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恋したのは、もう一人のあなただった

恋したのは、もう一人のあなただった

Oleh:  珠々Tamat
Bahasa: Japanese
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妊娠が分かって、柴崎渚(しばさき なぎさ)が一番最初に訪れたのは弁護士事務所だった。弁護士に離婚協議書を公正証書にしてもらい、離婚届の提出まで一任するためだ。 「柴崎さん、離婚協議書を公正証書化する場合、手続きにはおよそ1ヶ月ほどかかります。すべて完了しましたら、こちらで離婚届の提出も代行いたします」 渚は穏やかなに頷いた。「分かりました。よろしくお願いします。ただ、今日は夫が仕事の都合で来られないんです。私一人でも、手続きをお願いすることはできますか?」 弁護士はわずかに眉を寄せ、困ったような表情を浮かべた。「できれば、ご夫婦お二人でお越しいただくのが望ましいのですが……」 「彼も離婚には同意しています。ただ、仕事が忙しくて時間が取れないだけです。必要でしたら、今ここで電話して、先生に直接お話しさせます」 そう言うと、渚はスマホを取り出し、夫・柴崎洋介(しばさき ようすけ)の番号を押した。「もしもし。洋介、少し話したいことが――」 最後まで言い終える前に、冷え切った声が言葉を遮った。 「前にも言っただろ?好きに決めればいいって。俺は忙しいんだ。お前のことに付き合ってる暇はない」

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Bab 1

第1話

その直後、電話の向こうから甘えるような女性の声が聞こえてきた。

「洋介、リンゴは剥かなくていいよ。もうお腹がいっぱいだから……」

石森美波(いしもり みなみ)の声だった。

次の瞬間、通話は一方的に切られた。

渚はスマホを静かに下ろし、弁護士に微笑みかける。「……今のを聞いていただければ、分かっていただけたかと思います」

弁護士は難しい表情のまま、しばらく考え込んでいたが――やがて、小さく息を吐いた。「……分かりました。では、こちらで手続きを進めましょう」

「ありがとうございます」渚は静かに頭を下げた。

弁護士事務所を出た渚は、ようやく肩の荷が下りたような気がした。足取りも自然と軽くなる。

家に戻ると、気分は驚くほど晴れやかだった。渚は大切にしまってあったフォトフレームを取り出し、柔らかな布で一つひとつ、丁寧に磨き始めた。

その様子を見かけた使用人たちは、いつものことだというように、ひそひそと顔を寄せ合う。

「奥様って、本当にご主人様のことがお好きなのね。あの写真、1日に何度も眺めるし、フォトフレームだって毎日欠かさず磨いてるもの」

「好きでも仕方ないわよ。ご主人様は奥様のことなんて、ちっとも愛してないわ。ずっと冷たくしてるじゃない」

「そうよね。石森さんが海外にいた頃から、しょっちゅう会いに行ってたでしょう?今は帰国したから、毎日のように一緒にいるみたいだし……家にも、ほとんど帰っていらっしゃらないわ」

使用人たちの声には、渚への同情が滲んでいた。けれど、渚はそんな話など少しも気に留めなかった。

そもそも――写真に写っているのは、洋介ではない。渚が愛していたのも、最初から洋介ではなかった。

彼女が洋介と結婚した理由はただ一つ。彼が、柴崎拓海(しばさき たくみ)とまったく同じ顔をしているからだ。

洋介と拓海は、一卵性双生児だった。

渚と拓海は大学時代に出会い、恋人になった。卒業したら渚を家族に紹介し、そのまま結婚しようと拓海が約束していた。

――けれど、その約束が叶う前に、拓海は事故でこの世を去った。

あまりにも突然のことだった。最期の言葉を交わすことすらできないまま、渚は愛する人を永遠に失った。

拓海ほど深く、惜しみなく愛してくれた人がもう現れない。この先、誰かを同じように愛することも、きっとできない。

そう思った彼女は、せめて拓海と似た顔をした子供が欲しかった。その子と共に、残りの人生を歩んでいきたい――

そのために選んだ相手が、拓海の弟である洋介だった。

渚は洋介に近づき、彼と結婚するためなら、どんなことでもした。周囲が呆れるほど、時には自分でも馬鹿らしいと思うほど、必死になって彼を追いかけた。

ちょうどその頃、洋介が想いを寄せていた美波は海外へ渡っていた。家からの結婚の催促にも、洋介はうんざりしていたらしい。そんな状況もあって、洋介は渚からの結婚の申し出を受け入れた。

