Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

30

第21話

茉優は忌々しさを噛み殺し、顔を上げて京介を見つめる。「私はただ、京介と彼女の関係を少しでも良くできないかと思って。だって、いくらなんでも、お二人の間には……」京介がその言葉を遮る。声は優しい。「あいつのことなんか気にする必要はない。君が気を遣う価値もない」茉優はこみ上げてくる甘い優越感と喜悦を押し殺し、こくりとうなずく。「うん。分かった」それから間もなくして、会社中にうわさが広まった。あの気品あるイケメン社長に、恋人ができたらしい。「社長の彼女って、里中グループの社長、里中秀明の妹なんだって。本物のお嬢様って感じだよね」「どうりで、あんなにきれいで品があるわけね。笑うときなんて、まるで女神みたいだ。それに話し方もすごく優しくて、礼儀正しいし、お嬢様ぶったところなんてまったくない。社長と並んで立つと、本当にお似合いだよね!」「ちょっと待って。なんであの人が社長の彼女だって分かるの?」「社長ってどんな人か知ってるじゃない。普段から女性社員とは最低でも1メートルは距離を取るくらいよ。それなのに、あの里中さんは社長の助手席に乗ってたし、社長が自分でバッグまで持ってたのよ。それに、エレベーターを降りるとき、里中さんが足をひねったんだけど、あのときの社長の心配そうな顔、見た?あれはもう、彼女以外ありえないって!」「彼女じゃなきゃ、奥様ね。絶対間違いないわ」オフィスでは、近くの席の女性社員たちが仕事をしながら、ひそひそと噂話に花を咲かせている。通りすがりにそれを耳にしても、真夕の心は少しも痛まない。まるで、京介を愛していたのは前世の出来事であるかのように、心はすっかり凪いでいる。真夕はノートパソコンを手に会議室へ向かう。急きょ招集された幹部会議に出席するためだ。会議室に入ると、ほかの幹部たちも茉優の話をしている。真夕は何食わぬ顔で席につき、静かに耳を傾ける。しばらくして、再び会議室の扉が開き、京介が大股で入ってくる。その後ろには、茉優が続いている。これは社内の幹部会議だ。なぜ茉優が来ているのか。真夕が疑問に思っていると、京介の秘書である満が椅子を運び、京介の席の隣に置いて、茉優に座るよう促した。会議室がざわめいた。「里中さんがなぜここに?」「そうだ。いくら社長の彼女とはいえ、これは内部の会議だ
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第22話

京介は黒い瞳を氷のように冷たく光らせ、何の感情も見せずに真夕を見つめている。長い指で、テーブルを一定の間隔で軽く叩いている。その態度は、茉優の言葉を認めたうえで、真夕が何を言い出すのか待っているようにも見える。あるいは、真夕がまた感情的になって、思ってもいないことを口走り、茉優を傷つけるのを恐れているかもしれない。だが、真夕には自分の立場がよく分かっている。京介と正面からぶつかるほど愚かではない。真正面からぶつかっても勝ち目はない。もしみんなの前で結婚の事実を突きつけたり、茉優に不利なことを口にしたりすれば、京介は絶対に真夕を許さないだろう。真夕は、この男のえげつないやり口を誰よりも知っている。商人の世界に、甘い人間などそうはいない。たとえ夫婦であり、二人の間に子どもがいるとしても、ひとたび敵に回れば、京介は容赦なく切り捨てる。二人きりなら、多少きつい言葉をぶつけても構わない。少し前までは、京介も真夕の機嫌をとろうとしていたくらいだ。言いたいことは言う。怒りたいだけ怒る。少しくらい無茶をしてでも、吐き出せるものは吐き出しておく。だが、今は状況が違う。京介はどうやら機嫌をとるつもりがないらしい。やり方を変えてきたのだ。ならば、真夕もやり方を変えるしかない。つまり、忍耐だ。幸い、真夕は幼いころから耐えることには慣れていた。児童養護施設にいたころ、年上の子たちにいじめられ、食べ物を奪われた。ろくに食べられず、夜中に空腹で眠れないこともあったが、真夕は耐えた。だが時が来ると、学校からの帰り道に、真夕は草むらで毒のない蛇を何匹か捕まえた。その夜、みんなが寝静まるのを待ってから、自分をいじめていた子を起こし、蛇を見せて思いきり怖がらせた。さらに捕まえた蛇を全部その子の布団に放り込み、悲鳴を上げて逃げ回る姿を黙って見ていた。施設は人里離れた場所にあり、設備も十分ではなかった。防犯カメラもなかった。しかも深夜の出来事で、ほかの子どもたちは熟睡しており、目撃者もいない。だから、たとえ相手が真夕の仕業だと訴えたところで、証拠は何もなかった。なにしろ真夕は、もやしのように痩せていて、普段はとても大人しく、成績も優秀だった。決して悪ふざけをしたり、自らほかの子をいじめたりするような子ではなかった。施設の先生は、
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第23話

