All Chapters of 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』: Chapter 41 - Chapter 50

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第40話 私、最近、自分の匂いを前ほど嫌いじゃない

第40話 私、最近、自分の匂いを前ほど嫌いじゃない 陽菜が、「前ほど、自分の汗の匂い嫌じゃないかも」 と言ったあと。 俺はしばらく何も言えなかった。 陸上部の練習が終わったばかりの夕方。 いつもの競技場近く。 陽菜の髪は少し汗で湿っていて、首元にはまだ運動したあとの熱が残っている。 以前なら。 この状態の陽菜は、俺と会う前にもっと念入りにボディシートを使っていた。 制汗剤。 ミスト。 ロールオン。 いくつも重ねて。 それでも俺に、『私、やっぱり臭う?』 と聞いていた。 今日は違う。 制汗剤の香りは薄い。 その代わり。 ちゃんと陽菜の汗の匂いがする。「悠真?」「何」「さっきから黙ってる」「考えてた」「何を」「最初の頃」「最初?」「初めて会った時」 陽菜の顔が少し変わる。「……あれ?」「うん」「忘れて」「無理」「何で」「かなり覚えてる」「そういうところだけ本当に嫌」「でも大事だろ」「私には黒歴史」「俺にも結構黒歴史」「悠真も?」「初対面の女に『汗の匂いする。でも嫌じゃない。むしろ好きかもしれない』って言った」「改めて聞くとひどい」「かなり」「その時の私、どんな顔だった?」「引いてた」「もっと詳しく」「今それ聞く?」「聞きたい」 俺は少し思い出す。「まず止まった」「うん」「そのあと目が細くなって」「嫌そうに?」「かなり」「で?」「『……それ、褒めてます?』みたいな顔」「言った気がする」「そのあと変な人見る目」「それは覚えてる」「俺も」 陽菜が少し笑う。「そこから付き合うとは思わなかったね」「全然」「私も」「むしろ二度と話さないと思ってた」「ひどい」「事実」「でも話した」「お前が来たから」「気になったんだもん」「何が」「本当に嫌じゃないのかなって」「確認しに来た?」「多分」 陽菜は少し考える。「あと」「うん」「悠真が変だったから」「そっち?」「普通なら、気遣って『全然臭わないよ』って言うじゃん」「当時の俺、そういうの苦手だったから」「知ってる」「今でもあんまり得意じゃないけど」「でも前より言い方考える」「昨日の研究」「うん」「最初の頃の悠真だったら、今日もいきなり『制汗剤減った?』って言ってたと思う」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第41話 フェチ研、大学祭に何を展示する?

第41話 フェチ研、大学祭に何を展示する? 春季交流祭への参加が正式に決まった翌日。 フェチ研の部室には、珍しく朝から紙が散乱していた。 模造紙。 付箋。 色ペン。 大学から配られた出展要項。 それから。「先輩」「何?」「何で風船まであるんですか」「華やかかなって」「テーマ決まってないのに?」「形から入るの大事」「一番危ないやつ」 神崎先輩は悪びれもせず、黄色い風船を膨らませている。 しかも一個ではない。 三個目。「これどこに飾るつもりですか」「入口?」「フェチ研って書いた看板の横に風船あったら、余計に怪しいですよ」「親しみやすくない?」「怪しい相談所です」 陽菜が部室へ入ってきて、すぐに風船を見た。「何これ」「交流祭用」「可愛い」「ほら」 神崎先輩が勝ち誇る。「一票入った」「お前、そっち側?」「風船は悪くないじゃん」「問題は組み合わせ」「フェチ研と?」「そう」「じゃあハート型にする?」「悪化する」 陽菜が笑いながら俺の隣へ座る。「おはよう」「放課後だけど」「気分」「雑」「悠真、今日機嫌悪い?」「普通」「顔ちょっと疲れてる」「講義長かった」「じゃあコーヒー?」「あとで」 短いやり取り。 こういうのも自然になった。 澪先輩も少し遅れて入ってくる。 手には小さなスケッチブック。「何か考えてきた?」 神崎先輩が聞く。「少し」「さすが」「展示タイトル」「もう?」「仮」 澪先輩がスケッチブックを開く。 綺麗な字で、『あなたの“ちょっと変な好き”を教えてください』 と書かれている。 全員が少し黙る。「……それ」 陽菜が言う。「かなりいい」「でしょ」 神崎先輩も嬉しそう。「白石さん、正式採用したい」「まだ早い」 俺が言う。「何で」「内容決まってない」「看板だけ先に作るのもあり」「それ先輩の風船理論と同じ」「形から入る」「嫌な一致」 俺は出展要項を見る。 大学の交流祭は、学園祭ほど大規模ではない。 新入生や在学生向けに、サークルや研究会が活動紹介をするイベントに近い。 教室展示。 小規模な実演。 簡単な飲食。 ステージ。 そのくらい。 問題は。 フェチ研が何を展示するのか。「じゃあ一回」 俺は紙を一枚中央
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第42話 好きなところを、一個だけ書けと言われても困る

