身代わりの私こそが本命?今さら笑わせないで

身代わりの私こそが本命?今さら笑わせないで

By:  西野翠夏Updated just now
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
30Chapters
11views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

結婚して7年。篠原京介は、夏目真夕を誰よりも深く愛していた。彼女のためなら、家族と縁を切ることさえ惜しまなかった。 真夕もまた、京介のためにすべてを捧げてきた。しかし、彼を国内有数の資産家へと押し上げるほど尽くしてきた真夕は、その日、思いがけない言葉を耳にしてしまった。自分はただ、京介の初恋の身代わりに過ぎないのだと…… 真夕との結婚も、彼女への愛も、すべては初恋の人を世間や一族の争いから守るための盾だった。 しかも、その初恋の相手というのは、京介の幼馴染だけではなく、京介の兄の女だった。おまけに、その人は京介の子を身ごもっているという。 けれど、京介は自分が二度と子どもを作れない体になっていることを、まだ知らない。 真夕との間に生まれた息子こそ、京介にとって唯一の子どもだ。 7年の結婚生活、7年にわたる献身。その先に待っていたのは、最初から仕組まれていたかのような、残酷な裏切りだ。 ならば、「篠原家の若奥様」という肩書きに、未練はない。 真夕は京介に彼が乏精子症である事実を隠したまま離婚を切り出し、息子を引き取った。そして、息子の姓も自分の姓に変えた。 やがて迎えた京介とあの女の結婚式で、真夕は二人の不倫の証拠映像を公開し、彼らの評判を一瞬で地に落とした。 さらに、あの女が産んだ子どものお宮参りの日、祝いの品と称して、京介に乏精子症の診断書を送りつけた。 そのころ、真夕は世界最高峰の科学技術賞の壇上に立っていた。これまで誰にも明かしてこなかった肩書きや実績が、次々と世間に知られていく。 ここに至ってようやく、京介はずっと大切な人を間違えていたことに気づく。幼いころ、京介の命を救ってくれたのも、彼が一生守り抜くと誓った相手も、幼馴染ではなく真夕だったのだ。 後悔に打ちひしがれた京介は、真夕の前にひざまずく。 「真夕、俺が悪かった。頼む、もう一度俺とやり直してくれ!」 真夕は答えない。ただ静かに振り返ると、京介の宿敵として知られる男の腕に、自分の腕を絡める。 「篠原社長、変なこと言わないでください。うちの夫が嫉妬しますから」 京介は息子・夏目慧にすがる。 「お前からも、ママに頼んでくれ。パパともう一度やり直してくれって」 慧は真夕の隣に立つ男のもう片方の手をぎゅっと握り、冷ややかな目を京介に向ける。 「おじさん、勝手にパパを名乗っちゃダメだよ。僕のパパはこの人だから」

View More

Chapter 1

第1話

結婚して7年目、夏目真夕(なつめ まゆ)はようやく知った。自分は、夫・篠原京介(しのはら きょうすけ)の初恋の身代わりに過ぎなかったのだ。

しかも、その初恋の相手は、京介の兄の女、里中茉優(さとなか まゆ)だ。おまけに、茉優は京介の子を身ごもっているという。

けれど、京介は自分が二度と子どもを作れない体になっていることを、まだ知らない。

裏切った男なんて、もういらない。真夕は迷うことなく、離婚を切り出した。

しかし、京介は頑として首を縦に振らない。眉をひそめ、威圧感のある低い声で問い詰める。

「確かに俺は茉優ちゃんを抱きしめたが、それくらいのことで、離婚だと騒ぐのか?

お前、結婚を何だと思ってる?俺のことを何だと思ってるんだ。

いいか。俺がお前を愛してるからって、図に乗って結婚を軽く考えるのはやめろ。

離婚の話は二度とするな。絶対に認めない」

真夕は鼻で笑った。

愛している?男の言葉なんて、信じられない。

数日前、京介の社長室の前を通りかかったとき、ドアが少しだけ開いていた。室内から聞こえてきた会話に、真夕は足を止めた。

「京介、茉優ちゃんが帰ってくるんだろ?まだ夏目と離婚しないのか?まさか、本当にあの身代わりを好きになったんじゃないだろうな?」

ドアノブにかけた手が、ぴたりと止まる。離婚?身代わり?

考える間もなく、室内から京介のかすかな笑い声が聞こえた。

「まさか。俺が最初から最後まで愛しているのは、里中茉優だけだ」

「だよな」

そう答えたのは、京介の親友・須藤豪(すどう ごう)だ。その声には、あからさまな軽蔑がにじんでいる。

「あいつはただの身代わりにすぎないだろ」

れっきとした妻である自分が、ただの身代わりだと?