そのとき、ほかの役員から異論が出た。「社長、夏目部長は長年この会社に勤めていて、業務にも精通しています。いきなり担当を変えるとなると、会社の業務に支障が出るのではないでしょうか」ほかの副社長たちも、うなずいて同調する。「そうですよ、社長。里中さんの実力については、まだ十分に分かっていません。それなのに、いきなり交代させるのは、少し性急すぎるのでは?」「夏目部長の仕事ぶりも、これまで会社にしてきた貢献も、みんなが認めています。社長、もう一度考え直していただけませんか」声を上げた役員たちは、普段から真夕と親しくしている者たちだ。京介は、意味ありげな笑みを浮かべながら真夕をちらりと見る。その表情には、ぞっとするほどの冷たさがにじんでいる。何を言いたいのかは、明らかだ。真夕が裏で役員たちに頼み、自分をかばうよう仕向けたと思っているのだ。当然、真夕はすぐにその意図を察し、心の中で悪態をつく。この自意識過剰男!あの人たちは私の実力を認めて、自分から味方してくれてるだけよ。京介は視線を外し、隣にいる満に目で合図した。満がパソコンを操作すると、プロジェクタースクリーンに茉優の経歴が映し出された。出身大学、これまで携わってきたプロジェクト、受賞歴、さらに、取得した特許まである。真夕は特に驚かなかった。以前、茉優が賞を受賞した際のニュースを見たことがあったからだ。当時はまだ、茉優と京介のただならぬ関係など知る由もなかった。画面越しにインタビューを見る限りでは、きれいで頭も切れる女性だと思った。しかも、自分と同じ大学の出身だった。同じ女性として、当時の真夕は茉優を素直に評価していた。それがまさか、こんなにも恥知らずなことをしている女だとは思いもしなかった。人の家庭に割って入りながら、悪びれもしない。その猫をかぶった態度を見るだけで、反吐が出そうだ。経歴の紹介が終わると、京介は深い眼差しでその場にいる全員をゆっくりと見渡し、低い声で問いかける。「まだ何か異議はあるか?」今度は誰も口を開かない。茉優の学歴や経歴はあまりにも華々しく、特許まで持っているとなれば、反論の余地はない。開発部の責任者として迎え入れるには、真夕以上に華々しい経歴を持ち、説得力もある。最後に、京介の冷たい視線が真夕へ向けられる。「里中
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第24話

