All Chapters of 私を見捨てた男は、仮面をつけてもう一度愛を取り戻す: Chapter 11 - Chapter 20

22 Chapters

第11話

時を同じくして、羅生街付近にある廃棄された港。二つの勢力が明確に分かれて対峙しており、空気には濃厚な火薬の匂いが立ち込めていた。「麻衣さん、もう持ちこたえられないっすよ!」顔に傷のある若い子分が荒い息を吐きながら、最前線に立つ麻衣に向かって低い声で叫んだ。麻衣は口元の青痣を歪め、力を失いかすかに震える手で鉄パイプを握りしめていた。しかしその眼光は依然として鋭く、向かい側に立つ派手な柄のシャツを着た男――現在西区に居座る新興勢力のトップ、柴田健(しばた けん)を睨みつけていた。「持ちこたえられなくても、持ちこたえるんだよ!」麻衣は血の混じった唾を吐き捨てた。「この港は、昔、真白が命懸けで手に入れた場所なんだ!あの子が私たちに残してくれた最後の形見だよ!ここを失ったら、私たちは湊都最大の笑いものになっちまう!」健はふんぞり返って言い放った。「瀬戸、もう意地を張るのはやめろ!真白が死んでからもう二年だ!獅堂も逃げちまっただろうが!今の湊都はすっかり変わっちまったんだよ!大人しくこの港を明け渡せば、お前らの命くらいは助けてやるぜ!」彼の背後にいる子分たちも同調して騒ぎ立て、汚い言葉が次々と飛び交った。「ふざけんな!」麻衣は怒鳴り、鉄パイプを振り回して最後の戦いに挑もうとしたが、隣にいた仲間に必死に羽交い締めにされた。「麻衣さん!行かないでください!相手が多すぎます!」士気が下がり切っていくのを見て、麻衣の心に深い悲哀が湧き上がった。――真白、ごめん。あんたの最後のシマすら、守ってやれなかった。ちょうどそのとき、ひとつの人影が後方の暗がりから音もなく現れた。箱にもたれて息を切らしている仲間の頭から野球帽を奪い取ると、素早い動作で自分の頭に被り、深く目を隠した。「おい!お前……」その仲間は呆気にとられた。しかしその人物は、すでに鬼神のごときスピードで飛び出しており、その目標は群衆の中央にいる健へと一直線に向けられていた。「何者だ!」「止めろ!」健の手下たちが反応し、刃物を振り回して立ち塞がった。だが帽子を被ったその人物の動きは俊敏そのもので、パンチを繰り出し刃物を奪う動作は流れるようにスムーズだった。無駄な動きは一切なく、その冷酷なまでの的確さは背筋が凍るほどだった。一度攻撃を仕掛けるた
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第12話

真白の帰還の知らせは、湊都で長く静まり返っていた暗流に大きな波紋を呼んだ。彼女は残った仲間たちを引き連れてシマの掃除を始めた。そのやり方は二年前よりもさらに果断で容赦がなかった。栄介は、ほぼ真っ先に彼女の元を訪れた。午後の日差しがガラス窓から差し込み、空気の中には昔を思わせる埃が漂っていた。栄介は、以前よりも冷ややかな雰囲気を纏う真白を見つめた。「本当に、お前なんだな」彼の声はかすれ、信じられないという思いと、抑えきれない興奮が入り混じっていた。「みんながお前のことを……いや、生きて帰ってきてくれてよかった」真白は彼のために温かいお茶を淹れ、不自由そうに動く彼の足に視線を落とし、眼差しを凝らした。栄介は彼女の視線に気づき、苦笑して自ら説明した。「二年前にお前が崖から落ちて、迅が姿を消した時、あのハイエナどもが一斉に噛み付いてきて、シマを奪おうとしたんだ。俺があいつの代わりに何かを守らなきゃならなかった。片足を悪くして、あいつの勢力の半分を守れたんだ。安いもんさ」彼は真白を見つめ、懐かしむような声で言った。「俺たち三人が初めて名を上げ始めた頃のこと、覚えてるか?羅生街の雨漏りするボロい屋根裏部屋に集まって、一番安いビールを分け合ってさ。下に見える街の灯りに向かって、いつかこの湊都を丸ごと手に入れてやるって誓ったよな」彼は言葉を区切り、苦々しい口調になった。「それが今じゃ……お前は生死の境をさまよってようやく帰ってきて、迅は行方不明。俺は足を引きずる役立たずになっちまった。真白、俺たち三人に、また昔みたいに星見山の山頂に座り、うまい酒を飲む日は来ると思うか?」真白は黙ったままだった。窓の外の喧騒が、まるで別世界のように隔絶されている。しばらくして、彼女は口を開いた。「その足は、最高の医者に診てもらえるよう手配するわ」彼女は立ち上がり、立ち去ろうとした。「真白!」栄介は慌てて彼女を引き留め、懇願するように言った。「お前が迅を恨んでいるのは分かってる。水瀬佳純のことでな。でもあいつには、どうしようもない事情があったんだ。水瀬家は見かけほど単純な一族じゃない。水瀬誠一郎は、迅の母親に関する不名誉な証拠を握っていて……」真白は静かに聞いていた。顔には一切の表情がなく、まるで自分とは無関係
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第13話

