All Chapters of 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた: Chapter 1 - Chapter 7

7 Chapters

001話

 激しい雨が窓を叩いていた。 ソファーに腰を落として雨の音を聞きながら、桐生雪乃は頭の中で音符を組み立てる。指をぎこちなく動かして膝を叩いた。 ポツ、ポツ。(シ、シ、シ) 単発だった雨粒が、いつのまにか数を増している。(ソ・ファ・ミ・レ・ド) 一粒が高い空から地面まで落ちていく。その軌跡が、そのまま音階になる。 やがて、篠突く雨。(ドドドドドド……) 隣り合う鍵を重ねれば、濁って、止まない。低い一音を長く踏み込んで――そこへ、雷。(……っ) 雪乃から声にならない息が漏れた。 右手に激痛が走ったと同時に、頭の中の音楽は止み、周囲には、ただ雨音だけが残った。 雪乃は痛みが走った右手に視線を落とす。 中指に一筋残る白い傷痕。 あの日以来、この指は二度と、思うようには動いてくれない。 右手を広げたまま、無言で見下ろしていると、携帯電話が淡く光った。画面に浮かんだのは、夫・柊也の名前。 雪乃は右手を隠すように膝の上で握り、左手だけで通話ボタンをタップした。「雪乃、結婚記念日おめでとう。もう五年か……早いな」 雪乃は左の薬指の指輪に触れ、小さく頷いた。 画面越しの柊也は、目元をやわらかく緩め、人当たりのいい――芸能界の人間らしい、隙のない笑みを浮かべていたが、その表情がふっと翳りを見せた。「急な仕事が入った。今日の食事は行けそうにない」 結婚してから四年目まで、柊也が記念日を欠かしたことは一度もなかった。どんなに忙しくても、必ず時間を作ってくれていたのに――……。「すまない」と肩を落とす柊也を見て、雪乃は左手でノートとボールペンを手に取り、慌ててペンを走らせた。『気にしないで』 雪乃はそう書き綴ったノートを柊也に向けた。 それを見た柊也は、ふっ、と小さく笑った。「埋め合わせは必ずする。プレゼントも用意してあるから」 穏やかな声だった。 雪乃はもう一度、ノートに文字を書く。『たのしみにしてる』「良かった。じゃあ、また後で」 柊也がそう言うと、通話は切れた。 雪乃は息を吐き出すと、携帯電話をソファの上に置いた。 静寂が戻った部屋に、激しい雨音だけが響いている。 気にしないで、とノートに書いた文字をじっと見つめた。 嘘ではないけれど、本当でもない。 喉の奥がキュッと縮こ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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002話

 雨は酷くなる一方だった。 通話はとうに切れている。それでも雪乃は震える指で握り締めた携帯電話を耳から離すことができずにいた。 濡れた前髪から、冷たい雫が頬を伝って顎の先から落ちていく。それが涙なのか雨なのか、自分でも分からなかった。 どこをどう歩いたのか、覚えていない。頭の中ではあの甘い声だけが何度も繰り返し再生されている。雪乃はこの五年間、一度だってあんな甘い声音で名前を呼ばれたことはなかった――夢には見ていた。いずれ、私に触れてくれることを。 気付けば雪乃は桐生エンタテインメント本社のガラス扉の前に戻ってきていた。 ガラスに映る自分の姿は、髪も服も無残に張りついて、まるで別人のようだった。抱えたままの保温バッグからは、とうに冷めきったスープの匂いが微かに漂っている。「――おい、見ろよ、あれ」 声に反応する余裕もなかった。 桐生エンタテインメント所属の若手俳優の海原と、そのマネージャーだった。エントランスの隅で談笑していた彼らが、ずぶ濡れで立ち尽くす雪乃に気付き、面白がるように携帯電話を向けた。「社長の奥さんじゃん」 声をかけてきた海原の手には、見覚えのある水色の傘があった。柄に結んだラベンダー色の紐――雪乃が自分の傘だと分かるようにと結んだ、あの紐が括られていた。 海原はその傘が雪乃の物だと知る由もなく、傘をくるりと小道具のように回しながら笑った。「桐生の奥さん、災難だったねえ。傘、誰かに盗られでもした? てかさ、ハンカチくらい持っとけばいいのに」 海原がそう言って笑うと、揶揄うように彼が画面を彼女の方へ向けた。『あの事故がなかったら、社長と結婚できるわけないだろ』『社長が責任取って結婚しただけなのに、いつまで桐生夫人気取りでいるつもりだよ』『声も出せない女が、よく五年も社長を縛っていられるよな』 次々と浮かんでは流れていく文字を、雪乃はただ見つめることしかできなかった。 言い返したい。 バッグからノートを取り出そうと、震える左手の指先がベルトの金具にかかる。けれど、指は上手くベルトを外せず、ペンを握ったところで、この震えでは一文字も書けないだろうことに気付いた。 声も出せず、字も書けない。 容赦なく積み重なっていく悪意の言葉に、雪乃は奥歯を噛んだ。ずっと飲み込んできた苦しさが、喉奥から溢れ出す。 ―
last updateLast Updated : 2026-09-01
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003話