昨夜まであれほど自分を大切にして、何度も「まゆ」と呼び、耳元で愛を囁いていたあの男が、その言葉を否定するどころか、別の女を愛していると言っている。

つまり、京介が愛しそうに呼んでいた「まゆ」も、熱っぽく口にしていた「まゆ」も、深く愛してきた「まゆ」も、すべて「里中茉優」だったのだ。

自分はただ都合のいい身代わりにすぎないのだ。

あまりの理不尽さに目まいがする。込み上げる怒りが胸の奥を締めつける。

心を無数の針で刺されるような痛みに襲われ、顔から血の気が引いていく。

「身代わり」という言葉を聞いた京介は、ほんのわずかな引っかかりを覚えたが、何かを言うより先に、豪が尋ねる。

「じゃあ、なんで離婚しないんだ?」

京介は淡々と答える。

「じいさんが持ってる株、まだ全部譲ってもらってないんだ」

「もらってなかったっけ?」

豪が不思議そうに尋ねる。

真夕は指先が白くなるほど手を握りしめ、乱れそうになる心を必死に落ち着かせながら、耳を澄ませる。

「ここ数年、少しずつもらってるだけだ。残りは、俺と真夕が結婚式を挙げ直したら、結婚祝いとして渡すって言ってる。あと3か月だ」

その声には、ようやくこの日々から解放されるという期待と、抑えきれない喜びがにじんでいる。

真夕の目は、いつの間にか赤くなっていた。

胸の奥を無残に切り裂かれ、大きな穴を開けられたようだ。そこへ冷たい風が絶え間なく吹き込み、体の芯まで凍えていく。手足は冷え切り、震えが止まらない。

付き合い始める前は、京介のほうが真夕を口説いてきた。周囲が驚くほど熱烈に想いを伝え、何度断られても諦めなかった。

けれど、真夕は京介に里中茉優という幼なじみがいると聞いていた。

茉優は、誰もが認める才女だ。恵まれた家柄に、整った容姿、そして、人並み外れた才能……

そんな女性が幼なじみなら、京介の心にはずっと彼女がいるのだろうと思い、真夕は自分の中ではっきり線を引いていた。

他の女に未練がある男とは付き合わない。まして、そんな男とは結婚しない。

だから、京介から99回目の告白をされたとき、真夕は本人に確かめた。

「里中さんって、初恋の人なの?」

「違う。彼女とはただの幼なじみだ。俺の初恋はお前だ」

真夕は今でも、あのときのことをはっきり覚えている。

京介は迷いひとつ見せず、きっぱりと否定した。自分を見つめる眼差しは、真っすぐで、隠しきれない情熱を宿していた。まるで、本当に自分を愛しているかのようだった。

その言葉を信じた。

そして、京介の想いを受け入れた。

しかしまさか、家では何でも言うことを聞き、外ではほかの女性に一切目を向けなかったあの男が、7年もの間、自分を騙していたなんて……

抑えきれない怒りが、一気に胸の奥から込み上げ、頭のてっぺんまで駆け上がってくる。

頭に血が上り、真夕はそのまま社長室へ乗り込み、京介の頬を思いきり叩いてやりたかった。

そのとき、また豪の声が聞こえてきた。

「お前のじいさん、夏目のことを気に入ってなかっただろ?なのに、なんで結婚式を挙げ直すことに賛成したんだ?」

「この前、茉優ちゃんがまたテクノロジー分野の新人賞を取っただろ。だから、茉優ちゃんがいずれ海外から戻ってくるって、じいさんもわかってるんだ。

俺がまだ彼女を想ってるんじゃないかって、きっと心配してるんだろ。

だから、じいさんは真夕を選んだんだ。しかも、俺と真夕の間には慧もいる。俺と真夕に結婚式を挙げさせて、真夕を正式な妻として表に出したいんだろ。

そうすれば、たとえ俺がまだ茉優ちゃんに気があるとしても、一緒になるのはそう簡単じゃないからな」

豪の声が、思わず大きくなる。

「まさか本当に夏目と結婚式を挙げ直すのか?だから、茉優ちゃんも焦って帰国するってわけか!」

「そんなわけないだろ。何を考えてるんだ?」

京介の声には、あからさまな嫌悪がにじんでいる。

「俺の花嫁になるのは、茉優ちゃんだけだ。

二人はよく似てる。メイクをしてベールで顔を隠せば、入れ替わっていることなんて誰にも気づかれないさ」

「さすが京介だな。やるじゃん」

豪は手を叩き、楽しそうに笑う。

けれど、真夕の心は沈んでいく。息が苦しくなる。

どうりで、あれほど忙しい京介が、結婚式の細部にまで自分で行き届いた気配りをしていたわけだ。

ウェディングドレスも、結婚指輪も、京介が自らデザインに関わり、真夕には一切関わらせなかった。

「まゆ」へのサプライズだと、そう言っていた。

本当に、とんでもないサプライズだ。

そもそも、あの結婚式は真夕のために用意されたものではなかったのだ。

その日を指折り数えて待ちわびていた自分を思うと、真夕はひどく滑稽に思えてならなかった。あまりにも馬鹿げている。

豪はひとしきり笑ったあと、ふと何かを思い出したように尋ねる。

「そういえば、なんで茉優ちゃんは予定より早く帰国するんだ?今帰ってきたら、篠原家は黙ってないだろ」

ドアの外で立ち尽くす真夕には、その言葉の意味が分からなかった。なぜ篠原家は、茉優が帰国することを嫌がるのか。

どうやら、まだ自分の知らない事情が隠されているらしい。

だが、次に聞こえてきた京介の言葉は、真夕の胸に重い一撃を叩き込んだ。

あまりの痛みに、息が詰まる。ほかのことなど、考える余裕もなくなった。

「妊娠したんだ。海外で一人ぼっちだし、そばで世話をする人もいないから、心配でな」

茉優が、妊娠した?

