All Chapters of 恋したのは、もう一人のあなただった: Chapter 11 - Chapter 20

27 Chapters

第11話

洋介が去っていく背中を見つめたまま、美波はしばらくその場に立ち尽くしていた。顔が、みるみるうちに青ざめていく。彼女は手にしていた診療明細をくしゃりと握り潰すと、そのままゴミ箱へ放り込んだ。その瞳に一瞬だけ、冷たい光が浮かぶ。……一方、洋介は家へ向かった。一刻も早く帰りたくて、いくつもの信号を無視しながら車を走らせる。家に着くと、階段を駆け上がった。焦りのあまり足を踏み外し、そのまま数段下まで転がり落ちる。膝に鋭い痛みが走った。それでも、洋介は立ち止まらなかった。痛みをこらえながらすぐに起き上がり、再び階段を駆け上がる。渚の部屋のドアを開けた瞬間――洋介は足を止めた。室内の空気が、どこか冷たく感じる。いつもなら、渚の好きなジャスミンの香りが漂っているのに、今日は、その香りもしなかった。部屋の中を見回すと、渚のものが消えていたことに気づく。ベッド脇に置かれていたぬいぐるみも、渚が何より大切にしていたあの写真も、どちらもない。洋介は嫌な予感を覚えながら、クローゼットを開けた。そこにあったはずの服も、すっかり消えていた。旅行に行くだけなのに、こんなに多くの荷物を持っていく必要があるのだろうか。まさか――もう、帰ってくるつもりがないというのか?その考えが頭をよぎった瞬間、洋介の顔色が真っ青に変わった。あれほど自分のことを愛していた渚が、どうしていきなり姿を消したのだろう。洋介は必死に思い返す。思い出したのは、渚が一人で用意していた、あの誕生日のケーキ。砕け散ったクリスタルボール。そして――一緒に行こうと言いながら、結局行かなかった旅行……本当は、渚と旅行に行きたかった。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。洋介は目を伏せた。長身の身体が、今だけはひどく頼りなく見えた。気づけば、ここ最近の渚の姿ばかりが頭に浮かぶ。洋介はもう一度、スマホを取り出し、渚にメッセージを送る。どうせ、既読がつかないと思い、スマホをしまおうとすると――ピロン、と音が鳴る。洋介は息を呑み、慌ててスマホの画面を見る。だが、そこに表示されていたのは仕事のメッセージだった。渚に送ったメッセージには、まだ既読がついていない。もう半日も経っているのに、まだ読んでいないのだろうか。胸騒ぎは、ま
Read more

第12話

「お客様、まもなく離陸いたします。携帯電話の電源をお切りいただきますよう、ご協力をお願いいたします」「はい」渚は最後にもう一度だけ、スマホに映る自分と拓海の写真を見て、静かに電源を落とした。やがて、飛行機がゆっくりと滑走路を走り出す。機体が地上を離れた瞬間、渚の胸を満たしたのは、やっとすべてが終わったという解放感だった。自分の目的は果たした。今日を境に、洋介とは縁を切る。渚はそっとお腹に手を添えた。その瞳は、これから生まれてくる小さな命への期待に満ちていた。――この子の名前は、もう決めてある。苗字には、自分の旧姓である霧島(きりしま)を。男の子なら海斗(かいと)、女の子なら心海(ここみ)。自分の苗字と、拓海の名前にある「海」の字をつなげた名前。それは、拓海と自分が確かに愛し合った証でもあった。生まれてくるこの子は、自分にとって何よりも大切な存在。そしてこれから先、この世界で生きていくための、大きな理由になる。そんなことを考えていたとき、突然、機体が大きく揺れた。機内に小さなざわめきが広がり、渚も反射的にお腹を両手で包み込んだ。幸い、すぐにアナウンスが流れた。「ただいま気流の悪い場所を通過しており、機体が大きく揺れることがございます。安全のため、シートベルトをしっかりとお締めください。なお、この揺れによる飛行の安全への影響はございませんので、ご安心ください」その声を聞いて、機内の緊張が少しずつ和らいでいく。揺れが収まると、客室乗務員はブランケットを配り始めた。先ほどの揺れで、気持ちが張り詰めていたせいか、渚が少し寒さを感じていた。肩を震わせながら何度かくしゃみをすると、上着を羽織り、ブランケットをもらおうと思った。ところが、客室乗務員が渚の席まで来たところで、申し訳なさそうに頭を下げた。「申し訳ございません。予備のブランケットが少し足りないようで……ただいま探してまいりますので、少々お待ちいただけますか?」「はい、大丈夫です」そう答えた、そのとき。「よかったら、これを使ってください」前方から、ふいに声がした。渚が顔を上げる。視界に入ったのは、前の座席から差し出されたブランケット。そして、それを握る、節の目立つきれいな手。「……ありがとうございます」渚が受
Read more

