LOGIN「ああ、そうだ」
雅臣は、何かを思い出したように、サイドテーブルに置いてあった小さな箱を手に取った。
そして私の目を見つめて、柔らかく微笑む。
「誕生日、おめでとう。」
差し出されたのは、濃紺のリボンがかけられたジュエリーケースだった。
私はそれを受け取り、ゆっくりとリボンを解いて、蓋を開く。
中には、美しい深海を思わせる、濃く透明な青を宿したサファイアのピアスが収められていた。
でも――。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
この五年間、誕生日も、結婚記念日も、雅臣が贈ってくれたものは、いつもサファイヤのアクセサリーだった。
気付けば、それは九十九個。
最初は、私に似合うと思って選んでくれたのだと信じていた。
私は宝石のことなんて詳しくなかったから、雅臣が私のために選んでくれたものというそれだけの理由で、少しずつ好きになった。
ひとつひとつを毎日大切に磨いて、専用のジュエリーケースに並べてきた。
百個目になるはずだったこのサファイヤのピアスを見つめながら、私は小さく微笑み、静かに蓋を閉じた。
どうしても、ケースへしまう気にはなれなかった。
◇
夕方。雅臣は少しだけ仕事を片付けてくると、一度書斎に戻った。
静かな部屋の中。熱でぼんやりする頭のまま、私はスマートフォンを開く。
何気なく眺めていたSNSの記事に、ふと指が止まる。
『世界的ジュエリーデザイナー・金城麗華、待望の日本凱旋』
その見出しの下には、一枚の写真。
シャンパングラスを掲げて笑う金城麗華。その隣には、楽しそうに笑う雅臣の姿があった。
私の心臓が、どくりと跳ねる。記事の写真には、私が一度も見たことのない、少年のような笑顔を浮かべる雅臣。
震える指先でそっと画面をスクロールし、記事を読み進める。
――金城麗華が手掛けるジュエリーブランドは、サファイアを象徴とした人気ブランド。
――桜小路雅臣は、金城麗華の作品を熱心に愛する者のひとり。桜小路コーポレーションが、金城麗華のジュエリーブランド『プリマヴェーラ・デッラ・ヴィータ』の日本でのプロモーションに携わる。
それを読んだ瞬間、呼吸が止まった。
サファイア。
胸が嫌な音を立てる。
私は寝室の棚へ視線を向けた。
ガラスケースの中には、九十九個のサファイアジュエリー。
私はふらつく身体を支えながら棚へ近付いた。ジュエリーボックスの蓋を開け、ひとつひとつを手に取る。
その全てに刻印されている。『プリマヴェーラ・デッラ・ヴィータ』の文字が。
「……っ」
喉が詰まる。
全部。全部。全部。
雅臣が私に贈ってくれたサファイヤジュエリーはひとつ残らず、全て金城麗華のブランドだった。
あれは、私への贈り物じゃなかった。
雅臣が忘れられなかった女性が作り上げたもの。
昨日、スピーカー越しに聞いた『麗華』という甘い呼び声が、脳裏をよぎる。『五年間忘れられなかった』という雅臣の言葉が、私の耳について離れない。
金城麗華は、雅臣が五年間、ずっと忘れられなかった人。その人が生み出した宝石を、私は五年間、大切に大切に身につけていたのだ。
まるで、自分が、雅臣にとって麗華の代わりであることを証明するように。
涙が、ぽたりとケースへと落ちた。
◇
雅臣が部屋に戻って来る。私は震える手で手話を向けた。
『昨日、どこへ行っていたの?』
けれど、雅臣はスマートフォンを見つめたまま、私の手話に気付かない。
一度も視線は合わない。雅臣の指は忙しなく画面を打ち続けている。
やがてメッセージを送り終えると、雅臣はようやく顔を上げ、私の頭を優しく撫でた。
「少し仕事へ行ってくる。彩羽はちゃんと休んでいて」
そう言って部屋を出ていく。
閉まったドアを見つめながら、私はゆっくりと力なく、両手を下ろした。
私の言葉は……もう、届かない。
