All Chapters of 結婚7年、夫を親友に譲りました: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

「水野副社長、ご依頼のあった全プロジェクトのデザイン原案です。ご確認ください」社員の佐藤が分厚い資料の束を抱え、私のデスクに置いた。私は軽く中身をめくり、笑顔で尋ねた。「電子データのバックアップはある?」「ありません。デジタルデータは流出しやすいから残さないようにと、高瀬社長から会議で指示されました」佐藤は残念そうに首を振った。どれも完成度の高いデザインだった。社外へ持ち出さなくても、パソコンに保存して勉強できれば、それだけで大きな財産になる。「さすが高瀬社長ね。よく考えてる」私は小さく笑い、原案を1枚めくった。そこには、私が自分の手で描いたデザイン案が収められていた。一本一本の線に、私が注いできた時間と労力が刻まれていた。「でも、どうして急に原案が必要になったんですか?まだ進行中のプロジェクトも多いですし、修正の際には原案と照らし合わせる必要がありますよね」佐藤が不思議そうに尋ねた。この原案は、会社にとってかけがえのない財産だった。「新しい案件が決まったでしょう。昔のデザインを見返して、参考になりそうなものを探したいの」声がかすかに震えた。それでも、表情だけは何でもないように装った。「よかった!また副社長の新作が見られるんですね。新しい原案ができたら、みんなでしっかり勉強させていただきます!」佐藤は目を輝かせ、隠しきれない敬意を向けてきた。何気ない会話を交わして佐藤を見送ると、私は静かにオフィスのドアを閉めた。背後にあるノートパソコンを見つめたまま、しばらく動けなかった。新しいプロジェクトの資料をコピーするため、瑛介のパソコンを開かなければ、私は一生、あのSNSアカウントの存在に気づかなかったかもしれない。そのアカウントが作られたのは、今から4年近く前だった。瑛介は、一つ一つの投稿を丁寧に綴っていた。初めてあの女に惹かれた瞬間から、二人がようやく結ばれたと喜ぶまで。そこには、二人が重ねてきた時間のすべてが残されていた。SNSの中の瑛介は、まるで別の世界に生きているようだった。明るく、冗談好きで、優しい。彼女のすべてを受け入れていた。二人は私が一度も連れていってもらえなかったレストランへ行き、私がずっと食べたがっていた生クリーム入りのシュークリームを一緒に味わって
Read more

第2話

瑛介とは幼なじみで、幼稚園の頃から一緒だった。幼稚園から大学まで、彼の青春のどこを切り取っても、そこには私がいた。卒業後、私たちは二人でゼロから会社を立ち上げた。私のデザイン力と瑛介の経営手腕を生かし、この街で少しずつ実績を築いていった。事業が軌道に乗った日、私は瑛介のプロポーズを受け入れ、ドイツで学ぶ機会を手放した。私たちが結ばれるのは、誰にとっても当然のことに思えた。結婚式には、それぞれの親しい友人を招いた。親友だった彩乃は招待を受け、ブライズメイドまで務めてくれた。あの日が、瑛介と彩乃が出会った日だったのだろう。結婚後も、私たちは仕事の手を緩めなかった。会社は立ち上がったばかりで、休んでいる余裕などなかった。次々に押し寄せるデザイン業務に、私は息をつく暇さえなくなっていった。それでも、わずかな休みの間くらい、夫に甘え、大切にされたかった。だがその頃から、瑛介は私を煩わしそうにするようになった。子どもっぽいことはやめろ、少しの時間も無駄にせず二人の将来のために働け、と言われた。当時は分からなかった。今ならよく分かる。瑛介の言う「二人」に、必ずしも私は含まれていなかったのだ。成功した途端、それまで支えてくれた相手を真っ先に切り捨てる人がいる。幼い頃から瑛介を知っていた私は、彼だけはそんな人ではないと思い込んでいた。だが現実は、私の考えがあまりにも甘かったことを突きつけた。会社が軌道に乗ると、瑛介は会食や取引先との付き合いが増えたから、業務を手伝う秘書が必要だと言い出した。私は何も疑わず、卒業後もなかなか仕事が決まらなかった親友の彩乃を彼に紹介した。振り返れば、彩乃が入社したのは、ちょうど4年前だった。退勤時刻を過ぎたオフィスは暗く、明かりがついているのは私のオフィスだけだった。自分が描いた原案をすべてスキャンして保存したあと、その原本を一枚ずつシュレッダーへ入れた。低い機械音が鳴り続ける中、涙が頬を伝った。裁断されているのは紙だけではなかった。私の心も、同じように粉々になっていった。紙くずを自分の手で捨てると、誰もいないオフィスに座り、2日後に出発するドイツ行きの便を予約した。予約完了の通知がスマホに届き、ようやく長く息を吐いた。瑛介とのLINE
Read more

