All Chapters of 20回目の婚姻届でも、彼はまた幼なじみを選んだ: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

また、婚姻届を出しに行く途中で置いていかれた。ぼんやりと立ち尽くす私のそばを、見知らぬ人たちが行き交っている。楽しそうなカップル。子どもを連れた家族。寄り添いながら歩く老夫婦。誰かの幸せを目にするたび、胸の奥をえぐられるようだった。ほら、やっぱり愛されてない。本当に大切なら、何度も置いていったりしない。そう思った途端、堪えていた涙があふれた。人目を避けるように隅へ移ると、とうとう声を上げて泣いた。8年。人生で、8年は決して短い時間じゃない。それなのに、この8年間で返ってきたのは、何度も期待を裏切られた記憶ばかりだった。今日は一番気に入っている服を着てきた。なのに今の私は、この通りで誰よりも惨めに見える。これまで19回、同じように置いていかれた。今日で20回目だった。「仏の顔も三度まで」なんて言うのに、私はとっくにその何倍も我慢してきた。だから今日だけは、好きなだけ泣こう。こんな惨めな思いをするのも、これで最後。もう二度と、同じことで泣かない。「お姉ちゃん、どうしたの?」幼い声に顔を上げると、お姫様みたいなワンピースを着た女の子がそばに立っていた。にこにこしながら、小さな手で飴を差し出してくる。涙で滲んだ視界にその飴が映った瞬間、8年前、伊織と初めて会った日のことが蘇った。あの頃、家ではいろいろなことが重なり、母も重い病気で入院していた。このまま母に何かあったらどうしよう。怖くてたまらなくて、病院の隅で一人、涙を拭っていた。そこへ現れたのが伊織だった。彼は飴を一つ差し出して、こう言った。「泣くなよ。これからどうするかは、自分で決めればいい。一歩踏み出せば、そこから道はできるから」あの日の飴は、胸の奥まで染みるくらい甘かった。伊織の言葉にも、ずいぶん救われた。その後、母の容体は落ち着き、家のことも少しずつ元に戻っていった。私はあの日の彼を必死に捜した。伊織が幸運を運んできてくれたのだと、本気で思っていた。きっと、出会うべくして出会った人なんだと。目の前の飴を、震える手で受け取った。口に入れる。甘いはずなのに、ひどく苦く感じた。胸まで痛くなるほどに。甘かったのは、最初だけだったのかもしれない。その奥にある苦さに、私
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第2話

伊織はいつもそうだ。琴葉が具合を悪くするたび、なぜか私に当たる。いや、八つ当たりですらないのかもしれない。琴葉が苦しんでいるのに、どうしてお前だけ平気なんだ。伊織の態度は、いつもそう言っているようだった。でも、私は琴葉に何の借りもない。伊織と付き合い始めてから、彼には昔から気にかけている幼なじみがいると知った。それでも私は伊織を抱きしめて、これからは私が大切にするから、と言った。ところが、それからも琴葉のことで、私たちは何度もすれ違った。少し距離が縮まったと思えば、また離れる。その繰り返しだった。一度、伊織に聞いたことがある。「そんなに琴葉のことが放っておけないなら、ずっとそばにいてあげたいなら、私は身を引くよ。私にだって意地はあるし、人の恋愛に割り込むような真似はしたくないから」すると伊織は、人格まで疑われたように腹を立てた。「俺を何だと思ってるんだよ。琴葉とはただの友達だって何度も言ってるだろ。今は体調が悪いんだから、少しくらい面倒見たっていいだろ?お前だって友達くらいいるよな?自分がそういう目で見てるから、何でもそういうふうに見えるんじゃないの?いちいち気にしすぎなんだよ」自分では、できる限りのことをしてきたつもりだった。琴葉に文句を言いに行ったことだって、一度もない。それでも伊織にとって、私はいつも心が狭い女だった。またグラスを手に取り、涙ごと酒を飲み込んだ。