Share

第3話

Author: むぎむぎ
6人部屋に移されて3日目、病院の会計窓口から電話がかかってきた。

預かり金の残高が不足しているという。

私は一瞬、言葉を失った。

これまで父が私の入院費として十分なお金を用意してくれていたからだ。

しかし、係員が確認したところ、残高は昨日の午後に引き出されたらしい。

私は父に電話をかけた。

長くコール音が続いたあと、ようやく父は電話に出た。

向こうからは、輸入の抗拒絶反応薬の価格について話し合う声が聞こえてきた。陽菜が時折何か言うと、父は丁寧に答えていた。

彼らの会話がひと段落してから、ようやく父は私がまだ電話の向こうにいることを思い出したようだった。

「私の入院費、引き出されたんだけど……」

父は気にする様子もなく言った。

「陽菜が術後に使う薬は保険適用外だから、ちょっとそっちから回しただけだ。

君は今、保存療法だろ。そんなにお金はかからない」

私は会計から届いた請求書をぎゅっと握りしめた。

「でも、先生は私、ICUに入る必要があるって……」

父は2秒ほど黙った。次に口を開いたとき、その声にはもう苛立ちが滲んでいた。

「栞、うちの金だって、湧いて出てくるわけじゃないんだぞ。

これまで君の治療に、いくらかかったと思ってる?自分でも分かってるだろ。

陽菜には、これが一度きりのチャンスなんだ。少しくらい分かってやれないのか?」

私にとっても、これが一度きりのチャンスなんだと言いたかった。

けれど、そのとき電話の向こうで、陽菜がふいに「お父さん」と呼んだ。

父はすぐに電話を切った。

結局、費用の支払いは医者が病院側に掛け合い、猶予してもらうことになった。

その日の夜、兄が病室にやってきた。

彼は入ってくるなり、1つのベルベットの箱をベッドの上に放り投げた。

「ブレスレットのこと、陽菜に何か言ったのか?」

私は箱を開けた。

あの星のブレスレットは、2つにちぎれていた。

「お前が欲しがってたって知ったら、陽菜がどうしても外して返すって言って無理に外そうとして、そのときに壊しちまった」

兄の口調は、まるでわがままな子供を叱るようだった。

「栞、陽菜はもうすぐ手術なんだぞ。わざわざ罪悪感を抱えたまま手術を受けさせたいのか?」

私は彼を見つめながら、ふと、ひどく疲れた気持ちになった。

陽菜が涙をこぼせば、悪いのは決まって私だった。

私は箱を兄のほうへ押し返した。

「持って帰って。もういらない」

兄の顔がさらに曇った。

「また何を怒ってるんだ?」

「陽菜が元気だった頃は、お前に何一つ張り合ったことなんてなかっただろ。今は同じ心不全で苦しんでるんだぞ。少しくらい譲ってやれないのか?」

私は思わず笑った。

「私の両親も、兄も、病室も、入院費も、それに生きるチャンスまで、全部譲ったよ。

まだ足りないの?」

兄の顔から、さっと血の気が引いた。

周りの患者たちも、次々とこちらを振り向いた。

彼は声を潜めて、私を脅すように言った。

「まるで家族全員がお前に借りでもあるみたいな言い方をするな。

ここまで生きてこられたのだって、父さんと母さんと俺がいたからだろ。もし俺たちがいなかったら、お前は24歳まで生きられたと思う?」

その言葉が落ちたあと、病室は静まり返った。

私は見慣れた兄の顔を見つめながら、ふと7歳の頃を思い出した。

初めて発作を起こしたあの日、兄は私を背負って3キロも走ってくれた。

彼の背中にしがみつきながら泣いて、「もう二度と、兄ちゃんに迷惑をかけない」と言った。

すると兄は、目を赤くしながら「馬鹿なこと言うな」と叱った。

自分のたった一人の妹なんだから、迷惑なんかじゃないって言った。

それなのに、いつからだろう。私が1日長く生きることさえ、家族が私に与えてくれる恩恵になっていた。

兄も、自分の言葉がきつすぎたことに気づいたらしい。

彼は顔をそむけ、少しだけ口調を和らげた。

「陽菜の手術が無事に終われば、家族もお前のことをちゃんと面倒見られるようになるから。

ここまでずっと耐えてきたんだ。あと数日、我慢できないわけがないだろ」

また、「耐える」という言葉だ。

私が何度も痛みに耐えてきたから、彼らは私が決して倒れないと思っていた。

何度も手術台から目を覚ましてきたから、死ぬなんて、ただ人を怖がらせるための言葉にすぎないと思っていた。