ただし、条件があった。

――渚のほしいものは何でも与えるが、彼女を愛することだけはできない。

あまりにも残酷で、屈辱的な条件だった。それでも渚はためらわずに頷いた。

愛など、初めから求めていなかったのだから。

洋介は、渚が自分に夢中だからこそ、あの条件まであっさり受け入れたのだと思っていた。だから、それ以上深く考えようともしなかった。

結婚式当日、彼は美波から「風邪を引いた」と連絡を受けると、迷うことなく式をすっぽかした。渚を大勢の招待客の前に残したまま、美波のもとへ向かったのだ。

結婚後も、洋介は毎週のように海外へ飛び、美波に会いに行った。しかも、その航空券を手配するのは渚の役目だった。

新居のベッドサイドには美波の写真が飾られ、書斎の一角には、彼女のために準備したという数々の品が積み上げられていた。家の裏庭にまで、美波が好きだという花を植えさせた。

そんな数々の振る舞いは、いつしか渚を社交界の笑いものにした。

けれど、渚は一度だって気にしたことがない。ただ黙って、洋介の妻としての役目を果たしていた。

唯一、彼女が徹底したのは――洋介が家に帰ってくる日、必ず彼と夜を共にしたことだった。

それさえも洋介は、渚が自分を愛してやまない証だと思い込んでいた。

彼自身が、美波を愛するのと同じように。

洋介は美波を深く愛している。顔立ちがよく、家も裕福の彼だが、美波を失うことだけを恐れている。その恐怖に縛られ、結局、気持ちを伝えることすらできなかった。

そうしているうちに、美波は別の男と付き合い、そのまま海外へ渡ってしまった。

渚は一度も自分の気持ちを説明したことがない。その必要がなかったからだ。

そして今――ようやく妊娠した。

欲しかったものは、すでに手に入った。だから、もうここにいる理由はない。

そろそろ、この結婚を終わらせる時だった。

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第1話
その直後、電話の向こうから甘えるような女性の声が聞こえてきた。「洋介、リンゴは剥かなくていいよ。もうお腹がいっぱいだから……」石森美波(いしもり みなみ)の声だった。次の瞬間、通話は一方的に切られた。渚はスマホを静かに下ろし、弁護士に微笑みかける。「……今のを聞いていただければ、分かっていただけたかと思います」弁護士は難しい表情のまま、しばらく考え込んでいたが――やがて、小さく息を吐いた。「……分かりました。では、こちらで手続きを進めましょう」「ありがとうございます」渚は静かに頭を下げた。弁護士事務所を出た渚は、ようやく肩の荷が下りたような気がした。足取りも自然と軽くなる。家に戻ると、気分は驚くほど晴れやかだった。渚は大切にしまってあったフォトフレームを取り出し、柔らかな布で一つひとつ、丁寧に磨き始めた。その様子を見かけた使用人たちは、いつものことだというように、ひそひそと顔を寄せ合う。「奥様って、本当にご主人様のことがお好きなのね。あの写真、1日に何度も眺めるし、フォトフレームだって毎日欠かさず磨いてるもの」「好きでも仕方ないわよ。ご主人様は奥様のことなんて、ちっとも愛してないわ。ずっと冷たくしてるじゃない」「そうよね。石森さんが海外にいた頃から、しょっちゅう会いに行ってたでしょう?今は帰国したから、毎日のように一緒にいるみたいだし……家にも、ほとんど帰っていらっしゃらないわ」使用人たちの声には、渚への同情が滲んでいた。けれど、渚はそんな話など少しも気に留めなかった。そもそも――写真に写っているのは、洋介ではない。渚が愛していたのも、最初から洋介ではなかった。彼女が洋介と結婚した理由はただ一つ。彼が、柴崎拓海(しばさき たくみ)とまったく同じ顔をしているからだ。洋介と拓海は、一卵性双生児だった。渚と拓海は大学時代に出会い、恋人になった。卒業したら渚を家族に紹介し、そのまま結婚しようと拓海が約束していた。――けれど、その約束が叶う前に、拓海は事故でこの世を去った。あまりにも突然のことだった。最期の言葉を交わすことすらできないまま、渚は愛する人を永遠に失った。拓海ほど深く、惜しみなく愛してくれた人がもう現れない。この先、誰かを同じように愛することも、きっとできない。そう思った彼女は、せ
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第2話