ドア越しにも伝わってくるその弾んだ声からすれば、その子の父親が誰なのかは、考えるまでもない。

「夏目に知られたら、騒ぎになって結婚式どころじゃなくなるんじゃないか?そうなったら、株を譲ってもらえなくなるぞ?」

社長室の中で、京介は確信に満ちた声で答える。

「バレるはずがない。結婚して7年、あいつはずっと、俺に愛されていると信じきってるからな」

ドアの外で、真夕の体がふらりと揺れる。顔からは血の気が引き、手に持っている書類はくしゃくしゃに握りつぶされている。

しかし次の瞬間、何かを思いついたのか、真夕は声を立てずに笑った。

それはひどく惨めで、自嘲に満ちた笑みだ。

京介は知らない。彼は重度の乏精子症で、自然妊娠が極めて難しい体だということを……

結婚して1年が経っても、子宝に恵まれず、篠原家の人々は焦り始めた。血筋を絶やしてはならないと、真夕の体に問題がないか、検査を受けるよう何度も促した。

表向きは素直に従ったものの、なぜ自分だけが検査を受けなければならないのかと、心の中では納得できなかった。

そこで京介も一緒に病院へ連れて行き、二人そろって検査を受けることにした。

デリケートな問題であるため、検査は医師である友人に頼んだ。結果が出ると、友人はまず真夕に連絡してきた。

男は、こういうことを知られるのを嫌がるものだ。京介が事実を知れば、きっと傷つく。そう思った真夕は、京介には検査結果を伏せ、報告書を見せなかった。

そのとき友人は、重度の乏精子症でも、絶対に子どもを授かれないわけではないと真夕を慰めた。ただ、それが奇跡に近いほど可能性の低いものだとは、あえて口にしなかった。

それから真夕は、京介の体調を少しでも良くしようと、栄養バランスを考えた食事を作り、友人に紹介してもらった漢方医にも相談した。

二人で一緒に栄養ドリンクを飲み、運動を続け、生活リズムを整え、食事にも気を配った。タバコも酒も控え、夜更かしもしないようにした。

努力の甲斐があったか、あるいは天の恵みか、真夕は奇跡のように妊娠した。そして生まれたのが、息子の篠原慧(しのはら けい)だった。

しかしここ数年は会社がどんどん忙しくなり、京介は出張を繰り返し、残業や徹夜も増えた。飲酒や喫煙も日常茶飯事になっていた。どれも、精子の状態に悪影響を与える生活習慣ばかりだ。

一方、茉優はM国を拠点にしている。京介が会いに行けるのも、1年のうちに数えるほどしかない。

つまり、茉優の腹の子が本当に京介の子なのかどうかは、まだわからない。

もし茉優が京介を裏切って、他の男の子どもを身ごもっているとしたら……そう考えた途端、真夕の胸の奥に暗い悦びが湧き上がってくる。

自業自得だ。7年も人を騙し続けたのだから、これくらいの報いは受けて当然だ。

時を同じくして、社長室からは京介が念を押す声が聞こえてきた。

「うっかり口を滑らせて、真夕に知られるようなヘマはするなよ。

あいつとは7年も夫婦をやってきたんだ。結局、悪いのは俺だ。あいつを裏切ったのも俺だからな。

事実を知って悲しませたくないし、茉優ちゃんを恨んでほしくもないんだ」

「京介は優しすぎるんだよ。何をそんなに罪悪感を抱えてるんだ?

夏目みたいに家柄も後ろ盾もない田舎娘が、この街で人並み以上の暮らしを手に入れるなんて、本来なら無理な話だぜ。

あいつに悲しむ資格なんてない。むしろ京介が結婚してやったことに、感謝してもらいたいくらいだろ」

豪の口調は軽い。顔を見なくてもわかる。きっと今ごろ、見下すような目をして、鼻で笑っている。

「お前と結婚できなかったら、夏目が篠原グループみたいな大企業に入れるわけないだろ?開発部の責任者になんてなれるかよ?