グラスを空けては、また注ぐ。それを繰り返しているうちに、頭がぼんやりして、ところどころ記憶まで曖昧になっていった。それなのに、久しぶりにちゃんと息ができている気がした。やっと、自分のために時間を使えている気がした。その夜、バーのネオンに囲まれながら、私は初めて家に帰らなかった。友達と朝まで騒ぎ、そのままホテルのベッドに倒れ込むようにして眠った。翌日の昼頃。私が一度も家に帰っていないことに気づいたらしく、伊織から電話がかかってきた。出るなり、苛立った声が耳に飛び込んでくる。「もう気が済んだ?婚姻届を出せなかったくらいで、一晩中帰ってこないとか、さすがにやりすぎだろ。何度言えばわかるんだよ。琴葉とはただの友達だって。具合が悪いのに、家族は遠くに住んでるんだぞ。俺が気にかけなかったら、誰が見るんだよ
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第3話

でも今の私は、上司から差し出された書類を受け取り、落ち着いた声で答えた。「会社の決定に従います」8年。周りの同僚たちは昇進したり、給料が上がったりしているのに、私だけはずっと同じ立場のままだった。能力はあるのに、男一人のために8年も足踏みしている。陰で呆れられていたことくらい、わかっている。上司は少し戸惑ったように私を見た。「久世くんのことは、いいのか?」どうやら、何日かかけて説得するつもりだったらしい。こんなにあっさり承諾するとは思っていなかったのだろう。「自分のことは、自分で決めます。おっしゃるとおりです。気づいたときに、仕事も何も残っていないなんて嫌ですから」「そうか。それならよかった。榊原なら任せられると思ってる。準備を進めてくれ」上司はほっとしたように笑い、軽く肩を叩いた。私は長く息を吐いた。この8年間、ずっと伊織ばかりを追いかけてきた。何度置いていかれても、尽くすのはいつも私ばかり。振り返ってみれば、あの人を追い続けた先に、私の手元に残ったものはほとんどなかった。でも、仕事は違う。頑張った分だけ、少なくとも自分の力になる。海外事業を引き継ぐには、準備しなければならないことが山ほどあった。そのおかげで、珍しく伊織のことを考える暇もないまま、気づけば夕方になっていた。社内に残っている人も、もう半分以下になっていた。帰り支度をしていた親しい同僚の安西直人(あんざい なおと)が、通りがかりに私の肩を軽く叩いた。「榊原、彼氏、外でずっと待ってるけど。行かなくていいの?」一瞬、何のことかわからず目を瞬く。すると安西は意外そうに笑った。「さっきからみんな話してたよ。気づいてなかった?てっきり、まだ怒っててわざと放置してるのかと思ってた」冗談めかして「そろそろ上がれよ」と言い残し、安西は荷物を持って先に出ていった。窓際まで歩き、スマホを見る。伊織からの着信が何件も並んでいた。そのあとに届いたメッセージは、さっきまでの苛立ちが嘘みたいに弱気だった。【悪かったって。今日はちゃんと店も予約したから。すごく評判いいところなんだ。もう怒るなよ、な?】まるで子どもの機嫌を取るような文面だった。思わず冷めた笑いがこぼれる。本当に勝手だ。私が必死に
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第4話

私の様子が少し和らいだと思ったのか、伊織はまた楽しそうに話し始めた。「羽純、あそこ見て。東屋があるだろ。カップルがよく写真撮るんだって。今日は空もきれいに入るらしいよ。それから向こう。小さな太鼓橋があるだろ?琴葉、あそこが一番好きなんだ。水の音がよく聞こえるって」その名前を聞いた瞬間、胸がひゅっと縮んだ。それでも顔には出さなかった。伊織のほうが、しまったというように口元を押さえる。「ごめん。わざとじゃない」私は首を横に振った。胸の奥がじわりと痛んだ。気にしない。もう伊織のことで傷つかない。