湊都。真白の名義で新しく統合された貿易会社のビルの前は、人でごった返していた。迅はあのシルバーグレーの仮面をつけ、群衆の端に立って、見慣れた回転ガラス扉を見つめていた。胸の中で心臓が激しく脈打っている。故郷に近づくにつれて募る恐れと怯えが、彼を押し潰しそうだった。叔父の言葉と、二年前の自分の愚かな言動が脳裏に交錯し、足取りは鉛のように重く、前へ進むことを躊躇わせた。そのとき、誰かに肩を叩かれた。「やあ。あんたも面接に来たんだろ?」爽やかな印象の若者が近づいてきて、人懐っこく話しかけてきた。「真白社長は部下にすっげえ優しいんだよ。しかもここは真っ当な会社だから、命懸けでドンパチやる必要もない!たくさんの連中が社長の下で働きたがってるんだぜ!迷ってないで、エントリーしに行こう!」若者は有無を言わさず、迅の腕を引いて受付へ連れていった。書類に記入し終えた直後、足音と挨拶の声が聞こえてきた。「社長!」「麻衣さん!」迅の体は硬直し、勢いよく頭を上げた。中から、真白と麻衣が並んで歩いてくるのが見えた。無駄のない黒のパンツスーツ姿で、長い髪はまとめられ、すっきりとした冷ややかな顎のラインが露わになっていた。2年前と比べて少し痩せたようだが、眉間にあった鋭さは落ち着きを帯びていた。麻衣が隣で何かを話し、彼女は少し顔を傾けて聞いていた。陽の光が彼女に降り注ぎ、見慣れた、それでいてどこか見知らぬ輪郭を浮かび上がらせた。迅は呆然とその場に立ち尽くしていた。群衆を隔て、2年の月日と生死を隔て、言葉に尽くせぬ悔恨と思慕を隔てて、まるで彼女を魂に刻み込むかのように、貪欲にその姿を見つめていた。周囲の喧騒すら遠ざかり、耳をつんざくような自分の心音だけが激しく鳴り響いていた。彼女が、そこにいる。あんなに近くに。そして、あんなに遠くに。迅は無事に一次面接を通過し、会社の平社員となった。下積みからのスタートとはいえ、彼の能力はすぐに並外れたものであることが明らかになった。しかし彼は目立たない周辺の仕事に留まり、不用意に真白に近づくことは避け、目の前にある一つ一つの仕事を全力でこなした。それから1ヶ月後、会社は新しい海上輸送ルートを開拓する急務に迫られていた。重要な貨物の納期に関わる案件だった。相
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第14話

