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5年ぶりに、私はこの街へ戻ってきた。両親もすっかり年を取り、最近では電話のたびに「そろそろ結婚は考えてないの?」と言うようになった。海外赴任も5年目に入り、会社から有休と特別休暇を合わせて2か月ほど休みをもらえた。久しぶりに、日本で両親とゆっくり過ごせる。荷物はいったん、昔伊織と暮らしていた、私名義のマンションへ運び込んだ。5年も留守にしていたはずなのに、室内は妙にきれいだった。誰かが掃除していたようにも見える。気のせいだろうか。そんなことを考えていると、すでにこちらへ向かっていた両親から電話が入った。【もう水凪中央駅に着くから、迎えに来て】車は使わず、タクシーで駅へ向かった。この5年間も、ビデオ通話では何度も両親の顔を見ていた。けれど、画面越しに見るのと、実際に会うのとでは全然違う。久しぶりに並んで歩いて、初めて気づいた。二人とも、本当に年を取ったんだ。そろそろ私も落ち着いたほうがいいのかもしれない。いっそ母に誰か紹介してもらおうかな。そんなことまで考えていたところへ、やけに堂々とした招かれざる客がやって来た。海外で仕事をするようになってから知り合った仕事仲間。理人だ。若くして会社を任されるほど仕事ができる。しかも実家も裕福だ。本人に言えば調子に乗りそうだけど、かなり恵まれた男だと思う。そして母は、そんな理人をひと目で気に入った。会ったばかりだというのに隣へ座らせ、仕事はどうだ、ちゃんと食べているのかと世話を焼いている。しまいには、「理人くんみたいな人が羽純のお婿さんになってくれたら、お母さん安心なんだけどねえ」などと言い出す始末だった。どう見ても、すっかりその気になっている。私は内心焦りながら、夕食が終わるのを待ち、理人の腕をつかんで外へ連れ出した。「ちょっと、それずるいでしょ。もう帰って」この5年間、理人には何度も気持ちを伝えられてきた。かなり熱心に口説かれたこともあれば、断ってもめげずに何度もアプローチしてきたこともある。それでも私は、過去のことを引きずったまま、なかなか次の恋に踏み出せずにいた。すると理人は、急に家のほうを向いて声を張り上げた。「お母さーん!娘さんに追い出されそうなんですけど!」「ちょっと!」母
家に戻ると、持っていく荷物をもう一度確認した。外で簡単に食事を済ませ、その夜は早めにベッドに入った。明日からは、まったく新しい生活が始まる。そう思うだけで、少し胸が弾んだ。伊織が帰ってきたのは、ずいぶん遅い時間だった。重たい足音が廊下まで近づき、私の部屋の前で止まる。扉にもたれているのか、そのまま長いこと動く気配がなかった。私は声をかけなかった。扉一枚を挟んだまま、最後の夜が過ぎていった。翌朝、部屋を出ると、ふわりと食べ物の匂いが漂ってきた。「少し食べてから行けば?まだ時間あるだろ」伊織の声は、不思議なくらい穏やかだった。まるで私が少し旅行にでも出るだけみたいに。私はスーツケースを引きながら、首を横に振った。こんな朝を、8年間ずっと思い描いていた。出かける前に伊織が何か用意してくれて、当たり前のように気遣ってくれる。欲しかった頃には一度も手に入らなかったものだ。今さら心を揺らされたくなかった。伊織は引き止めず、テーブルの上に置いてあった車の鍵を手に取った。「荷物もあるし、タクシーより車のほうが楽だろ。この車だって羽純のだし……最後くらい送らせて。部屋も数日中にちゃんと片づけて、俺が出ていくから」私はうなずいた。これで本当に、きれいに終われる気がした。けれど、空港で別れる直前になって、伊織はとうとう堪えきれなくなったらしい。私の手を強く握り、涙をぼろぼろこぼした。「羽純、本当に悪かった。俺が間違ってた。だから……許してくれない?一緒に海外へ行くのが嫌なら、行かない。仕事の邪魔になるっていうなら、ここで待ってる。羽純が帰ってくるまで、ずっと待つから。俺、本当に羽純が好きなんだよ。羽純が帰ってきたら、今度こそすぐ婚姻届を出す。だから、俺を捨てないで」ーー捨てないで。その言葉は、この8年間、私が何度も心の中で飲み込んできたものだった。今になって、伊織が同じ言葉を口にしている。私の手を離そうとせず、必死にすがりついている。私は深く息を吸った。この8年の間に、たった一度でも伊織が琴葉から目を離して、私のほうを見てくれていたなら。きっと、ここまでにはならなかった。でも今はもう、好きじゃない。だったら、これ以上すがっても意味はない。