「愛人」という言葉を聞いて、茉優は一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を緩め、薄く笑った。「私を妬んでるのは分かってる。でも、そんな言い方、本当に品がないし、みっともないわ」「笑えない冗談ね」真夕は皮肉っぽく言った。「あんたを妬む?品がない?どうして愛人なんかを妬まなきゃいけないの?人の家庭を壊しておいて、ずいぶんと品があって、立派なこと」茉優はパタンとファイルを閉じた。「引き継ぎが終わったなら、さっさと出ていって!この部屋は私が使うんだから、内装も全部やり直すわ」真夕としても、引き継ぎを終わらせて、一刻も早くここを離れたかった。パソコンを操作しながら声をかける。「ここ。ひとつ説明しておかないと……」茉優は苛立ったように言葉を遮る。「だから、分かってるって言ったはずよ。聞こえなかったの?それとも、まだここにいたいわけ?本当は辞めたくないなら、こんなくだらない真似はやめて、今すぐ京介に謝りに行けば?自分が悪かったって謝れば、京介も気が変わって、私の部下として残してあげるかもしれないわよ」誰がこんな会社に残りたいものか。真夕は鼻で笑った。「本当に説明はいらない?」「ええ、結構よ」「あとで分からないことがあっても、私には聞かない?」「聞くもんか」「分かった。じゃあ、この引き継ぎ書にサインして」「するわ」真夕はうなずき、迷いなくパソコンを閉じると、自分の荷物を抱えてオフィスを後にする。廊下に出ると、いつの間にか大勢の社員が集まっている。その多くが、何年も真夕についてきた古参社員だ。「夏目部長、本当に辞めちゃうんですか?」「部長、今回の世界テクノロジーコンテスト、うちはもう決勝まで進んでるんですよ。今、部長が辞めたら……」真夕は言葉を遮り、その部下の肩を軽く叩いた。「みんな、頑張ってね」そして、集まった社員たちを見渡す。「それじゃあ皆さん、またどこかで会いましょう」真夕はそれだけ言って、人事部長のもとへ向かった。書類へのサインを終え、すべての退職手続きを済ませると、真夕は京介のもとへ向かった。離婚協議書の件だ。どうせ会社まで来ているのだ。もし京介が怒りに任せてサインしていたら、それに越したことはない。裁判沙汰になる面倒も省ける。ところが、社長室の前で、満に立ちふさがれた。「申
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第25話

「言っておくがな、絶対に後悔するぞ。そのときになって泣いて謝っても、京介はお前を許さない。俺がお前の立場なら、今すぐ篠原家に戻って、ちゃんと反省して、自分のしたことを謝る。こんなところで騒いで、恥をさらすんじゃなくてな」真夕は薄く笑いながら言う。「私があんただったら、今すぐ帰って、優秀な弟に尻尾を振って取り入るわ。甲斐甲斐しく世話を焼いて、ご機嫌取りでもしてればいい。こんなところで負け犬みたいに吠えてないでね」豪は怒りで頭に血が上り、怒鳴りつける。「話が通じねえな!せっかく親切に忠告してやってんのに、鼻で笑いやがって。お前、自分が何様だと思ってるんだ?田舎育ちの貧乏人のくせに。京介にくっついてたから、話しかけてやったんだ。調子に乗るんじゃねぇ」真夕は露骨に嫌そうな顔をして1歩下がる。「だったら話しかけるのも、近づいてくるのもやめてくれる?馬鹿がうつるから」「俺は女には手を出さない主義なんだけどな。今日は特別だ!」豪は歯ぎしりするほど怒っている。この前、京介の社長室で会ったときも、真夕がわざと自分を馬鹿にしたのではないかと、豪は疑っていたが、やはりそうだ。真夕はもう本性を隠そうともしない。今度は堂々と自分を負け犬扱いし、馬鹿だと罵ったのだ。今日こそ、思い知らせてやる。豪が手を出すなら、真夕は手にしている荷物をそのまま叩きつけるつもりだった。しかし次の瞬間、秀明が豪の腕をつかんで止めた。「落ち着けって。そんなにカッとなるなよ。話せば分かる」「お前、どっちの味方なんだ!」豪が怒鳴る。秀明はなだめるように豪の肩を叩き、真夕に目を向ける。「俺から京介に話しましょうか?」「結構」真夕はきびすを返して歩き出した。会いたくないなら会わなくていい。誰があんな男に会いたいものか。慧の傷害診断書を手に入れて、京介の不倫の証拠を集めたら、さっさと離婚訴訟を起こす。もう、あの男と話すのも面倒だ。真夕が去ったあと、秀明と豪は京介の社長室へ入った。豪はソファにどっかりと座り込み、秀明に文句を言う。「さっき、なんで止めたんだよ?俺は京介と茉優ちゃんの代わりに、あいつにたっぷり思い知らせてやりたかったんだ。あいつ、調子に乗りすぎだ!痛い目見ないと分からねえんだよ!」秀明はソファに深くもたれ、足を組んだ。コーヒーカップを指先でゆっくりとな
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第26話