高級車を乗り回して、豪邸に住んで、ブランド品を身につけて、毎日何人もの使用人に世話をしてもらってるのは誰のおかげだよ。

お前はあいつに十分尽くしてきただろ。

何でもかんでもあいつの言いなりで、まるで風紀委員みたいじゃないか。

タバコも酒も禁止、おまけに夜は門限まである。そもそもお前らの妊活はとっくに終わってんだろ?田舎育ちのくせにずいぶんと気取ってるなぁ。

少しでも身の程をわきまえてるなら、お前と結婚できたことに感謝すべきなんじゃないか?」

真夕は心の中で、冷たく笑った。風紀委員、か。

タバコも酒も、そして不規則な生活も、京介の身体には負担になる。

もともと重度の乏精子症だった京介は、真夕が生活を管理していなければ、子どもを授かる可能性がさらに低くなっていたかもしれない。

けれど、もう二度と世話を焼くつもりはない。酒もタバコも徹夜も、好きにすればいい。

そうすれば、慧は篠原家にとって唯一の跡継ぎになる。

真夕は何度も深呼吸を繰り返し、込み上げてくる嫌悪感を無理やり押し込めた。書類を抱えたまま静かにその場を離れる。彼女が来ていたことには、誰も気づいていない。

自分のオフィスへ戻ると、真夕は離婚を決意した。

離婚するなら、取れるものはきちんと取る。家も、車も、お金も、何一つ手放すつもりはない。

7年間の青春も、7年間の献身も、すべて無駄にして、手ぶらで追い出されてたまるか。

そして、慧の親権も、絶対に渡さない。

京介の兄は植物状態で、子どももいない。京介自身も重度の乏精子症を抱えている。このままでは、篠原家に新たな跡継ぎが生まれる可能性は極めて低い。

だからこそ、慧の親権を勝ち取るためには、京介の体のことを篠原家に知られてはならない。

離婚して親権を手に入れたら、慧の姓も、自分と同じ「夏目」に変えてやる。

そして、何年も前に京介が受けた検査の結果を、離婚祝いとして本人に送りつけてやる。

そのとき、京介がどんな顔をするのかは、真夕には知ったことではない。ただ、自分がすっきりすることだけは間違いない。

しかし離婚は、そう簡単な話ではない。

名義上の財産、会社の株価、跡継ぎの問題など、関わることは多岐にわたる。だからこそ、万全の準備を整える必要がある。

そう考えながら、真夕は親友の叔父である相馬時哉(そうま ときや)に電話をかける。時哉は大手法律事務所で最年少のパートナーを務める、名の知れた敏腕弁護士だ。

事情を話すと、時哉は快く引き受けてくれた。そして、余計なことをして警戒されないよう、今は何も知らないふりをして耐えるようにと真夕に忠告する。

その間に、京介名義の財産を徹底的に調べる。さらに、M国の調査会社にも依頼し、京介の不倫を裏付ける証拠を集める。

真夕はふと後悔した。先ほどスマホを持っていれば、京介と豪の会話を録音して決定的な証拠にできたのに……

電話を切ると、時哉から、私立探偵の電話番号が送られてきた。

離婚するにしても、真相はすべて明らかにしておかなければならない。これ以上、何も知らないまま騙され続けるのはごめんだ。

真夕は教えられた番号に電話をかける。

「もしもし、相馬先生からご紹介いただいた夏目です。はい……急ぎでお願いします。費用のことは気にしなくて大丈夫です」

そこへ、アシスタントがドアをノックし、出張用航空券の手配が完了したと報告にやってきた。真夕は小さくうなずいた。

もうすぐ離婚するというのに、まだ京介のために働いてやらなければならないのかと思うと、腹立たしくてたまらない。

篠原グループがなんだ。開発部の責任者という肩書きがなんだ。辞めてやる!

