Masuk妊娠が分かって、柴崎渚(しばさき なぎさ)が一番最初に訪れたのは弁護士事務所だった。弁護士に離婚協議書を公正証書にしてもらい、離婚届の提出まで一任するためだ。 「柴崎さん、離婚協議書を公正証書化する場合、手続きにはおよそ1ヶ月ほどかかります。すべて完了しましたら、こちらで離婚届の提出も代行いたします」 渚は穏やかなに頷いた。「分かりました。よろしくお願いします。ただ、今日は夫が仕事の都合で来られないんです。私一人でも、手続きをお願いすることはできますか?」 弁護士はわずかに眉を寄せ、困ったような表情を浮かべた。「できれば、ご夫婦お二人でお越しいただくのが望ましいのですが……」 「彼も離婚には同意しています。ただ、仕事が忙しくて時間が取れないだけです。必要でしたら、今ここで電話して、先生に直接お話しさせます」 そう言うと、渚はスマホを取り出し、夫・柴崎洋介(しばさき ようすけ)の番号を押した。「もしもし。洋介、少し話したいことが――」 最後まで言い終える前に、冷え切った声が言葉を遮った。 「前にも言っただろ?好きに決めればいいって。俺は忙しいんだ。お前のことに付き合ってる暇はない」
Lihat lebih banyak美波は残された力をすべて振り絞り、ナイフを握りしめた。そして、後先も考えず、洋介の身体へ何度も突き立てる。洋介の瞳から、次第に光が失われていく。身体を支えていた力も抜け、そのままゆっくりと後ろへ倒れ込んだ。美波は洋介が倒れたのを見届けてから、ようやくナイフから手を離した。洋介の意識は、少しずつ遠のいていった。耐え難かった激痛も、次第に薄れていく。まるで深い渦の中へ落ちていくように、身体がふわりと宙に浮いたような感覚に包まれる。目を開けようとしても、どうしても開かない。目の前の景色は次第にぼやけ、やがて白と黒が入り混じった映像だけが、断続的に浮かんでは消えていく。その朦朧とした意識の中で、洋介はふと、美波がこちらへ歩いてくる姿を見た。2人が初めて出会った日に着ていた、あのワンピース。彼女はまっすぐな眼差しで洋介を見つめ、尋ねる。――一緒に帰らない?洋介は手を伸ばし、彼女を掴もうとした。けれど、いくら手を伸ばしても届かない。正確には、もう身体を動かすことすらできなかった。凍えるような寒さが全身を包み込んでいく。体に流れる血が、絶え間なく失われていくのが分かった。そして最後に、目尻から一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。……渚が洋介の死を知ったのは、それから半月後のことだった。葵と街を歩いていたとき、ふと聞かされた。事故で亡くなったと、柴崎家がそれだけを公表した。葬儀も、驚くほどあっさりと執り行われたという。渚の胸がかすかに震えた。このところ、新しいプロジェクトに追われ、国内のことを調べる余裕などほとんどなかった。ときどき葵と昔のことを話すことがあっても、2人ともあの頃の話題だけは避けていた。葵は、渚が傷つくのを恐れていた。そして渚自身も、本当にもう思い出したくなかった。あの頃の出来事はすべて覚えている。それなのに、どこか現実味がない。まるで、ひどく鮮明な夢を見ていたようだった。「柴崎洋介」という名前もまた、昔の古い映画のように、色褪せていく。渚は、洋介もいつかは自分を忘れ、家族の望むままに家業を継ぐのだと思っていた。そして、かつて思い描いていた夢を叶え、自分の会社を持つ。これまでと変わらず、自由気ままな「柴崎社長」として生きていくのだと。まさか、こんな結末を迎えるなんて思ってもい
「もしもし、洋介さん?洋介さんが海外に行ってたこと、お父さんにバレたんです。早く戻って来てください!」電話の向こうから、友人の切迫した声が飛んできた。洋介は何も答えなかった。「洋介さん、聞いてます?美波さんのこともお父さんに知られてしまいました。かなり怒ってるから、戻って説明しろって言ってて……」美波の名前を聞いた瞬間、洋介の脳裏に彼女の顔が浮かんだ。彼女こそすべての元凶だ。そう思うと、拳を強く握りしめる。「分かった。すぐ戻る」A市に着いても、洋介は実家へ帰らなかった。父親に会う前に、まず美波を呼び出すよう友人に頼んだ。「洋介さん、お父さんからかなり急かされてるんです。先に実家へ戻ったほうがいいんじゃないですか……?」隣にいた友人が、おずおずと口を挟む。「なんだ、俺のことに口を出そうと?」洋介の声は、ぞっとするほど冷たかった。「い、いや!そんなつもりじゃ……」皆、洋介の性格はよく知っている。それ以上、口を出す者はいなかった。やがて美波が部屋に入ってくる。そこで目にしたのは、酒を飲みながらソファに座る洋介の姿だった。美波はすぐさま後ずさり、声まで震えている。「な、何しに来たの……?まさか、私を殺しに……?」痩せ細って見る影もなくなった美波の顔を見ているだけで、洋介は吐き気を覚えた。ゆっくりと彼女の前まで歩み寄り、怯えきった顔を見下ろす。一歩、また一歩と距離を詰めるたび、胸の奥に湧き上がる高揚感が増していく。迫ってくる洋介を前に、美波は悪夢が再び現実になったような恐怖に襲われた。泣きながら許しを乞う。だが、洋介は一切聞く耳を持たなかった。次の瞬間、手を振り上げ、その頬を思いきり張る。鋭い悲鳴が部屋中に響き渡った。人に気づかれないよう、洋介はすぐさま美波の口を塞ぐと、そのまま奥の部屋へ引きずり込む。そして、扉を乱暴に閉めた。美波にはもう抵抗する力もなかった。されるがままに引きずられ、壁に激しく身体を打ちつける。全身の骨が軋むように痛んだ。美波は身体を小さく丸めた。それでも洋介は手を緩めなかった。拳を振り下ろすたび、鈍い音が響く。美波は顔を上げ、目の前の男を睨みつけた。その瞳に宿る憎しみは、ますます深くなっていく。一方の洋介は、手に付着した血を見つめながら、異