それは、篠原グループの公式サイトで発表された、役員人事の変更に関するお知らせだ。京介は眉をひそめる。誰がこんな告知を出した。真夕の退職については、本人が人事部で退職手続きを済ませても、最終的には社長である京介の承認が必要だ。京介は本来、承認するつもりはなかった。「どうしたの?」茉優は京介の表情が曇ったのに気づき、そばに寄ってスマホの画面をのぞき込む。「京介、もし彼女に辞めてほしくないなら、公式サイトから告知を取り下げてもらえば?」京介は気にする様子もなくスマホの画面を消し、茉優の手を握った。「じいさんがこの知らせを見て、君に何か言ってくるんじゃないかと心配なだけだ。それに、君が出産してしばらくは、仕事と家庭を両立するのは難しいだろ。だから、あいつを辞めさせるつもりはなかった。もし辞めさせるにしても、君の産後の休養が終わって、職場復帰してからだ。そうすれば、君も何の心配もなく仕事に集中できるからな」一見、京介の決断はすべて、茉優のことを思ってのものに見える。茉優は嬉しそうに尋ねる。「じゃあ、どうするの?もう発表されちゃったけど」豪が気にも留めない様子で言う。「いいじゃねえか。やるなら最後まで徹底的にやったほうがいいだろ。真実味があればあるほど、あいつも焦る。失って初めて、ありがたみに気づくってやつだ。どうせ、そのうち戻ってくるさ」京介は何も言わないが、間違いなく豪と同じことを考えている。茉優の顔に、晴れやかな笑顔が広がった。一方、真夕はそんな胸くその悪い企みなど知る由もなかった。慧の退院手続きを済ませるため、病院へ向かっていた。その後、京介と暮らしていた高級住宅街の邸宅へ戻った。庭のチューリップは見事に咲き誇っている。風に揺れる花々から、ほのかな香りが漂っている。本来、チューリップは秋に咲く花ではない。だが、金に糸目をつけなければ話は別だ。京介は大金をつぎ込み、このチューリップを秋の盛りに咲かせ、一面の花畑を作り上げたのだ。真夕はその光景から淡々と目をそらし、後部座席にいる祥子に指示を出す。「業者を呼んで、このチューリップを全部抜いて。1本残らずよ」「えっ?」祥子は驚いて口をぽかんと開けている。「チューリップが一番お好きじゃなかったのですか?これは京介様が真夕様のために、わざわざ植えさせたものです
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第27話

あの瞬間、世界には二人しかいないような気がした。互いに寄り添い支え合えば、どんな苦労も消えてしまう。胸の中は幸福感で満たされ、疲れなど感じなかった。そんな昔のことを思い出し、真夕は小さく笑って首を横に振った。あの頃の自分は、なんて馬鹿だったのだろう。書斎の壁一面には、大きな本棚がある。真夕と京介の本が入り混じって並んでいるため、1冊ずつ確認しながら整理していかなければならない。まるで、京介への感情を一つ一つ整理して、捨てていく作業のようだ。夜、慧を寝かしつける頃には、真夕もすっかり疲れていた。腰の痛みもまだ引いていないため、残りの片づけは明日に回すことにした。修には事情を話して、休みをもらった。明日引っ越しを済ませ、明後日には新しい会社へ初出社する予定だ。そのとき、外から車の音が聞こえ、真夕は窓辺まで歩いて外を見る。なんと京介の車だ。まさか、帰ってくるなんて思わなかった。真夕は幽霊でも見たように眉を上げた。京介が何もなくなった庭をじっと見つめているのを確認すると、真夕は1階へ下りていく。2階の階段口まで来たところで、京介が祥子に尋ねる声が聞こえる。「庭のチューリップはどうした?」低く冷たい声だ。鋭い口調には、隠しきれない怒りがにじんでいる。真夕がわざわざ階下へ降りたのは、京介が祥子に八つ当たりするのを防ぐためだ。真夕は少し声を張って言う。「私が抜かせたのよ」足音が近づいてくる。階段の下に、京介が姿を現す。真夕はそこで初めて、京介の顔が強張っていることに気づく。眉間には深いしわが刻まれ、目つきも険しい。全身から、息が詰まりそうなほど重苦しい空気が漂っている。「どうして抜かせた?」京介は歯を食いしばりながら、声を絞り出す。真夕は階段を下りる足を止め、上から京介を見下ろす。「嫌いになったから抜いたの。何か問題でも?」「何だと?」京介は怒りのあまり、乾いた笑いを漏らした。「あの花は、俺がお前のために植えたものだぞ!それを勝手に抜いたと言うのか?」真夕は不思議そうに眉を上げた。「私のために植えてくれたなら、私が気に入らなくて抜いたところで、怒られる筋合いはないんじゃない?」京介は声を出して笑ったが、その目は氷のように冷たかった。「怒られる筋合いはないだと?俺の気持ちを何だと思ってるんだ?好き勝手に踏みにじ
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第28話