真夕は迷うことなく退職願をプリントアウトし、書類の束に挟み込むと、再び京介のいる社長室へと向かう。

真夕ほどの幹部社員ともなれば、退職にも京介の承認が必要だ。必要な手続きを踏まずに退職すれば、業界のブラックリストに載り、今後の転職にも影響が出る。

社長室の前に行くと、ちょうど豪が出るところだ。

真夕の姿を見るなり、豪は愛想よく目を細め、白い歯を見せて笑いかけてきた。

「今夜、いつものメンバーで飲むんだけどさ。京介の門限、あと2時間くらい延ばしてやってくれない?」

真夕の脳内には、先ほどの豪の軽蔑しきった言葉がよみがえる。

身代わり、田舎娘……

表では親しげに声をかけ、陰では好き勝手に貶している。京介の友人も彼に負けず劣らずの偽善者だ。

向こうが芝居を続けるつもりなら、こちらにもこちらのやり方がある。

せいぜい、首を洗って待っていればいい。これから思いきり、その化けの皮をはがしてやるから。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
30 Chapters
第1話
結婚して7年目、夏目真夕(なつめ まゆ)はようやく知った。自分は、夫・篠原京介(しのはら きょうすけ)の初恋の身代わりに過ぎなかったのだ。しかも、その初恋の相手は、京介の兄の女、里中茉優(さとなか まゆ)だ。おまけに、茉優は京介の子を身ごもっているという。けれど、京介は自分が二度と子どもを作れない体になっていることを、まだ知らない。裏切った男なんて、もういらない。真夕は迷うことなく、離婚を切り出した。しかし、京介は頑として首を縦に振らない。眉をひそめ、威圧感のある低い声で問い詰める。「確かに俺は茉優ちゃんを抱きしめたが、それくらいのことで、離婚だと騒ぐのか?お前、結婚を何だと思ってる?俺のことを何だと思ってるんだ。いいか。俺がお前を愛してるからって、図に乗って結婚を軽く考えるのはやめろ。離婚の話は二度とするな。絶対に認めない」真夕は鼻で笑った。愛している?男の言葉なんて、信じられない。数日前、京介の社長室の前を通りかかったとき、ドアが少しだけ開いていた。室内から聞こえてきた会話に、真夕は足を止めた。「京介、茉優ちゃんが帰ってくるんだろ?まだ夏目と離婚しないのか?まさか、本当にあの身代わりを好きになったんじゃないだろうな?」ドアノブにかけた手が、ぴたりと止まる。離婚?身代わり?考える間もなく、室内から京介のかすかな笑い声が聞こえた。「まさか。俺が最初から最後まで愛しているのは、里中茉優だけだ」「だよな」そう答えたのは、京介の親友・須藤豪(すどう ごう)だ。その声には、あからさまな軽蔑がにじんでいる。「あいつはただの身代わりにすぎないだろ」れっきとした妻である自分が、ただの身代わりだと?昨夜まであれほど自分を大切にして、何度も「まゆ」と呼び、耳元で愛を囁いていたあの男が、その言葉を否定するどころか、別の女を愛していると言っている。つまり、京介が愛しそうに呼んでいた「まゆ」も、熱っぽく口にしていた「まゆ」も、深く愛してきた「まゆ」も、すべて「里中茉優」だったのだ。自分はただ都合のいい身代わりにすぎないのだ。あまりの理不尽さに目まいがする。込み上げる怒りが胸の奥を締めつける。心を無数の針で刺されるような痛みに襲われ、顔から血の気が引いていく。「身代わり」という言葉を聞いた京介
Read more
第2話
「今夜、いつものメンバーで飲むんだけどさ。京介の門限、あと2時間くらい延ばしてやってくれない?」「よくそんな気分になれるね。ずいぶん余裕じゃない」真夕はわざと驚いたふりをして、すぐに心配そうな顔を作った。「そういえば、須藤家のあの隠し子、また大きな契約を取ったんだって。今、あちこちであなたたちを比べてるみたい。しかも、かなりひどいことを言われてるよ。聞かせてあげようか?」真夕は豪に断る隙を与えず、軽く咳払いをした。そして表情を一変させ、冷たい目つきで、露骨な侮蔑を込めて言い放つ。「須藤豪って、遊んでばかりで何の取り柄もない能なしだって。それに比べて、あの隠し子は別格で、まるで月とすっぽんよ。どっちが嫡出なのか分からないってさ……あら、怒った?そんな怖い顔しないでよ」真夕はすぐに表情を変え、いかにも心配そうな眼差しを浮かべてみせる。「人から聞いた話をそのまま伝えただけ。ちゃんと自覚しておいたほうがいいと思って。豪のためを思って言ってるんだからね」豪が「隠し子」という言葉を嫌っていることは、誰もが知っている。それは彼にとって、触れてはいけない話だ。だからこそ、そこを突かれれば、たちまち頭に血が上る。豪の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んだ。それでも相手が京介の妻である以上、無下にはできない。彼は引きつった笑顔で言う。「だから今日、仲間を集めて相談しようと思ってるんだよ」「みんなに相談したって、どうにもならないと思うよ。結局、自分で頑張らなきゃ」真夕は諭すように、もどかしそうな態度を見せる。「そうしないと、そのうちあの隠し子に好き放題された挙句に、財産まで奪われるわよ。家から追い出されて、最後は路上生活なんてことになりかねないわ」あまりにも言いたい放題だ。豪の顔がさらに引きつり、ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえる。その目を見れば、今この瞬間、真夕を殺したいと思っているに違いない。真夕は心の中で冷笑する。自分はただ事実を言っているだけだ。暴れ出しそうな豪を見かねて、京介が低い声でたしなめる。「真夕」「はいはい、耳の痛い話だっていうのは分かってる。でも、心配してるからこそ言ってるんだよ。京介の一番の親友なんだからね」たちまち人懐っこい笑顔に変わる。まるで自分には何の悪意もないと言わんばかりだ。
Read more
第3話
