五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた

五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-02
Oleh:  美木 猫助Baru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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結婚五年目の記念日、夫・柊也は「今日の食事は行けそうにない」と告げた。 声を失い、ピアノを弾く指も失った私を、彼は罪滅ぼしとして娶ってくれた――そう感謝すらしていた。 だけど、見知らぬ番号からの電話が、全てを変える。 『莉子……我慢なんて、できるわけないだろ』 五年間、一度も向けられなかった甘い声。 莉子とは、柊也の初恋の相手の名前だった。 声も出せず、字を書く手さえ震える夜を重ねながら、雪乃の中で何かが変わり始める。 失われたはずの音は、まだ自分の中に確かに残っていた。 指では、もう弾けない。それでも――声を失った私が最後に選ぶのは、復讐でも、涙でもない。 自分自身の音で、もう一度生きること。

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Bab 1

001話

 激しい雨が窓を叩いていた。

 ソファーに腰を落として雨の音を聞きながら、桐生きりゅう雪乃ゆきのは頭の中で音符を組み立てる。指をぎこちなく動かして膝を叩いた。

 ポツ、ポツ。

(シ、シ、シ)

 単発だった雨粒が、いつのまにか数を増している。

(ソ・ファ・ミ・レ・ド)

 一粒が高い空から地面まで落ちていく。その軌跡が、そのまま音階になる。

 やがて、篠突く雨。

(ドドドドドド……)

 隣り合う鍵を重ねれば、濁って、止まない。低い一音を長く踏み込んで――そこへ、雷。

(……っ)

 雪乃から声にならない息が漏れた。

 右手に激痛が走ったと同時に、頭の中の音楽は止み、周囲には、ただ雨音だけが残った。

 雪乃は痛みが走った右手に視線を落とす。

 中指に一筋残る白い傷痕。

 あの日以来、この指は二度と、思うようには動いてくれない。

 右手を広げたまま、無言で見下ろしていると、携帯電話が淡く光った。画面に浮かんだのは、夫・柊也しゅうやの名前。

 雪乃は右手を隠すように膝の上で握り、左手だけで通話ボタンをタップした。

「雪乃、結婚記念日おめでとう。もう五年か……早いな」

 雪乃は左の薬指の指輪に触れ、小さく頷いた。

 画面越しの柊也は、目元をやわらかく緩め、人当たりのいい――芸能界の人間らしい、隙のない笑みを浮かべていたが、その表情がふっと翳りを見せた。

「急な仕事が入った。今日の食事は行けそうにない」

 結婚してから四年目まで、柊也が記念日を欠かしたことは一度もなかった。どんなに忙しくても、必ず時間を作ってくれていたのに――……。

「すまない」と肩を落とす柊也を見て、雪乃は左手でノートとボールペンを手に取り、慌ててペンを走らせた。

『気にしないで』

 雪乃はそう書き綴ったノートを柊也に向けた。

 それを見た柊也は、ふっ、と小さく笑った。

「埋め合わせは必ずする。プレゼントも用意してあるから」

 穏やかな声だった。

 雪乃はもう一度、ノートに文字を書く。

『たのしみにしてる』

「良かった。じゃあ、また後で」

 柊也がそう言うと、通話は切れた。

 雪乃は息を吐き出すと、携帯電話をソファの上に置いた。

 静寂が戻った部屋に、激しい雨音だけが響いている。

 気にしないで、とノートに書いた文字をじっと見つめた。

 嘘ではないけれど、本当でもない。

 喉の奥がキュッと縮こまるような寂しさが、静かに込み上げてくる――。

(しょうがないよね。彼は忙しい人だから)

 大手芸能プロダクション『桐生エンタテインメント』の若き社長である柊也は、常に分刻みのスケジュールで動いている。

 寂しさを押し殺し、雪乃はキッチンへ向かった。

 鍋の中には、昼からじっくり煮込んだスープがある。今朝、彼が「胃の調子が良くない」と言っていたのを思い出したからだ。

(会社へ持っていこう)