兄が出ていったあと、私は切れたブレスレットをゴミ箱に捨てた。

翌日、看護師が採血に来たとき、私が血を吐き始めていることに気づいた。

医者は強く家族への連絡を求めたから、私は兄の電話番号を伝えた。

1回目、誰も出なかった。

2回目、直接切られた。

6回目になって、ようやく電話がつながった。

医者が私の状態を説明し終わらないうちに、兄が遮った。

「数日前まであんなに元気だったのに、急に悪化するわけがないでしょ。

今日は陽菜の術前検査があるんだから、どうしてもそっちを離れられません」

医者は怒りのあまり、声を荒らげた。

「篠宮栞さんの心機能は、すでに危険なレベルまで低下しています!彼女はいつ心原性ショックを起こしてもおかしくない!」

兄は一瞬、沈黙した。

「……すみませんが、先に彼女のことをお願いします。

陽菜の検査が終わり次第、すぐに向かいますので」

それから、夜が更けるまで待ち続けた。

深夜1時になって、ようやく兄がやってきたけど、私に会いに来たわけではなかった。

兄は私の棚から、銀色のお守りを取り出した。

それは、祖母が亡くなる前に私に残してくれたものだった。

兄は、明日の陽菜の手術に持たせて、無事を祈りたいのだと言った。

私は手を伸ばして箱を押さえた。

「これは、おばあちゃんが私に残してくれたものだよ」

兄は一瞬、戸惑った。

何もかも譲ってきた私が、まさか拒むとは思っていなかったのだろう。

「数日だけだ」

「やだ!」

「栞!」

兄の怒鳴り声が、病室中の患者を目覚めさせた。

私は必死にお守りを握りしめた。

しかし兄は、私の指を一本ずつ無理やりこじ開け、お守りを奪い取った。

「陽菜は明日、手術台に上がるんだぞ。そんなものも惜しいのか?

彼女が無事に終われば、ちゃんと返してやる」

箱の蓋が閉まった瞬間、私の爪が割れ、血が手のひらを伝ってぽたぽたと落ちた。

兄はそれを見たけど、ほんの一瞬足を止めただけだった。結局、そのお守りを持ったまま、病室を出ていった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第9話

    葬儀の後、父は陽菜に家と十分なお金を与え、篠宮家を出ていくよう手配した。母は、私の部屋を改めて片づけ直した。物置の奥から、子供の頃の賞状や薬の箱、そして兄がくれたあのウサギのぬいぐるみを見つけ出した。ぬいぐるみの片方の耳は糸がほつれていた。兄は床に座り込み、不器用な手つきでその耳を縫い直した。そのとき、彼はふと思い出した。子供の頃、病院へ行くたび、私はそのぬいぐるみを抱いていなければ、検査室に入ろうとしなかった。それなのに、いつの間にかみんな忙しくなり、私が入院するとき、大好きだったぬいぐるみさえ持っていけなかったことに、誰も気づかなかった。父は、家にあった古いアルバムを片っ端からめくっていた。写真の中の私は、幼い頃からずっと真ん中にいた。しかし、陽菜が篠宮家に来てから、私の居場所は少しずつ端へと追いやられていった。最初は、母が陽菜を偏愛するようになった。その次は、父が陽菜の肩を持つようになった。そして最後には、兄の視線まで、陽菜にばかり向けられるようになった。父は一晩中、アルバムを見続けた。夜が明ける頃、彼はようやく認めた。——私を失ったのは、突然のことではなくて、長い年月をかけて、彼ら自身が少しずつ私をこの家から追いやっていたのだ。兄は私の写真を持って、海へ行った。そこは、子供の頃、兄がいつか連れて行ってくれると約束してくれた場所だった。「もう少し体が良くなったら、一緒に海を見に行こう」兄はそう言っていた。しかし、その後、陽菜が海へ行きたいと言ったら、兄は先に陽菜を連れて行った。さらにその後、私がその話をしなくなると、彼は私がもう行きたくないのだと思った。海から吹いてきた風が、兄の服の裾を揺らした。兄は縫い直したばかりのウサギのぬいぐるみを抱え、砂浜に長いこと座っていた。「栞。兄ちゃんが、連れてきたぞ」私はその隣に座り、夕陽に金色に染まった海を見つめた。これが、私が初めて海を見たのだ。想像していたよりも、ずっと広かった。兄はうつむき、写真の上に涙を落とした。「もし生まれ変わるなら……もう、俺の妹にはなるな。今度は、本当にお前を大切にしてくれる家族のもとに生まれろ」私は彼を見つめながら、不思議なほど悲しみは湧かなかった。死んでから、私はずっと彼ら