時哉からは、藪蛇になるから下手に動くなと言われていたが、妻として、夫が他の女を抱きしめているのを見て無関心でいられるほうがおかしい。真夕はスーツケースを引きながら、ヒールを鳴らして大股で近づいた。今日はロングコートを羽織り、黒髪はすっきりとしたポニーテールにまとめている。耳元には、シンプルながら品のある宝石のイヤリングをつけている。白いシャツに黒のパンツを合わせた姿は、見るからに凛としている。歩くたびにコートの裾が翻り、その下からすらりと伸びた脚がのぞく。全体的に隙がなく、威圧感さえ漂うその装いは、こういう修羅場にはうってつけだ。真夕がすぐそばまで来て、ようやく京介がその存在に気づいた。京介は一瞬、驚いたが、すぐに平静を取り戻し、何事もなかったように茉優から離れ、笑みを浮かべる。「真夕……」パァン!真夕はためらいなく手を振り上げ、京介の頬を思いきりひっぱたいた。渾身の力を込めて叩いたせいで、京介の頬にはあっという間に真っ赤な手形が浮かび上がる。「京介!」茉優が悲鳴を上げ、眉間にシワを寄せて真夕を睨みつける。いけしゃあしゃあと真夕を非難する。「何するの!」「何するのって?」真夕は冷ややかな笑みを浮かべて茉優をねめつける。「そこの愛人さん。あなたがぎゅっと抱きしめていた男は、私の夫なんだけど?それを見て私が何をするって?もちろん、不倫現場を押さえに来たに決まってるじゃない!」声はそれほど大きくなかったが、周囲を行き交う人々の耳に届くには十分だ。何人もの人がこちらを振り返り、茉優を見る目には、あからさまな冷たさが宿っている。愛しい人の名誉が傷つくのを黙って見ていられるはずもなく、京介は顔をしかめて真夕を叱るように言う。「馬鹿なことを言うな!こちらは里中茉優。俺の幼なじみだ。今日はお前を迎えに来たんだが、ちょうど彼女が帰国する日でな。何年も会ってなかったから、再会の挨拶でハグをしただけだ」茉優の立場を守るためか、声のトーンは普段より一段高くなっている。周囲の人間に聞かせるためだ。愛する女が愛人だと誤解されるわけにはいかない。真夕はスマホを掲げて見せる。「二人が抱き合ってるところ、動画に撮ってあるけど、これをネットに載せて、本当に『再会の挨拶』なのかどうか、見てもらおうか?」茉優は赤いワンピースに
Read more
第4話
時哉の考えはこうだ。真夕が空港ですでにひと騒ぎ起こした以上、もうそのまま離婚を切り出してしまえばいい。不倫の証拠を集め、離婚を切り出す。そうすれば無駄な時間を費やさずに済む。京介が疑うことはないはずだ。彼は単に、真夕が嫉妬して拗ねているだけだと思うだろう。事実、京介はまさにそう思い込んでいた。真夕は時哉と別れると、そのまま車を走らせて篠原家の本邸へ向かう。その道中、京介の車を見かける。意外そうに、真夕は眉を上げた。京介は茉優に付き添っているはずで、まさか本邸に戻ってくるとは思っていなかった。もし空港での一件がなければ、京介もそのまま茉優と一緒に過ごすつもりだった。しかし、慧から電話があり、いつ帰るのかと聞かれたのだ。真夕がもう帰路についていると聞き、京介は急いで本邸へ向かうことにした。真夕が帰宅してから茉優の帰国を口にすれば、祖父の栄一に知られて騒ぎになるかもしれない。それが心配だった。3か月後の結婚式は、何としても予定通りに挙げなければならないのだ。京介も真夕の車に気づき、窓を下ろして声をかける。「真夕」だが、真夕は返事をしなかった。そのまま窓を閉め、冷たい表情でアクセルを踏み込む。車は一気に加速し、あっという間に遠ざかっていく。京介は眉を上げ、ためらうことなくその後を追う。篠原家の本邸は、南山の中腹にある。山道は幾重にもカーブを描いている。真夕は落ち着き払ってハンドルをさばく。彼女の手にかかれば、車体もまるで手足の延長のように自在に動く。カーブでは華麗に車体を滑らせ、それでも速度を落とさない。車体は疾風のように駆け抜け、無駄のない滑らかなラインを描いていく。思わず見とれるほどの見事な運転だ。男という生き物は、どうやらスピードとスリルに弱いらしい。京介もすっかりその気になり、真夕の車を追ってアクセルを踏み込む。二台は互いに譲らず、追いつ追われつの攻防を繰り広げる。京介は何度も追い抜こうとしたが、そのたびに真夕に阻まれる。結局、二人はほぼ同時に、本邸へたどり着いた。京介はすっかり満足した様子で、口元に笑みを浮かべている。車のドアに無造作に手を預けながら、深い眼差しで真夕を見つめる。そこには、驚きと愛おしさが入り混じっている。「真夕、こんな運転までできるのか?」正直、京介はまたしても真
Read more
第5話
靖子は真相などどうでもよかった。仮に和枝が陰で真夕の悪口を言っていたとして、それがどうしたというのだ。靖子にとって、息子の嫁である真夕は、赤の他人よりもどうでもいい存在だ。「少し陰口をたたかれたくらいで、死ぬわけでもないわ」靖子は露骨に軽蔑の色を浮かべ、吐き捨てるように言った。「そんなに目くじらを立てて、家の中をめちゃくちゃにする必要はないわ。それに、和枝がもういくつだと思っているの。年寄りを相手にムキになるなんて、少しも寛容さがないのね」慧は信じられないものを見るような目で靖子を見た。「おばあちゃん!」「もういいわ」靖子は苛立たしげに慧の言葉を遮り、真夕を急かした。「先に食事の支度をしてきなさい。今何時だと思ってるの。いつまでそこに突っ立ってるつもり?」和枝は、自分がクビを免れたことを悟った。床にひざまずいたままではあるが、ちらちらと真夕を盗み見ている。その目には、陰湿な喜びと嘲りがはっきりと浮かんでいる。ほかの使用人たちも、真夕を見る目には多かれ少なかれ軽蔑がにじんでいる。真夕だって、そんな視線には慣れていた。この家に嫁いでからというもの、何度白い目で見られ、笑いものにされてきたことか。だが、もう気にするつもりはない。誰に何を言われようと、自分が傷つかなければ、それでいい。真夕はソファに腰を下ろしたまま、涼しい顔で尋ねた。「篠原家は破産でもして、使用人も雇えなくなったの?それとも、使用人がみんな死に絶えて、誰も夕食を作れないのかしら?」「今なんと?」靖子は自分の耳を疑った。これまで真夕が、こんな態度や口調で自分に言い返したことなど一度もなかったからだ。真夕は冷ややかな目を向ける。「耳まで遠くなったの?」靖子は怒鳴りつけた。「さっき和枝が、あなたは躾が悪いと言っていたけど、本当だったのね。年上を敬う気持ちがないの?いったい誰に向かってそんな口を利いているの!」「どうしてそんなに怒るの?」真夕は落ち着き払った様子でテーブルからみかんを一つ手に取り、靖子を横目で見た。「さっき自分で言ったじゃない。『少し陰口をたたかれたくらいで、死ぬわけでもない』って。それに、お義母さんもいい歳なんだから、私みたいな年下を相手にムキになるなんて、少しも寛容さがないのね。こんなところを人に見られた