 忙しい彼の邪魔にならないよう、受付に預けるだけでもいい。

 スープを保温バッグに入れた雪乃は、強まる雨の中、桐生エンタテインメントへと向かった。

 ※

「申し訳ございません。社長は本日、こちらには戻られません」

 受付の女性は、作業的な笑みを浮かべたまま淡々と告げた。

 雪乃は慌ててノートを広げ、ペンを走らせる。

『これだけでも預かっていただけますか? 温かいスープです』

「恐れ入りますが、手作りの食品はお預かりできない決まりになっておりますので」

 にべもなく断られ、雪乃は頭を下げるしかなかった。

 重い保温バッグを抱え、トボトボとエントランスへ向かう。

 傘立てから自分の水色の傘を取ろうとした雪乃は、足を止めた。

 ――ない。

 鍵のないオープン型の傘立ての中は、すっかり空っぽになっていた。誰かに間違えて持っていかれたのか、それとも勝手に使われたのか。

 冷たい雨が降る外を眺め、雪乃はぽつんと立ち尽くした。

 しかし――このまま突っ立っていても仕方がない。

 雪乃は保温バッグを抱え直すと、意を決して雨の中へ足を踏み出した。

 冷たい雨粒が容赦なく肩を、髪を叩く。数歩も歩かないうちに、コートの生地が重くなっていく。

 通りに出てタクシーを探すが、この土砂降りのせいか、空車の姿はどこにも見当たらない。

 ロビーで配車アプリを使えば良かった――そう思いながら、雪乃はびしょ濡れのまま、呆然と通りを見渡した。

 その時、バッグから振動が伝わってきた。

 ――柊也さんかもしれない。

 僅かな期待に、雪乃は濡れた指を滑らせながら急いで携帯電話を取り出す。

 画面に表示されていたのは、見覚えのない番号だった。

 声の出せない自分に、電話をかけてくる人間などいない。

 それなのに、なぜ――。

 雨に打たれたまま、雪乃は画面を見つめた。

 無言のまま、通話ボタンをタップした。

 もしもし、とは言えない。声を出せない自分にできるのは、ただ耳を澄ますことだけだった。

 一瞬の沈黙のあと、耳に飛び込んできたのは、男女が甘く囁き合う声だった。

『もう……柊也ったら。空港なのに、そんなに我慢できなかったの?』

 柊也、という名前を聞いて、雪乃は携帯を握り締める手に力が入った。

 でも、だったらどうして私にこんな電話がかかってくるのだろう?

 そして次の瞬間――雪乃は結婚してから一度も聞いたことのない、優しく甘い夫の声を耳にした。

『莉子……我慢なんて、できるわけないだろ』

 莉子――聞き覚えがある名前だった。

 柊也が一度だけ寝言で放った名前――……。

『君のことを、この五年間ずっと忘れられなかった』

 その一言で、耳の奥から音という音が引いていった。

 雨も、街の喧騒も、遠い。

 激しい動悸に襲われ、握り締めていた携帯電話が小刻みに震えた。

 声さえ出すことができれば、きっと叫んでいた。右手の中指は思うように動かず、声も出したいときに出せない。その二重の歯痒さに、雪乃は下唇を血が滲むほど噛み締めた。

 雪乃は、消えてしまいそうな真実を、せめて証拠だけでも残そうと震える左手の指で録音ボタンを押した。

 押し込んだ指先に、二人の吐息が、濡れたリップ音が、互いの名を呼び合う声が、途切れることなく流れ込んでくる。

 五年間、柊也が抱けなかったのではない。

 抱きたくなかったのだ。

 

