れるまで、雅臣は何度も手を振ってくれていた。

「……」

 静かになった部屋で、私は保温バッグを見つめる。

 昼から煮込んだスープ。

 せっかく作ったのだから。

(届けるだけなら……迷惑じゃないよね)

 仕事の邪魔はしない。

 秘書の人に預けるだけ。

 それだけなら……いいよね。

 私は保温容器にスープを注いで保温バッグに入れると、静かに家を出た。

 外では、雅臣の言った通り、激しい雨が降っていた。

◇

「申し訳ございません」

 桜小路グループの受付。

私が雅臣に会いに来たことを筆談で伝えると、受付係の女性は、私に丁寧に頭を下げた。

「雅臣さまは、本日、本社にはお戻りになりません」

 私は思わず顔を上げた。

「え……?」

受付係も一瞬だけ表情を曇らせる。

「……奥さま?」

私は慌てて笑顔を作り、小さく首を振った。

『ありがとう』

 そう唇を動かして頭を下げる。

 それから受付を離れ、ロビーの片隅に立った。

 窓の外では、雨が勢いを増していた。

 保温バッグを抱える手に、少しずつ力が入る。

 そのときだった。

 知らない番号から着信が入る。

 一体誰だろう、と少し戸惑いながらもその通話を取った。

 そっと、耳に当てる。

 聞こえてきたのは、女の笑い声だった。

『もう……雅臣ったら。空港なのに、そんなに我慢できなかったの?』

 夫の名前が聞こえ、思考が止まる。

 なに……? これは一体なんなの……?

 スマートフォンを耳から離そうとした、次の瞬間。

 聞き覚えのある、低く優しい声が耳に届いた。

『……麗華』

 その声は、五年間、毎日隣で聞いてきた夫の声だった。

 けれど、私が一度も聞いたことのないような甘く蕩けるような響きだった。

『我慢なんて、できるわけないだろ。君のことを、この五年間……ずっと忘れられなかったんだから』

 保温バッグが、私の手から滑り落ちた。ガシャン、と大きな音を鳴らす。

 喉が苦しい。

 私は自分の喉に両手を当てた。

 息ができない。

 声が――……。

「……っ」

 掠れた声さえ、出ない。

 世界から音が消えていく。

 震える指でスマートフォンを握り直す。

 涙で滲む画面の中、何度もアイコンを見失いながら、なんとか録音ボタンを押した。

 通話が切れたら、跡形もなく消えてしまう真実。せめて証拠だけでも残すために。

 五年間、私は雅臣に抱かれたことがなかった。

――君の体が大切だから、無理はさせたくない。

 優しい声で紡がれるその言葉を信じてきた。

 でも、ようやく分かった。

 雅臣は抱けなかったんじゃない。

 私を、抱きたくなかったのだ。

 私ではなく、ずっと、たった一人の女性だけを愛していたのだから。

 画面には、録音時間が静かに刻まれていく。

 十八秒。

 たった十八秒。

――五年間信じ続けた愛は、たった十八秒で音を立てて崩れ落ちた。

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