INICIAR SESIÓN結婚五年目の記念日、夫・柊也は「今日の食事は行けそうにない」と告げた。 声を失い、ピアノを弾く指も失った私を、彼は罪滅ぼしとして娶ってくれた――そう感謝すらしていた。 だけど、見知らぬ番号からの電話が、全てを変える。 『莉子……我慢なんて、できるわけないだろ』 五年間、一度も向けられなかった甘い声。 莉子とは、柊也の初恋の相手の名前だった。 声も出せず、字を書く手さえ震える夜を重ねながら、雪乃の中で何かが変わり始める。 失われたはずの音は、まだ自分の中に確かに残っていた。 指では、もう弾けない。それでも――声を失った私が最後に選ぶのは、復讐でも、涙でもない。 自分自身の音で、もう一度生きること。
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「申し訳ございません。社長は本日、こちらには戻られません」
受付の女性は、作業的な笑みを浮かべたまま淡々と告げた。 雪乃は慌ててノートを広げ、ペンを走らせる。 『これだけでも預かっていただけますか? 温かいスープです』 「恐れ入りますが、手作りの食品はお預かりできない決まりになっておりますので」 にべもなく断られ、雪乃は頭を下げるしかなかった。 重い保温バッグを抱え、トボトボとエントランスへ向かう。 傘立てから自分の水色の傘を取ろうとした雪乃は、足を止めた。 ――ない。 鍵のないオープン型の傘立ての中は、すっかり空っぽになっていた。誰かに間違えて持っていかれたのか、それとも勝手に使われたのか。 冷たい雨が降る外を眺め、雪乃はぽつんと立ち尽くした。 しかし――このまま突っ立っていても仕方がない。 雪乃は保温バッグを抱え直すと、意を決して雨の中へ足を踏み出した。 冷たい雨粒が容赦なく肩を、髪を叩く。数歩も歩かないうちに、コートの生地が重くなっていく。 通りに出てタクシーを探すが、この土砂降りのせいか、空車の姿はどこにも見当たらない。 ロビーで配車アプリを使えば良かった――そう思いながら、雪乃はびしょ濡れのまま、呆然と通りを見渡した。 その時、バッグから振動が伝わってきた。 ――柊也さんかもしれない。 僅かな期待に、雪乃は濡れた指を滑らせながら急いで携帯電話を取り出す。 画面に表示されていたのは、見覚えのない番号だった。 声の出せない自分に、電話をかけてくる人間などいない。 それなのに、なぜ――。 雨に打たれたまま、雪乃は画面を見つめた。 無言のまま、通話ボタンをタップした。 もしもし、とは言えない。声を出せない自分にできるのは、ただ耳を澄ますことだけだった。 一瞬の沈黙のあと、耳に飛び込んできたのは、男女が甘く囁き合う声だった。 『もう……柊也ったら。空港なのに、そんなに我慢できなかったの?』 柊也、という名前を聞いて、雪乃は携帯を握り締める手に力が入った。 でも、だったらどうして私にこんな電話がかかってくるのだろう? そして次の瞬間――雪乃は結婚してから一度も聞いたことのない、優しく甘い夫の声を耳にした。 『莉子……我慢なんて、できるわけないだろ』 莉子――聞き覚えがある名前だった。 柊也が一度だけ寝言で放った名前――……。 『君のことを、この五年間ずっと忘れられなかった』 その一言で、耳の奥から音という音が引いていった。 雨も、街の喧騒も、遠い。 激しい動悸に襲われ、握り締めていた携帯電話が小刻みに震えた。 声さえ出すことができれば、きっと叫んでいた。右手の中指は思うように動かず、声も出したいときに出せない。その二重の歯痒さに、雪乃は下唇を血が滲むほど噛み締めた。 雪乃は、消えてしまいそうな真実を、せめて証拠だけでも残そうと震える左手の指で録音ボタンを押した。 押し込んだ指先に、二人の吐息が、濡れたリップ音が、互いの名を呼び合う声が、途切れることなく流れ込んでくる。 五年間、柊也が抱けなかったのではない。 抱きたくなかったのだ。画面の向こうで、湊は膝の上の拳を、白くなるほど握り締めていた。「莉子に、です」 雪乃は顔を上げる。