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001話
 激しい雨が窓を叩いていた。 ソファーに腰を落として雨の音を聞きながら、桐生雪乃は頭の中で音符を組み立てる。指をぎこちなく動かして膝を叩いた。 ポツ、ポツ。(シ、シ、シ) 単発だった雨粒が、いつのまにか数を増している。(ソ・ファ・ミ・レ・ド) 一粒が高い空から地面まで落ちていく。その軌跡が、そのまま音階になる。 やがて、篠突く雨。(ドドドドドド……) 隣り合う鍵を重ねれば、濁って、止まない。低い一音を長く踏み込んで――そこへ、雷。(……っ) 雪乃から声にならない息が漏れた。 右手に激痛が走ったと同時に、頭の中の音楽は止み、周囲には、ただ雨音だけが残った。 雪乃は痛みが走った右手に視線を落とす。 中指に一筋残る白い傷痕。 あの日以来、この指は二度と、思うようには動いてくれない。 右手を広げたまま、無言で見下ろしていると、携帯電話が淡く光った。画面に浮かんだのは、夫・柊也の名前。 雪乃は右手を隠すように膝の上で握り、左手だけで通話ボタンをタップした。「雪乃、結婚記念日おめでとう。もう五年か……早いな」 雪乃は左の薬指の指輪に触れ、小さく頷いた。 画面越しの柊也は、目元をやわらかく緩め、人当たりのいい――芸能界の人間らしい、隙のない笑みを浮かべていたが、その表情がふっと翳りを見せた。「急な仕事が入った。今日の食事は行けそうにない」 結婚してから四年目まで、柊也が記念日を欠かしたことは一度もなかった。どんなに忙しくても、必ず時間を作ってくれていたのに――……。「すまない」と肩を落とす柊也を見て、雪乃は左手でノートとボールペンを手に取り、慌ててペンを走らせた。『気にしないで』 雪乃はそう書き綴ったノートを柊也に向けた。 それを見た柊也は、ふっ、と小さく笑った。「埋め合わせは必ずする。プレゼントも用意してあるから」 穏やかな声だった。 雪乃はもう一度、ノートに文字を書く。『たのしみにしてる』「良かった。じゃあ、また後で」 柊也がそう言うと、通話は切れた。 雪乃は息を吐き出すと、携帯電話をソファの上に置いた。 静寂が戻った部屋に、激しい雨音だけが響いている。 気にしないで、とノートに書いた文字をじっと見つめた。 嘘ではないけれど、本当でもない。 喉の奥がキュッと縮こ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-01
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002話
 雨は酷くなる一方だった。 通話はとうに切れている。それでも雪乃は震える指で握り締めた携帯電話を耳から離すことができずにいた。 濡れた前髪から、冷たい雫が頬を伝って顎の先から落ちていく。それが涙なのか雨なのか、自分でも分からなかった。 どこをどう歩いたのか、覚えていない。頭の中ではあの甘い声だけが何度も繰り返し再生されている。雪乃はこの五年間、一度だってあんな甘い声音で名前を呼ばれたことはなかった――夢には見ていた。いずれ、私に触れてくれることを。 気付けば雪乃は桐生エンタテインメント本社のガラス扉の前に戻ってきていた。 ガラスに映る自分の姿は、髪も服も無残に張りついて、まるで別人のようだった。抱えたままの保温バッグからは、とうに冷めきったスープの匂いが微かに漂っている。「――おい、見ろよ、あれ」 声に反応する余裕もなかった。 桐生エンタテインメント所属の若手俳優の海原と、そのマネージャーだった。エントランスの隅で談笑していた彼らが、ずぶ濡れで立ち尽くす雪乃に気付き、面白がるように携帯電話を向けた。「社長の奥さんじゃん」 声をかけてきた海原の手には、見覚えのある水色の傘があった。柄に結んだラベンダー色の紐――雪乃が自分の傘だと分かるようにと結んだ、あの紐が括られていた。 海原はその傘が雪乃の物だと知る由もなく、傘をくるりと小道具のように回しながら笑った。「桐生の奥さん、災難だったねえ。傘、誰かに盗られでもした? てかさ、ハンカチくらい持っとけばいいのに」 海原がそう言って笑うと、揶揄うように彼が画面を彼女の方へ向けた。