第3話

相手にするつもりはなく、そのまま通話を切ろうとした。だがその時、電話の向こうから彩乃の甘えた声が聞こえた。「もう高瀬社長に飲ませないでください。代わりに私が飲みますから!」途端に歓声が上がり、通話の向こうが騒がしくなった。胸の奥を、鋭い刃で突き刺されたようだった。瑛介に裏切られたことは、もう分かっていた。それでも、自分の耳で突きつけられると、耐えがたいほど胸が痛んだ。私は通話を切ると、瑛介から送られてきた位置情報を頼りにタクシーで店へ向かった。個室へ入る前から、中年男性の羨ましげな声が聞こえた。「高瀬社長、相沢さん一人で社員何人分もの働きをしてるじゃないですか。こんなに気の利く秘書がいるなんて、本当に羨ましいですよ。高瀬社長はお幸せですね!」私はそのままドアを開けた。私が個室へ入った瞬間、それまでの賑やかな空気が一気に凍りついた。瑛介は彩乃の肩にもたれ、彩乃ははちみつ入りのレモン水をスプーンですくい、一口ずつ彼に飲ませていた。以前、酔って帰宅した瑛介は、物を投げつけるか、怒鳴り散らすかのどちらかだった。まるで世界中が自分に借りでもあるかのように振る舞っていた。ところが今は、彩乃の肩におとなしく身を預け、彼女が差し出すものを素直に口にしている。まるで甘えた子犬のようだった。酔っているというより、彩乃に甘えるために酔ったふりをしているようにしか見えなかった。「奈緒、来てくれたんだ。高瀬社長がすっかり酔ってしまって、どうしたらいいか分からなくて」彩乃はようやく私に気づき、慌てて瑛介の身体を自分の肩から離した。顔には気まずそうな笑みが浮かんでいた。同い年の彩乃が、その瞬間だけは無邪気な少女のように見えた。私には一生まねできない表情だった。以前の私なら、すぐに詰め寄っていたかもしれない。親友の夫に、人前でここまで親しげに寄り添うなんて。無邪気なふりをしながら計算し尽くしている。ここまであざとい親友も、そうはいない。だが今の私は、目の前の光景を見ても静かに笑った。「瑛介の代わりに飲んでくれたんでしょう。電話で聞こえてた。ありがとう」私は微笑んだまま、軽く首を振った。「え……ううん。秘書として当然のことをしただけだから」まさか礼を言われるとは思っていなかったのか、彩
Read more