何度そう言い聞かせても、8年も好きだった気持ちは簡単には消えてくれない。最後の食事にまで、琴葉との思い出が入り込んでくるなんて。さすがの伊織も気まずくなったのか、それきり黙って席まで案内した。注文を取りに来たスタッフに、伊織は慣れた様子でいくつも料理を頼んでいく。けれど、私の好きなものは一つもなかった。この8年で、琴葉の好みなら嫌でも覚えてしまった。どれも、あの子の好きなものばかりだ。どこへ来ても、伊織が基準にしているのは琴葉の好みだった。そこだけは、少しも変わらないらしい。今回は何も言わず、料理を待った。しばらくすると、伊織が違和感に気づいたように顔を上げた。「ほかに何か頼みたいものある?」首を横に振る。何年も付き合っているうちに、最初は好きでもなかった味まで、いつの間にか食べ慣れてしまった。自分でも呆れる。スタッフが離れていくと、伊織は急にもじもじし始めた。頬まで赤くなっている。どうしたのかと聞こうとした、そのとき。伊織が得意げに、小さなケースを取り出した。中には、二つの指輪が並んでいた。「羽純。何度も約束を破ったのは、本当に悪かったと思ってる。琴葉は体が弱いし、家族もずっと遠くに住んでる。こっちで頼れるのが俺くらいだから、放っておけなかったんだ。羽純がそんなに結婚にこだわるなら、先に指輪だけでもつけようよ。婚姻届を出してないだけで、別に何も変わらないだろ?……どう?」最後の一言だけ、少し慎重だった。私が機嫌を損ねないか、様子を見ているのだろう。思わず苦い笑いが漏れた。目の前の伊織には、不思議なくらい自信がある。きっと私が受
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第5話

店を出てしばらくして、ようやく私のことを思い出したのか、伊織から申し訳程度のメッセージが届いた。【羽純、琴葉が具合悪くなったから、病院まで送ったらすぐ戻る。具合悪いんだから、琴葉にまで怒るなよ。俺が好きなのは羽純だけだから】もう何度聞いたかわからない。琴葉は病気だから、私が我慢しろと言われる。いつもそうだった。でも、私は琴葉に何の借りもない。ましてや、具合が悪いふりをしているだけならなおさらだ。たとえ本当に具合が悪かったとしても、私が琴葉のために我慢する義理はない。以前、共通の知人たちに琴葉のことをそれとなく聞いたことがある。生まれつき心臓に持病はあるものの、子どもの頃に手術を受け、その後もきちんと診てもらっているらしい。少なくとも、毎日のように倒れるほど状態が悪いとは聞いていなかった。それなのに、琴葉が具合を悪くする日は、なぜかいつも決まっていた。私の誕生日。二人の記念日。そして、婚姻届を出しに行く日。ここまで重なると、さすがに偶然とは思えない。まるで自分でタイミングを選んでいるみたいだと、疑いたくもなった。それ以上メッセージは見ず、私は一人で店内の景色を写真に収めた。改めて見ると、本当にきれいな店だった。東屋に小さな庭、池の水面には魚が泳ぎ、木々の間からは鳥の声が聞こえる。何より、ここにはたくさんの恋人たちの思い出が残っていた。撮った写真をまとめてインスタに載せ、一言だけ添える。【誰かの幸せを眺めるのも、悪くないのかも】すると、まるで張り合うように、琴葉もすぐ新しい写真を何枚か投稿した。【つらくなるたび、誰より先に来てくれる】写真の琴葉は伊織の肩にもたれ、二人は手までしっかり重ねていた。どう見ても、恋人同士にしか見えない。スマホを握る手に、思わず力が入る。私は画面を伏せ、もう一度席に座った。琴葉はもう病院に着いている。なら、伊織もそろそろ戻ってくるはずだと思った。8年も一緒にいたのだから、最後くらいはきちんと顔を見て、穏やかに終わらせたかった。けれど、閉店の時間になっても伊織は戻ってこなかった。途中で一度メッセージも送った。返事はなかった。結局、私はまた、自分がどれだけ後回しにされているのかを思い知らされただけだった。店を出ると夜気