『あの事故がなかったら、社長と結婚できるわけないだろ』『社長が責任取って結婚しただけなのに、いつまで桐生夫人気取りでいるつもりだよ』『声も出せない女が、よく五年も社長を縛っていられるよな』 次々と浮かんでは流れていく文字を、雪乃はただ見つめることしかできなかった。 言い返したい。 バッグからノートを取り出そうと、震える左手の指先がベルトの金具にかかる。けれど、指は上手くベルトを外せず、ペンを握ったところで、この震えでは一文字も書けないだろうことに気付いた。 声も出せず、字も書けない。 容赦なく積み重なっていく悪意の言葉に、雪乃は奥歯を噛んだ。ずっと飲み込んできた苦しさが、喉奥から溢れ出す。 ―
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-01
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003話
 雪乃はベッドサイドテーブルにある録音データが入った携帯電話を凝視した。 膝の上で握り締めた拳を伸ばして携帯を取ろうとするも、まるで縫い付けられたかのように両手とも動かなかった。それを聞かせた時の柊也の反応を見てやる、と頭の中では思っていても、片隅に彼を信じたいという気持ちが残っている――あの甘い声を聞いたくせに。 固まる雪乃をよそに、柊也はそっと背中に隠していたものを差し出した。「改めて、結婚記念日おめでとう」 掌に乗せられたのは、素朴な木製のオルゴールだった。 この五年間、誕生日も結婚記念日も、彼が贈ってくるのは決まってこの手作りのオルゴールだ。毎回、違う旋律を奏でるそれは、音楽を失った雪乃の為に用意してくれるものだった。 雪乃はそっとオルゴールの蓋を開けた。 微かに流れてきたのは、物悲しいバラードのメロディ。「今回は力作なんだ。いい曲だろ?」 柊也が満足そうに微笑む。雪乃は小さく頷いた――心の中で、自分なりの旋律を重ねながら。(……転調させたら、もっと切なさが出せていいかも) 雪乃はベッドサイドの引き出しを開け、小さな箱を取り出した。彼が長年探し続けていた、古書の初版本。柊也への結婚記念日の贈り物だった。「ありがとう」 柊也は受け取ると、そのままベッドサイドテーブルの上へ置いた。包みを開けようともしない。「このオルゴール、いつもの場所に飾っておくね」 柊也はオルゴールを宝物のように胸に抱き、階段を降りていった。 リビングの棚には、彼が雪乃に贈った九個のオルゴールが並んでいる。 雪乃がこの五年間、彼に贈ってきた品は、一つとして飾られたことがない。 ※ ――柊也が去って暫くして、雪乃は左手で携帯を掴み、何気なくSNSを開く。 そこには、桐生エンタテインメントの公式アカウントが投稿した動画が流れていた。『所属アーティスト・莉子、待望のデビュー曲を配信リリース。海を越えて紡がれた想いが、いま歌声となって届く』(りこ……) 携帯の液晶画面の莉子は、雪乃に向かって無邪気に笑っている。あどけなさが残る、天真爛漫を絵に描いたような子だった。(まさかね……) 雪乃は再生ボタンを押した――流れてくる音声に、雪乃の指が止まった。『柊也が私をここまで掬いあげてくれました。感謝しかありません』『って、ごめんなさい!
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-01
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 紙を破く音に続いて、柊也の弾んだ声が響いた。「これ、もしかして……俺がずっと探してた本か?」「見つけ出すの、すごく苦労したんだからね。大事にしてよ?」 莉子の甘えるような笑い声。「ああ。大事にするよ」 扉一枚を隔てた向こうから聞こえてくる、心から嬉しそうな柊也の声……。 雪乃が柊也のあんな声を聞いたのは、彼と出会って初めてのことだった。 それでも雪乃は、扉の前から動けなかった。 雪乃の脳裏に、数時間前の光景が蘇る。 同じ本を、同じように差し出した自分に、彼は一瞥もくれなかった。 やがて、莉子の甘い声が届く。「ねえ、柊也。記念日にも贈り物をくれないような女とどうして結婚したの?」 雪乃は、柊也に記念日の贈り物を毎年欠かさず用意している。