第4話

「奈緒、からかわないでよ。彼氏なんていないわ。自分で買ったの」彩乃の笑みが一瞬消えた。だが、すぐに何事もなかったように笑い直した。「自分で買ったの?じゃあ、あとで購入先のリンクを送って。私も同じものが欲しいわ」私は笑顔のまま、冗談めかして言った。その瞬間、学生時代のことを思い出した。当時は二人ともお金がなく、100円ショップで買ったヘアピンさえ交代で使っていた。それでも、毎日が楽しかった。あの頃、一つのヘアピンを分け合っていた相手に、今では夫まで奪われようとしていた。「買わなくていいわよ。そんなに気に入ったなら、これをあげる」私が本気で欲しがっていると思ったのか、彩乃は慌ててネックレスを外そうとした。その時、私の肩にもたれていた瑛介が、ゆっくり口を開いた。「彩乃、そのまま着けてろよ……お前のほうが……似合ってる」瑛介が止めるとは、彩乃だけでなく私も思っていなかった。「高瀬社長、何を言ってるんですか。奈緒はきれいなんだから、このネックレスだって絶対に似合いますよ。奈緒、早く連れて帰って。酔って変なことばかり言ってるから」彩乃は焦った様子で、私に向かって何度も手を振った。「酔うと本音が出るっていうでしょう。今の言葉こそ、本心かもしれないわね」私は微笑んだまま、冗談のような口調で本音を口にした。「夫婦そろって、今日は私をからかうつもり?あとは二人で好きにして。私は帰るから」何かを察したらしい彩乃は、それ以上言い返すこともできず、顔を赤らめて足早に帰ろうとした。「彩乃……お前も今日はかなり飲んだだろ。運転するなよ……家に着いたら、連絡してくれ」酔っているはずの瑛介は、彩乃が帰ると聞いた途端に意識を奮い起こし、優しい声で念を押した。「大丈夫です。もう運転代行を頼みましたよ。着いたら連絡しますね」彩乃の声も柔らかくなった。私の肩にもたれる瑛介を見たあと、自分の言葉の不自然さに気づいたのか、慌てて私へ言い直した。「奈緒も心配しないで。家に着いたら連絡するから」「ええ。もう遅いから、早く帰って」胸の痛みを押し隠し、静かにうなずいた。酔っていても、愛する相手のことなら気遣えるのだ。以前、酔って帰るたびに私へ怒鳴っていたのは、酒のせいで自制を失っていたからではない。私を大
Read more

第5話

ひどく酔った瑛介を引きずるようにして帰宅した直後、私たちのスマホがほぼ同時に鳴った。考えるまでもなく、彩乃から無事に着いたという連絡だろう。先に自分の画面を開くと、短いメッセージが届いていた。【奈緒、家に着いたよ】返信はせず、スマホを脇へ置くと、瑛介のものを手に取った。【高瀬社長、(*╹▽╹*)無事に着きました。安心してください(* ̄3)(ε ̄*)】わざとらしい顔文字を見て、思わず笑いそうになった。瑛介の指を使ってロックを解除し、彩乃とのやり取りをさかのぼった。そこには、恋愛小説のような甘いやり取りが並んでいた。【愛してもいない相手と暮らすのは、本当につらい】【私がずっとそばにいるでしょう?】【それじゃ足りない。もっと長く一緒にいてほしい】【じゃあ……何日か休みを取って、二人で息抜きに行きましょう】断片的な言葉を読んでいるうちに、私はまるで二人の幸せをあらゆる手段で阻む悪者のように思えてきた。涙が目にたまり、画面がぼやけた。息が苦しくなり、水の中でもがいているようだった。どれほど息を吸おうとしても、空気が入ってこない。数日前、瑛介は地方で新しい案件の商談があり、1週間ほど出張すると言っていた。私も同じ会社で働いているのに、そんな案件は一度も聞いたことがなく、不思議に思っていた。今なら分かる。ただの口実だったのだ。瑛介はもう忘れているのだろう。2日後が、私たちの結婚7周年だということを。その頃、彼は彩乃と二人きりの時間を楽しんでいるはずだ。「スマホ……」少し酔いが覚めたらしい瑛介が、空中を探るように両手を動かした。「はい」画面をロックし、彼の手に押し込んだ。瑛介は礼の一言も言わず、スマホを抱えてバスルームへ入っていった。再び出てきた時、腰にはバスタオルだけを巻いていた。「迎えに来てくれてありがとう。もう大丈夫だから、奈緒も早く休めよ」淡々と言い残し、瑛介は書斎へ向かった。そう。今の私たちは、寝室さえ別だった。夜遅くまで仕事をすることが多く、私の睡眠を邪魔したくないと言って、瑛介は書斎で寝るようになっていた。私は何も言わず、その背中を見送ってから寝室へ向かった。「奈緒、どこか行くのか?」玄関に置いてあったスーツケースに気づき、瑛介が
Read more