 雪乃はベッドサイドテーブルにある録音データが入った携帯電話を凝視した。 膝の上で握り締めた拳を伸ばして携帯を取ろうとするも、まるで縫い付けられたかのように両手とも動かなかった。それを聞かせた時の柊也の反応を見てやる、と頭の中では思っていても、片隅に彼を信じたいという気持ちが残っている――あの甘い声を聞いたくせに。 固まる雪乃をよそに、柊也はそっと背中に隠していたものを差し出した。「改めて、結婚記念日おめでとう」 掌に乗せられたのは、素朴な木製のオルゴールだった。 この五年間、誕生日も結婚記念日も、彼が贈ってくるのは決まってこの手作りのオルゴールだ。毎回、違う旋律を奏でるそれは、音楽を失った雪乃の為に用意してくれるものだった。 雪乃はそっとオルゴールの蓋を開けた。 微かに流れてきたのは、物悲しいバラードのメロディ。「今回は力作なんだ。いい曲だろ?」 柊也が満足そうに微笑む。雪乃は小さく頷いた――心の中で、自分なりの旋律を重ねながら。(……転調させたら、もっと切なさが出せていいかも) 雪乃はベッドサイドの引き出しを開け、小さな箱を取り出した。彼が長年探し続けていた、古書の初版本。柊也への結婚記念日の贈り物だった。「ありがとう」 柊也は受け取ると、そのままベッドサイドテーブルの上へ置いた。包みを開けようともしない。「このオルゴール、いつもの場所に飾っておくね」 柊也はオルゴールを宝物のように胸に抱き、階段を降りていった。 リビングの棚には、彼が雪乃に贈った九個のオルゴールが並んでいる。 雪乃がこの五年間、彼に贈ってきた品は、一つとして飾られたことがない。 ※ ――柊也が去って暫くして、雪乃は左手で携帯を掴み、何気なくSNSを開く。 そこには、桐生エンタテインメントの公式アカウントが投稿した動画が流れていた。『所属アーティスト・莉子、待望のデビュー曲を配信リリース。海を越えて紡がれた想いが、いま歌声となって届く』(りこ……) 携帯の液晶画面の莉子は、雪乃に向かって無邪気に笑っている。あどけなさが残る、天真爛漫を絵に描いたような子だった。(まさかね……) 雪乃は再生ボタンを押した――流れてくる音声に、雪乃の指が止まった。『柊也が私をここまで掬いあげてくれました。感謝しかありません』『って、ごめんなさい!
last updateLast Updated : 2026-09-01
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004話