Read more
第6話
真夕は、そこまで言われてもまだ分かっていないらしい。武は顔をしかめ、冷たい口調で言い放つ。「真夕様がこんなにも目先のことにとらわれ、自分のことしか考えない方だとは思いませんでした。坊ちゃまの将来を少しでも考えているのなら、そんなことは言えないはずです。だからこそ、篠原家の皆様も、あなたをよく思っていらっしゃらないのでしょう。坊ちゃまが大旦那様から直接教育を受けられることも、この家で暮らせることも、どれだけ恵まれたことか分かっているんですか?将来、この篠原家はすべて坊ちゃまのものになるかもしれないのですよ」「黙りなさいって言ったはずよ」真夕は無表情で武を見つめる。「やっぱり、人の話も聞けないし、口を開けばろくなことも言えないのね」武は信じられないといった顔をした。「何ですって?」武は何十年も栄一に仕えてきた。普段、京介でさえ武にはそれなりの敬意を払っている。栄一からも、篠原家の一員だと言われているほどだ。それなのに、真夕は武の面目を潰すような言葉を平然と口にした。武は冷笑した。「分かりました。真夕様がそこまでおっしゃるなら、どうぞご勝手に。後になって大旦那様が坊ちゃまを見限られても、後悔なさらないことですな」篠原家が慧を見限ってくれるなら、親権を争う上でむしろ好都合だ。真夕はふっと笑った。「それなら山中さん、しっかり働きかけて、おじい様が早くうちに慧を見限ってくれるようにしてね。期待してるわ」武はただの皮肉だと思ったようだが、真夕は本気で言っているのだ。真夕は慧の手を引き、さっさと篠原家を後にした。車の中で、慧は不安そうに口を開く。「ひいおじいちゃんが怒ったら、ママも罰を受けるの?」慧は普段、宿題をきちんと終えられないと栄一から罰を受けている。栄一は竹刀を持っている。それで叩かれるとひどく痛い。慧は、栄一が真夕まで叩くのではないかと心配している。真夕は優しい声で慰める。「大丈夫よ。ママは罰を受けたりしないわ。あの家には住んでないしね。それに、もし追いかけてきても、ママは足が速いから逃げられるわ。ひいおじいちゃんはもう年だから、私には追いつけないもの」慧はこくんとうなずいた。けれど、すぐに首を傾げる。「じゃあ、ママは今まで罰を受けたとき、どうして逃げなかったの?」真夕は心の中で小さくため
Read more
第7話
慧は「わああっ」と声を上げて泣き出し、真夕の首にぎゅっと抱きつく。「ひいおじいちゃんが……ママの血筋が悪いから、僕がこんなにバカなんだって。うぇぇん……ひいおじいちゃん、嘘つきだよ……ママは悪くない。僕が……僕が頭悪いから、何もできないんだ」しゃくり上げながら言葉を絞り出す慧を、真夕は強く抱きしめる。頬には涙が次々とこぼれ落ちた。慧は、あの家で一体どんな日々を送っていたの。こんなに小さな子供に、どうしてあんなことができるのだろう。あの家の人間は、血が通っていないのか。真夕は怒りと悲しみが入り混じり、たまらなく心が痛んだ。自分が命がけで産んだ子が、こんな扱いを受けるなんて想像もしていなかった。篠原家が言っていた「エリート教育」とは、こういうことだったのか。そばで見ていた祥子も涙を拭いながら、慧を慰める。「坊ちゃま、そんなことを気にしちゃ駄目ですよ。真夕様はあんなに賢いんだから、坊ちゃまも賢いに決まってますわ」「うわあああん……」慧は声を上げて泣き続ける。篠原家で抑え込んでいた感情が、病気をきっかけに堰を切ったようにあふれ出す。「ママ、ごめんなさい……僕、もっと頭がいいって証明したかったんだ。ママがあの人たちにいじめられたり、バカにされたりするのが嫌なんだ。頑張りたかったのに。おじさんみたいに上手くできなくて、ごめんなさい。僕がバカだから、勉強してもできないんだ。うわあああん……」胸を切り裂かれるような痛みが真夕を襲う。真夕は慧の背中を撫でながら、優しく言い聞かせる。「慧は何も悪くないのよ。ママも悪くない。悪いのはあの人たちなんだから」真夕が車を運転し、祥子は後部座席でぐったりしている慧の面倒を見る。三人はそのまま病院へ向かった。家を出たところで、真夕は京介に電話をかけた。電話はつながったものの、真夕が口を開くより先に、電話の向こうから明るい女の声が聞こえてきた。「もしもし?どちら様?」真夕は反射的にスマホの表示を確認する。そこには確かに、【夫】と登録されている。一瞬で、電話に出た相手が誰なのか分かった。「里中さん、京介に代わって」「京介は今、お風呂に入ってるの」真夕は無言で電話を切り、そして時哉へ電話をかける。時哉の声は少し掠れていたが、相変わらず穏やかだ。「真夕、どう
Read more
第8話
さっきの警察官のことを思い出すだけで、京介は腹の虫が治まらない。自分だけが蚊帳の外に置かれている気分だ。「なぜ警察に通報した?」警察に通報したことは、もう隠しようがない。篠原家から京介に連絡が入り、栄一は、事情聴取のために警察署へ出向いているということだ。真夕は鼻で笑った。「慧が、あんたのおじいさんにあんな目に遭わされたから、通報したのよ」「じいさんだって悪気があったわけじゃない。ただ、慧の将来を思って厳しくしただけだ。それに、あの世代はみんなそういうものだろ。『若い時の苦労は買ってでもせよ』って考え方なんだ。だからって、いきなり警察を呼ぶなんて非常識だろう!どうして俺に相談しなかったんだ?」「どうして相談しなかったって?彼女に聞いてみたら?」真夕は意味ありげな笑みを浮かべ、茉優へ視線を向ける。茉優は悪びれる様子もなく口を開く。「あのとき、京介は服が汚れてお風呂に入ってたじゃない。夏目さんから電話がかかってきたから、私が代わりに出たの。