第6話

その夜、私は一睡もできなかった。これまで瑛介と過ごしてきた日々が、走馬灯のように脳裏を巡った。笑ったことも、悲しんだことも、激しく愛し合ったこともあった。長い間、私の世界には瑛介しかいなかった。だが彼の世界からは、とうの昔に私が消えていたのだ。空が明るくなり始めた頃、書斎のドアが開いた。瑛介は何事もなかったように伸びをしながら出てきた。「どうしてソファに座ってるんだ?」私を見つけ、驚いたように尋ねた。「何でもない。寝室が暑かったから、こっちのほうが涼しくて」私は微笑んだまま、軽く首を振った。「暑いならエアコンをつけろよ。電気代くらい気にするな。うちはそんな金に困ってないだろ」服を整えると、瑛介はそのまま出かけようとした。「まだ7時前よ。こんなに早く会社へ行って、何かあるの?」出ていこうとする背中に、分かっていながら問いかけた。「言っただろ。数日後から出張だから、準備があるんだ」瑛介は顔色一つ変えず、自分でも信じ込んでいそうな嘘を口にした。「そう。気をつけて」私は嘘を暴かなかった。明日には、ここを離れる。最後の一日くらい、互いに見苦しい姿をさらさずに終わりたかった。瑛介は何かを感じたのか、その場で立ち止まり、私を見た。だが何も言わず、ドアを開けて出ていった。その背中を見送り、私はスマホで電話をかけた。「申し訳ありません。明日予約していた記念日のディナーはキャンセルしてください。予約金は返していただかなくて結構です。お手数をおかけします」瑛介が出かけたあと、市内でも評判の、離婚問題に強い弁護士を訪ね、離婚協議書と離婚届を用意してもらった。会社を含め、私たちが持つ財産のほとんどは夫婦で築いたものだった。それでも私は何一つ求めず、自分が受け取るべき給与だけを清算することにした。表向きは、瑛介が社長として会社全体を動かしていた。だが私には分かっていた。私のデザインがなければ、この会社には何の価値も残らない。帰宅すると、荷物をまとめ始めた。予想どおり、早朝に家を出た瑛介は、日が暮れても戻ってこなかった。私は小さく笑い、寝室で着替えようとした。どうせ帰ってこないのなら、今夜のうちに空港へ向かい、搭乗手続きを済ませてしまおう。そのほうが気が楽だ。
Read more