 紙を破く音に続いて、柊也の弾んだ声が響いた。「これ、もしかして……俺がずっと探してた本か?」「見つけ出すの、すごく苦労したんだからね。大事にしてよ?」 莉子の甘えるような笑い声。「ああ。大事にするよ」 扉一枚を隔てた向こうから聞こえてくる、心から嬉しそうな柊也の声……。 雪乃が柊也のあんな声を聞いたのは、彼と出会って初めてのことだった。 それでも雪乃は、扉の前から動けなかった。 雪乃の脳裏に、数時間前の光景が蘇る。 同じ本を、同じように差し出した自分に、彼は一瞥もくれなかった。 やがて、莉子の甘い声が届く。「ねえ、柊也。記念日にも贈り物をくれないような女とどうして結婚したの?」 雪乃は、柊也に記念日の贈り物を毎年欠かさず用意している。それが彼の中ではなかったことになっているのか、それとも莉子が勝手に勘違いをしているのか分からなかった。『毎年贈ってるわ』――そう否定したくても、生憎、雪乃は声が出ない。 暫くの沈黙の後、柊也は静かに答えた。「……彼女には、申し訳ないことをした」 その言葉を聞き、雪乃の脳裏に五年前の記憶が蘇った。 柊也が主催したピアノ演奏会の千秋楽だった。あの日は、目の前が見えないほどの雨だった。 傘を差し、会場を出て迎えの車に向かっているところだった。「百地さん! 貴女のファンなんです!」 大きな花束を傘も差さずに両手いっぱいに抱えた男が雪乃に話しかけてきた。 傘も差さずに私のために花束を持ってきてくれた――その行動に感動した雪乃は、男に傘を差し出しながら花束を受け取るために手を伸ばした。 それは、咄嗟のことだった。 右手に激痛が走った。 雪乃の右手は、中指の付け根から掌にかけて、斜めに深く切り裂かれていた。ドクドクと脈打つ傷口から、真っ赤な血が雨に打たれて、地面に流れていく。 誰かの悲鳴が聞こえ、そこで彼女の意識は途絶えた。 目を覚ますと、雪乃は病院のベッドの上にいた。隣には、意識を失っている間も傍に居続けた柊也が座っていた。 柊也は目を覚ました雪乃を見てすぐに、医者を呼んだ。 そして、医者から告げられたのは、「右手中指の屈筋腱と指神経が損傷している。以前と同じ動きや感覚は戻らないでしょう」という残酷な宣告だった。「警備不足だった」「俺のせいだ」と頭を下げる柊也の声が、遠く聞こえる。指が動
last updateLast Updated : 2026-09-01
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005話

  柊也の肩に頭を預けていた莉子を目掛けて投げた指輪は、彼女の右頬を掠めた。「きゃっ!」 莉子が右頬を押さえる。指輪が掠めた肌に、赤い傷が浮かび上がった。 ――つい数分前、雪乃の怪我を「自作自演」だと嘲笑していた女と同一人物とは思えない。 莉子は涙を溜め、震える声で訴える。「ご、誤解です、奥様……! 私と柊也さんは、ただの社長とアーティストです……っ」(ただの社長と所属アーティストが、お互いを呼び捨てで呼び合うわけがない。私の携帯に嫌がらせの電話をかけてきておいて、空港ではあんなに甘く囁き合っていたくせに) 白々しい言葉に、雪乃の胸の奥が冷え切っていく。(アーティストよりも女優の方が合ってるんじゃない?) 頭の中の皮肉を、直接ぶつけることができないことは残念だった。「誤解させてしまったなら、ごめんなさい」 莉子はグラスを手に取り、立ち上がった。「あ、あの……これで頭を冷やしてください」 莉子は歩み寄ると、グラスを雪乃の自由に動かない右手に強引に握らせた。(痛っ――) 雪乃が痛みに顔を歪ませた、その時だった。 莉子は雪乃の手ごとグラスを持ち上げ、自分の頭に水をぶちまけた。「きゃっ……!」 大袈裟な悲鳴とともに、莉子は濡れた髪を押さえて床へ崩れ落ちる。手から離れたグラスが音を立てて砕け散った。「莉子、大丈夫!?」 眼鏡をかけたスーツ姿の女性が、慌てて莉子に駆け寄った。 それに続くように、次々と莉子のもとへ人が集まっていく。「なんてことするんだ!」 部屋中から怒号が飛ぶ。 誰も莉子の手元など見ていなかった。雪乃の手で、彼女自身が水をかけたようにしか見えなかったのだ。 傍にいたアイドルが忌々しげに雪乃を睨みつけると、そのうちの一人が、手にしていたビールを雪乃の頭にぶちまけた。 冷たい液体が顔を伝い、酒臭さが雪乃の鼻を刺激した。 その時――荒々しい足取りで割り込んできた人影が、邪魔だとばかりに雪乃の肩を強く押し払った。(――あ、) 押し飛ばされ、体勢を崩した雪乃は、咄嗟に床へ手を突いてしまう。 ――突いたのは、自由に動かないはずの右手だった。 ズキン、と肘から肩へと暴れるような激痛が走り、雪乃は悲鳴すら上げられないまま床に倒れ込んだ。 冷たいビールに濡れた髪越しに見上げた先――自分を押し倒した男は、雪乃のこと
last updateLast Updated : 2026-09-01
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006話