伊織は、掛けられた絵馬を一枚ずつ確かめ始めた。何年も前のものが残っているはずなんてない。それでも、私たちの名前を探さずにはいられないらしい。参拝客が何組も入れ替わる中、指がつりそうになるまで探し続けても、結局見つからなかった。「ない……本当にない。なんでだよ……」伊織はその場にしゃがみ込み、泣きながら、さっきの鍵を強く握りしめた。「ずっと好きでいるって言っただろ。羽純が言ったんじゃないか。琴葉とは、もうしばらく連絡を取ってない。これからは必要なら家族や専門のサポートを頼んでもらう。もう俺がつきっきりになることもない。俺も一緒に海外へ行くよ。向こうで、二人だけで暮らそう。な?」上ってきた石段を振り返ると、昔のことが次々と思い出された。けれど、思い返してみても、幸せだった記憶はあまりにも少ない。残っているのは、伊織に責められたことや、苦しくて一人で泣いた夜ばかりだった。「それでも嫌なら、今ここで琴葉をブロックする。連絡先も全部消すから。それならいいだろ?」伊織が焦ったようにスマホを操作し始めた、そのときだった。すぐそばから声がした。「そこまで私のこと嫌いなの?連絡先すら残してくれないの?」振り向くと、青ざめた顔の琴葉が立っていた。どうやら彼女も自分の足でここまで上ってきたらしい。肩で大きく息をしながら、今にも倒れそうな顔で伊織を見つめている。「なんで来たんだよ。無理な運動はするなって言われてるだろ」伊織は眉を寄せた。「もう何度も言ったよな。俺は琴葉を恋愛対象として見てない。ただの友達だよ。俺が好きなのは、最初からずっと羽純だけだ」その言葉に、琴葉の顔からさらに血の気が引いた。目にはみるみる涙が溜まっていく。「約束、破るの?伊織、もう私のこといらないってこと?だったら、どうして今まであんなに体のこと気にしてくれたの?そんなに邪魔なら、いっそ死んだほうがいいじゃない。そうしたら、もう私が二人の邪魔をすることもないし、そのほうがいいんでしょ」感情が高ぶったせいか、琴葉は苦しそうに胸元を押さえた。これまでなら、伊織は真っ先に駆け寄って支えていたはずだ。けれど今回は動かなかった。むしろ、うんざりしたように琴葉を見ている。「その病気は誰のせいでもないだろ。
あのときは、私たちの間に割り込んでいるのは琴葉のほうじゃないの、と言い返したかった。でも、また傷つくのが怖くて、結局何も言えなかった。今、その言葉をそっくり返された伊織は、みるみる顔を青ざめさせた。手から飴が落ち、地面にぶつかって二つに割れる。これでよかったのだと思う。もし最初からこんなふうに終わっていたなら、あれほど長い間、苦しまずに済んだのかもしれない。人が行き交う広場を背に、私はそのまま家へ向かった。伊織はその場に立ち尽くしていたけれど、振り返らなかった。家に着くと、部屋は珍しいほどきれいに片づいていた。家事をするたびに面倒だ、疲れたと文句ばかり言っていた伊織がやったとは思えないくらいだ。変わろうとしているのかもしれない。それはそれでいい。これからは、自分のことは自分でやればいい。それだけのことだ。ひと眠りして目を覚ますと、伊織が帰っていた。私を待っていたらしく、目は真っ赤だった。「何かあるの?」少し距離を取ったまま聞いた。伊織は鼻をすすり、小さな声で言う。「俺たち、もうこんなに他人みたいになっちゃったの?」今さら聞くまでもないことだった。私は少し首を傾げ、その先を待った。「一緒に行ってほしいところがあるんだ。最後のお願いだと思って、付き合ってくれない?」しばらく考えてから、私はゆっくりうなずいた。海外へ発つ前日、伊織に連れられてやって来たのは、白凪寺だった。ここは昔、私が伊織に想いを伝えた場所だ。あの頃は、ずっと一緒にいられますようにと仏様に手を合わせた。頭の中には伊織しかいなくて、二人には当然、同じ未来があると思っていた。それなのに今、同じ場所を訪れた理由は別れるためだ。あの日願ったご縁も、ここまでだったらしい。伊織はそんな私の気持ちには気づいていないのか、リュックを背負い直して前を向いた。「やっぱり、歩いて上ろう」山の麓から寺まで、長い石段が続いている。見上げても終わりが見えないほどだった。伊織はもともと山歩きが好きじゃない。初めて来たときは、私が何度も頼み込んで、「無理はさせないから。ちゃんと私がついてるから」と何度も約束して、ようやく一緒に上ってくれた。それが最後になって、自分から歩くと言い出すなんて。私は特
