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004話

last update publish date: 2026-09-01 11:35:32

 紙を破く音に続いて、柊也の弾んだ声が響いた。

「これ、もしかして……俺がずっと探してた本か?」

「見つけ出すの、すごく苦労したんだからね。大事にしてよ?」

 莉子の甘えるような笑い声。

「ああ。大事にするよ」

 扉一枚を隔てた向こうから聞こえてくる、心から嬉しそうな柊也の声……。

 雪乃が柊也のあんな声を聞いたのは、彼と出会って初めてのことだった。

 それでも雪乃は、扉の前から動けなかった。

 雪乃の脳裏に、数時間前の光景が蘇る。

 同じ本を、同じように差し出した自分に、彼は一瞥もくれなかった。

 やがて、莉子の甘い声が届く。

「ねえ、柊也。記念日にも贈り物をくれないような女とどうして結婚したの?」

 雪乃は、柊也に記念日の贈り物を毎年欠かさず用意している。それが彼の中ではなかったことになっているのか、それとも莉子が勝手に勘違いをしているのか分からなかった。

『毎年贈ってるわ』――そう否定したくても、生憎、雪乃は声が出ない。

 暫くの沈黙の後、柊也は静かに答えた。

「……彼女には、申し訳ないことをした」

 その言葉を聞き、雪乃の脳裏に五年前の記憶が蘇った。

 柊也が主催したピアノ演奏会の千秋楽だった。あの日は、目の前が見えないほどの雨だった。

 傘を差し、会場を出て迎えの車に向かっているところだった。

「百地さん! 貴女のファンなんです!」

 大きな花束を傘も差さずに両手いっぱいに抱えた男が雪乃に話しかけてきた。

 傘も差さずに私のために花束を持ってきてくれた――その行動に感動した雪乃は、男に傘を差し出しながら花束を受け取るために手を伸ばした。

 それは、咄嗟のことだった。

 右手に激痛が走った。

 雪乃の右手は、中指の付け根から掌にかけて、斜めに深く切り裂かれていた。ドクドクと脈打つ傷口から、真っ赤な血が雨に打たれて、地面に流れていく。

 誰かの悲鳴が聞こえ、そこで彼女の意識は途絶えた。

 目を覚ますと、雪乃は病院のベッドの上にいた。隣には、意識を失っている間も傍に居続けた柊也が座っていた。

 柊也は目を覚ました雪乃を見てすぐに、医者を呼んだ。

 そして、医者から告げられたのは、「右手中指の屈筋腱と指神経が損傷している。以前と同じ動きや感覚は戻らないでしょう」という残酷な宣告だった。

「警備不足だった」「俺のせいだ」と頭を下げる柊也の声が、遠く聞こえる。指が動かない現実が信じられなかった。包帯を取れば動くはずだという愚かな願いは、すぐに打ち砕かれた。

 自由を奪われた指。ピアノがなければ、どう生きていけばいいのか。

 あまりのショックに、喉が固まり、声が出なくなった。

 週刊誌に「自作自演の狂言」「不注意」と叩かれる雪乃を庇い、根気よく寄り添い続けてくれたのが柊也だった。

「結婚しよう」

 そのプロポーズは、主催者としての罪滅ぼしであり、桐生家の妻という立場を盾に、雪乃を守るためのものだった。

 それから五年間、柊也は優しく誠実な夫だった。ただ一つ……彼は一度も雪乃を抱こうとはしなかった。

「雪乃の気持ちが追いつくまで」

 そう言われたが、自分の気持ちはとっくに追いついていた。自分の心は事件の前から彼に向いていたのだ。彼の罪悪感を刺激したくなくて、愛していると言えなかっただけなのに。

 彼は抱かなかったのではない。端から抱く気などなかったのだ。

 扉の向こうで、莉子が続ける。

「罪滅ぼしのために結婚したの?」

 莉子の問いに、柊也は沈黙で答える。

「社長は気の毒だ」

「本当に好きな人と結ばれなかったんだから」

 そんな同情の声が、部屋の中で上がる。

 そして、海原が、密やかな声で耳打ちしてきた。

「社長と莉子さん、幼馴染なんですよ。しかも初恋の相手だったらしくて」

 雪乃が息を呑んで振り返ると、海原は下品な笑みを浮かべたまま言葉を重ねる。

「六年前、社長が告白したのに、海外に行くからって振られたらしくて」

 喉の奥がキュッと引き攣る。

 贖罪の裏にあったのは――莉子の不在を埋めるためだけの五年間であり、莉子の曲をオルゴールに詰めて渡せたのも、雪乃がただの穴埋めだったからだ。

 右手の傷痕が、また疼いた。

「莉子さんが日本に戻ってきて、社長、初恋の熱がぶり返しちゃったのかなぁ」

 海原はクックッと喉を鳴らして笑った。

「莉子さんもさ、悪い気してないみたいだし。あんたみたいな傷物より莉子さんの方が社長とお似合いだよ」

 言い返したくても、震える指ではバッグからペンとノートを取り出すことさえできない。声も文字も持てないまま、雪乃はただ立ち尽くすしかなかった。

 嘲笑う声が雪乃の耳を刺す。

 傷物。

 悲しみは一瞬で冷め、怒りへと変わった。

 怒りで指先が強張っていると、莉子の声がした。

「あの事件……自作自演らしいわよ? そんなことまでして柊也を繋ぎ止めたかったのね。哀れだわ」

 部屋の中から嘲笑が漏れる。ピアノを失ってまで、そんな嘘をつくわけがないのに。

 雪乃は震える手で扉を押し開けた。

 防音ドアの先は、薄暗い空間だった。

 室内の天井からは、紫色や赤色のムービングライトがゆっくりと回転しながら、ソファーや散らかったグラスを怪しく照らし出している。

 雪乃の姿を認めた瞬間、グラスの触れ合う音も笑い声も、ぴたりと止んだ。

 誰もが言葉を失う中、雪乃は真っ直ぐに莉子を見据えると、左手の結婚指輪をゆっくりと外した。

 そして――力の限り、莉子の顔へ向かって投げつけた。

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