第13話

別荘の前に車が止まると、運転手でさえ思わず感嘆の声を漏らした。それほどまでに、目の前の邸宅は豪華だった。けれど渚は何も言わず、降り際に料金の倍以上のチップを手渡した。「ありがとうございます。どうぞ、よい一日をお過ごしください」運転手は思いがけない心付けに目を丸くし、礼を言った。渚はにこりと微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。運転手が荷物をすべて降ろし、玄関先まで運んでくれたところで、車に乗って走り去っていく。渚は鍵を取り出し、別荘の扉を開けた。中へ入ると、想像していた以上に広々としていた。調度品は多いものの、きちんと整理されている。床も磨き上げられ、光を受けて艶やかに輝いていた。誰かが事前に掃除をしてくれていたのだろう。この別荘は、亡くなった叔母が渚に遺してくれたものだった。これまでは海外に住む友人が管理し、借り手をつけていた。渚がこちらへ来ると知ると、友人はすぐに「そのまま住めばいい」と言ってくれた。ちょうど前の借り手の契約期間も終わるところだったのだ。玄関の扉に、小さな飾りが掛けられている。そんなさりげない心遣いに、渚の胸が温かくなった。そのとき――渚のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、渚はすぐ電話に出る。「もしもし」「もしもし、渚?無事家に着いた?私、今仕事が終わったとこだよ。はぁ、もっと早く退勤できたら、迎えに行ったのに!」渚の親友・阿部葵(あべ あおい)の声は、相変わらず明るくて元気だった。今の渚には、その騒がしささえ懐かしく、何より心強い。「葵が忙しいのは分かってるよ。だから、フライトの時間を教えなかったんだから」「親友にそんな気遣いはいらないだって!私、渚の専属ボディーガードみたいなもんだから、何があっても守ってあげるよ。その代わりに、一生付きまとうから、覚悟してね!」葵は一気にまくし立てる。「そうそう、こっちに来たら、私の仕事を手伝うって約束してたよね?ディレクターのポジション、空けておいたよ」葵の調子につられ、渚も思わず笑った。「分かったよ。そこまで期待してもらってるなら、頑張らせてもらうよ」「さすが渚、頼りになる!そうだ、この前送ってくれたデザイン画、もうこっちのクライアントに見せたんだけど、みんな絶賛してたよ、ぜひ本人に会いたいって。特にクラウド
Read more

