ログインロビーの白い床に、野菜の入ったスープが静かに広がっていた。
割れた保温容器の破片が散らばり、慌てた清掃員が駆け寄ってくる。
あんなに時間をかけて作ったスープ。
雅臣の身体を気遣って、味付けも何度も確かめた。
それなのに、届けることすら、できなかった。
私は清掃員の女性に頭を下げて、床にしゃがみ込み、散らばった破片を拾うために手を伸ばす。
「……あれ? 桜小路の奥さんじゃん」
背後から聞こえた男の声に、私はゆっくりと振り返った。
高級スーツを身にまとった若い男性が数人、こちらを見て立ち止まっていた。
「本当だ」
その中の一人が面白半分と言った感じで、スマートフォンを構える。
パシャッ。
シャッター音が、静かなロビーに響いた。
私は思わず顔を伏せた。
「ちょっ、お前、勝手に撮るなよ」
隣の男がそう言いながらもクスクスと笑った。
「いいじゃん。あとでグループチャットで共有しとくわ」
軽い笑い声がロビーに広がる。
「しかしさぁ、あの事故がなかったら、雅臣と結婚なんてできなかったよな」
「命の恩人って最強だよ」
「それだけで社長夫人だもんな」
私の喉がぎゅっと締めつけられる。
「でも雅臣も大変だよな。五年間も縛られて。」
「……声も出ない奥さん相手にさ」
「おい、さすがに言い過ぎだって。雅臣にチクられたら――」
一人がそう言う。
その言葉に、少しだけ救われる気がした。
けれど……
「は? 別に大丈夫だろ」
別の男が笑った。
「だって声、出ないんだろ? どうせ何も言えない。文句も言いつけもできないんだから」
その言葉を、その場にいた誰もが否定しなかった。
私は俯き、ただぐっと唇を噛み締めることしかできなかった。
涙が一粒、白い大理石の床へと落ちていく。
その瞬間だった。
「奥様!」
清掃員が慌てて声を上げる。
私の手から、割れた保温容器の破片が滑り落ち、軽い音を鳴らした。
気付けば私は、破片を強く握り締めてしまっていたらしい。
掌から赤い血が滲み、床に広がるスープの中へとぽたりと落ちていった。
私は逃げるようにロビーを飛び出した。
激しい雨が、全身を容赦なく打ちつける。
冷たい。
苦しい。
息が、できない。
喉が震える。
何かを叫びたいのに、私の声はどこにもなかった。
◇
気が付くと、私は自宅のベッドに寝かされていた。
身体が熱い。
額には冷たいタオルが乗せられている。
「彩羽」
聞き慣れた声。
ゆっくり目を開けると、カーテンの隙間から入る眩しい朝陽の中、ベッドの傍らには雅臣が座っていた。
「熱が三十九度近くまで上がったんだ。ソファの上で倒れているところを、家政婦が見つけてくれた」
心配そうな顔と優しい眼差しは、いつもと何も変わらない。
「無茶をするからだ」
そう言って、雅臣は私の前髪をそっと撫でた。
「今日は会社も休んだ。一日、君の傍にいる」
その言葉に心が少しだけ揺れる。
昨日の出来事は、全部夢だったんじゃないか。
そんな馬鹿な期待が、ほんの少しだけ顔を出した。
――昨日は、どこで誰といたの?