祝賀会の喧騒が潮風にさらわれて薄れていく中、真白は一人で港の端まで歩き、漆黒の海面を見つめていた。麻衣が後を追い、冷えた缶ビールを差し出した。「何を考えてるの?」麻衣が尋ねた。真白はビールを受け取り、冷たい缶の表面を無意識に指先で弄びながら、ぽつりと言った。「この海面、私があの時落ちた場所とそっくりだわ」麻衣は虚を突かれて言葉を失った。真白の声は続いた。「海辺の小さな村で療養していた時、志乃ばあちゃんが聞いてきたの。湊都に、私をひどく悲しませた人がいるのかって」彼女は言葉を区切った。「そうだと答えたわ。すると志乃ばあちゃんは、その人は自分が間違っていたと気づいているのかと聞いてきたの」潮風が吹き抜け、彼女の前髪を揺らす。月明かりに照らされた真白の横顔は、ひどく穏やかで、そしてひどく脆く見えた。「たぶん知らないだろうって、私は答えたの」彼女は顔を上げてビールをひと口飲んだ。「彼は、私が変わってしまったと思っているかもしれないって」少し離れたコンテナの陰で、グラスを握る迅の手にギリッと力がこもった。彼は彼女の姿を追ってここまで来たのだ。ただ遠くから彼女をひと目見たかっただけだったが、思いがけずその言葉を聞いてしまった。真白の視線は底知れぬ暗い海面に落ちており、まるで時を透かして、二年前のあの絶望的な崖を見つめているかのようだった。「実はあの時、彼が私を選んでくれるなんて、本気で期待してはいなかったの」彼女の声は、いつでも風に消えてしまいそうだった。「心はとうに冷え切っていたじゃない?でもその後、ずっと体調が優れない私を見て、志乃ばあちゃんはため息をついたわ。『お嬢ちゃん、病気がこんなに長引いているのは、体じゃなくて心が原因なんだよ』って。私がまだ彼に期待していたからこそ、自らの手で私を見捨てた彼に、あそこまで深く傷つけられたんだって。丸一年間、抜け殻のようになっていた」真白はごく淡い、苦々しい笑みを浮かべた。「最初は反論したわ。違うって。でも後になって分かったの。志乃ばあちゃんの言う通りだった。私が受け入れられなかったのは、彼の選択じゃなくて、私がまだ彼に期待を抱いていたという事実だったのよ」彼女の指先がわずかに曲がり、ビールの缶を強く握りしめた。「最近、何度
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第15話

獅堂迅は「夜」という偽名で、真白の右腕となった。厄介な商業交渉やシマの揉め事も、彼のさりげない采配によって次々と解決し、会社に重要な利益をもたらした。瞬く間に、「真白社長の傍にいる仮面の男・夜」の名は裏社会に知れ渡った。それは当然、他の勢力から目をつけられることにつながった。ある時、西区の商工会長である結城明(ゆうき あきら)が自ら足を運び、目を剥くような条件を提示してきた。独立したシマ、利益の七割、さらには過去を完全に断ち切れる新しい戸籍の用意まで約束するというのだ。真白はちょうど廊下の突き当たりにおり、その会話の一部を耳にした。彼女は壁に寄りかかり、前へは進み出なかった。結城がしてやったりの笑みを浮かべて立ち去った後、真白はゆっくりと近づいていった。「さっきの結城会長の条件、私でさえ心が揺らいだわ。どうして引き受けなかったの?私の下で働くなんて、結局のところ宝の持ち腐れよ」迅は彼女に背を向けていた。その背筋は伸びていたが、どこか孤独な気配を漂わせていた。彼は多くを語らず、ただこう言った。「社長、俺は決して裏切りません」真白はわずかに眉を上げた。この異様なまでの忠誠心を少し面白く思い、一歩近づいて、からかうような口調で言った。「何、私のこと好きなの?」迅の体は硬直した。彼女がこれほどストレートに聞いてくるとはまったく予想していなかったからだ。目に見えて耳まで赤くなり、言葉に詰まり、呼吸すら止まった。真白は、彼が一瞬で慌てふためく様子を見て、吹き出しながら手を振った。「冗談よ。本気にしないで」彼女はきびすを返し、忠告するような口調で言った。「それに、私を好きにならないことね。私には昔、16年も続いた恋があったの」彼女は言葉を区切り、非常に軽い声で、しかし迅の心に重くのしかかる言葉を落とした。「結局、彼はほかの女を選んだわ」その瞬間、迅は息ができないほどの痛みを覚えた。あの日以来、真白は意図的に二人きりになるのを避けているようだった。迅もそのよそよそしさをはっきりと感じていた。会社内で彼女がよく行く場所をくまなく探しても、彼女の姿は見当たらなかった。胸の不安が次第に大きくなり、人脈を使って探りを入れたところ、返ってきた情報に彼の血は逆流しそうになった。真白が
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第16話