◇
翌日。
熱も下がり、気分転換に外へ出た。家にひとりでいると、雅臣と金城麗華のことばかり考えてしまって、頭がおかしくなりそうだった。
コーヒーショップの前を通り過ぎたとき。不意に懐かしい声が、私の鼓膜を揺らした。
「彩羽先輩?」
振り返る。そこに立っていたのは、音楽学院時代の後輩――白鳥奏介くんだった。
私は驚いて目を見開く。彼は、今や世界中を駆け回る有名ピアニストになっていたから、まさか、日本で会えるなんて思ってもいなかった。
「お久しぶりです」
柔らかな笑顔は学生時代のままなのに、どこか堂々とした雰囲気を纏っている。
私に一歩近付いてくれた彼に私は返事をしようとして、言葉に詰まった。
掠れた音だけが唇から漏れる。私は自分の口元に手を当てた。
けれど、奏介くんはその声を聞いても何も聞かず、微笑んで、
「少し時間あります?」
何事もなかったかのように、「少しお茶しませんか?」と言った。
近くのカフェへ入ると、奏介くんはバッグから小さなノートを取り出し、私の前へ置く。
『これなら話しやすいですか?』
サラサラとボールペンで文字を書いた奏介くんに私は驚いて顔を上げる。
「返事は頷くだけでも大丈夫です。耳は? 大丈夫ですか?」
そう優しい声色で、自分の耳を指差しながら言う奏介くんに私はこくこくと頷いた。
『耳は聞こえてる』
受け取ったペンでそう返すと、奏介くんは「よかった」と微笑んだ。
たったそれだけなのに、胸が少し軽くなる。
それから、奏介くんは言葉で。そして私は文字で他愛ない言葉を交わした。奏介くんは、日本での長期仕事があるらしく、しばらく日本に滞在するのだと教えてくれた。「帰国してすぐ彩羽先輩に会えるなんてラッキーだな」
そう笑った彼を見て、私は小さく微笑んだ。
「本当は空港からホテル直行だったんですけど、寄り道してよかった」
そんな風に言ってくれるなんてお世辞でも嬉しかった。店内が混み始めると、奏介くんはポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、私に差し出した。
その意図が分からず首を傾げる私の掌にそれが乗せられる。
「これ、周りの音を小さくしてくれるんです」
耳にそれをつけた瞬間、店内のざわめきがすっと遠のいた。
私は思わず目を見開く。それと同時に、心が落ち着いていくのを感じた。
私はどこかで、このざわめきに心が苦しくなっていたのだと自覚した。
奏介くんがひとりで話して、私が文字で返しているこの光景のせいで、奏介くんがおかしな目で見られるんじゃないかって気にしていたから。
でも、このイヤホンをつけた途端、気にならなくなった。奏介くんが少しだけ椅子をずらして、私を周囲の視線から隠してくれていることにも気付く。
静かな世界。それなのに、近くにいる奏介くんの声だけはハッキリと聞こえる。まるで、私たちしかいないみたいだ。
「……ありがとう」
掠れた小さな声しか出なかった。
それでも奏介くんは聞き返してこなかった。
声が出なくなったことも知らなかったはずだ。それなのに、それが当たり前であるかのように微笑んでくれる。
ふと、学生時代を思い出す。向かい合って語り合った音楽のこと。とても楽しかった。その感覚と今が、とても似ている。
歌だけを追いかけていたあの頃へ戻ったような感覚がして、私は口元を綻ばせた。
◇
「それじゃあ、彩羽先輩。また会えたらいいですね」
私はこくりと頷き、店を出て、奏介くんに手を振って別れた。
手の中のスマートフォンには、奏介くんの連絡先が追加されている。声を失ってから、昔の友人とは自然と距離ができてしまった。だから、こうやって再び、旧友との糸が繋がったことがすごく嬉しかった。
小さな喜びを感じながら歩いていると、見覚えのある黒い車が路肩に停まっているのに気付いた。
(雅臣の車……?)