翌朝。長いこと家に寄りつかなかった洋介が、珍しく戻ってきた。渚の顔を見るなり、「お前、雑炊を作るの、得意なんだろ?」と言った。渚が口を開くより早く、洋介は続けた。「美波が食べたがってる。今すぐ作って、俺と一緒に届けに行ってくれ」さすがに断ろうとして、渚は顔を上げた。そのとき、洋介の手首にある腕時計が目に入った。渚の表情が、わずかに変わる。「……いいよ。石森さんが満足するものを作る代わりに、その腕時計を私にくれない?」洋介は驚くこともなく、当然のように腕時計を外し、渚の前に置く。「持っていけ」こうしたやり取りは、今に始まったことではなかった。洋介は何かにつけて渚を使い、美波のためにあれこれとやらさせた。美波に会いに行くための航空券を手配させたり。彼女の好物を買うために、店の前に並ばせたり。あるときは、美波への贈り物を選ばせることさえあった。渚は一度も断らなかった。その代わり、必ず何かしらの「報酬」を洋介に求めた。長年使い込まれた万年筆。いつも身につけている腕時計。あるいは、何度も読み返された1冊の本。どれも高価な品ではない。ただ、洋介が長く使ってきたものばかりだった。渚は腕時計を受け取ると、大切そうに箱へしまう。その様子を見ていた洋介が、ふと口を開いた。「……そんなに俺のことが好きなのか?俺が使ってた物なら、何でも欲しいってわけか」渚の指先が、ぴたりと止まった。やはり、そう思われているのか。渚がこれまで洋介に求めてきたものは、すべて拓海のものだった。拓海が亡くなったあと、彼の遺品は洋介がすべて引き取っている。大切な兄の形見だからこそ、洋介はそれらを身近に置き、今も当たり前のように使っていた。渚がそれらの物を集めていたのは、拓海を思い出すため。拓海の面影を、少しでもそばに残しておくためだった。けれど、それを洋介に説明するつもりはなかった。渚は何も言わず、ただ微笑んだ。「ええ、すごく愛しているよ」――あなたのお兄さんを。なぜだろう。そのとき初めて、洋介は渚の瞳に宿った深い想いに、心を揺らされた。ふいに、この数年間のことが脳裏をよぎる。何を頼んでも拒まず、彼女は自分や美波のために奔走していた。胸の奥が、わずかにざわつく。洋介は眉間に皺を寄せ、しばらく黙り込む。やが
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第3話
それからの日々は、洋介の言ってた通りになった。美波の世話をするため、彼はほとんど病院を離れなかった。会社で急ぎの仕事があれば、秘書がノートパソコンと書類を病院まで運び、洋介は美波のそばで仕事を片づける。美波が何か食べたいと言えば、どんなものでも手に入れた。欲しい果物が海外のものなら、洋介はすぐにプライベートジェットを飛ばして買い付けさせた。届いたばかりの果物を洗わせ、その日のうちに美波の食卓へ並べる。さらに、少しでも食事を取らせるために、ひと口食べるたびに高価なアクセサリーを1つ渡す――そんな常識外れの話は連日トレンドに上がり、何日も大きな話題になっていた。けれど、渚はその報道を目にしても、ただ静かに微笑むだけだった。そして、川北大学の創立百周年記念式典の日。渚は卒業生の一人として、招待を受けていた。大学の正門で受付を済ませたところで、人混みの中にひときわ目を引く姿を見つける。――洋介と、美波。まさか2人まで来ているとは思わなかった。しかも、向こうもすでに渚に気づいている。今さら避けるわけにもいかず、渚は2人のもとへ歩いていった。先に声をかけてきたのは、美波だった。「渚さんも、川北大学の卒業生なんですか?」「ええ」渚が頷くと、洋介がわずかに眉をひそめた。「卒業年度は?」「2017年です」その答えに、美波が目を見開く。「じゃあ……洋介のお兄さんと同じ学年じゃないですか」そして、何かを思い出したように、さらに言葉を続けた。「渚さんって、洋介のお兄さんとお知り合いだったんですか?確か、お兄さんには恋人がいて……すごく大切にされていたそうですよね。もうすぐ家族に紹介するところだったって聞きました。でも、残念なことに――」そこで、美波の声が不意に途切れた。しまった、というように顔色を変える。「ご、ごめんなさい……」と、慌てて洋介に謝る。拓海の死は、柴崎家の人間にとって触れてはならない話題だった。長い年月をかけて、ようやく治りかけているその傷を、あえて誰かに見せようともしない。渚の身体が、かすかに震えた。袖の下で、爪が掌に深く食い込む。胸を直接握りつぶされるような痛みに、うまく息ができなかった。洋介の表情も、目に見えて険しくなっていた。けれど、相手が美波では強く責めることもできない。彼は