湊都の天気は変わりやすい。つい先ほどまで晴れ渡っていたかと思えば、次の瞬間にはラジオから大型台風接近の警報が流れた。真白が海辺の小さな村の志乃ばあちゃんから、泣きそうな声で電話を受けたのは、ちょうど書類にサインをしている時だった。「お嬢ちゃん、大きな重機に乗った連中が来て、村を取り壊すって言うんだよ。リゾート開発だとかでね。村の若い衆が止めに入ったら、あわや殴り合いになりそうで。その上、こんなに風が強くて、波が家の中まで入ってきてるんだよ……」真白の胸はぎゅっと締め付けられ、すぐにペンを投げ出した。あの外界からほぼ隔絶された小さな村は、二年間、湊都の争いから離れた安らぎを与えてくれた。そこは彼女のボロボロになった心が一時的に羽を休めることができた避難所だった。「麻衣!」彼女は車の鍵を手に取って外へ向かいながら、足早に指示を出した。「すぐに人を連れて、あの村に手を出そうとしてる海外の投資家に接触して。相手の素性を洗い出して、できるだけ交渉で時間を稼ぐのよ」「真白、どこへ行く気?」「私は先に村へ行くわ。村の人たちに何かあってからじゃ遅いのよ」「でも台風が来るのよ!」麻衣は焦って引き留めた。「台風が来るからこそ、行かなきゃならないの」真白の口調は有無を言わさず、その姿はすでにエレベーターの前に消えていた。真白は大急ぎで港へ向かい、航路が封鎖される直前の最終便で村へ渡った。海辺の村はすでに嵐に見舞われており、簡素な家屋が嵐の中で揺れ動いていた。数台の大型ショベルカーとレインコートを着た男たちが村人たちと対峙しており、衝突は一触即発の事態だった。「やめなさい!」真白は人混みに飛び込み、震える志乃ばあちゃんたち村人の前に立ちはだかった。雨が瞬く間に彼女の全身を濡らした。彼女は鋭い視線でその集団を睨みつけた。「強引な取り壊しが違法だってことも分からないの?ましてやこんな天候の中で!」先頭にいた男が唾を吐き捨てた。「余計な口出しすんじゃねえ!うちのボスがこの土地を買ったんだよ!」「売買にもルールがあるわ!手続きも済んでいないのに、誰があなたたちに手を出していい権限を与えたの?」真白は一歩も引かなかった。彼女は相手を牽制しつつ、村人たちに家屋の補強と、老人や子どもの避難を指示した。台風
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第17話

台風が過ぎ去った後の村は、見る影もなく荒れ果てていた。麻衣が十分な物資と人員を引き連れて駆けつけ、事後処理の大部分を引き継いだ。村人たちが適切に保護され、再建作業が順調に進み始めたのを見て、真白の数日間張り詰めていた神経がようやく少しほぐれた。連日の極度の緊張と体力的な限界により、彼女はひどい疲労を感じていた。混乱した思考を整理するために、少し一人の時間が必要だった。彼女は村の裏手にある小高い丘のことを思い出した。そこは、彼女が療養していた間、最も気に入っていた場所だった。見慣れた小道を登っていくと、足元の土はまだ雨上がりの湿り気を帯びていた。頂上の平らな岩の上に座り、彼女は遠く広がる果てしない海面を見つめ、少しうつろになっていた。この数日間の出来事。無口だが常に側にいた迅の守護。そして、志乃ばあちゃんが何気なく口にした昔話。それらすべてが、とうに凪いだと思っていたと思っていた彼女の心の湖に、小さな石を投げ込んだように波紋を広げていた。どれくらい経っただろうか、背後からかすかな足音が聞こえてきた。振り向かなくても、誰だか分かっていた。迅が彼女の側に歩み寄り、綺麗な葉で包まれたおにぎりと、水筒に入った真水を無言で差し出した。「少し食べてください」仮面越しに響く彼の声は、わずかにかすれていた。「ここ数日、まともに食事をしているところを見ていません。胃がやられますよ」真白は小さく息を呑んだ。台風が来てから今まで、彼女はほとんど気力だけで持ち堪えており、食事の味すら感じていなかった。あんなに混乱した状況の中で、彼がそんなことまで気にかけていたとは思わなかった。低い声で「ありがとう」と言い、彼女はおにぎりを受け取った。まだほんのりと温かいおにぎりは、シンプルな米の甘みと海苔の香りが混ざり合い、遅れてきた空腹感を呼び起こした。二人は少し距離を置いて、ただ並んで座っていた。時折かすめる海鳥の鳴き声だけが、空白を埋めていた。その沈黙は長く続いた。彼がこのまま日没まで一緒に座っているつもりなのではないかと、真白が思うほど長く。ついに、迅が先に口を開いた。彼の声はとても低く、長い間胸に溜めていた苦い思いを帯びていた。「真白」彼は「社長」と呼ぶようになってから初めて、はっきりと彼女の名
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第18話