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第8話

    母はふと、私が3歳で初めて手術を受けたときのことを思い出した。あの時、医者から手術のリスクが高いと告げられ、母は私を抱きしめたまま、病院の廊下で一晩中泣いていた。私が手術室へ運ばれていくときも、母はベッドを追いかけて、何度も「お母さんは外で待ってるから」と繰り返した。父もかつては、仕事をすべて後回しにして、毎日私を学校まで送り迎えしてくれた。あの日、授業中に私が倒れると、彼はあまりにも慌てて駆けつけたせいで、靴を左右逆に履いていた。兄にいたっては、小さい頃から私を徹底的に守ってくれた。同級生に「病弱だ」とからかわれれば、兄はすぐに飛びかかって殴り合いになった。私が夜中に発作を起こせば、兄は私を背負って3キロも走った。膝を擦りむいても、決して立ち止まろうとはしなかった。あれほど、みんな私が死ぬことを怖がっていた。それなのに、いつから、怖くなくなったのだろう。母は霊安室のそばにうつ伏せになり、息もできないほど泣いていた。「昔は、私たちが一番、栞を大切にしていたのに。どうして、こんなことになったの?」誰も答えられなかった。たぶん、私が何度も、危険な状態から生き延びてきたからだろう。最初の救急処置のとき、彼らは一晩中、外で見守った。2度目も、まだ震えるほど怖がっていた。けれど、病状が危険になるたび、それを繰り返すうちに、彼らは少しずつ慣れていった。痛みは私の日常なのだと思うようになった。私は普通の人よりも我慢強い人間なのだと思うようになった。いつしか、私が何度も死の淵から戻ってくることさえ、次もまた私を後回しにしていい理由になっていた。そして、陽菜も病気になった。彼女が初めて発作を起こしたとき、ひどく泣いた。母は、陽菜はこれまでこんな苦しみを味わったことがないのだから、きっと私以上に怖いのだと思った。父は、ずっと健康だった陽菜には、突然病気になったという現実を受け止めきれないはずだと思った。兄は、私はもう病院に慣れているが、陽菜は注射の針を見ることすら怖がるのだと思った。だから、私と陽菜のどちらかを選ばなければならないたび、彼らはいつも私にこう言った。「もう少しだけ頑張って。栞は、これまでだってずっと乗り越えてきただろ。陽菜は、栞とは違うんだよ」彼らは

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第7話

    ケーキのナイフが母の手から滑り落ち、床に落ちた。彼女はぼんやりと兄を見つめている。兄の唇が、何度か動いた。「病院から……栞の遺体が、ずっと引き取られないままだって」母は一瞬固まったあと、笑い声を漏らした。「そんなはずないでしょ?栞は転院しただけよ。18歳のときはあれよりずっと病状がひどかったのに、ちゃんと生きて帰ってきたじゃない?」父の顔が青ざめた。「詐欺に決まってる。本当に何かあったなら、どうして半月も経ってから連絡してくるんだ?」兄は何かを思い出したように、慌てて何度か着たあのコートを引き寄せた。ポケットの中には、あの危篤の紙がまだ入っていた。紙は何度も握りしめたせいで、しゃくしゃになっていた。父がそこに印刷された赤い警告文を一目見るなり、声を荒らげた。「お前、危篤のお知らせを受け取ってたのに、どうして先生のところへ行かなかったんだ?」兄はその場に立ち尽くした。「……栞なら、今までみたいに乗り越えると思ってた」その一言が落ちた瞬間、リビングは完全な静寂に包まれた。彼らは着替える暇さえ惜しみ、急いで病院へ向かった。霊安室の扉が開いても、母は何度も繰り返していた。「きっと同じ名前の別の人だよ」けれど、霊安室の冷凍庫が開けられ、その白い布の下から現れたのは、青白く静かな私の顔だった。手首には、はっきりと私の名前と年齢が記された身分確認バンドが巻かれている。母の体がふらりと揺れ、そのまま床に膝をついた。「……栞?」震える手を伸ばしたけど、私の顔に触れる寸前で、その手は止まった。おそらく私の肌があまりにも冷たかったから、その冷たさに触れて、ようやく母は、自分を騙し続けることができなくなった。私は、ただ眠っているわけではないのだと。父は壁に手をつき、手の甲に青筋を浮かんでいた。長い間、私を見つめたあと、ようやく苦しそうに尋ねた。「……どうして、今まで連絡してこなかったんだ?」病院の係員が記録を開いた。「患者さんの救急処置の前後を合わせて、病院からは20回以上、お電話しています。ご家族の皆様の電話は、いずれもつながりませんでした。死亡確認後も、お知らせのSMSを送信いたましたが、どなたもいらっしゃいませんでした」父は慌ててスマホを取り出した。