 柊也と莉子が立ち去った後、その場にいた誰もが雪乃を責め続けた。 高月に至っては、「莉子が歌えなくなったら、あんたのせい」だとまで言った――あれくらいの傷で? 指輪が右頬を掠め、右手に小さなガラス破片で擦り傷を負っただけで、歌えなくなるような繊細な人間には、雪乃の目には見えなかった。 彼女は俯いたまま、バッグを強く抱き締めた。この中にある携帯電話を取り出し、あの録音を再生したら彼らはどんな顔をするだろう――……。 一瞬そう考えたが、すぐに不毛さに思い至った。たとえ、いくら証拠を突きつけたところで、この人たちは誰一人、自分の言葉を信じようとはしないだろう。(自分が見たいものしか見えない、って幸せね) 嘲笑を浮かべたまま、雪乃は音もなく立ち上がった。 彼女は背を向けて、VIPルームを立ち去った。背後で騒ぎ散らかす彼らに振り返ることもせずに。「自宅までお送りします」と声をかけてきた田迎の申し出を首を横に振って拒み、濡れた髪のまま一人でタクシーに乗り込んだ。 酒の匂いが充満する車内で、運転手が眉を顰めるのが分かった。それでも、何も言い訳できない自分が、ただ惨めだった。 屋敷に着いても、柊也はまだ戻っていなかった。 シャワーを浴び、冷え切った体を温めても……心はいっこうに凍えたままだった。 浴室から出て、左手を使ってバスタオルで濡れた髪を拭いながら、ふと自分の右手に目を落とす。 転倒した時に痛めた手首から、じんじんと嫌な熱を帯び、赤く腫れ上がっていた。関節のラインがぼんやりと霞んでいるそれを見つめながら、雪乃は小さく吐息を漏らす。 リビングに戻っても柊也の姿はなく、棚に並んだ十個のオルゴールだけが存在感を放っている。 オルゴールからそっと視線を逸らし、ソファーに置いた携帯電話が点滅しているのが目に入った。 携帯電話を左手で掴み、画面を見ると、柊也からの数件の不在着信と、一件の留守番電話の通知があった。 雪乃は左手で画面をタップし、再生ボタンを押した。『雪乃、頼むから電話に出な――』 という柊也の声の背後で、彼を呼ぶ声が雪乃の耳に届く。『莉子、どうした?』 留守番電話は、そこで切れた。『メッセージは以上です』 感情のない機械音声が、告げた。その瞬間――雪乃は左手に握り締めた携帯電話を、目の前のテーブルへ全力で投げつけた。 ガツンッ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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007話

 『離婚してください』 その文字を目にした瞬間、柊也の顔から一切の感情が消え去った。 だが、それもほんの一瞬だった。「ははっ……何を言い出すかと思えば」 乾いた笑い声を上げ、柊也は何事もなかったかのように苦笑いを浮かべた。 彼は雪乃の手からノートをひょいと取り上げる。雪乃が取り返そうと手を伸ばすと、やんわりと軽く躱した。まるで、駄々をこねる子供をあやすような手慣れた態度だった。「感情的になっているだけだろう。少し頭を冷やそう」 ノートを自分側に寄せてテーブルに置き、柊也は微笑んで見せる。彼は、雪乃がどれほど傷付いたのか、何一つ理解していない。 雪乃はあの録音データを柊也に突き出そうと、ポケットからひび割れた携帯電話を取り出した。しかし、伸びてきた柊也に奪い取られてしまった。 雪乃の携帯画面を見て、柊也が眉を寄せる。「……割れてる。落としたのか? 怪我しなかったか? 右手の怪我と関係あるのか?」『返して』 口元を激しく動かす雪乃を、柊也は優しくあしらう。「手を怪我しているんだ。携帯は触らないほうがいい」『――そんな話をしてるんじゃないの!』 感情を抑えきれず、雪乃は左手で力まかせにテーブルを叩いた。 乾いた音が室内に響く。「駄々をこねるなよ。冷静になるんだ」 柊也の声音は、どこまでも穏やかで、どこまでも冷たい。「今は気が立っているだけだ。落ち着けば、離婚しようなんて馬鹿なことは思わなくなる」 馬鹿なこと――雪乃が悩んだことをたった一言で片付けられた。 諭すような優しい口調が、かえって雪乃の胸を抉り取る。(どうして、私は) 柊也は奪い取った携帯電話をジャケットのポケットに落とし込んだ。「修理しておくよ」 雪乃はテーブルの上にある左手で拳を握る。小刻みに震える左手は、彼女の弱さを象徴しているかのように見えた。(この人を愛していたのかしら――……)
last updateLast Updated : 2026-09-02
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