それすら聞くことも、私には怖くてできないのに。
コンコン、とノックの音が響く。雅臣が返事をすると、家政婦が入って来た。
「奥様、お粥をお持ちしました」
彼女はお盆を抱えていて、その上には湯気の立つお粥と薬。
雅臣はそれを受け取り、サイドテーブルへと置く。そして、小皿にお粥を取り分けてくれてから私に渡した。
「ちゃんと食べて、今日はゆっくり休め」
私は小さく頷き、スプーンを手に取った。
スプーンをお粥の中に入れて、一瞬、躊躇う。
(……しいたけ)
昔から苦手だった。
子どもの頃から、どうしても食べられない。
雅臣は心配そうに私を見る。
「どうした?」
私は何も言えず、小さく首を振った。
五年間、私は雅臣の嫌いな食べ物を、一度も食卓に並べたことがない。
胃が弱いことも、苦手な味付けも、夜遅い日は消化のいいものを選ぶことも、全部覚えてきた。
(しいたけ、食べられないって前に話したのに……)
たったこれだけで分かってしまった。
雅臣は、私が何を好きで、何を苦手としているのか、きっと何一つ知らないのだろう
「彩羽」
雅臣は穏やかに笑い、
「もう無理して会社まで来なくていい」
そっと私の背中を撫でた。
「何か届けたいものがあるなら、秘書へ預けてくれれば十分だから。君はちゃんと、自分の身体を大事にして」
優しい声だった。
昨日までの私なら、その言葉だけで涙が出そうになるくらい嬉しいと思ったに違いない。
でも今は、その優しさが、胸に刺さる。
ふと、雅臣が袖をまくった。
その瞬間、ワイシャツの袖口に、ピンク色の汚れがついているのが見えた。
――……麗華。
――我慢なんて、できるわけないだろ。君のことを、この五年間……ずっと忘れられなかったんだから。
その言葉が、脳内を駆け巡った。
よく見ると、それは唇の形をした淡い口紅の跡だった。
空港で会っていたのは、仕事相手なんかじゃない。
私を会社へ来させたくなかった理由も、秘書へ預けろと言った理由も、全部、繋がった。
――私に見られたくなかっただけなんだ。
穏やかに笑う雅臣は、きっと何一つ気付いていない。
私が、その口紅の跡に気付いたことも。
昨日の電話で、聞いてしまった甘い声も。
私は静かに目を伏せた。
(そうよね。だって、あなたは、私のことなんて何も見ていないから……)
胸の奥で、またひとつ何かが音もなく崩れていく。
――私、妊娠してるの。 麗華から告げられたその言葉が、雅臣の頭の中で何度も繰り返されていた。「妊娠……?」 雅臣は、麗華の細いお腹へと視線を向けたきり、黙り込んでしまっている。「……雅臣?」 不安そうに名前を呼ばれ、雅臣はハッと我に返った。「……ああ。すまない。とにかく、ここを出よう」 麗華の背中を支えながら、マンションの廊下へと出る。 彩羽の部屋の扉は、固く閉ざされたままだった。その向こうに、彩羽と白鳥奏介がいる。 先ほど見た光景が、脳裏をよぎる。白鳥の腕に抱き上げられた彩羽。自分には見せたことのないほど、無防備に身を預けていた姿。 麗華のお腹に宿っている小さな命よりもなぜか彩羽のほうが気になり、胸の奥がひどくざわついた。「雅臣……。お腹が、まだ少し痛いの」 麗華が小さく呟き、雅臣に体を預けるように寄りかかった。「病院へ行かなくて大丈夫なのか?」「大丈夫よ。少し休めば落ち着くと思うから」「……分かった。すぐに車を回す。今日は俺の家で休もう」 雅臣は、扉が開けられることのない彩羽の部屋をもう一度振り返ったが、すぐに麗華へと視線を戻し、彼女の体を支えながらマンションを後にした。◇ 自宅へ戻ると、雅臣は麗華をリビングのソファへ座らせた。「少し待っていろ。温かいものを持ってくる」「ありがとう」 麗華は嬉しそうに微笑んだ。 その笑顔に見送られながら、雅臣はキッチンへと向かう。 しかし、そこで足が止まった。「……どこだ?」 戸棚を開ける。皿やグラスは整然と並んでいる。別の引き出しには、調理器具が収められていた。 だが、茶葉が見当たらない。 紅茶くらい、どこかにあるはずだ。 雅臣は次々と戸棚を開けていくけれど、それでも、見つからない。「……ちっ」 小さく舌打ちが漏れた。 こんなとき、彩羽がいれば。 いつもなら、帰宅してソファへ腰掛ける頃には、温かい飲み物が用意されていた。 胃が弱い雅臣のために、刺激の少ないものを選んで。 仕事で疲れているときには、蜂蜜を入れた飲み物を出してくれたこともある。 だが、それがどこにしまわれているのか、雅臣は知らなかった。「……まったく。彩羽はいつまで意地を張るつもりなんだ」 彩羽が家を出てから、何もかもが面倒になった。 食事も、洗濯も、身の回りの細かなことも、今まで気にす