真夕は寝室に駆け込み、慌ててドアを閉めようとしたが、大きな手に力任せにドアを押し返された。「行かないって!」「お前に拒否権はない。来い」京介は真夕の手首をつかむと、乱暴に引っ張って部屋から連れ出した。そのまま階段を下りていく。真夕はまるで荷物のように引きずられてよろめき、あわや床に倒れ込みそうになる。腰の傷が引きつり、きりで刺されるような痛みが走る。力を入れようにも、そもそも力が入らなかった。「行かないって言ってたはずよ!離して!最低……痛いってば!離して!離して、手が折れる!」「京介様、どうかおやめください!」騒ぎを聞きつけて祥子が駆けつけ、京介をなだめる。「真夕様は、わざとチューリップを抜いたわけじゃないと思いますよ。きっと見飽きてしまって、別の花を植えたかっただけなのではないでしょうか」どうやら祥子は、京介がチューリップのことで腹を立てているのだと思っている。「今夜は慧を頼む」と祥子にそれだけ言って、京介は足を止めることなく、真夕を引っ張ったまま大股で玄関へ向かう。ただの使用人である祥子はどうすることもできず、ため息をつきながら、その背中を見送るしかなかった。京介は真夕を無理やり車に押し込み、ドアを閉めるとロックをかけた。内側から開けることはできない。「出せ」京介は運転手に指示を出し、車を発進させる。真夕はシートにぐったりともたれかかった。痛みで顔は真っ青になり、額には冷や汗がにじんでいる。京介は真夕を横目で見て、眉をひそめた。「途中から手加減してやっただろう」真夕は皮肉っぽく口元を歪めると、目を閉じた。もう京介と話す気にもなれない。車がしばらく走ったところで、京介のスマホが突然鳴った。「慌てるな。自分の身を守れ。向こうと揉めるな。俺がすぐ行く!」電話越しの相手に向けた京介の声は、自分でも気づかないほど優しかった。真夕には、相手が茉優だとすぐに分かった。京介は電話を切ると、運転手にUターンするよう指示した。「どこへ行くの?本邸には行かないの?」真夕が尋ねる。京介は新しい行き先を告げると、口を開いた。「じいさんが、茉優ちゃんを無理やり海外へ送り出そうとしている。俺たちで迎えに行くんだ」「俺たち?」真夕は自分の耳を疑い、目を見開いた。京介は当然のようにうなずく。「ああ、
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第29話