「音楽で飯を食っている人間が、他人の曲を自分の名前で歌った。この仕事で一番やっちゃいけないことを、一番堂々とやったんです。しかも昨日、そのまま俺に『年末のトリを譲ってくれませんか』って言ってきたんですよ。許せません」 湊の声は低く、荒げてはいなかった。(責められるのは、私のはずなのに) 雪乃は膝の上で、左手を握り直した。「それから、桐生社長にもです」 柊也の名に、左手がぴくりと動いた。「あの人は、この業界で何人ものミュージシャンを預かる側の人間でしょう。莉子が誰かの曲に手を出しかけたら、本来は止める立場のはずです。それなのに、自分の手で持ち出して、渡した」 湊は短く息を吐いた。「曲が似てしまうことは、この仕事をしていればあります。俺だって、どこかで聴いた曲に似てると言われたことは何度もある。でも、データごと持っていって別の人間の名前で出すのは、それとは全然違います」 そこで湊は、言いにくそうに目を逸らした。「それに、悔しいけど、あの曲はいい曲でした。売れると思った。先輩の曲なんだから、当たり前なんです。それが他人の名前で売れていくのが、一番腹が立つ」『私が、不用心だったから』「そこじゃないんです」 湊は首を横に振った。「そりゃあ、用心してほしかったとは思います。でも、それより盗んだ側が悪いに決まってる。先輩に腹は立ちません」 ほんの一瞬、湊の声が掠れた。「俺が怒ってるのは、先輩が『もう曲を作るのをやめます』って言ったことです。さっき頭を下げた時の顔、『これで終わりだ』って顔でした」 雪乃は息を呑んだ。 顔に出ていたのだ。湊の目は、少しも逸れない。「俺は、先輩の曲が欲しくて頼んだんです。……まだ、歌いたいんですよ。今回の三曲だけじゃなくて、この先、先輩が作る曲も」 湊は一度口を閉じたが、すぐにまた話し始めた。「なのに、もう作らないなんて言わ
雪乃の喉から、ひゅっと小さく息が漏れた。『だ……から、曲を盗んだの?』「盗んだわけじゃない。雪乃にはできないことを、俺が代わりにしてあげただけだ」(してあげた……?)「世に出してあげたんだよ」 そう言って微笑む柊也。掴まれた手首に、じわじわと痛みが増していく。 かつては、この人を愛していたはずだった。 でも、こんな彼のどこが好きだったのだろう。 彼は変わってしまったのだろうか。それとも、最初からこうだったのだろうか――。 必死に声帯を震わせて声を絞り出そうとするものの、喉からは虚しく掠れた息漏れしか出てこない。昔は当たり前に話せたはずなのに。目の前で笑うこの男に、溢れ出る不条理を言葉にして言い返したいのに。『……どうして、莉子さんなの?』「どうして莉子なのかって? 幼馴染だし、最近スランプ気味だったから心配でさ」 柊也は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。妻の音楽と権利を平気で踏みにじり、莉子のために差し出した理由が「幼馴染のスランプへの心配」――あまりにも身勝手で、雪乃は眩暈を覚えた。「雪乃だって、莉子に助けられてきたじゃないか」(いつ?) 雪乃は虚ろな目で柊也を見上げる。「彼女の音楽に慰められてきただろ?」 柊也の視線が、雪乃の背後にある十個のオルゴールに向けられる。 結婚記念日と誕生日に柊也が贈ってきたそれらの旋律は、莉子がアメリカで作曲したものだった。 雪乃はそれを知らず、柊也が自分のために選んでくれた曲だと思い込んでいた。 だが、莉子のデビュー曲を聴いた時、自分の勘違いだと知った。 柊也は雪乃のためではなく、莉子の曲をオルゴールにして飾っていただけだった。「恩返しだと思えばいい」 どこまでも自分を正当化する口ぶりに、雪乃は突き刺すような激しい胃の痛みを覚え、強い吐き気がこみ上げてきた。 怒りに任せて、雪乃は彼の手を振り払った。あれほど強く握られてい