でも、何も言わなかったから、てっきり大したことじゃないと思って……」真夕は冷たく笑った。「豪に飲みに誘われたんじゃなかったの?それで飲んでいるうちに、里中さんの家に行き着いたってわけ?夜中にほかの女の家でお風呂に入ってる夫に、私が何を言えばいいのよ。それに、里中さんは電話に出て、『どちら様?』って聞いたわ。まさか、私の番号、登録してなかったの?」京介は少しも動じず、すぐに言い訳する。「スマホの調子が悪くて、連絡先が全部消えちまったんだ」京介はそれだけ言うと、すぐに話をそらす。「それに、豪が誘ったのは俺だけじゃない。みんな一緒だったんだ。飲んでる途中で服を汚しただけだ。その場には豪もいた。信じられないなら、あいつに聞けばいい。それより、慧のことをどうして俺に言わずに、いきなり警察へ通報した?こんなことが世間に知れ渡ったら、どれだけの影響が出るか分かってんのか?」篠原家の名誉にも、会社のイメージにも、傷がついてしまう。当然、株価にも影響が出かねない。「家の意向ははっきりしている。お前が被害届を取り下げて、自らじいさんに頭を下げに行かないなら、俺たちの結婚式は延期するしかない」真夕は思わず吹き出した。京介は、まだ自分が結婚式にこだわっていると思っているらしい
Read more
第9話
京介のためなら、真夕は何だってするし、どんな犠牲も厭わなかったはずだ。――それなのに、どうして自分にこんな態度を取る?なぜ被害届を取り下げようとしない?もしかして、女の勘というやつなのか。自分と茉優ちゃんのことを、真夕は何か感じ取っているのだろうか?いや、そんなはずはない。結婚して7年、茉優ちゃんはずっと海外にいた。あの空港の一件だって、確かに茉優ちゃんを抱きしめはしたが、空港には大勢の人がいたし、一線を越えるような真似はしていなかったはずだ。たったそれだけで、真夕は見抜いたというのか?京介には、どうにも信じられなかった。女の勘とは、そこまで鋭いものなのだろうか。茉優は京介をなだめると、真夕のところへ歩み寄り、その手をつかんだ。「あなたが京介に腹を立てているのも、私に嫉妬しているのも分かるわ。でも、私と京介は本当に何もないの。それだけは信じて」「手を離して」「もう意地を張るのはやめて。京介は本当にあなたを愛してるんだから。それに、京介が自分でデザインした指輪やウェディングドレスだって、私に見せてくれた。すごく素敵だったわ。夏目さんなら、きっと世界で一番幸せな花嫁になれるわ」「離してって言ったはずよ」真夕は嫌悪感をあらわにして、その手を振りほどいた。「きゃっ!」茉優が悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさる。あわや階段から転げ落ちそうになった。「茉優ちゃん!」京介は冷や汗をかき、血の気が引いた。その瞬間、京介の目に映っていたのも、心の中にあったのも、茉優だけだった。真夕を乱暴に押しのけ、とっさに手を伸ばして茉優の体を抱き止める。一方、突然押された真夕はバランスを崩し、腰を階段の手すりの角に激しくぶつけた。鋭い痛みに目の前が真っ暗になり、冷や汗が止まらない。立っていることさえままならず、必死に手すりへしがみつく。なのに、口ではあれほど愛していると言っていた夫は、今は別の女を抱きしめている。真夕が傷ついていることには、まるで気づいていない。しかも、その傷を負わせたのはほかでもない、京介自身だ。京介は茉優を抱きしめ、無事を確認してからようやく真夕に目を向ける。開口一番、怒鳴りつけた。「何やってんだ!?茉優ちゃんが妊娠してるって知ってるだろ!それなのに、どうして押したんだ!?」真夕は痛みに息を詰まら
Read more
第10話
京介は途端に血相を変え、周りのことなど一切目に入らなくなる。身をかがめて茉優を横抱きにすると、足早に病室へ向かう。真夕のそばを通り過ぎるとき、一度たりとも目を向けない。それどころか、ドアを開ける際、またしても真夕にぶつかった。もともと腰を痛めていた真夕は、その勢いで床に突き飛ばされてしまった。ただでさえ痛むところに、さらに強い衝撃が加わった。あまりの痛みに、息が止まる。最低!真夕は痛みに耐えながら両手で床を叩き、心の中で京介を激しく罵った。非常階段の扉が開き、そして閉まる。茉優を抱きかかえて歩き出そうとした京介は、ふと足を止める。思いがけず、慧と目が合う。慧はどうしても真夕のところへ行くと言った。病室にいても、真夕と京介が言い争う声が聞こえてきて、真夕のことが心配でたまらなかった。莉桜も慧の願いを無下にはできなかった。それに、慧に京介の本当の姿を自分の目で見せるのも悪くないと思い、車椅子を用意して、点滴をつけたまま連れてきた。そこで慧の目に入ったのは、ほかの女を抱きかかえ、焦った様子を見せる京介だ。真夕の姿はない。慧は小さな顔を強張らせ、全身から冷たい空気を漂わせながら、低い声で尋ねる。「パパ、ママは?さっき、ママの痛そうな声が聞こえたよ」その冷たい眼差しが刃物のように京介の胸へ突き刺さる。京介の心臓がドクンと跳ねた。そのときになって初めて、真夕のくぐもった悲鳴が耳によみがえる。そういえばさっき、また真夕にぶつかってしまったような……京介は振り返り、真夕の様子を確かめようとした。「京介……」その意図を察した茉優が、弱々しい声で呼びかけた。その顔色はさらに青ざめ、目にはいっぱいの涙をためている。白く細い指で腹部の服をつかみ、必死に痛みに耐えているかのようだ。京介は途端に慌てふためき、真夕のことも、目の前にいる慧のことも、もう頭に入らなくなる。茉優を抱いたまま、大股でその場を離れていく。「慧、茉優ちゃん、具合が悪いみたいなんだ。パパは先にこの人を先生に診せてくる」どいつもこいつも最低ね!今度は莉桜が心の中で毒づいた。莉桜は慧の車椅子を押しながら、階段の踊り場へ向かう。そこには真夕が座り込んでいる。顔色は死人のように青白く、額には細かな冷や汗がびっしりと浮かんでいる。「ママ!」慧は泣き
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status