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第4話
医師は2人のやり取りを、ただの夫婦喧嘩だと思ったらしく、慌てて間に入ろうとした。「お二人とも、落ち着いてください。奥様のお腹には――」「先生」その言葉を、渚が遮った。上体を起こし、医師のほうを向く。「お薬を取ってきてくださるんじゃなかったんですか?」医師は一瞬、戸惑ったように渚を見た。けれど、彼女の意図を察したのか、それ以上は何も言わなかった。「……分かりました。すぐにお持ちします」そう言い残し、病室を出ていく。扉が閉まると、洋介は再び渚に視線を向けた。「さっき、医者がお腹って言ってただろ。お腹がどうした?」渚はわずかに視線を逸らした。「別に。お腹にも傷があるって話だよ」適当に言って、その場をやり過ごそうとする。洋介の表情がほんの少しだけ強張ったが、口調は冷たいままだった。「美波に手を出さなければ、階段から落ちることもなかったんだ。今回のことは、そもそもお前が悪い。美波に謝れ」渚は、首を横に振った。「私は悪くないのに、どうして謝らなきゃいけないの?レストランには防犯カメラがあるでしょう。映像を見れば、何があったか分かるはずだよ」その言葉に、洋介の顔がさらに険しくなった。「見る必要なんかない。俺は、美波を信じてる。お前は黙って謝ればいいんだ!」渚は小さく息を吐いた。階段から突き落とされ、身体にはまだ鈍い痛みが残っている。お腹の子は無事だった。今の自分に必要なのは、安静にして身体を整えることだけだ。これ以上、洋介と無意味な言い争いをする気力もない。「……謝れば、放っておいてくれるの?」どこか力の抜けた声だった。洋介は、その言葉に一瞬だけ眉をひそめた。――渚の様子が、いつもと違う。そんな違和感が胸をかすめたが、結局黙ったまま頷いた。渚はそれ以上、何も言わなかった。ベッドを降りると、そのまま美波の病室へ向かう。扉を開け、美波の前に立つ。「……ごめんなさい」そう言って、渚はすぐに洋介へ視線を向ける。「これでいい?」返事を待つこともなく、彼女は背を向け、病室を出ていく。あとに残された洋介が、苦い表情のまま、その背中を見つめていた。それから数日。入院している間、渚は看護師たちの話から、洋介と美波のことを嫌でも耳にすることになった。洋介が美波にどれほど献身的なのか。軽
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第5話
その場にいた全員が、一瞬言葉を失った。まさか渚から、そんな答えが返ってくるとは思わなかったようだ。渚は洋介に夢中で、彼の頼みならどんなことでも引き受けてきた。それは誰もが知っている事実だ。しかし、そんな彼女が皆の前で「好きな人はこの中にはいない」と言った。それはまるで、洋介への気持ちを公然と否定したようなものだった。当然、洋介の顔色もみるみるうちに悪くなった。険しい表情のまま、彼は立て続けに酒を何杯も飲み干した。その後のゲームでも、洋介は何度も負けた。渚の「いません」という一言が、どうしても頭から離れなかったのだ。何度か負けが続くと、仲のいい友人たちは、いつまで経っても美波に告白できない洋介の背中を押そうとした。せめて美波に彼の気持ちを気づかせようと、スマホに入っている写真や、SNSでピン留めしている投稿を見せてくれと、洋介にせがんだ。洋介は言われるままスマホを差し出した。写真フォルダを開く。そこにあったのは、すべて美波の写真だった。楽しそうに笑っている姿。何か考え込むように黙っている横顔。そして、ふと撮った後ろ姿まで。SNSアプリの最上部に固定されていたのも、もちろん美波の写真だった。周囲がざわつく中、洋介だけはどこか上の空だった。既婚者である自分が、本当に好きなのは美波であることを公にしてしまったことにすら気づいていない。隣にいた美波の頬が、次第に赤く染まっていく。「洋介……私、今まで知らなかった。あなたが、ここまで私のことを……」そこから先は、恥ずかしくて言葉にならないようで、周囲もそれをあえて追及することはしなかった。