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第6話

そう言い切った瞬間、ずっと胸の奥にのしかかっていた重たいものが、すっと消えていった。これが、私たちには一番いい終わり方なんだと思った。もうお互いの人生に口を出さない。私は自分の未来へ進み、伊織は伊織で好きに生きればいい。「俺は認めない。羽純、俺を置いていくなよ!」伊織は明らかに取り乱し、思わず声まで大きくなっていた。私のことで、こんなふうに余裕をなくす伊織を見るのは初めてだった。それでも、嬉しいとは思えない。昔なら、こんなふうに引き止められたら嬉しかったはずだ。でも今は、何を言われてももう心に入ってこない。「私のことに、伊織の許可はいらないよ。もう終わりにしよう。せめて最後くらい、きれいに別れよう」8年も一緒にいた相手だ。できることなら、これ以上みっともなく揉めたくなかった。それでも伊織は諦めず、私の手をつかんだ。昨日渡そうとしていた、あの指輪をつけているか確かめたいらしい。でも昨日の私は、そんな遅すぎた贈り物を見る余裕すらなかった。ケースごと置き去りにしたままだ。それに気づいた途端、伊織の目から涙がこぼれた。ぽたぽたと落ちた雫が、つかまれた手の甲を濡らしていく。「羽純、行かないで。お願いだから。俺、羽純がいないと無理だよ。そんなに結婚したいなら、明日すぐ婚姻届を出しに行こう。今度こそ、何があっても途中でいなくなったりしない。約束するから。だから、行かないでくれない?」伊織は私の顔色をうかがいながら、必死にすがっていた。その姿を見て、ふと思う。昔の私も、こんな顔をしていた。一度でいいから、こっちを見てほしくて。伊織の顔色ばかりうかがっていた。私は迷わず、その手を振りほどいた。「もう好きじゃないの。長く一緒にいれば倦怠期も来るっていうけど、8年もあれば、どんなに好きだった気持ちだって擦り減るよ。私はもう、全部使い切った。だから、ここで終わりにしよう」できるだけ穏やかに伝えたつもりだった。それなのに、伊織の泣き声はますます大きくなった。「でも俺は羽純が好きなんだよ。本当に悪かった。羽純の気持ちを全然考えてなかった。今からでも婚姻届を出しに行こう。お願いだから、俺を置いていかないで」泣き顔はぐしゃぐしゃだった。いつも余裕があっ
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第7話

以前のように私が慰めることも、涙を見て心配することもないと気づいたのだろう。伊織は乱暴に涙を拭うと、それ以上何も言わず、黙って会社まで車を走らせた。さっきまでの勢いが嘘のように、すっかりしょげている。でも、もう私には関係のないことだった。会社に着いても、伊織はすぐには帰ろうとしなかった。名残惜しそうにこちらを見て、ためらいがちに口を開く。「今日、仕事終わったら迎えに来てもいい?」愛されていないと気づいた途端、伊織はこんなにも慎重になった。私は小さくうなずいた。一緒にいるのも、あと数日。8年分の情くらいは残っている。せめて最後は穏やかに過ごしたかった。「うん」伊織はぱっと笑った。相変わらず、笑うときれいな顔をしている。けれど、それを見ても心は少しも動かなかった。その様子を上司に見られていたらしい。私が気持ちを変えたのではないかと心配したのか、その日は何度も遠回しに海外赴任の話を確認された。あまりにわかりやすくて、思わず笑ってしまう。「大丈夫です。ちゃんと行きますよ。私のためでもあるし、伊織のためでもありますから」伊織が自分で決められないなら、私が決めればいい。上司はようやく安心したように笑い、それ以上は何も言わなかった。窓の外はよく晴れていた。私の気持ちも、不思議なくらい軽い。伊織への気持ちを手放しただけで、こんなにも楽になれるんだ。午後、約束どおり伊織が迎えに来た。どこか落ち着かない顔をしている。