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五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた
五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた
Author: 美木 猫助

001話

last update publish date: 2026-09-01 11:29:17

 激しい雨が窓を叩いていた。

 ソファーに腰を落として雨の音を聞きながら、桐生きりゅう雪乃ゆきのは頭の中で音符を組み立てる。指をぎこちなく動かして膝を叩いた。

 ポツ、ポツ。

(シ、シ、シ)

 単発だった雨粒が、いつのまにか数を増している。

(ソ・ファ・ミ・レ・ド)

 一粒が高い空から地面まで落ちていく。その軌跡が、そのまま音階になる。

 やがて、篠突く雨。

(ドドドドドド……)

 隣り合う鍵を重ねれば、濁って、止まない。低い一音を長く踏み込んで――そこへ、雷。

(……っ)

 雪乃から声にならない息が漏れた。

 右手に激痛が走ったと同時に、頭の中の音楽は止み、周囲には、ただ雨音だけが残った。

 雪乃は痛みが走った右手に視線を落とす。

 中指に一筋残る白い傷痕。

 あの日以来、この指は二度と、思うようには動いてくれない。

 右手を広げたまま、無言で見下ろしていると、携帯電話が淡く光った。画面に浮かんだのは、夫・柊也しゅうやの名前。

 雪乃は右手を隠すように膝の上で握り、左手だけで通話ボタンをタップした。

「雪乃、結婚記念日おめでとう。もう五年か……早いな」

 雪乃は左の薬指の指輪に触れ、小さく頷いた。

 画面越しの柊也は、目元をやわらかく緩め、人当たりのいい――芸能界の人間らしい、隙のない笑みを浮かべていたが、その表情がふっと翳りを見せた。

「急な仕事が入った。今日の食事は行けそうにない」

 結婚してから四年目まで、柊也が記念日を欠かしたことは一度もなかった。どんなに忙しくても、必ず時間を作ってくれていたのに――……。

「すまない」と肩を落とす柊也を見て、雪乃は左手でノートとボールペンを手に取り、慌ててペンを走らせた。

『気にしないで』

 雪乃はそう書き綴ったノートを柊也に向けた。

 それを見た柊也は、ふっ、と小さく笑った。

「埋め合わせは必ずする。プレゼントも用意してあるから」

 穏やかな声だった。

 雪乃はもう一度、ノートに文字を書く。

『たのしみにしてる』

「良かった。じゃあ、また後で」

 柊也がそう言うと、通話は切れた。

 雪乃は息を吐き出すと、携帯電話をソファの上に置いた。

 静寂が戻った部屋に、激しい雨音だけが響いている。

 気にしないで、とノートに書いた文字をじっと見つめた。

 嘘ではないけれど、本当でもない。

 喉の奥がキュッと縮こまるような寂しさが、静かに込み上げてくる――。

(しょうがないよね。彼は忙しい人だから)

 大手芸能プロダクション『桐生エンタテインメント』の若き社長である柊也は、常に分刻みのスケジュールで動いている。

 寂しさを押し殺し、雪乃はキッチンへ向かった。

 鍋の中には、昼からじっくり煮込んだスープがある。今朝、彼が「胃の調子が良くない」と言っていたのを思い出したからだ。

(会社へ持っていこう)

 忙しい彼の邪魔にならないよう、受付に預けるだけでもいい。

 スープを保温バッグに入れた雪乃は、強まる雨の中、桐生エンタテインメントへと向かった。

 ※

「申し訳ございません。社長は本日、こちらには戻られません」

 受付の女性は、作業的な笑みを浮かべたまま淡々と告げた。

 雪乃は慌ててノートを広げ、ペンを走らせる。

『これだけでも預かっていただけますか? 温かいスープです』

「恐れ入りますが、手作りの食品はお預かりできない決まりになっておりますので」

 にべもなく断られ、雪乃は頭を下げるしかなかった。

 重い保温バッグを抱え、トボトボとエントランスへ向かう。

 傘立てから自分の水色の傘を取ろうとした雪乃は、足を止めた。

 ――ない。

 鍵のないオープン型の傘立ての中は、すっかり空っぽになっていた。誰かに間違えて持っていかれたのか、それとも勝手に使われたのか。

 冷たい雨が降る外を眺め、雪乃はぽつんと立ち尽くした。

 しかし――このまま突っ立っていても仕方がない。

 雪乃は保温バッグを抱え直すと、意を決して雨の中へ足を踏み出した。

 冷たい雨粒が容赦なく肩を、髪を叩く。数歩も歩かないうちに、コートの生地が重くなっていく。

 通りに出てタクシーを探すが、この土砂降りのせいか、空車の姿はどこにも見当たらない。

 ロビーで配車アプリを使えば良かった――そう思いながら、雪乃はびしょ濡れのまま、呆然と通りを見渡した。

 その時、バッグから振動が伝わってきた。

 ――柊也さんかもしれない。

 僅かな期待に、雪乃は濡れた指を滑らせながら急いで携帯電話を取り出す。

 画面に表示されていたのは、見覚えのない番号だった。

 声の出せない自分に、電話をかけてくる人間などいない。

 それなのに、なぜ――。

 雨に打たれたまま、雪乃は画面を見つめた。

 無言のまま、通話ボタンをタップした。

 もしもし、とは言えない。声を出せない自分にできるのは、ただ耳を澄ますことだけだった。

 一瞬の沈黙のあと、耳に飛び込んできたのは、男女が甘く囁き合う声だった。

『もう……柊也ったら。空港なのに、そんなに我慢できなかったの?』

 柊也、という名前を聞いて、雪乃は携帯を握り締める手に力が入った。

 でも、だったらどうして私にこんな電話がかかってくるのだろう?

 そして次の瞬間――雪乃は結婚してから一度も聞いたことのない、優しく甘い夫の声を耳にした。

『莉子……我慢なんて、できるわけないだろ』

 莉子――聞き覚えがある名前だった。

 柊也が一度だけ寝言で放った名前――……。

『君のことを、この五年間ずっと忘れられなかった』

 その一言で、耳の奥から音という音が引いていった。

 雨も、街の喧騒も、遠い。

 激しい動悸に襲われ、握り締めていた携帯電話が小刻みに震えた。

 声さえ出すことができれば、きっと叫んでいた。右手の中指は思うように動かず、声も出したいときに出せない。その二重の歯痒さに、雪乃は下唇を血が滲むほど噛み締めた。

 雪乃は、消えてしまいそうな真実を、せめて証拠だけでも残そうと震える左手の指で録音ボタンを押した。

 押し込んだ指先に、二人の吐息が、濡れたリップ音が、互いの名を呼び合う声が、途切れることなく流れ込んでくる。

 五年間、柊也が抱けなかったのではない。

 抱きたくなかったのだ。

 

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