「夜!迅!」彼女は咄嗟に本当の名を呼び、自分でも気づかないほど震える声でもう一度叫んだ。相変わらず、死のような静寂だけがあった。一瞬にして全身の血の気が引き、心臓が凍りついた。彼女は必死に顔を横に向け、自分を庇うように覆い被さっている彼の様子を確かめようとした。その時、温かく粘り気のある液体が一滴、また一滴と彼女の頬に落ちてきた。強烈な鉄錆の匂いがする。血だ!彼が怪我をしている!それも、ひどい重傷かもしれない!「迅!起きて!返事をして!」真白は完全に取り乱した。押し潰されて痺れた腕を無理やり動かし、どうにか彼に触れようとして泣きじゃくった。「死ぬなんて許さないからね!聞いてるの!」彼女は何度も何度も彼の名前を叫び続けた。そうすれば、彼を深い昏睡から引き戻せるかのように。脳裏には二年前、海に落ちた時の冷たさと絶望、全世界から見捨てられたようなあの感覚がとめどなくフラッシュバックした。だが今回は、それよりもさらに深い恐怖が入り交じっていた。今この瞬間、命懸けで自分を守ってくれた人を失うかもしれないという恐怖だ。彼女の心がどん底まで沈みかけたその時、極めて微弱な声が耳元で響いた。「……ああ」たったそれだけの短い言葉だったが、真白を瞬時に安堵させた。「目が覚めたのね?!大丈夫?どこか怪我は?」彼女は立て続けに問いかけ、感情のあまり声を詰まらせた。「大丈夫だ」迅の声はとても弱々しく、ひと言発するごとに莫大な体力を削り取っているようだった。「ただ少し、疲れただけだ。救助がいつ来るか分からないな」途切れ途切れの声は、弱々しいながらもある種の落ち着きを帯びており、それがかえって真白を不安にさせた。「必ず来るわ。麻衣たちが、私たちがいなくなったことに気づいて、絶対に見つけてくれる」彼女は胸の恐怖を必死に抑え込み、できるだけ平穏な口調で彼を慰め、そして自分自身にも言い聞かせた。「しっかりして、意識を保つのよ。寝ちゃダメ、分かった?」迅は低く喉を鳴らして答えた。そして、途切れ途切れに話し始めた。まるで何かを言い残すように、あるいは思い出に浸るように。「真白、覚えてるよ。羅生街の夜市……あのりんご飴……お前の笑顔が、すごく綺麗で……隙間風が吹き込む冬の雑居ビル……二人で体を寄せ合
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第19話