それから、そろそろお開きという頃。美波が、洋介にそっと身を寄せた。「洋介、お願いがあるんだけど……最近、家の周りでちょっと気味の悪いことが続いてるの。警備員にも何日か見回ってもらってるんだけど、何も分からなくて……数日だけでいいから、うちに泊まってくれない?」「いいじゃん、美波さんが怖がってるんだし」と、周囲も次々に囃し立てた。その中で、渚だけは何も言わなかった。フォークでフルーツを口に運びながら、淡々と食べ続けている。美波が自分に見せつけるために、わざとこんな芝居をしているのだから、相手にする必要はないと、渚は思った。ところが。美波の頼みを、これまで一度も断ったこ
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第6話
それから数日間、洋介は一度も家に帰ってこなかった。時折メッセージを送ってくるようになったのは美波のほうで、いつも洋介の写真や動画が添えられていた。キッチンに立ち、料理をしている洋介の背中。ピアノを弾いて、美波に聴かせている動画。部屋を片づけるのを手伝っている姿。それらを送ってくる理由は明白だった。――洋介が彼女をどれほど愛しているのか。どれほど大切にしてくれるのか。それを、渚に思い知らせるためだ。普段の渚なら、そんな写真を見ても心が動くことはなかった。羨ましいとも、悔しいとも思わない。けれど、拓海の誕生日の日、渚は送られてきた写真を眺めながら、ふいに胸の奥を掴まれたような気がした。――拓海が生きていた頃も、自分に同じように優しかった。けれど、彼がいなくなってから、自分を大切にしてくれる人は、この世にもう一人もいない。渚は一人でケーキを作った。そして、テーブルの上に置く。スマホを手に取ると、もう一度、美波が送ってきた写真を開いた。画面の中にいるのは洋介。けれど、その顔を見ているうちに、どうしても拓海の姿が重なり、彼と一緒に過ごした日々が次々と胸に蘇ってくる。渚はテーブルに突っ伏し、目を閉じた。気づけば、涙が止まらなくなっていた。……その夜、洋介が家に帰ってきた。リビングへ入った瞬間、彼は足を止める。テーブルのそばで、渚がスマホを握ったまま眠っていた。頬には、まだ涙の跡が残っている。洋介は、わずかに眉をひそめた。ゆっくりと近づいていき、そこで、テーブルの上にあるケーキに気づく。――渚は自分の誕生日を覚えていたのか。しかも、用意されているのは抹茶ケーキ。彼女は自分の好みまで知っている。これまでの誕生日は、洋介はいつも拓海と一緒に過ごしてきた。両親は兄である拓海をより可愛がっていた。だから、洋介のためだけに誕生日ケーキを用意してくれたことなど、一度もない。拓海が亡くなってからは、誕生日そのものを祝わなくなった。渚と結婚してから、誕生日の日に洋介が家にいることはほとんどなかった。もしかして毎年、渚はこうして一人で、自分のためにケーキを用意していたのだろうか。そんな考えが、胸の奥に静かに沈んでいく。洋介は渚の隣に腰を下ろした。そのとき、うっかり彼女のスマホに触れてしまう。
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第7話
あの日、一緒に誕生日を過ごしてから――洋介は、少し変わった。相変わらず大半の時間は美波と過ごしている。それでも、ほとんど毎日のように家へ帰ってくるようになった。渚と会話を交わすことは、そう多くない。それでも、なぜか一度は渚の前に顔を出す。そんなある日のことだった。洋介が出ていったあと、渚は何気なく、彼が持ち帰った書類に目をやった。それは、オークションの案内冊子だった。ページをめくっていくと、ある品の写真に目が留まる。――クリスタルボール。それは、かつて拓海が渚のために作ったものだった。中に埋め込まれた宝石には、2人の名前の頭文字まで刻まれている。どうして、それがオークションに出ているのだろう。拓海は渚への贈り物にするつもりだったから、周囲には何も話していなかった。だから、その品にどんな意味があるのか知る人もいない。冊子に載った写真を見つめているうちに、渚の視界が滲んだ。――絶対に、手に入れたい。それだけを胸に、渚は急いで着替え、オークション会場へ向かった。ところが会場に着いてみると、そこには洋介と美波の姿があった。