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第2話 私の嫌いも知らない夫

作者: 暁万里
last update 公開日: 2026-08-27 10:22:19

 ロビーの白い床に、野菜の入ったスープが静かに広がっていた。

 割れた保温容器の破片が散らばり、慌てた清掃員が駆け寄ってくる。

 あんなに時間をかけて作ったスープ。

 雅臣の身体を気遣って、味付けも何度も確かめた。

 それなのに、届けることすら、できなかった。

 私は清掃員の女性に頭を下げて、床にしゃがみ込み、散らばった破片を拾うために手を伸ばす。

「……あれ? 桜小路の奥さんじゃん」

 背後から聞こえた男の声に、私はゆっくりと振り返った。

 高級スーツを身にまとった若い男性が数人、こちらを見て立ち止まっていた。

「本当だ」

 その中の一人が面白半分と言った感じで、スマートフォンを構える。

 パシャッ。

 シャッター音が、静かなロビーに響いた。

 私は思わず顔を伏せた。

「ちょっ、お前、勝手に撮るなよ」

 隣の男がそう言いながらもクスクスと笑った。

「いいじゃん。あとでグループチャットで共有しとくわ」

 軽い笑い声がロビーに広がる。

「しかしさぁ、あの事故がなかったら、雅臣と結婚なんてできなかったよな」

「命の恩人って最強だよ」

「それだけで社長夫人だもんな」

 私の喉がぎゅっと締めつけられる。

「でも雅臣も大変だよな。五年間も縛られて。」

「……声も出ない奥さん相手にさ」

「おい、さすがに言い過ぎだって。雅臣にチクられたら――」

 一人がそう言う。

 その言葉に、少しだけ救われる気がした。

 けれど……

「は? 別に大丈夫だろ」

 別の男が笑った。

「だって声、出ないんだろ? どうせ何も言えない。文句も言いつけもできないんだから」

 その言葉を、その場にいた誰もが否定しなかった。

 私は俯き、ただぐっと唇を噛み締めることしかできなかった。

 涙が一粒、白い大理石の床へと落ちていく。

 その瞬間だった。

「奥様!」

 清掃員が慌てて声を上げる。

 私の手から、割れた保温容器の破片が滑り落ち、軽い音を鳴らした。

 気付けば私は、破片を強く握り締めてしまっていたらしい。

 掌から赤い血が滲み、床に広がるスープの中へとぽたりと落ちていった。

 私は逃げるようにロビーを飛び出した。

 激しい雨が、全身を容赦なく打ちつける。

 冷たい。

 苦しい。

 息が、できない。

 喉が震える。

 何かを叫びたいのに、私の声はどこにもなかった。

◇

 気が付くと、私は自宅のベッドに寝かされていた。

 身体が熱い。

 額には冷たいタオルが乗せられている。

「彩羽」

 聞き慣れた声。

 ゆっくり目を開けると、カーテンの隙間から入る眩しい朝陽の中、ベッドの傍らには雅臣が座っていた。

「熱が三十九度近くまで上がったんだ。ソファの上で倒れているところを、家政婦が見つけてくれた」

 心配そうな顔と優しい眼差しは、いつもと何も変わらない。

「無茶をするからだ」

 そう言って、雅臣は私の前髪をそっと撫でた。

「今日は会社も休んだ。一日、君の傍にいる」

 その言葉に心が少しだけ揺れる。

 昨日の出来事は、全部夢だったんじゃないか。

 そんな馬鹿な期待が、ほんの少しだけ顔を出した。

――昨日は、どこで誰といたの?

 それすら聞くことも、私には怖くてできないのに。

 コンコン、とノックの音が響く。雅臣が返事をすると、家政婦が入って来た。

「奥様、お粥をお持ちしました」

 彼女はお盆を抱えていて、その上には湯気の立つお粥と薬。

 雅臣はそれを受け取り、サイドテーブルへと置く。そして、小皿にお粥を取り分けてくれてから私に渡した。

「ちゃんと食べて、今日はゆっくり休め」

 私は小さく頷き、スプーンを手に取った。

 スプーンをお粥の中に入れて、一瞬、躊躇う。

(……しいたけ)

 昔から苦手だった。

 子どもの頃から、どうしても食べられない。

 雅臣は心配そうに私を見る。

「どうした?」

 私は何も言えず、小さく首を振った。

 五年間、私は雅臣の嫌いな食べ物を、一度も食卓に並べたことがない。

 胃が弱いことも、苦手な味付けも、夜遅い日は消化のいいものを選ぶことも、全部覚えてきた。

(しいたけ、食べられないって前に話したのに……)

 たったこれだけで分かってしまった。

 雅臣は、私が何を好きで、何を苦手としているのか、きっと何一つ知らないのだろう

「彩羽」

 雅臣は穏やかに笑い、

「もう無理して会社まで来なくていい」

 そっと私の背中を撫でた。

「何か届けたいものがあるなら、秘書へ預けてくれれば十分だから。君はちゃんと、自分の身体を大事にして」

 優しい声だった。

 昨日までの私なら、その言葉だけで涙が出そうになるくらい嬉しいと思ったに違いない。

 でも今は、その優しさが、胸に刺さる。

 ふと、雅臣が袖をまくった。

 その瞬間、ワイシャツの袖口に、ピンク色の汚れがついているのが見えた。

――……麗華。

――我慢なんて、できるわけないだろ。君のことを、この五年間……ずっと忘れられなかったんだから。

その言葉が、脳内を駆け巡った。

 よく見ると、それは唇の形をした淡い口紅の跡だった。

 空港で会っていたのは、仕事相手なんかじゃない。

 私を会社へ来させたくなかった理由も、秘書へ預けろと言った理由も、全部、繋がった。

――私に見られたくなかっただけなんだ。

 穏やかに笑う雅臣は、きっと何一つ気付いていない。

 私が、その口紅の跡に気付いたことも。

 昨日の電話で、聞いてしまった甘い声も。

 私は静かに目を伏せた。

(そうよね。だって、あなたは、私のことなんて何も見ていないから……)

 胸の奥で、またひとつ何かが音もなく崩れていく。

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