扉を開けた先に立っていたのは、雅臣と金城麗華だった。 心臓が大きく脈打つ。「……どうして」 掠れた声が漏れる。雅臣は私を見るなり、小さく息を吐いた。「彩羽、迎えに来たぞ。そろそろいいだろう。一緒に帰ろう」 その声は、まるで何事もなかったかのようだった。「麗華も彩羽と仲直りしたいそうだ。だからこうやって一緒に来てくれた」雅臣が麗華を見て微笑む。私は二人を交互に見てから、ゆっくり首を横に振った。「……帰らないわ」 掠れた声で短くそう答えた、そのときだった。「彩羽先輩?」 部屋の奥から奏介くんの声が響く。 その声が聞こえた瞬間、雅臣の表情が一瞬にして険しくなる。 リビングから姿を現した奏介くんは、玄関先に立つ雅臣と金城麗華を見ると、一瞬だけ目を見開いた。「……桜小路さん」 雅臣は奏介くんを見据えたまま、低く呟く。「……どうして、お前がここにいるんだ」 その場の空気が、一瞬で張り詰めた。奏介くんは落ち着いた様子で私の隣に立つと、「今日は、リハビリセンターから彩羽先輩を送ってきただけです」 それだけを淡々と告げる。雅臣は眉間に深い皺を寄せた。「送る?」「はい」「送るだけで、部屋の中まで上がるのか?」 その言葉には、あからさまな疑念が滲んでいた。 私は慌てて首を振る。「……私が、お礼に、お茶を……」 けれど、うまく声にならない。 その様子を見て、麗華が口元へ手を添え、小さく笑った。「あら……ごめんなさい」 申し訳なさそうな表情。しかし、その瞳だけはどこか楽しそうに弧を描いていた。「雅臣。どうやら私たち、お邪魔し
晩餐会から一週間が過ぎた。 桜小路家のリビングは、今日も静まり返っていた。 広い部屋に整えられた家具。 高級感のあるインテリア。 けれど、そこには人の気配がなかった。「……彩羽」 仕事から帰宅した雅臣は、ネクタイを緩めながらリビングを見回す。 当然のように返ってくると思っていた「おかえりなさい」の声はない。 キッチンにも、ダイニングにも、どこにも彩羽はいなかった。「あいつは……まだ帰っていないのか」 小さく息を吐く。 彩羽が荷物をまとめ家を飛び出してからもう何日も経っている。 そろそろ頭も冷えただろうと、晩餐会の後に彼女がいる場所を突き止めて連れ帰ろうとしたけれど、「帰らない」と言われたことを思い出し、雅臣は顔を苦々しく歪めた。「まったく……今回は意地になりすぎだ」 額へ手を当てる。 離婚だなんだと言っていたが、あれは感情的になっているだけだ。 今までは何があったって大人しく自分の傍にいてくれたじゃないか。 友人たちは軽い冗談を言っただけだし、麗華とのことだって……。 雅臣はもう一度、深くため息を吐く。 彩羽は自分の妻で、何不自由なく過ごさせてきたはずだ。それなのに、麗華に嫉妬して当たるなんてどうかしている。 けれど、それももう少し時間を置けば落ち着くだろう。 雅臣はそんなことを考えながら、ジャケットを脱いでクローゼットのある寝室へと入った。 本棚の横にある大きな棚。そこには、小さなジュエリーケースが整然と並んでいる。 一つ。また一つ。彩羽へ贈ってきた九十九個のサファイヤの贈り物。 雅臣は一番新しいベルベットのケースを取り出した。 蓋を開く。中には、深い青色のサファイア。 けれど、その表面には小さな欠けがあった。 あの日、彩
研究センターでの初めてのリハビリを終え、夕暮れの街を奏介くんの車がゆっくりと走っていた。 車内には上品で穏やかなクラシックが小さく流れている。 私は窓の外へ視線を向けながら、今日一日の出来事を思い返していた。 歌えなかったけれど、不思議と心は軽かった。 音楽はまだ、自分の中に残っている。そう教えてもらえたから。「今日は、お疲れさまでした」 信号で車が止まる。ハンドルを握る奏介くんが私のほうを見た。「初日としては、本当に良かったと思います」 私は少しだけ眉を下げながら笑って頷いた。【歌えなかったけどね】 手話でそう返すと、奏介くんは小さく首を横へ振る。「歌えなかった、じゃありません」 一拍置いて続ける。「今日は音楽に戻れた日です」 その言葉に、私は静かに目を伏せた。胸の奥が、また少しだけ温かくなる。とくとくと心臓が高鳴っている。瞼の裏に、学生時代、大きなホールで歌った日のことが昨日のことのように思い浮かんだ。◇ 車は住宅街へ入り、やがて私のマンションの前で停まった。「着きましたよ」 奏介くんは車を降りると、助手席のドアを開けてくれる。 私は「ありがとう」と唇を動かしながら車を降りた。けれど奏介くんは、すぐには歩き出さなかった。 周囲を静かに見回している。 道路の向こう。 駐車場。 建物の影。 まるで誰かがいないか確認するように視線を巡らせている。 私は不思議に思って首を傾げた。しばらくして、奏介くんはようやく安心したように小さく息を吐き出した。「……今日は、大丈夫そうですね」 私はその言葉の意味を理解して、胸が少し締めつけられた。 奏介くんは、晩餐会の後にあった出来事を考えてくれていたのだ。 雅臣が突然現れた、あの日のことを――。 奏介くんはその