真夕は鼻で笑った。昔の真夕は京介を愛していたから、何をするにも京介のことを第一に考えていた。だから京介の目には「物分かりがよくて、寛容で、優しい女」に映っていたのだろう。けれど、今の真夕はもう京介を愛していない。自分のことを優先している。自分の利益を守ろうとすれば、京介にとっては当然、理不尽な女に見えるのだ。車は、ひっそりと佇む邸宅の前で停まった。中へ入ると、明かりのついたリビングで、武を中心とした一団と、茉優を中心とした一団が向かい合っている。京介は足早に大股で歩み寄る。「京介!」茉優は京介の姿を見るなり、慌てた様子で京介の胸に飛び込む。京介の後ろにいる真夕の姿に気づくと、茉優は口の端を吊り上げ、京介をさらに強く抱きしめ、小刻みに体を震わせる。京介は優しい声でなだめる。「もう大丈夫だ。怖かったな」そこへ武が歩み寄り、京介に恭しく頭を下げる。「京介様、大旦那様からのご伝言です。里中さんには、やはり海外へ行って静養してもらいたいとのことです」「じいさんには、明日、俺が直接会って説明すると伝えろ」だが、武は融通の利かない男だ。栄一の命令以外、誰の言葉にも耳を貸さない。「京介様、私が受けた命令は、そのようなものではありません」「山中!」京介の声が氷のように冷たくなる。「いい加減、身のほどをわきまえろ!」真夕は少し離れたところにあった椅子へ腰を下ろし、武と京介の睨み合いを遠巻きに眺めている。とばっちりを受けるのだけは御免だ。そのとき、何かが真夕の脚をぐいぐい押してきた。真夕は驚いて、足元を見下ろす。そこには、狼がいた!「きゃああっ!」真夕の悲鳴に、その場にいた全員が一斉に振り向いた。真夕は恐怖で体をこわばらせ、足元にいる狼を指さして、今にも泣き出しそうな顔になる。「お、狼……狼がいる」真夕の狼狽する姿を見て、茉優は心の中で嘲笑した。それから片方の眉を上げ、勝ち誇ったように呼びかける。「ポチ、こっちおいで」しかし、その狼は動かない。それどころか、真夕の足にぴったりとくっついたまま、頭をすり寄せ、まるで犬のようにしっぽを振っている。まるで真夕の機嫌を取ろうとしているかのようだ。真夕は言葉を失った。何これ?茉優は眉をひそめ、露骨な嫌悪をあらわにした。ポチは、もともと京介が飼っていた。京
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第30話

京介は篠原家の跡取り息子だ。彼が茉優を連れて行くと言う以上、武にも止めることはできなかった。茉優はすっかり怯えてしまい、足元もおぼつかない。歩けそうになく、京介に抱き上げてもらうしかなかった。「夏目さん、気にしないわよね?」京介は茉優を軽々と横抱きにしている。「あいつは気にしないさ」真夕は無表情のまま、「ええ」とだけうなずいた。愛しているからこそ、気にするのだ。今の真夕は、気にするどころか、早く京介と離婚したいと思っている。気にするはずがない。ただただ、虫酸が走るだけだ。真夕は二人より先に車へ乗り込み、助手席に座る。あの二人と隣り合わせに座るのだけは御免だ。真夕が助手席に座るのを見て、茉優は露骨に不快そうな顔をした。京介の助手席は、自分だけの特等席だ。茉優は弱々しい声で甘える。「私、車酔いするから、助手席に座りたい……」京介は助手席の真夕に目を向ける。「お前は後ろに座れ」真夕は口角を上げながら、茉優を見る。茉優は儚げな笑みを浮かべているが、その瞳には隠しきれない優越感がギラギラと光っている。わざとだ。真夕にはすぐに分かったが、何も言わず、あっさり車を降りた。茉優が口の端を吊り上げる。「ありがとう。わざわざ迎えに来てくれたうえに、助手席まで譲ってくれるなんて」京介は茉優の体を気遣いながら、助手席へ座らせ、甲斐甲斐しくシートベルトまで締めてやった。その隙に、真夕は車の前をぐるりと回り、運転席のドアを開けた。ちょうど京介が、助手席のドアを閉めたのと同時だ。真夕は運転席に乗り込み、ドアを閉め、ロックをかける。すべて一瞬の出来事だ。助手席の茉優が目を丸くする。真夕はそこで初めて振り返り、茉優に笑いかけた。「どういたしまして。ちゃんと座って、シートベルトもしっかり締めてね」茉優は歯を食いしばり、助手席のドアを開けようとしたが、ロックされていて開かない。バンバンバンッ!窓ガラスを激しく叩く音がして、京介の焦った顔が窓に張りついている。「ドアを開けろ!」「乗るならさっさと乗って。乗らないならこのまま置いていくわよ」言いながら、真夕はキーを回してエンジンをかけた。茉優がまだ助手席に座ったままなのを見て、京介は仕方なく、航を抱き上げ、後部座席へ乗り込んだ。そういえば、後ろにはもう一匹、狼
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