それが彼の中ではなかったことになっているのか、それとも莉子が勝手に勘違いをしているのか分からなかった。『毎年贈ってるわ』――そう否定したくても、生憎、雪乃は声が出ない。 暫くの沈黙の後、柊也は静かに答えた。「……彼女には、申し訳ないことをした」 その言葉を聞き、雪乃の脳裏に五年前の記憶が蘇った。 柊也が主催したピアノ演奏会の千秋楽だった。あの日は、目の前が見えないほどの雨だった。 傘を差し、会場を出て迎えの車に向かっているところだった。「百地さん! 貴女のファンなんです!」 大きな花束を傘も差さずに両手いっぱいに抱えた男が雪乃に話しかけてきた。 傘も差さずに私のために花束を持ってきてくれた――その行動に感動した雪乃は、男に傘を差し出しながら花束を受け取るために手を伸ばした。 それは、咄嗟のことだった。 右手に激痛が走った。 雪乃の右手は、中指の付け根から掌にかけて、斜めに深く切り裂かれていた。ドクドクと脈打つ傷口から、真っ赤な血が雨に打たれて、地面に流れていく。 誰かの悲鳴が聞こえ、そこで彼女の意識は途絶えた。 目を覚ますと、雪乃は病院のベッドの上にいた。隣には、意識を失っている間も傍に居続けた柊也が座っていた。 柊也は目を覚ました雪乃を見てすぐに、医者を呼んだ。 そして、医者から告げられたのは、「右手中指の屈筋腱と指神経が損傷している。以前と同じ動きや感覚は戻らないでしょう」という残酷な宣告だった。「警備不足だった」「俺のせいだ」と頭を下げる柊也の声が、遠く聞こえる。指が動
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-01
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005話
  柊也の肩に頭を預けていた莉子を目掛けて投げた指輪は、彼女の右頬を掠めた。「きゃっ!」 莉子が右頬を押さえる。指輪が掠めた肌に、赤い傷が浮かび上がった。 ――つい数分前、雪乃の怪我を「自作自演」だと嘲笑していた女と同一人物とは思えない。 莉子は涙を溜め、震える声で訴える。「ご、誤解です、奥様……! 私と柊也さんは、ただの社長とアーティストです……っ」(ただの社長と所属アーティストが、お互いを呼び捨てで呼び合うわけがない。私の携帯に嫌がらせの電話をかけてきておいて、空港ではあんなに甘く囁き合っていたくせに) 白々しい言葉に、雪乃の胸の奥が冷え切っていく。(アーティストよりも女優の方が合ってるんじゃない?) 頭の中の皮肉を、直接ぶつけることができないことは残念だった。「誤解させてしまったなら、ごめんなさい」 莉子はグラスを手に取り、立ち上がった。「あ、あの……これで頭を冷やしてください」 莉子は歩み寄ると、グラスを雪乃の自由に動かない右手に強引に握らせた。(痛っ――) 雪乃が痛みに顔を歪ませた、その時だった。 莉子は雪乃の手ごとグラスを持ち上げ、自分の頭に水をぶちまけた。「きゃっ……!」 大袈裟な悲鳴とともに、莉子は濡れた髪を押さえて床へ崩れ落ちる。手から離れたグラスが音を立てて砕け散った。「莉子、大丈夫!?」 眼鏡をかけたスーツ姿の女性が、慌てて莉子に駆け寄った。 それに続くように、次々と莉子のもとへ人が集まっていく。「なんてことするんだ!」 部屋中から怒号が飛ぶ。 誰も莉子の手元など見ていなかった。雪乃の手で、彼女自身が水をかけたようにしか見えなかったのだ。 傍にいたアイドルが忌々しげに雪乃を睨みつけると、そのうちの一人が、手にしていたビールを雪乃の頭にぶちまけた。 冷たい液体が顔を伝い、酒臭さが雪乃の鼻を刺激した。 その時――荒々しい足取りで割り込んできた人影が、邪魔だとばかりに雪乃の肩を強く押し払った。(――あ、) 押し飛ばされ、体勢を崩した雪乃は、咄嗟に床へ手を突いてしまう。 ――突いたのは、自由に動かないはずの右手だった。 ズキン、と肘から肩へと暴れるような激痛が走り、雪乃は悲鳴すら上げられないまま床に倒れ込んだ。 冷たいビールに濡れた髪越しに見上げた先――自分を押し倒した男は、雪乃のこと
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