その言葉を聞いた途端、洋介の目から涙がこぼれた。まるで捨てられた子犬のように、縋るような目で渚を見つめる。「渚……」声は震えていた。「兄さんが好きだったから、俺に近づいたんだろ。それなのに今度は、何のためらいもなく俺を捨てるのか?離婚だって、俺に何も知らせずに勝手に決めた。あの離婚協議書のことも、俺は何も知らなかった。そんなもの、認められるわけがない!」涙が頬を伝い、次々と落ちていく。「俺たち2人のことなのに……どうして勝手に決められるんだ?こんなの、俺は納得できない!」渚は冷めた目で洋介を見つめた。「私と結婚することを決めたとき、あなたは何の打算もなかったって言えるの?別に、私を愛していたから結婚したわけじゃないでしょ?それに、結婚してからのあなたは、本当に私を妻だと思っていたの?もし本当に妻だと思っていたなら、自分が何をしてきたのか、よく考えてみて。結婚しているのに、ほかの女性と曖昧な関係を続けていたのは他ではない、あなただったでしょ?私のことを計算高いと言う資格がある人は、この世にいくらでもいるでしょうけど――あなたにだけは、そんなことを言う資格がない」渚の声には、隠しようのない皮肉が滲んでいた。けれど、洋介は何も言い返せなかった。その口調が冷たくなるほど、洋介の顔から血の気が引いていく。何か言おうとしては口をつぐみ、それでも諦めきれないように、もう一度確かめた。「でも……お前はずっと俺を追いかけていたんだろ。結婚してからだって、何年も一緒にいた。それなのに、その間ずっと……俺のことを何とも思ってなかったのか?少しも……好きだと思ったことはなかったのか?」渚は迷うことなく首を横に振った。慰めるための嘘さえ、つく気にはなれなかった。「好きになったことは一度もない。あなたと結婚したのも、子どもを作るためだった。洋介。私たちの結婚はただの対等な取引だった。お互いの目的を果たすためにね。だったら、私があなたをどう思っていたか、気にしなくてもいいんじゃないの?それに、あなたが好きなのは石森さんでしょう?これでようやく、好きな人と一緒になれるんだから、私に構う理由もないはずだよ」「違う!俺が好きなのはお前だ。やっと分かったんだ。渚、俺と兄さんは顔が同じだろ?だから……俺を兄さんだと思って、愛してくれないか?
話を聞き終えた浩之は、少なからず驚いていた。けれど、どこか納得する部分もあった。渚はもともと、自分のことは自分で決める芯の強い女性だ。これだけのことを経験しても、前を向いて、自分らしく生きている。それこそが、彼女の魅力なのだろう。「私の決断、軽率だったと思いますか?」渚が尋ねると、浩之は少しも迷わず首を横に振った。「いいえ、僕はそうは思いません。あなたはお腹の赤ちゃんのお母さんです。でも、それだけじゃない。あなた自身の人生を、自分で決める権利があります。だから、自分で考えて出した決断なら、僕は軽率だとは思いません」真っ直ぐな言葉だった。その答えを聞いて、渚は改めて浩之という人を少し深く知った気がした。車を降りると、浩之は保温容器を手に取って渚に差し出した。「僕が作ったお弁当です。よかったら食べてみてください」渚は遠慮せず受け取った。浩之が車を走らせて去っていくのを見送り、渚は自分でも驚くほど、胸の奥にあった不安が軽くなっていることに気づいた。ところが、振り返った瞬間――玄関先に立つ洋介の姿が目に入った。渚の笑顔が、ぴたりと消える。反射的に、お腹を庇うように手を添えた。その仕草を、こちらへ歩いてくる洋介は見逃さなかった。胸の奥が鈍く痛む。思い出したのは、以前、美波を優先して渚を放っておいたことだった。そのせいで渚は危うく赤ちゃんを失った。警戒されて当然だ。「久しぶり……元気にしてた?赤ちゃんは……大丈夫か?」洋介の声は、ひどく掠れていた。渚は改めて彼の顔を見た。顔色は青白く、顎には伸びた無精髭が目立つ。目の下には濃い隈が浮かび、以前よりずっと痩せていた。思いがけない変化に、渚は一瞬だけ驚いた。それでも表情を変えることなく、淡々と答えた。「前も言ったでしょう。私がどうなろうと、あなたには関係がないって」そう言うと、渚は洋介を避けるようにして、そのまま家へ戻ろうとした。2人がすれ違ったそのとき、洋介が突然、渚の手を掴んだ。そのまま自分のほうへ引き寄せる。お腹の子のことが心配だった渚は、激しく抵抗することはせず、されるがままになった。身体が完全に安定したのを確認してから、渚は洋介の指を一本ずつ、静かにほどいていく。そして、触れられたところを軽く払った。その仕草が目