真白は消毒液の匂いの中で意識を取り戻した。まぶたを開けると、海辺の小さな村の診療所の見慣れた天井と、志乃ばあちゃんの心配そうな顔が目に入った。「お嬢ちゃん、目が覚めたのかい?!」志乃は涙声でそう言い、慌てて温かいタオルで真白の額を拭った。真白の意識は一瞬で鮮明になった。崩れ落ちた岩、息苦しい暗闇、頬に落ちてきた温かい血。砕けた記憶が怒涛のように押し寄せる。彼女は志乃ばあちゃんの手を勢いよく掴み、弱りきった喉からかすれた声を絞り出した。「あの人は?迅はどうなったの?」志乃は焦りきった真白を見て、そっと息をついた。立ち上がると、真白のベッド脇のカーテンをさっと開ける。隣のベッドには、迅が静かに横たわっていた。顔は青白く、唇からは血の気が失せている。胸には分厚い包帯が巻かれていたが、胸元は規則正しく上下しており、呼吸が落ち着いていることが分かった。「彼は……」真白の心はまだ宙に浮いたままだった。「心配しなさんな。お医者さんは、命に別状はないって言ってたよ。ただ、血を流しすぎたし、肋骨も二本折れてる。しばらくはしっかり休ませなきゃいけないけどね」志乃はそう慰めたあと、何かを思い出したように、感慨深げに続けた。「あんたたち二人は、目を覚ましてから言うことまでそっくりだねえ」真白は不思議そうに眉を寄せた。志乃ばあちゃんは説明した。「あの子はあんたより一時間早く目を覚ましたんだ。まだ目も開けてないのに、最初に言ったのが『真白は?彼女は無事か?』だったよ。あんたは無事だって言っても信じなくてね。自分の目で見るまでは納得しないって聞かなかったんだ。仕方がないから、あの子のベッドをあんたの隣へ移したのさ。あんたの顔をしばらく見つめて、無事だと分かった途端、また気を失っちまったよ」真白の視線は再び迅の顔へ戻った。複雑な感情が胸の奥で渦を巻く。命懸けで守ってくれたことへの感謝なのか。過去に受けた傷への恨みなのか。それとも、自分でも認めたくない、ほんの少しの胸の痛みなのか。志乃ばあちゃんが静かに口を開いた。「お嬢ちゃん、あの子があんたをひどく悲しませた人なんだね?」真白は否定せず、小さく頷いた。志乃は意識を失った迅へ目を向け、さらに尋ねた。「あの子のその怪我も、あんたを庇ったからな
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第20話

湊都の冬。海風は湿った冷気を運んでいたが、港の上空に漂う祝賀の熱気と、硝煙の匂いまでは吹き散らせなかった。行政が主導する港湾再開発プロジェクトの着工式には、名士たちが一堂に会していた。真白は黒いコートをまとって姿を現した。重要な出資者である彼女が会場に入ると、たちまち無数の視線が集まった。2年の歳月を経て、彼女のまとった気配は以前よりも深く、内に秘められたものになっていた。会場を見渡した真白は、貴賓席から注がれる深い視線とぶつかった。男の前に置かれた名札には、流麗な筆致で「黒崎祥哉」と記されている。今日の祥哉は改まった濃色のスーツを着ており、指先ではいつものように、悠然と数珠を繰っていた。人混み越しに真白を一瞥すると、彼はわずかに顔を傾け、隣の執事へ低く囁いた。「どうやら、私の愚かな甥はまだ成功していないようだな」真白の耳は鋭い。その皮肉はひと言一句、漏れなく彼女の耳へ届いた。彼女は足を止めず、まっすぐ祥哉のもとへ歩いていく。そしてすれ違いざま、赤い唇をわずかに開いた。「黒崎先生の躾が厳しいから、彼も私にまとわりつく度胸がないのでしょう。先生にとっては、その方が都合がいいのでは?」祥哉は眉を上げ、目の奥に本物の驚きを浮かべた。低く笑う声は、華やかで艶がある。「葉山さんは、ずいぶん彼を庇うな。自分では冷たくあしらっているくせに、他人が二言三言言うのは許さないらしい」真白は足を止め、横目で祥哉を見た。その表情は凪いだ水面のように静かだった。「私の人間をどう扱うかは私の勝手です。部外者が口を挟むのは許しません」ちょうどその時、スタッフが恭しく真白を席へ案内しに来たため、短くも鋭い応酬はそこで途切れた。祥哉は遠ざかる真白の背中を見つめた。数珠を繰る指先がわずかに止まり、その目の奥に浮かぶ感情は読み取れなかった。式典は滞りなく進み、各方面の代表が挨拶を述べた。真白は客席に座っていたが、心の中まで穏やかだったわけではない。こんな場所で、水瀬夫妻と、その後ろに付き従う佳純に再び会うとは思ってもいなかった。水瀬夫妻は、この計画に招かれた特別技術顧問だった。休憩時間、佳純は控室のテラスで一人、風に当たっていた真白のもとへやってきた。「葉山さん」真白は振り返らなかった。佳純は深く息を吸い、勇
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