第14話

葵の秘書が放ったクラッカーに、渚は思わず飛び上がった。驚きのあまり足元がふらつき、とっさにお腹へ手を添える。「もう……」楽しそうに笑っている葵を見て、渚は困ったように眉を下げた。周囲を見渡せば、金髪に青い瞳の外国人たちがずらりと並んでいる。渚は少し緊張しながらも、なんとか笑顔を作った。そんなことには気づきもしない葵が、さっそく渚の手を引いて輪の中へ入っていく。「みんな今回のプロジェクトのメンバーだよ。こっちがデイジー、こっちがフローレンス、それからベラね」「はじめまして。よろしくお願いします」渚は一人ずつ丁寧に挨拶を交わしていく。流暢な外国語と、相手に合わせた気の利いた受け答え。もともと人当たりのいい渚ということもあり、初対面にもかかわらず、皆すぐに彼女へ好印象を抱いた。そして最後に――「それから、こちらがクラウドスタジオの井上さん」そう紹介された時、井上浩之(いのうえ ひろゆき)と渚、2人の動きが同時に止まった。「あれ?」その様子に気づいた葵が、面白そうに2人を見比べる。「もしかして、お二人は前から知り合いだった?それとも、どこかで運命的な出会いをしてたり?」「違うよ」渚は即座に否定し、葵をじろりと睨む。すると浩之が、少し困ったように笑った。「実は今日、空港でお会いしたんです。僕は挨拶しようと思ったんですが……どうやら、すっかり怪しい人だと思われていたみたいで」少しだけ拗ねたような口調だった。渚は思わず気まずそうに目を逸らす。「すみません、井上さんのことは葵から聞いていますが、顔まで知らなかったもので……」「それもそうでね」浩之は納得したように頷いた。「じゃあ、今度こそ改めて自己紹介しておきます」そう言って、彼は先に手を差し出した。「クラウドスタジオの代表を務める、井上浩之です。よろしくお願いします」「霧島渚です。こちらこそ、よろしくお願いします」渚も慌てて手を差し出す。触れた浩之の手は、思っていたよりひんやりとしていた。その冷たさに、なぜか少しだけ胸がざわつく。「それじゃ、私はちょっと向こうへ行ってくるね。ごゆっくりどうぞ」そう言うと、葵はグラスを片手に、さっさとその場を離れていった。しかも、立ち去る間際には渚へ意味ありげなウインクまで寄こしてくる。「ちょっと、葵
Read more

第15話

葵は撮れた写真を確認すると、満足そうに頷き、SNSに載せたいと言い出す。周囲からも「すごくいい写真」、「みんな楽しそう」と声が上がる。その場は最後まで、和やかな空気に包まれていた。――同じ頃。自宅で何気なくSNSを眺めていた洋介は、その写真を目にした瞬間、息を呑んだ。まるで不意打ちで胸を貫かれたようで、頭が真っ白になる。彼は写真を拡大し、何度も確認した。画面に映っている渚はきれいなドレスを纏い、見たことがないほど楽しそうに笑っている。その隣には、1人の男がわずかに渚のほうへ顔を傾け、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。2人の距離は近い。写真だけを見れば、仲のいいカップルにしか見えない。「もう、新しい男ができたのか?だから、あんなにあっさり出ていったのか……じゃあ、あの子は……本当に俺の子なのか?それとも、俺を振り向かせるために、わざと出ていったのか?俺が探しに行くと分かっていて……?」次々と浮かんでは消える疑問が、頭の中を駆け巡る。そのせいで、冷静に考えようとしても、思考がまとまらない。けれど、いくら考えても答えなど出ない。そこで洋介は、初めて思い知らされた。――自分は今まで、渚のことをほとんど何も知らなかったのだ。がらんとした部屋を見回す。すると、ふいに以前の光景が脳裏に浮かんだ。キッチンに立ち、夕食を作っていた渚。「おかえりなさい」と笑いながら、自分の好きな料理を並べていた。出かけようとする洋介を玄関まで見送り、「いってらっしゃい。忘れ物ない?」と聞く渚。そして夜遅くに帰宅すると、ソファで眠そうに目をこすりながら、自分を待っていた。結婚後、洋介はほとんど家に帰ってこなかったが、渚は何も言わず、いつだって、自分の頼みを聞いてくれた。そんなことを考えていた時、突然、スマホの着信音が鳴った。洋介は我に返り、画面を見る。弁護士からだった。「お世話になっております。A市弁護士事務所の毛利と申します。柴崎洋介さんでいらっしゃいますか?」「はい」「以前、奥様と締結された離婚協議書についてですが、すでに手続きが完了し、正式に効力が発生しております。お時間のあるときに一度お越しいただき、結婚前の資産および婚姻期間中の共有財産について、お話を――」「……離婚?」その言葉を聞いた瞬
Read more