渚の姿を見つけた洋介も、意外そうに目を見開く。けれど、3人が言葉を交わすより先に、オークションが始まり、参加者はそれぞれ席につく。美波は当然のように洋介の隣に座り、彼の肩へ身体を預けた。まるで、自分こそが彼の妻であるかのように。会場内は冷房が効きすぎるほど寒かった。美波が寒そうに身を縮めるのを見ると、洋介は自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩へかけてやる。「風邪ひくなよ」「ありがとう、洋介」美波は嬉しそうに微笑み、それから甘えるように言った。「ねえ、洋介、今日私が欲しいものなら、何でも落としてくれるって約束してくれたでしょ?約束、ちゃんと守るのよ」洋介は、彼女を見つめる。「もちろんさ。俺が約束を破ったことなんて、今まであったか?」低く落ち着いた声には、いつになく優しさが滲んでいた。美波は満足そうに唇を上げる。その隣で、渚は2人のやり取りなど気にも留めていなかった。視線はただ、ステージの上だけに向けられている。そして――ついに、待ち望んでいた品が登場した。「こちらのクリスタルボール、開始価格は2千万円からとなります」渚は、迷わず札を上げた。「4千万円」
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第8話
オークションが終わると、美波はクリスタルボールを手に、弾むような足取りで洋介のもとへ戻ってきた。「はぁ、思ったほど特別なものじゃなかったかも」そう言いながら、わざとらしく手を滑らせ――クリスタルボールが床に落ちた。ガシャーン!透明な水晶が砕け、無数の破片となって床に散らばった。渚は息を呑んだ。次の瞬間には、床に膝をついて、一つ、また一つと散らばった破片を震える手で拾い集めていく。けれど、一度砕けたものは、どれだけ願っても元には戻らない。その光景を見ているうちに、渚の胸まで同じように砕けていく。これまで、洋介にどれほど傷つけられても、どれほど冷たくされても、渚は一度だってこんなふうに泣きたくなるほど悲しいとは思わなかった。けれど、今は違う。底の見えない悲しみが、渚の身体をすっぽりと包み込んでいた。まるで深い深い谷底へ突き落とされ、このまま落ち続ければ、二度と戻れなくなってしまうような感覚だった。――ただのクリスタボールなのに、譲ってくれてもよかったじゃないのか。渚は、美波と何かを奪い合いたかったわけじゃない。洋介が欲しければ、「どうぞ」と言いたいくらいだ。あまりにも悲しそうな彼女の様子に、洋介がようやく歩み寄った。けれど、彼には何も分かっていない。「そんなに悲しむようなものか?ただの置物だろ。いくらでも買ってやるよ」渚はゆっくりと顔を上げた。涙で赤くなった目が、まっすぐ洋介を見据える。もう、取り繕う気にはなれなかった。「……これは、世界に一つしかないの」それだけを言うと、渚は床に落ちた破片を両手で大切に抱え、その場を立ち去った。……それから数日間、渚は洋介を遠ざけた。洋介が帰宅すれば、眠ったふりをする。洋介が外へ出ていったのを確認してから、自分の部屋を出る。同じ家で暮らしているのに、2人が何日も顔を合わせていなかった。そんなある日のこと。洋介は、仕事仲間との飲み会で酒を飲みすぎた。いつものように、仲間たちが渚へ電話をかけてくる。「渚さん、俺たち、今トワイライトって店にいるんですけど、洋介さんを迎えに来てくれませんか?」渚は、淡々とした口調で答えた。「私、用事で行けません。こういうこと、これからは石森さんに頼んでください」それだけ告げると、渚は迷うことなく電話を切った。渚
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第9話