「あ、奥様」
車のすぐ横に立っていた雅臣の秘書が私に気付いて駆け寄ってくる。
そして、深々と頭を下げた。
「社長をお迎えにいらしたのですね」
その言葉に私は戸惑う。
顔を横に向ければ、紹介制の高級料亭がある。どうやら、この中に雅臣がいるらしい。
けれど、私は雅臣がここにいることさえ知らなかった。
迎えに来たわけじゃない。偶然この近くを通っただけだ。
手話が通じない彼に、スマートフォンのメモに文字を打って伝えようと慌てていると、
「こちらです」
と、秘書は私の背中にそっと手を添えて軽く押し出すように案内を始める。
私は足を止めることもできないまま、個室の扉の前に立った。
「社長もお待ちだと思いますよ」
秘書の言葉に促され、扉に手を掛けようとしたときだ。
中から、賑やかな笑い声が聞こえる。
「なぁ雅臣、お前の奥さんさぁ――」
男の笑い声に、私の指はぴくりと止まった。
「……ぁ……」
部屋の中から掠れた私の声を真似するような声が聞こえた。どっと笑いが起こる。誰かが机を叩いて笑っている。
私は息を呑んだ。その笑い声の中に紛れ、雅臣の苦笑いのような声が聞こえた。
けれど、止める言葉は、ひとつも聞こえなかった。 私は扉に伸ばしかけた手が、ただ小さく震えた。
彩羽が振りかぶって投げた結婚指輪は、金城麗華の頬をかすめ、そのまま床へ転がった。 無機質な金属音が静かに響く。「……っ」 金城麗華の白い肌に細い赤い線が浮かび上がる。部屋の空気が一瞬で凍りついた。 金城麗華は驚いたように目を見開き、自分の頬へそっと触れる。 指先に滲んだ赤を見つめると、小さく首を振った。「違うの……彩羽さん」 震える声だった。「私と雅臣は、本当にただの同級生なの」 そう言いながら、テーブルの上にあったワイングラスを手に取り、ゆっくりと私へ歩み寄ってくる。「誤解させてしまったなら、ごめんなさい」 その姿は、まるで本当に謝ろうとしているようだった。 私は何もできず、ただ静かに立ち尽くしていた。「これで仲直りしましょう?」 金城麗華がグラスを差し出してくる。私は反射的に、それを受け取ろうと手を伸ばした。 その瞬間だった。「きゃっ!」 パシッ、と乾いた音が響く。 私の指先へ触れた麗華の手が、大きく弾かれたように見えた。 グラスが宙を舞う。 赤いワインが私の胸元へ降りかかる。 ガシャンッ――。 割れたグラスが床へと散らばった。 麗華はその場へしゃがみ込み、小さく顔をしかめる。「痛っ……」「麗華!」 雅臣が真っ先に駆け寄ったのは、金城麗華だった。雅臣の大きな手が金城麗華の華奢な肩を包み、抱き起こす。「大丈夫か?」 そう金城麗華に優しく問いかけながら、雅臣は私へと視線を向けた。その眉根が寄せられているのを見て、私は息を呑んだ。 雅臣は、私が金城麗華を振り払ったと思っているのだと、その目を見ただけで分かった。 違う、と首を横に振ろうとした。けれど、それを遮ったのは、「私は平気……」 という、金城麗華の弱々しい声だった。「だから、彩羽さんを責めないであげて」 涙を浮かべながら首を振る麗華のその姿に、その場にいた全員が麗華を囲みだす。「怪我はないか?」「血が出てるじゃないか!」「救急箱!」 次々と飛び交う心配の声。 その一方で――。「おい、謝れよ」「さすがにやりすぎだろ」「社長夫人だからって何してもいいわけじゃないぞ」 鋭い視線と責める声が一斉に私へと突き刺さった。「……っ」 息が苦しい。 喉が締め付けられるように閉じていく。 違う。違うのに。 そう言いたいのに、声になら
扉に触れた指先が、小さく震える。 中から聞こえてくる笑い声に、心臓が早鐘を打ち出す。「なぁ雅臣、お前の奥さんさぁ――」 男の笑い声と、「……ぁ……」 掠れた私の声を真似するような声が聞こえた。 どっと爆笑が起こる。「お前、最低だな!」「いや、似てるだろ?」「本人より喋れてるじゃねぇか」 誰かが机を叩いて笑っている。 私は息を呑んだ。 その笑い声の中に紛れ、雅臣の苦笑いのような声が聞こえる。 けれど、止める言葉は、ひとつも聞こえなかった。 そのときだった。「ねぇ、雅臣」 女性のどこか甘さを含んだ声。彩羽には聞き覚えがあった。あの日、スピーカーから聞こえてきた声だ。金城麗華――。「どうして彩羽さんと結婚したの?」 