第7話

瑛介は何かを察したのかもしれない。あるいは、後ろめたさが怒りを上回ったのだろう。苛立ちを抑え、袋を手にしたまま、作り笑いを浮かべて私のそばへ来た。「奈緒のために頼んだんだ。少しだけでも食べてみろよ」「そんなに食べてほしいなら、どうして私を店に連れていかなかったの?ほかの人と食べた残りを持ち帰って、私に渡すなんて何のつもり?私はその程度の存在なの?」うんざりして、取り繕う瑛介をそっと押し返した。「何なんだよ、その言い方は。俺は一日中外で働いて、それでも奈緒が食べたがってたステーキを思い出して買ってきたんだぞ。帰ってきたら嫌みを言われて……俺がそこまで責められるようなことをしたか?」「あなたは何も悪くないわ。悪いのは私。二人の邪魔をして、本当に申し訳なかったわね」私は首を振った。もう心は少しも揺れなかった。「もう一度言う。俺と彩乃はただの同僚だ。勝手に汚い関係だと決めつけるなよ。彩乃は俺の秘書なんだ。取引先との会食を手配するのも仕事だろ!」瑛介は声を荒らげ、自分でさえ信じ込んでいるような嘘を並べた。「そうね。でも私、あなたと彩乃がどういう関係かなんて、一言も言ってないでしょう?」私は薄い笑みを浮かべたまま、静かに瑛介を見つめた。「奈緒、お前がここまで話の通じない人間になるとは思わなかった!」そう吐き捨て、瑛介は出ていった。乱暴に閉められた玄関のドアが大きな音を立て、その余韻は彼が去ったあとも部屋に残った。誰もいなくなった部屋を見渡し、私は深く息を吐いた。終わった。幼い頃から30年近く積み重ねてきた瑛介との関係は、ついに終わったのだ。おそらく、今夜はもう帰ってこない。肩の力が抜け、私は用意しておいたワインを棚から取り出した。結婚7周年のために選んだものだった。ワインを飲みながら、会社のシステムを開き、退職手続きを進めた。私にはシステムの最上位権限があり、承認を求める相手はいなかった。手続きを終えると、特に付き合いの深かった取引先数社へ、退職したことを伝えた。すべて終わった頃には、午前2時を回っていた。飛行機の出発まで、あと4時間あまりしかない。伸びをして、SNSを少し見てから休もうとした。深夜だというのに、投稿は次々に更新されていた。最初に表示されたのは、彩乃が
Read more

第8話

家を出る時、スーツケースだけでなく、大きなごみ袋を二つ持っていった。この部屋で暮らした私の痕跡が、すべて詰まっていた。これからは、この家とは何の関わりもない。真夏の早朝には、涼しい風が吹いていた。タクシーで空港へ向かった。ドイツ行きの飛行機へ乗り込んでも、胸のざわめきは消えなかった。別れることが、これほど苦しいとは思わなかった。彼から離れさえすれば、心は落ち着くと思っていた。だが距離が遠くなるほど、胸の中はかえって大きく揺れた。ドイツへ降り立ち、見慣れない景色を目にした瞬間、大学を卒業したばかりの夏へ戻ったような気がした。現地のSIMカードに入れ替え、スマホの電源を入れた。予想どおり、通信がつながった途端、LINEには新着通知が絶え間なく表示された。【水野副社長、退職されたと聞きました。本当ですか?】【水野副社長が辞めたら、弊社と進めているプロジェクトはどうなるんですか?】【水野副社長の実力を信頼して、高瀬社長と契約したんです。急に辞められたら、こちらも困ります】次々に届くメッセージを見ても、私は焦らなかった。すべてに同じ言葉を返した。【ご安心ください。高瀬社長が責任をもって対応します】取引先への返信を終えて確認すると、瑛介からは一件も連絡が来ていなかった。きっと、これが穏やかな日々というものなのだろう。瑛介に煩わされないほうが、かえって気持ちは軽かった。幸い、かつて留学を勧めてくれた大学とは、その後も良い関係を保っていた。受け入れを申請すると、間もなく大学から返事が届いた。スーツケースを持って手続きへ向かおうとした時、佐藤から電話がかかってきた。「水野副社長、今どこにいらっしゃるんですか?今朝出社したら退職手続きが完了していて、その直後から取引先が次々に押しかけてきたんです!朝から何度もお電話したのに、ずっとつながらなくて……高瀬社長にも、秘書の相沢さんにも連絡がつきません。会社中、大混乱です。お願いですから、すぐに戻ってきてください!」泣き出しそうな佐藤の声を聞き、私は少し黙った。瑛介と彩乃が、会社まで放り出しているとは思わなかった。この会社には、瑛介もかつて多くの時間と労力を注いだ。彼自身の夢だったはずだ。その夢が、これほど軽いものだったとは思わ
Read more