「すでに決まったことですし、スタッフに迷惑をかけるのはよくないのでお断りします」 「えー、でも最初と最後の順番を変えるだけですよ?」 さも簡単なことのように小首をかしげる莉子に対し、湊は息を吐き出し、嘲笑に歪みそうになる口元をなんとか笑みの形に整えながら、冷静な答えを返していく。 「大賞を獲った歌手だけがトリの枠を頂けるんです。演出の時間の長さも違いますし、無理ですね」 「なーんて。言ってみただけです」 莉子は悪びれもせず、可憐な表情のままクスクスと喉を鳴らした。 「莉子さん、そろそろ次の現場の時間が……」 傍に控えていた男性マネージャーが、携帯の画面を見せながら声をかけてくる。 「はいはい、分かってるってば。新しいマネージャー、融通利かないんだから」 莉子は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、すぐにクルリと向き直り、湊に向かって可愛らしく手を振った。 「じゃあ~、リーダーさん! またね!」 パタパタと軽やかな靴音を響かせ、マネージャーを従えて去っていく莉子の背中を、湊はただ無言で見つめ続けた。 莉子が去った後、頭の中で先ほど聴かされたメロディが何度も反芻される。あの曲は、雪乃から五日前に送られてきた曲と全く同じだった。別々の人間が、全く同じ曲を作る確率なんてゼロに等しい。ならば、どちらかがどちらかの曲を盗作したということになる。 (莉子の曲を、先輩が……?) 一瞬だけ頭をよぎった疑念を、湊はすぐに打ち消した。 莉子がこれまで作ってきた曲はどれも似たり寄ったりで、オリジナリティに欠けていた。だが今回の曲は、これまでの「アイドル歌手・莉子」のイメージを完全に脱却するような出来栄えだった。サビ前には、莉子の引き出しには絶対にない巧みな転調が盛り込まれている。 (……売れる) 悔しいことに、プロのミュージシャンとしての直感がそう告げていた。 そう思ってしまった自分自身に激しい腹が立った。そしてそれは同時に、あの曲が莉子の名前で世に出て売れてしまえば、誰もあれを「雪乃が作った曲」だとは信じなくなるという残酷な現実を意味していた。 今す
画面の向こうで困惑を露わにする湊だったが、背後から「出番五分前でーす!」とスタッフの大きな声がかかった。「くそっ……先輩、出番なんで一回切ります! また後で連絡しますから!」 戸惑いを残したまま、ぷつりと通話が切れた。 暗転した携帯の液晶画面に、血の気の引いた自分の顔が映り込む。(どうして……どうして、莉子さんが私の曲を披露していたの?) 幾重にも重なる疑問が頭を駆け巡り、脳が処理しきれずに激しい眩暈を覚える。見かねた黒木が、そっと雪乃の肩を支えてベッドの縁に腰掛けさせた。(私のパソコンを、誰かが触った……?) 記憶の糸を必死に手繰り寄せる。そういえば別荘で、ちゃんと蓋を閉めたはずなのに開いていた。あの時だろうか。でも、あんなにも早く歌詞を乗せて、生放送で披露できるものなのだろうか。 あるいは別荘より前――この屋敷で、自分のパソコンに触れられる人物は――ぐるぐると過熱していく思考を遮るように、黒木が静かに声をかけた。「奥様。あまり考えすぎないでください。お体に障ります」『でも、考えないとっ……!』 雪乃は口元を早く動かして食い下がろうとするが、黒木は首を横に振った。「今考えても答えが出ないことは、考えるべきではありません。一度ゆっくり休み、落ち着いてから考えましょう」 諭すような声で言い含め、黒木が部屋を出て行こうと背を向ける。その瞬間、雪乃は咄嗟に左手を伸ばし、彼のスーツの袖を強く引っ張った。『傍に居てほしいです』「寝室に留まるわけにはいきません」『私が眠るまででいいですから……』 縋るような雪乃の瞳を見つめ、黒木は降参したように肩を落とした。「……眠るまでです」『はい』「眠ったら、私は外へ出ます」 黒木はそう言うと、ベッドから少し離れた椅子を引いた。雪乃はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。 黒木が椅子へ腰
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