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第6話

    陽菜が入院していた半月の間、誰も本気で私を探そうとはしなかった。父はアシスタントに私の行方を調べさせたけど、アシスタントが私がもはや元の病棟にいないことだけを報告すると、父は私が勝手に他の病院へ転院したのだと思い込んだ。「わざと俺たちを避けてるんだ」父は陽菜のリハビリ計画書に目を通しながら、冷たい顔で言った。「こうすれば、俺たちがあいつを見捨てたことを後悔すると思ってるんだろう」しかし、母はどこか落ち着かなかった。「でも、栞が出ていったとき、まだ処置を受けていたんでしょう?本当に一人で転院の手続きなんてできるの?」父は答えなかった。兄は窓辺に立ち、黙ったまま私とのメッセージ画面を見つめていた。最後に届いていたのは、なぜブレスレットを陽菜に譲らないのかと、兄が私を責めたメッセージだった。陽菜はすぐに母の手を握り、目を赤くしながら尋ねた。「お姉ちゃん、まだ私のこと怒ってるのかな?私がいなかったら、お姉ちゃんも出ていかなくて済んだのに」母はすぐに不安そうな顔を引っ込め、優しく陽菜を慰めた。「陽菜のせいじゃないよ。移植の機会は栞が自分から譲ったの。誰も無理強いなんてしてないわ」私はベッドの向こう側に立ちながら、その言葉が馬鹿げていると思った。確かに、彼らは私の首にナイフを当てて脅したわけじゃなかった。ただ、何度も言った。陽菜はまだ20歳なんだから、と。何度も思い出させた。私の治療のために、家族はもう十分すぎるほど犠牲を払ってきたのだと。そして何度も、失望したような目で私を見た。まるで、生きたいと願うことそのものが、罪であるかのようだった。最後に、私が諦めた。だから彼らは、本当にそれが私自身の選択だったのだと信じた。陽菜が退院する日、篠宮家はいつになく賑やかだった。リビングには風船や花が飾られていた。父は大勢の親戚や友人を招いて、陽菜の生還を祝っていた。兄は3段重ねのケーキを用意し、母は陽菜にバースデーハットをかぶせた。親戚の一人があたりを見回し、何気なく尋ねた。「栞は?帰ってきてないの?」リビングの笑い声が、一瞬だけ途切れた。父の顔が曇った。「まだ拗ねてるんだ。もう大人なのに、移植の機会のことで何か月も家族と揉めてどういうことだ?今ようやく陽菜が退