翌朝。スマートフォンの通知音で目を覚ますと、画面には奏介くんからのメッセージが届いていた。『おはようございます。研究センターでの初回面談ですが、来週の月曜日、午前十時で母が予約を取っているようです。』 その下には、住所と当日のスケジュールが添えられている。『迎えに行きますので、ご安心ください』 私は画面を見つめ、小さく微笑んだ。 いよいよ始まる。私が歌の世界へと戻る、本当の意味での第一歩が。◇ 翌週の月曜日。 奏介くんに連れられて研究センターの前までやって来た私は、一度足を止めた。 白を基調とした近代的な建物を見上げる。 病院というより、小さな音楽ホールのような落ち着いた雰囲気だった。 奏介くんに案内されてロビー入ると、グランドピアノが置かれ、壁には学生たちの演奏会の写真や海外の音楽祭のポスターが飾られている。(素敵……) 思わず見惚れていると、隣に立つ奏介くんが優しく笑った。「緊張しますか?」 私は少しだけ考えてから頷く。「大丈夫です。ここには、先輩の味方しかいません」 柔らかい声とそっと私の背中を押してくれるような奏介くんの微笑みに、不思議と肩の力が抜けた。私はゆっくりと深呼吸をしてから、もう一度奏介くんに頷き返した。◇ 案内された診察室には、奏介くんのお母さまと、言語聴覚士の女性が待っていた。「彩羽さん、来てくださってありがとう」 柔らかな笑顔で迎えられ、私は頭を下げる。 向かい合って座り面談が始まると、お母さまは一冊のファイルを開いた。「彩羽さんが入院されていた病院から、カルテを見せてもらったの」 私は静かに頷く。「劇薬による化学熱傷だったのね……」 お母さまはカルテのコピーに視線を落としながら、慎重にページをめくる。「喉の粘膜がかなり傷ついていたみたいね。痛みも相当強かったでしょう」 私は当時を思い出すように目を伏せた。 唾を飲み込むことも苦しかった。 常温の水さえ痛かった。あの頃は、生きているだけで精一杯だった。「でも、今は少しだけ声が出ているのよね?」 お母さまはカルテを閉じ、私を真っ直ぐ見つめた。 私はゆっくり頷き、掠れた声で答える。「……少しだけ、です。ほとんど掠れてしまっていて、声になっているといいのかどうか……」 一言、そう話しただけで喉がひりつく。「それに……たくさん
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような気がした。 奏介くんの「大丈夫ですか」という一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。 私は何度も小さく頷いた。 大丈夫。 そう伝えたいのに、涙が溢れてしまってうまくいかない。 奏介くんは何も急かさなかった。 ただ、私が落ち着くまで静かに待っていてくれる。 しばらく涙を流したあと、私は手の甲で目元を拭い、深く息を吸い込んでから、安心させるために笑顔を作って奏介くんを見る。【……よかったら、お茶でも飲んでいかない?】 手話でそう伝えると、一瞬だけ目を丸くした奏介くんは、すぐに柔らかく微笑む。「……ご迷惑じゃなければ」 私は首を横に振り、鍵を開けた。◇ 部屋に入ると、まだ片付けきれていない段ボール箱が壁際に積まれている。 生活感の少ない室内。けれど、不思議とこの場所は落ち着いた。部屋の中にあるすべてものが……そして、空気が、ここは私の場所だと言ってくれているような気がする。「お邪魔します」 奏介くんは靴を揃えて部屋へと上がる。 私はキッチンに向かい、お湯を沸かした。 部屋には電気ケトルの湯が沸く音だけが静かに響く。 二人分の紅茶をテーブルへ運ぶと、奏介くんが「ありがとうございます」と頭を下げた。 私は向かい側へ腰を下ろし、奏介くんに向かって手を動かした。【どうして戻ってきてくれたの?】 さっそく紅茶に口をつけていた奏介くんは、ゆっくりとティーカップをソーサーへと戻した。そしてそのまま、カップへ視線を落とす。「実は……彩羽先輩と別れて帰る途中、桜小路さんとすれ違った気がしたんです」 私は目を瞬かせる。「最初は気のせいかなって思ったんですけど……なんだか嫌な予感がして」 一拍置いて、奏