第16話

渚のことを口にされ、洋介の目がわずかに曇る。「……旅行に行ってる」「そうか、旅行だったのか。私、てっきり――」美波はそこで言葉を止めた。「……てっきり、何だ?」「ううん、大したことじゃないの。ただ、この前、渚さんが男の人と親しげにしているところを見たから。さっき旅行に行ったって聞いて、もしかして誰かと一緒なのかなって思っただけ」「男の人……?」美波の何気ない一言に、洋介の表情が険しくなる。さっきから胸の奥に引っかかっていたものが、妙に現実味を帯びてくる。渚はもう、別の男に気持ちが移ったのではないか。だから突然、何も告げずに旅行へ行った。自分の電話番号まで着信拒否にして、旅行中に邪魔されないようにした。洋介は渚を愛しているわけではない。だが、渚が他の男が好きになったかもしれないと考えただけで、なぜか胸の奥に理由の分からない苛立ちが込み上げる。その感情はいったい何なのか、自分でもよく分からない。そんな洋介の表情を見て、美波は満足そうに微笑んだ。そのまま彼の隣に腰を下ろし、自分の分の酒を用意する。「ねえ、洋介。私、実は渚さんがすごく羨ましいの。洋介みたいな素敵な旦那さんがいるんだもの。それなのに、洋介を置いて一人で出ていくなんて……ほんと、呆れちゃうわ」その話を聞いて、洋介も渚が家を出ていく理由を考えた。それと同時に、胸の奥に小さな違和感が芽生えた。美波は以前、こんなふうに渚のことを話題にすることなどなかった。たとえ洋介が渚を愛していないと話しても、特に気にする様子はなかったはずだ。それなのに、今日は妙に渚の話ばかり口にする。――何かがおかしい。一度、きちんと調べてみる必要がある。そう決めると、洋介はグラスの酒を一気に煽った。その様子を見た美波が、そっと洋介の肩へ腕を回し、そのまま唇を重ねた。けれど――なぜか洋介の脳裏には、渚の顔が浮かんでいた。「……洋介?」美波は、彼がぼんやりしていることに気づくと、その手を取り、自分の腰へ導こうとした。だが、洋介はすぐ美波を押し戻した。「やめてくれ……酔ってるだろ」拒まれた美波は、思わず自分の耳を疑った。これまで洋介が、自分の願いを拒んだことなど一度もなかったからだ。どんなお願いをしても、いつだって嫌な顔ひとつせず、叶えてくれた。
Read more

第17話

洋介は夢中で駆け出した。けれど、走れば走るほど、その姿は遠ざかっていく。必死に追いかけ、路地の奥まで駆け込む。しかし、突き当たりまで来たときには、もう人影はどこにもなかった。洋介は立ち尽くした。目の奥が熱くなる。そしてようやく、自分の心から逃げることをやめた。――自分は、渚を愛しているのだ。それは疑いようのない事実だった。……再び目を覚ましたとき、洋介は病院のベッドに横たわっていた。傍らには、心配そうにこちらを見つめる友人たちと母の敦子(あつこ)がいる。少し離れたところには父の茂(しげる)が立っている。洋介が目を開けたのを確認すると、茂は険しい顔をさらに曇らせた。「いい大人が、こんな有様になって……意地ってものはないのか?」茂は吐き捨てるように言葉を重ねた。「これ以上、馬鹿な真似をするなら、二度と顔を見せるな!お前みたいな情けない息子を育てた覚えはない!」しばらく天井を見つめていた洋介が、やがて静かに口を開いた。「……決めた。俺は渚を探しに行く」その一言を聞いた瞬間、茂の怒りが再び燃え上がった。「柴崎家には、お前しか跡取りがいないんだぞ!柴崎グループの将来を背負っている人間が、いつまでも女のことで腑抜けになっていてどうする!そんなお前に、家も会社も任せられると思うのか?」茂は洋介を睨みつけ、最後に言い放った。「それでも行くというなら――親子の縁を切る!」それを言い残すと、茂は洋介の返事を待つこともなく、乱暴にドアを開けて病室を出ていった。敦子も慌ててその後を追う。静かになった病室で、洋介はただ天井を見つめ、一言も言わなかった。「洋介さん、前に調べて欲しいって頼まれてたことですが、いろいろと分かりました」友人の一人がスマホを差し出し、画面を見るよう促した。洋介が受け取って確認すると、そこにはチャット履歴がいくつも並んでいた。すべて、美波が渚に送っていたものだった。見慣れた渚のアイコンが目に入った瞬間、洋介の背中に冷たい汗が伝う。自分を落ち着かせるように息を整えてから、ようやくチャットの内容を確認していく。そこにあったのは、自分が美波のために料理を作っている写真や、彼女と一緒に過ごしているときの写真ばかりだった。その合間には、明らかに渚を挑発するような言葉まで
Read more