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第5話

    【患者は重度の心不全に陥っており、いつ心停止を起こしてもおかしくない状態です】兄はその一文をじっと見つめ、振り返って走り出そうとした。だが、ちょうどその時、背後の手術室の扉が開いた。陽菜が運び出されたとき、まだ完全に意識が戻っていなかったが、それでも無意識に兄の袖を掴んだ。「お兄ちゃん……」兄は彼女の青白い顔を見下ろして、結局、その手を振りほどくことはできなかった。母が兄の手にある紙に気づき、ためらいながら尋ねた。「あれ、本当に危篤に関わるものなの?」兄は喉を詰まらせるように答えた。「医者が、非常に危ない症状って……」「じゃあ、見てきなさいよ」と母がそう言った直後、陽菜が苦しそうに眉をひそめた。ようやく緊張がほぐれかけた3人が、また一斉に陽菜を取り囲んだ。父が兄の肩を軽く叩いた。「栞は前にも危篤になったことがあるだろ。結局、毎回乗り越えてきたじゃないか。陽菜はこんな大きな手術を受けるのは初めてなんだ。目を覚ましたときに誰もいないと不安になるだろう」兄はもう一度、あの紙に目を落とした。しばらくして、その紙を折りたたみ、ポケットに押し込んだ。「陽菜がICUに入ったら、すぐに行くから」私は彼らの後ろに立ち、静かにその言葉を聞いていた。不思議なことに、心臓の痛みがなくなっていた。胸を圧迫していた息苦しさも、すっかり消え去っていた。私はうつむいて、廊下の明かりが私の体をすり抜けていたのを見た。床には私の影はなかった。少し離れた救急処置室では、医者が心臓マッサージを止めた。モニターには、一本のまっすぐな線だけが残されていた。「死亡確認、午前11時47分」看護師がベッドに横たわる私の体からチューブを外し、そっと白い布をかけた。――ああ、私はもう、死んだんだ。死ぬって、こんなに楽なんだ。まるで24年間、雨の中を歩き続けてきた人間が、ようやく足を止めて休めるようになったみたいだ。私の遺体が救急処置室から運び出されるとき、ちょうど陽菜のベッドと同じ廊下を通り過ぎた。私たちの距離は、2メートルにもなかった。両親は陽菜のそばに寄り添い、兄は彼女の手を握っていた。誰も、その後ろを通り過ぎる私に気づかなかった。「お兄ちゃん」私は無意識に呼びかけた。すると兄

  • 心臓移植の前日、生きるチャンスを養妹に譲った   第4話

    陽菜が手術を受ける日、その年初めての雪が降った。まだ夜も明けないうちから、父と母、そして兄は陽菜の病室の前に待機していた。母は陽菜の髪を整え、父は医者に何度も手術のリスクを確認していた。兄はベッドのそばにしゃがみ込み、私のものだったお守りを陽菜の首にかけた。「怖がらなくていいよ。みんな、ずっと外で待ってるよ」私は廊下の反対側に立ち、静かにその光景を見つめていた。誰も、私の体調も悪くなっていることに気づかなかった。深夜、急性心不全を発症し、私はICUに運び込まれた。医者から、もう普通の病室では対応できない状態だと言われた。そして、危篤状態に伴い、手術や集中治療などの処置に関する同意書への署名も求められた。しかし、誰も私の家族と連絡が取れなかった。看護師は、私自身で家族を探すしかないと言った。数歩歩いただけで、心臓が激しく痛んだ。息をするたび、錆びた刃が胸の奥をゆっくりとかき回されているような苦しみがあった。最初に私を見つけたのは母だった。母は足早で歩み寄り、私の腕を支えた。私は一瞬、ぼんやりとした。「栞、ちょうどよかったね。陽菜が手術室に入る前に、あなたから一言、許してあげるって言ってほしいの」私は視線を落とした。陽菜は移動用のベッドに横たわり、兄の手をぎゅっと握っていた。目を赤くしたまま、陽菜が私を見つめて言った。「お姉ちゃん、あの移植の機会を手放したくなかったこと、分かってる。もし、もっと待てるなら……私、絶対にお姉ちゃんと取り合ったりしなかった」母はぽろぽろと涙をこぼした。「陽菜はいい子だね、あなたのせいじゃないよ」父も眉をひそめ私を急かした。「栞、陽菜が心残りを抱えたまま手術室に入るようなことはするな」私は胸の痛みに耐えきれず、何も言えなかった。けれど、彼らは私が許そうとしないのだと思ったらしい。兄は立ち上がると、私の腕を乱暴につかんで脇へ引き寄せた。「こんな時に、まだ騒ぐつもりか?」その拍子に、私の腕が壁に強くぶつかって、懐に入れていた病状説明書が落ちた。その書類には、私がかつて重篤な状態に陥ったことが記されていた。兄が視線を落とした。紙の一番上には、私の名前がはっきりと印刷されていた。彼の表情が、そこで凍りついた。「…

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status