旅立つその日、渚は弁護士に電話をかけた。「今日、離婚届を提出していただく予定ですよね。ほかに私が手続きをする必要はありますか?」弁護士は、落ち着いた声で答えた。「いいえ、特にありません。本日付で、お二人の婚姻関係は正式に解消されます」そして、少し微笑むような声で続けた。「新しい生活が始まると思いますが、これからも何かありましたら、いつでも頼ってください」「ありがとうございます」電話を切ったあと、渚は心から微笑んだ。そっと、お腹に手を当てる。――そう。今日から自分は自由の身になり、新しい生活を始めるのだ。これからは、この子と2人で、どこか景色のきれいな場所を見つけて、拓海を想いながらゆっくり生きていけばいい。電話を終えると、渚は必要最低限の荷物をまとめ始めた。そして何より大切に、これまで洋介から受け取ってきた、拓海が持っていた品々を箱に詰めていく。すべてを丁寧に梱包し、荷物と一緒に運び出す。あとは、この家を出るだけ。そう思った矢先だった。「……渚?」玄関の向こうから声がして、帰宅した洋介が、ちょうど渚と鉢合わせた。大きな荷物を抱えた彼女を見て、洋介は一瞬、足を止める。「どこへ行くのか?」渚は前と同じ答えを返した。「旅行に行くだけだよ」洋介の脳裏に、先日見た航空券の通知が蘇った。「行き先は?最近なら時間がある。一緒に行ってやってもいい」渚は目を瞬いた。洋介の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかったのだ。渚が戸惑っているのを見て、洋介自身も、自分の態度が普段とあまりにも違っていたことに気づいたらしい。すぐに表情を引き締め、冷たい声で言った。「この前の埋め合わせだ。だから、いつまでもあの件を引きずらないでくれ」渚は、どう断ろうかと考えた。ちょうどそのとき、洋介のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見ると、やはり美波だった。洋介が電話に出る。電話越しに聞こえてくる彼女の声でさえ、どこまでも甘く、柔らかかった。「洋介、話したいことがあるの。少しだけ会えない?」普段の洋介なら、迷うことなく「分かった」と答え、すぐに車を走らせ、美波のもとへ向かったはずだ。けれど今日、洋介は珍しく言葉を濁した。「悪い……今は取り込み中だ。また今度にしてくれないか?」電話の向こうで
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第10話
「美波、俺に話したいことって……足のことだったのか?」洋介は慌てて美波のもとへ駆けつけたが、彼女が話したのは、捻挫した足がまだ少し痛むということだけだった。後遺症が残ったらどうしよう。そんな不安を訴える美波を前に、洋介は思わず言葉を失った。ふと、さっき空港で渚と別れた場面が頭をよぎる。渚と旅行に行かなかったことに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。「洋介……どうしたの?もしかして、私……迷惑だった?でも、足が本当に痛いの。ひとりでいるのが怖くて、だから洋介に連絡したのよ」少し間を置き、美波は寂しそうに視線を伏せた。「……ごめんね。もう、次からは洋介に頼まないから」その声は今にも泣き出しそうだった。瞳にも、薄く涙が溜まっている。そんな彼女を見た途端、洋介の心は揺らいだ。「何を言ってるんだ。お前のことが迷惑だなんて思うわけないだろ?むしろ心配してるんだ」彼は美波の肩を抱き寄せる。「病院へ行こう。俺が連れていく」「嫌!病院が怖いもの……」美波は拗ねるように言った。「じゃあ、我慢して病院へ行ってくれたら……前に欲しがってたバッグ、買ってやる。色違いも含めて、全部な」その優しい言葉に、美波はようやく顔を明るくした。「それならいいわ」洋介はすぐ車を出し、美波を病院へ連れていった。念のため詳しい検査を受けさせたが、結果は問題なかった。痛みは一時的なもので、数日もすれば治まると医師に言われた。それを聞いて、洋介はようやく胸を撫で下ろした。美波を病室で休ませ、自分は会計を済ませるため、一人で廊下へ出た。そのとき――「……あれ?柴崎さん?」背後から声をかけられ、洋介は足を止めた。振り返ると、そこには1人の医師が立っていた。「柴崎渚さんのご主人ですよね?」そう尋ねられ、洋介は頷いた。「奥様、まだ再診にいらしていませんよね。妊娠中ということもありますし、赤ちゃんの状態を確認するためにも、できるだけ早く受診していただきたいのですが……」洋介は背が高く、顔立ちも目立つ。そのため、患者や家族が行き交う廊下の中でも、以前、渚の診察を担当した医師にはすぐに彼だと分かったらしい。医師の言葉を聞いた瞬間、洋介の表情が固まった。「……今、何て言いました?赤ちゃんって、渚が……妊娠しているんですか?
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