第18話

友人たちが止めても、洋介は聞く耳を持たなかった。腕に刺さっていた点滴の針を自ら引き抜くと、そのまま病室を飛び出した。車に乗り込み、猛スピードで美波の家へ向かう。車を降りたところで、玄関先に立っている美波の姿が目に入った。洋介がこちらへ歩いてくるのを見て、美波はてっきり自分を宥めるために来たのだと思ったらしい。すぐに駆け寄ると、甘えるように彼の腕へ身を寄せた。「洋介、この前あんな態度を取ったこと、ちゃんと謝ってくれなきゃ、許してあげないからね」その聞き慣れた声と顔を目にした瞬間、洋介の脳裏に、先ほど見た映像が鮮明に蘇った。次の瞬間、怒りに突き動かされるように腕を振り上げる。そして、抑えきれない感情のまま、美波の頬を激しく打った。乾いた音が響き渡る。不意を突かれた美波は、衝撃でその場に倒れ込んだ。白かった頬も、瞬く間に赤く腫れ上がった。何が起きたのか理解できないように、彼女は涙の滲んだ目で洋介を見上げた。「洋介……どうして……?」その痛々しい声を聞きながら、洋介はかえって彼女の演技力に呆れそうになった。怒りが込み上げ、もはや言葉すら出てこない。洋介は手にしていたスマホを、美波の足元へ放り投げた。冷え切った目が彼女を射抜く。スマホが美波の額に当たり、彼女は痛みに顔を歪める。涙をこぼしながら拾い上げ、画面を見た瞬間――全身から血の気が引いた。「洋介、違うの……渚さんにこれを送ったのは、わざとじゃない。私はただ……洋介のことが好きだったから。なのに渚さんと結婚したことが悔しくて、嫉妬して……私、どうかしてたの。洋介だって渚のことを愛してないでしょう?だったら、私が彼女にこんなメッセージを送ったって、怒ることないじゃない」その言葉は、火に油を注ぐようなものだった。反省する様子をちっとも見せない美波を見て、洋介はスマホを取り戻す。そして、別の動画を開いて彼女に見せた。再生された動画を見て、美波はすべてを悟り、怯えたようにスマホを放り出した。頭の中をさまざまな考えが駆け巡り、慌てて言葉を繋ぐ。「洋介、違うの!これは……不本意だったの!分かってるでしょう?私、お金がなかったから……だから仕方なくこんなことを……お願い、信じて!」美波は洋介の顔を見上げると、彼のもとへ這い寄った。そして、その脚に
Read more

