私が移植の機会を諦めると言うと、病室には数秒間、静寂が落ちた。最初に我に返ったのは兄だった。彼は眉をひそめて私を見つめ、まるで私がまた何か企んでいるのではないかと疑っているようだった。「本気で言ってる?」私はうなずいた。「本当だよ」私がそう言うと、廊下の奥で待っていた母・篠宮美和(しのみや みわ)が早足に病室へ入ってきた。ずっと外で話を聞いていたのだろう。目はまだ赤かったが、その顔には安堵の色が隠しきれていなかった。「栞、ママは知ってたわ。あなたはやっぱりいい子だね」母はベッドの端に腰を下ろし、私の手を取ろうとした。私は無意識に手を引いた。母の手が宙で止まり、その表情にはたちまち気まずさが浮かんだ。父・篠宮恒一(しのみや こういち)は軽く咳払いをし、その場を取り繕うように口を開いた。「決めたなら、もう後から気が変わったなんて言うな。医者も、陽菜の体はもうこれ以上待たないと言っているから、移植の同意書は今日中にサインしたほうがいい」最初から、書類まで用意してあったんだ。分厚い書類の束が、私の目の前に置かれた。その一番上にあったのは、「心臓移植候補者資格の自主的辞退に関する同意書」だった。私はそこに記された「自主的」という文字を見つめ、ふと笑いたくなった。この3か月、彼らは代わる代わる私を説得した。母は、陽菜はまだ若いのだから、姉として私が譲るべきだと言った。父は、たった一つの移植枠をめぐって家族が争っているなんて、世間に知られれば篠宮家の恥になると言った。兄は、私の医療費を打ち切り、介助をしてくれていた人まで引き上げた。それどころか、私が陽菜から生きるチャンスを奪おうとしているというネット上の声を、否定しようともしなかった。そして今、ようやく私が折れた。だから彼らは、私の気が変わらないうちに、すべてを決定的なものにしようとしていた。私はペンを取り、一枚ずつ書類に署名していった。兄はそばに立ったまま、じっと私の手元を見つめていた。最後の書類に署名を書き終えた瞬間、彼の強張っていた表情がようやく緩んだ。「それでいい」書類を回収すると、兄はわずかに声を和らげた。「陽菜の手術が終わったら、海外の病院も探してあげるから」私はベッドの脇に置かれた病状説明
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