一日中メッセージを送ってきていたけれど、私は一つも開かなかった。返事もしていない。怒っていると思ったのだろう。それでも、ちゃんと迎えには来たらしい。特に説明することもなく、黙って車に乗り込む。後部座席には、大きな花束が置かれていた。今度はバラじゃない。私が一番好きなフリージアだった。「インスタ、昔の投稿まで見たんだ。羽純が一番好きなの、フリージアだったんだな」伊織は少し気まずそうに笑った。「今までごめん。俺、羽純のこと、ちゃんと見てなかった」「もういいよ。過ぎたことだし、謝らなくていい」あの頃のことを、もうわざわざ思い返したくなかった。花束にも目を向けない。欲しかったときには、一度ももらえなかった。今さら差し出されて
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第8話

あのときは、私たちの間に割り込んでいるのは琴葉のほうじゃないの、と言い返したかった。でも、また傷つくのが怖くて、結局何も言えなかった。今、その言葉をそっくり返された伊織は、みるみる顔を青ざめさせた。手から飴が落ち、地面にぶつかって二つに割れる。これでよかったのだと思う。もし最初からこんなふうに終わっていたなら、あれほど長い間、苦しまずに済んだのかもしれない。人が行き交う広場を背に、私はそのまま家へ向かった。伊織はその場に立ち尽くしていたけれど、振り返らなかった。家に着くと、部屋は珍しいほどきれいに片づいていた。家事をするたびに面倒だ、疲れたと文句ばかり言っていた伊織がやったとは思えないくらいだ。変わろうとしているのかもしれない。それはそれでいい。これからは、自分のことは自分でやればいい。それだけのことだ。ひと眠りして目を覚ますと、伊織が帰っていた。私を待っていたらしく、目は真っ赤だった。「何かあるの?」少し距離を取ったまま聞いた。伊織は鼻をすすり、小さな声で言う。「俺たち、もうこんなに他人みたいになっちゃったの?」今さら聞くまでもないことだった。私は少し首を傾げ、その先を待った。「一緒に行ってほしいところがあるんだ。最後のお願いだと思って、付き合ってくれない?」しばらく考えてから、私はゆっくりうなずいた。海外へ発つ前日、伊織に連れられてやって来たのは、白凪寺だった。ここは昔、私が伊織に想いを伝えた場所だ。あの頃は、ずっと一緒にいられますようにと仏様に手を合わせた。頭の中には伊織しかいなくて、二人には当然、同じ未来があると思っていた。それなのに今、同じ場所を訪れた理由は別れるためだ。あの日願ったご縁も、ここまでだったらしい。伊織はそんな私の気持ちには気づいていないのか、リュックを背負い直して前を向いた。「やっぱり、歩いて上ろう」山の麓から寺まで、長い石段が続いている。見上げても終わりが見えないほどだった。伊織はもともと山歩きが好きじゃない。初めて来たときは、私が何度も頼み込んで、「無理はさせないから。ちゃんと私がついてるから」と何度も約束して、ようやく一緒に上ってくれた。それが最後になって、自分から歩くと言い出すなんて。私は特
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第9話

伊織は、掛けられた絵馬を一枚ずつ確かめ始めた。何年も前のものが残っているはずなんてない。それでも、私たちの名前を探さずにはいられないらしい。参拝客が何組も入れ替わる中、指がつりそうになるまで探し続けても、結局見つからなかった。「ない……本当にない。なんでだよ……」伊織はその場にしゃがみ込み、泣きながら、さっきの鍵を強く握りしめた。「ずっと好きでいるって言っただろ。羽純が言ったんじゃないか。琴葉とは、もうしばらく連絡を取ってない。これからは必要なら家族や専門のサポートを頼んでもらう。もう俺がつきっきりになることもない。俺も一緒に海外へ行くよ。向こうで、二人だけで暮らそう。な?」上ってきた石段を振り返ると、昔のことが次々と思い出された。