第9話

ホテルへ戻る頃には、ほぼ2日間、一睡もしていなかった。緊張が解けた途端に強い眠気に襲われ、柔らかなベッドへ横になった。その時、場違いな着信音が鳴った。画面を見ると、瑛介からのLINE通話だった。会社関係者をブロックした時に、どうして彼を忘れたのだろうと後悔した。だが考え直した。テーブルに残した離婚関係の書類には、まだ瑛介の署名がない。少なくとも今は、法律上の夫婦であることに変わりはなかった。仕方なく通話に出た。「奈緒、何を考えてるんだ?相談もなく退職して、社長の俺を無視するつもりか!俺は彩乃と何度か会食に行っただけだろ。そんなことで、ここまで大騒ぎする必要があるのか?この会社をここまで育てるのに、どれだけ苦労したか、お前が一番よく知ってるはずだ。いきなり辞めるなんて、仕事を遊びだと思ってるのか?仕入れ先も取引先も会社に押しかけてる。もうすぐ30になるんだぞ。こんな衝動的なことをして、どうするんだ!今のお前は、本当に話が通じない!」通話がつながってから3分ほど、私は一言も発しなかった。瑛介が一方的に怒鳴り続けていた。何度も切りたくなるのをこらえ、一度大きく息をのみ、まだ話し続けようとする瑛介を遮った。「瑛介、昨夜家を出てから、まだ一度も帰っていないでしょう?」「帰ってないけど、それがどうした?会社がこんなことになってるのに、帰れるわけないだろ!」瑛介は少しも悪びれず、怒ったまま言い返した。「分かった。なら一度、家に戻って。離婚協議書と離婚届をテーブルに置いてあるから。会社も、これまで二人で築いた財産も、全部あなたに渡す。私は何も受け取らない。私があなたを管理していると言ったでしょう。もう二度と、あなたのすることに口を出さないわ。詳しい手続きは弁護士に任せてある。今日中には連絡が行くはずよ。これで終わりにしましょう。あなたは、本当に愛する人を選べばいい。もう連絡しないで」冷たく言い切ると、瑛介が何か言う前に通話を切った。今度は迷わず、瑛介のアカウントもブロックした。LINEはブロックし、電話番号も変えた。これでもう、瑛介は私を見つけられないだろう。外は曇っていた。それでも、その瞬間だけは自分に光が差したように感じた。自由とは、こんなにも心地よいものだったのだ。
Read more

第10話

これまでの30年近い人生で、最も深く眠れた。目を覚ますと、20時間近く眠っていたことに気づいた。いつもの癖でスマホを開くと、いつもの癖でスマホを開くと、瑛介が別のアカウントから何度も連絡してきていた。届いたメッセージは、最初こそ強気だったが、やがて取り乱したものへ変わっていた。瑛介の心の変化が、そのまま表れていた。続いて目に入ったのは、彩乃からの音声メッセージだった。「奈緒、私と高瀬社長は本当に何もないの。社長はもう必死で、会う人みんなに奈緒の居場所を聞いて回ってる。早く戻ってきて……」「どうしても私のことが気になるなら、会社を辞めてもいい。今の高瀬社長を見ていられないの」「奈緒、お願いだから戻ってきて。今は高瀬社長にも連絡がつかなくなって、会社には私しかいないの。どうすればいいのか、本当に分からない……」次第に追い詰められていく彩乃の声を聞いても、少しも嬉しくはなかった。私は静かに音声を返した。「彩乃、私の負けよ。あなたには完敗した」「もう隠さなくていい。瑛介があなたのためだけに作ったSNSのアカウントも、投稿も、全部見たから」「二人がそれほど愛し合っているなら、私は身を引く。あなたが私の代わりになればいい。それでお互い、望みどおりでしょう」「私の代わりに瑛介を支えて、会社をもっと大きくしてあげて」送り終えると、迷うことなく彩乃もブロックした。これで私の世界から、親友と呼べる人はいなくなった。
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status