あんなにも笑い声に満ちていたのに、部屋の中が静まり返った。 私も扉の外で、そっと耳をそばだて、雅臣の答えを待った。 しばらく沈黙が流れたあと、雅臣の低く優しい声が聞こえて来る。「……彼女……彩羽には、恩がある」 小さく息を飲んだ。 聞こえてきた答えは、「好きだから」でも「愛しているから」でも、そのどれでもなかった。 ただ一言、「恩」という言葉だけ。 私の視界が、ぐらりと揺れた。脳裏に、五年前のあの日の記憶がフラッシュバックした。◇ 五年前。 音楽学院を卒業した私は、留学までの間、各地で歌う仕事をしていた。 会社の歓迎会や送迎会、イベントやホテルのレストランなどに呼ばれて、ジャズやオペラの歌を披露する、そんな仕事。 その中で、私は何度か雅臣の会社に呼ばれ、関わるうちにひっそりと優しい雅臣に心惹かれ始めていた。 その日も、桜小路コーポレーションの送別会があって、私は歌を歌うために呼ばれていた。 歌を披露しながらも、自然と目は雅臣を探してしまう。 食事を嗜みながら、私の歌を聞いてくれる人たち。そこから少し離れたカウンターの隅で、雅臣は一人、グラスを傾けていた。 ふと、誰かが話している声が聞こえた。「桜小路社長はフラれたらしい」って。「今日は海外に行くその人を送り出す日だったようだ」って。 雅臣のその背中が、ひどく寂しそうに私には見えて、放っておけなくて。私は自分の出番が終わると、衣装もそのままに、そっと彼に近付いた。「大丈夫ですか?」 そう声を掛けると、雅臣は少しだけ笑った。「はは。
「ああ、そうだ」 雅臣は、何かを思い出したように、サイドテーブルに置いてあった小さな箱を手に取った。 そして私の目を見つめて、柔らかく微笑む。「誕生日、おめでとう。」 差し出されたのは、濃紺のリボンがかけられたジュエリーケースだった。 私はそれを受け取り、ゆっくりとリボンを解いて、蓋を開く。 中には、美しい深海を思わせる、濃く透明な青を宿したサファイアのピアスが収められていた。 でも――。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 この五年間、誕生日も、結婚記念日も、雅臣が贈ってくれたものは、いつもサファイヤのアクセサリーだった。 気付けば、それは九十九個。 最初は、私に似合うと思って選んでくれたのだと信じていた。 私は宝石のことなんて詳しくなかったから、雅臣が私のために選んでくれたものというそれだけの理由で、少しずつ好きになった。 ひとつひとつを毎日大切に磨いて、専用のジュエリーケースに並べてきた。 百個目になるはずだったこのサファイヤのピアスを見つめながら、私は小さく微笑み、静かに蓋を閉じた。 どうしても、ケースへしまう気にはなれなかった。◇ 夕方。雅臣は少しだけ仕事を片付けてくると、一度書斎に戻った。 静かな部屋の中。熱でぼんやりする頭のまま、私はスマートフォンを開く。 何気なく眺めていたSNSの記事に、ふと指が止まる。『世界的ジュエリーデザイナー・金城麗華、待望の日本凱旋』 その見出しの下には、一枚の写真。 シャンパングラスを掲げて笑う金城麗華。その隣には、楽しそうに笑う雅臣の姿があった。 私の心臓が、どくりと跳ねる。 記事の写真には、私が一度も見たことのない、少年のような笑顔を浮かべる雅臣。 震える指先でそっと画面をスクロールし、記事を読み進める。――金城麗華が手掛けるジュエリーブランドは、サファイアを象徴とした人気ブランド。――桜小路雅臣は、金城麗華の作品を熱心に愛する者のひとり。桜小路コーポレーションが、金城麗華のジュエリーブランド『プリマヴェーラ・デッラ・ヴィータ』の日本でのプロモーションに携わる。 それを読んだ瞬間、呼吸が止まった。 サファイア。 胸が嫌な音を立てる。 私は寝室の棚へ視線を向けた。 ガラスケースの中には、九十九個のサファイアジュエリー。 私はふらつく身体を支えながら棚へ近