第19話

あのパーティーが終わってから、渚はすぐに新しい職場に馴染んでいった。確かな実力があるだけに、いきなり責任者として迎えられたことに異を唱える者もいなかった。立て続けにいくつものプロジェクトを任され、どのクライアントからも仕上がりには大満足だと好評だった。同僚たちも、渚のことを高く評価している。とはいえ、渚の体調を気遣った葵は、半ば強引に1週間の休暇を取らせた。本人としては、この勢いのままもう少し仕事をしたかった。何より、渚はこの仕事が心から好きで、もっと携わりたいと思っているから。それでも、上司が休めと言うのなら、ありがたく家でゆっくりすることにした。ちょうど以前から予約していた妊婦健診にも行ける。普段は朝7時には起きて出勤しなければならない渚も、この日は目覚ましをかけず、自然に目が覚めるまで眠っていた。目を開けると、そこにはまだ見慣れない部屋が広がっている。少しずつ新しい生活にも慣れてきたとはいえ、朝目覚めるたび、どこか現実感がなかった。いつもの癖で枕元のスマホに手を伸ばし、画面をつけようとすると、電源が切れていたことに気づく。渚はすぐに充電器へつないだ。電源が入った直後、けたたましい着信音が鳴り響いた。表示されたのは、見覚えのない番号。少し迷ったものの、渚は電話に出た。「もしもし」その瞬間、聞き慣れた、かすれた声が耳に届いた。「渚……俺たち、一度会って話せないか?」眠気は一瞬で吹き飛んだ。渚はスマホを手にしたまま、呆然と画面を見つめる。まさか、洋介から電話がかかってくるとは思っていなかった。しばらくして、渚は小さく息を吐くと、静かに告げた。「洋介、私たちはもう離婚したの。だから、話す必要もない」渚の言葉が、洋介の神経を逆撫でした。苛立ちを隠しきれない声で、洋介は言った。「まだ美波のことを引きずってるなら、約束する。あいつが二度とお前の前に現れないようにする。お前はまだ怒ってるだろうけど、俺はお前を探しに来てる。それで十分だろ?そうだ。この前旅行に行きたいって言ってたよな、付き合うから、機嫌を直してくれないか?」あまりにも淡々と、2人の間にあった問題を片づけようとする洋介に、渚は一瞬、言葉を失った。「弁護士から連絡がきてたでしょ?だから、もう私に構わないで。石
Read more

第20話

渚の言葉を聞いた瞬間、洋介は胸を強く鷲掴みにされたような気がした。気づけば、頬を涙が伝っている。今まで渚が自分に優しくしてくれたのは、拓海を愛しているからだった。渚が大切そうにしまっていたものも、全部、拓海のもの。そういえば、あの写真も――渚が肌身離さず持っていた写真に写っていたのは、自分ではなく、拓海だった。洋介はずっと、渚が愛しているのは自分だと思っていた。けれど、それはただの思い込みだったのだ。気持ちが一気に沈み込み、胸の奥からじわじわと広がる鈍い痛みに、洋介は何も言えなくなる。唇を開いても、言葉が出てこない。電話の向こうでも、渚は何も言わなかった。長い沈黙だけが続く。あまりに静かな時間が続いたせいで、渚はもう電話を切られたのかと思った。しばらくして、渚が静かに口を開いた。「……たぶん、私たちが結婚したこと自体、間違いだったんだと思う。洋介は私のことを愛しているわけじゃないし……もう、お互いを自由にしてあげましょう」――自由にする。その言葉が、洋介の胸に突き刺さった。渚にとって、自分と過ごした時間は、すべて重荷だったのだろうか。渚が家を出ていったあの日から、洋介自身も分かっていた。きっと、このままでは終われない。なぜなら、自分は渚を愛しているから。けれど、彼女を失って初めて、洋介はようやく自分の心と向き合うことになった。渚には、ずっとそばにいてほしい。それなのに同時に、美波との曖昧な関係も捨てきれなかった。2人の間で揺れ続け、どちらも手放せなかったその結果――洋介は、すべてを失った。そして今、渚から告げられた。彼女が愛していたのは自分ではなく、拓海だった。自分はただの代わりだったのだ。そんな現実を、洋介はどうしても受け入れられなかった。せめて、自分を安心させてくれる言葉が欲しかった。だから、縋るように尋ねる。「……もし、俺が変わるって言ったら?俺を兄さんだと思えばいい。俺はそれでも構わない。だから……今まで通り、俺のそばにいてくれないか?」その声は、今までの洋介からは想像もできないほど弱々しかった。けれど、渚は何も言わなかった。答える代わりに、通話を切り、そのまま洋介の番号を着信拒否にする。時には、答えないことこそが何より明確な答えに
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status