以前のように私が慰めることも、涙を見て心配することもないと気づいたのだろう。伊織は乱暴に涙を拭うと、それ以上何も言わず、黙って会社まで車を走らせた。さっきまでの勢いが嘘のように、すっかりしょげている。でも、もう私には関係のないことだった。会社に着いても、伊織はすぐには帰ろうとしなかった。名残惜しそうにこちらを見て、ためらいがちに口を開く。「今日、仕事終わったら迎えに来てもいい?」愛されていないと気づいた途端、伊織はこんなにも慎重になった。私は小さくうなずいた。一緒にいるのも、あと数日。8年分の情くらいは残っている。せめて最後は穏やかに過ごしたかった。「うん」伊織はぱっと笑った。相変わらず、笑うときれいな顔をしている。けれど、それを見ても心は少しも動かなかった。その様子を上司に見られていたらしい。私が気持ちを変えたのではないかと心配したのか、その日は何度も遠回しに海外赴任の話を確認された。あまりにわかりやすくて、思わず笑ってしまう。「大丈夫です。ちゃんと行きますよ。私のためでもあるし、伊織のためでもありますから」伊織が自分で決められないなら、私が決めればいい。上司はようやく安心したように笑い、それ以上は何も言わなかった。窓の外はよく晴れていた。私の気持ちも、不思議なくらい軽い。伊織への気持ちを手放しただけで、こんなにも楽になれるんだ。午後、約束どおり伊織が迎えに来た。どこか落ち着かない顔をしている。一日中メッセージを送ってきていたけれど、私は一つも開かなかった。返事もしていない。怒っていると思ったのだろう。それでも、ちゃんと迎えには来たらしい。特に説明することもなく、黙って車に乗り込む。後部座席には、大きな花束が置かれていた。今度はバラじゃない。私が一番好きなフリージアだった。「インスタ、昔の投稿まで見たんだ。羽純が一番好きなの、フリージアだったんだな」伊織は少し気まずそうに笑った。「今までごめん。俺、羽純のこと、ちゃんと見てなかった」「もういいよ。過ぎたことだし、謝らなくていい」あの頃のことを、もうわざわざ思い返したくなかった。花束にも目を向けない。欲しかったときには、一度ももらえなかった。今さら差し出されて
そう言い切った瞬間、ずっと胸の奥にのしかかっていた重たいものが、すっと消えていった。これが、私たちには一番いい終わり方なんだと思った。もうお互いの人生に口を出さない。私は自分の未来へ進み、伊織は伊織で好きに生きればいい。「俺は認めない。羽純、俺を置いていくなよ!」伊織は明らかに取り乱し、思わず声まで大きくなっていた。私のことで、こんなふうに余裕をなくす伊織を見るのは初めてだった。それでも、嬉しいとは思えない。昔なら、こんなふうに引き止められたら嬉しかったはずだ。でも今は、何を言われてももう心に入ってこない。「私のことに、伊織の許可はいらないよ。もう終わりにしよう。せめて最後くらい、きれいに別れよう」8年も一緒にいた相手だ。できることなら、これ以上みっともなく揉めたくなかった。それでも伊織は諦めず、私の手をつかんだ。昨日渡そうとしていた、あの指輪をつけているか確かめたいらしい。でも昨日の私は、そんな遅すぎた贈り物を見る余裕すらなかった。ケースごと置き去りにしたままだ。それに気づいた途端、伊織の目から涙がこぼれた。ぽたぽたと落ちた雫が、つかまれた手の甲を濡らしていく。「羽純、行かないで。お願いだから。俺、羽純がいないと無理だよ。そんなに結婚したいなら、明日すぐ婚姻届を出しに行こう。今度こそ、何があっても途中でいなくなったりしない。約束するから。だから、行かないでくれない?」伊織は私の顔色をうかがいながら、必死にすがっていた。その姿を見て、ふと思う。昔の私も、こんな顔をしていた。一度でいいから、こっちを見てほしくて。伊織の顔色ばかりうかがっていた。私は迷わず、その手を振りほどいた。「もう好きじゃないの。長く一緒にいれば倦怠期も来るっていうけど、8年もあれば、どんなに好きだった気持ちだって擦り減るよ。私はもう、全部使い切った。だから、ここで終わりにしよう」できるだけ穏やかに伝えたつもりだった。それなのに、伊織の泣き声はますます大きくなった。「でも俺は羽純が好きなんだよ。本当に悪かった。羽純の気持ちを全然考えてなかった。今からでも婚姻届を出しに行こう。お願いだから、俺を置いていかないで」泣き顔はぐしゃぐしゃだった。いつも余裕があっ