けれど、思い返してみても、幸せだった記憶はあまりにも少ない。残っているのは、伊織に責められたことや、苦しくて一人で泣いた夜ばかりだった。「それでも嫌なら、今ここで琴葉をブロックする。連絡先も全部消すから。それならいいだろ?」伊織が焦ったようにスマホを操作し始めた、そのときだった。すぐそばから声がした。「そこまで私のこと嫌いなの?連絡先すら残してくれないの?」振り向くと、青ざめた顔の琴葉が立っていた。どうやら彼女も自分の足でここまで上ってきたらしい。肩で大きく息をしながら、今にも倒れそうな顔で伊織を見つめている。「なんで来たんだよ。無理な運動はするなって言われてるだろ」伊織は眉を寄せた。「もう何度も言ったよな。俺は琴葉を恋愛対象として見てない。ただの友達だよ。俺が好きなのは、最初からずっと羽純だけだ」その言葉に、琴葉の顔からさらに血の気が引いた。目にはみるみる涙が溜まっていく。「約束、破るの?伊織、もう私のこといらないってこと?だったら、どうして今まであんなに体のこと気にしてくれたの?そんなに邪魔なら、いっそ死んだほうがいいじゃない。そうしたら、もう私が二人の邪魔をすることもないし、そのほうがいいんでしょ」感情が高ぶったせいか、琴葉は苦しそうに胸元を押さえた。これまでなら、伊織は真っ先に駆け寄って支えていたはずだ。けれど今回は動かなかった。むしろ、うんざりしたように琴葉を見ている。「その病気は誰のせいでもないだろ。
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第10話

家に戻ると、持っていく荷物をもう一度確認した。外で簡単に食事を済ませ、その夜は早めにベッドに入った。明日からは、まったく新しい生活が始まる。そう思うだけで、少し胸が弾んだ。伊織が帰ってきたのは、ずいぶん遅い時間だった。重たい足音が廊下まで近づき、私の部屋の前で止まる。扉にもたれているのか、そのまま長いこと動く気配がなかった。私は声をかけなかった。扉一枚を挟んだまま、最後の夜が過ぎていった。翌朝、部屋を出ると、ふわりと食べ物の匂いが漂ってきた。「少し食べてから行けば?まだ時間あるだろ」伊織の声は、不思議なくらい穏やかだった。まるで私が少し旅行にでも出るだけみたいに。私はスーツケースを引きながら、首を横に振った。こんな朝を、8年間ずっと思い描いていた。出かける前に伊織が何か用意してくれて、当たり前のように気遣ってくれる。欲しかった頃には一度も手に入らなかったものだ。今さら心を揺らされたくなかった。伊織は引き止めず、テーブルの上に置いてあった車の鍵を手に取った。「荷物もあるし、タクシーより車のほうが楽だろ。この車だって羽純のだし……最後くらい送らせて。部屋も数日中にちゃんと片づけて、俺が出ていくから」私はうなずいた。これで本当に、きれいに終われる気がした。けれど、空港で別れる直前になって、伊織はとうとう堪えきれなくなったらしい。私の手を強く握り、涙をぼろぼろこぼした。「羽純、本当に悪かった。俺が間違ってた。だから……許してくれない?一緒に海外へ行くのが嫌なら、行かない。仕事の邪魔になるっていうなら、ここで待ってる。羽純が帰ってくるまで、ずっと待つから。俺、本当に羽純が好きなんだよ。羽純が帰ってきたら、今度こそすぐ婚姻届を出す。だから、俺を捨てないで」ーー捨てないで。その言葉は、この8年間、私が何度も心の中で飲み込んできたものだった。今になって、伊織が同じ言葉を口にしている。私の手を離そうとせず、必死にすがりついている。私は深く息を吸った。この8年の間に、たった一度でも伊織が琴葉から目を離して、私のほうを見てくれていたなら。きっと、ここまでにはならなかった。でも今はもう、好きじゃない。だったら、これ以上すがっても意味はない。
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