ロビーの白い床に、野菜の入ったスープが静かに広がっていた。 割れた保温容器の破片が散らばり、慌てた清掃員が駆け寄ってくる。 あんなに時間をかけて作ったスープ。 雅臣の身体を気遣って、味付けも何度も確かめた。 それなのに、届けることすら、できなかった。 私は清掃員の女性に頭を下げて、床にしゃがみ込み、散らばった破片を拾うために手を伸ばす。「……あれ? 桜小路の奥さんじゃん」 背後から聞こえた男の声に、私はゆっくりと振り返った。 高級スーツを身にまとった若い男性が数人、こちらを見て立ち止まっていた。「本当だ」 その中の一人が面白半分と言った感じで、スマートフォンを構える。 パシャッ。 シャッター音が、静かなロビーに響いた。 私は思わず顔を伏せた。「ちょっ、お前、勝手に撮るなよ」 隣の男がそう言いながらもクスクスと笑った。「いいじゃん。あとでグループチャットで共有しとくわ」 軽い笑い声がロビーに広がる。「しかしさぁ、あの事故がなかったら、雅臣と結婚なんてできなかったよな」「命の恩人って最強だよ」「それだけで社長夫人だもんな」 私の喉がぎゅっと締めつけられる。「でも雅臣も大変だよな。五年間も縛られて。」「……声も出ない奥さん相手にさ」「おい、さすがに言い過ぎだって。雅臣にチクられたら――」 一人がそう言う。 その言葉に、少しだけ救われる気がした。 けれど……「は? 別に大丈夫だろ」 別の男が笑った。「だって声、出ないんだろ? どうせ何も言えない。文句も言いつけもできないんだから」 その言葉を、その場にいた誰もが否定しなかった。 私は俯き、ただぐっと唇を噛み締めることしかできなかった。 涙が一粒、白い大理石の床へと落ちていく。 その瞬間だった。「奥様!」 清掃員が慌てて声を上げる。 私の手から、割れた保温容器の破片が滑り落ち、軽い音を鳴らした。 気付けば私は、破片を強く握り締めてしまっていたらしい。 掌から赤い血が滲み、床に広がるスープの中へとぽたりと落ちていった。 私は逃げるようにロビーを飛び出した。 激しい雨が、全身を容赦なく打ちつける。 冷たい。 苦しい。 息が、できない。 喉が震える。 何かを叫びたいのに、私の声はどこにもなかった。◇ 気が付くと、私は自宅のベッドに寝か
コトコトと、小さな鍋が優しい音を立てていた。 私はお玉でゆっくりとスープをかき混ぜる。「……ん」 ひと口味見をして、そして小さく頷いた。(今日は少し薄味かな) 夫の桜小路雅臣は、生まれつき胃が弱い。 仕事が忙しくなるとすぐ食欲が落ちてしまうから、味付けはいつも控えめを心掛けていた。 冷蔵庫から刻んだパセリを取り出し、最後にふわりと散らす。 湯気とともに立ち上る優しい香りに、自然と頬が緩んだ。(今日は結婚記念日だもん) ――結婚五周年。 そして、私の誕生日。 今夜は久しぶりに二人で食事へ行く約束をしていた。 雅臣はここ数ヵ月、海外との大型契約でほとんど家に帰れていない。 だけど、今日はゆっくり二人で過ごそうと、何日も前から約束していた。 ふと、鼻歌を歌おうと息を吸う。 けれど……。「……ぁ」 喉が震えただけで、声は出なかった。 彩羽はゆっくり目を閉じ、小さく笑う。「……」 もう五年になる。 それでも時々、昔の癖が抜けない。 歌うことは、呼吸をすることと同じだったから。 リビングの隅には、一台のアップライトピアノ。 その上には、学生時代に受賞したコンクールのトロフィーが並んでいる。 『最年少金賞』 『教授推薦特別賞』『未来のプリマドンナ』 そんな文字が刻まれた盾も、今では静かに埃をかぶっていた。 その横には、一枚の写真。 病院のベッドで笑う母と、制服姿の自分。 写真の中の母は、優しく笑っている。『いつか世界中のお客さんの前で歌う彩羽を見てみたいな』 幼いころから歌うことが好きだった私。 そして、母の夢。 それを叶えるために、私は走り続けてきた。 世界的なオペラ歌手になる。 それが私の人生であり、命だった。 ――五年前、すべてを失うまでは。 テーブルの上でスマートフォンが震えた。 画面に映る『雅臣』の名前を見て、私は自然と笑顔になる。 ビデオ通話をタップすると、スーツ姿の雅臣が画面いっぱいに映った。『彩羽』 穏やかな声だった。 仕事中とは思えないほど柔らかな笑顔に、彩羽の胸は温かくなる。『彩羽、悪い』 その一言で、彩羽はすべてを察した。『これから本社で役員との打ち合わせが入った。今日のディナー、行けそうにない』 少しだけ胸が痛んだ。 でも、それを顔には出さない。 雅臣