第42話 好きなところを、一個だけ書けと言われても困る 交流祭用のサンプルカードを作る日。 フェチ研の机の上には、白いカードが五枚並べられていた。 神崎先輩。 澪先輩。 陽菜。 俺。 それから、なぜか久我蒼。「何で俺の分まであるんですか」 部室へ入ってきた蒼が、机の上のカードを見てすぐ言った。「協力者だから」 神崎先輩が答える。「俺、部員じゃないですよ」「知ってる」「じゃあ」「外部協力者」「勝手に役職増えてる」「嫌?」「まあ一枚くらいなら」「ありがとうございます」「聞く順番逆ですよね」 俺が言うと、神崎先輩は気にせずペンを配り始めた。「今日のルールは簡単です。一人一枚、自分の『ちょっと変な好き』を書く」「匿名」 俺が確認する。「匿名」「個人特定できない」「もちろん」「一枚につき一個」「そこ重要」 陽菜が嫌そうな顔をする。「本当に一個?」「一個」「二個書いたら?」「書き直し」「厳しい」「展示の見本だからね」「一個に絞れない人もいるっていう見本じゃ駄目ですか」「駄目」「何で」「企画趣旨が崩れる」「玲奈先輩、こういう時だけ厳しい」 陽菜は不満そうにカードを持つ。 俺も一枚取る。 白い。 小さい。 そこへ。『自分が好きなものを一つ』 書くだけ。 簡単なはずだった。「……」 書けない。 匂い。 最初に浮かぶ。 でも。 今の陽菜について何が好きかと聞かれて、最初にそこを書くのは少し違う気がする。 走っている姿。 かなり好き。 笑い方。 好き。 俺の名前を呼ぶ声。 好き。 面倒なくらい正直なところ。 かなり好き。 困っている時に人を放っておけないところ。 好き。 嫉妬すると顔に出るところ。 ……これは好きなのか少し分からないが、嫌ではない。「悠真」「何」「まだ白紙?」 陽菜が覗こうとする。 俺はカードを伏せた。「見るな」「匿名でしょ」「今見るのは匿名じゃない」「どうせ後で当てる」「やめろって言っただろ」「私もまだ白紙」「じゃあ人の見る前に自分書け」「無理」「何で」「一個なんて選べない」「俺も」 言ってから。 二人で少し黙る。「……同じ?」 陽菜が聞く。「多分」「何候補?」「言わない」「一個だけ教えて
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第43話 匿名なら、人はこんなに変なことを書く

第43話 匿名なら、人はこんなに変なことを書く 交流祭用の事前募集箱は、俺たちの予想をかなり超えていた。 設置初日。 半日。 それだけで箱がほとんど埋まった。 だから翌日からは、神崎先輩が少し大きな箱へ交換した。「最初からこっちにすればよかった」 俺が言うと、神崎先輩は肩をすくめた。「こんな来ると思わないじゃん」「先輩、自信なかったんですね」「自信と現実的な予測は別」「珍しくまとも」「香坂君、最近本当に私に厳しくない?」「慣れたんです」「前も聞いた」「便利なので」 午後のフェチ研。 机の上には、大量のカードが積まれている。 色はバラバラ。 事前募集用に置いていたものを、そのまま箱ごと運んできた。「これ今日全部見る?」 陽菜が聞く。「見ないと増える一方」 俺が答える。「何枚くらい?」「ざっと百以上」「百?」 陽菜の目が丸くなる。「大学生、そんなに変な好きあるの?」「その言い方だと全員変人」「でも」「うん」「私たちもだから」「否定できない」 澪先輩はすでに数枚ずつ分類を始めている。「これ」「何ですか」 陽菜が覗き込む。「『新しいノートの最初の一ページを開く時の匂い』」「分かる?」「少し」「白石先輩っぽい」「紙だから?」「うん」「私は古い本のほうが好き」「そこ違うんだ」 神崎先輩が別のカードを持つ。「これは」『袖をまくった時に、腕時計が少しずれる瞬間。』「細かい」 陽菜が言う。「でも分かる」「分かるの?」「何かちょっと」「誰の?」 俺が聞く。「誰っていうか」「俺?」「違う」「即答」「悠真、腕時計しないじゃん」「そこ?」「だから違う」 少し安心したような、そうでもないような。 自分でも面倒だと思う。「次」 俺が一枚取る。『自販機で飲み物を買ったあと、取り出し口から缶を取る時の手。』「神崎先輩?」 陽菜が聞く。「私じゃない」「でも好きそう」「ちょっと分かる」「やっぱり」「でも匿名だから本人とは限らないよ」「その説明、今一番先輩に必要」 さらに。『寝起きでまだ声が低い時。』 陽菜が止まる。「これ好き」「分かりやすい」「何が」「声」「でも寝起き限定」「俺の?」「匿名だから答えません」「俺が書いたカードじゃない
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第44話 好きって書かれた側は、嬉しいとは限らない

第44話 好きって書かれた側は、嬉しいとは限らない 翌日のフェチ研では、いつものように机の上にカードが並んでいた。 ただし。 昨日までと違って。 誰も最初から楽しそうには読まなかった。 机の中央。 一枚だけ。 他のカードと分けて置かれている。『経済学部の一年で、いつもポニーテールにしてる陸上部の子が、練習後に髪をほどく時が好き。汗で首に髪が張りついてるのも好き。』 俺は。 昨日から何度も読んだ。 読むたびに腹が立つ。 でも。 怒るだけで終わらせたら。 多分駄目だ。「陽菜ちゃん」 神崎先輩が言う。「今日、本当に話して大丈夫?」「はい」「途中でやめてもいいからね」「分かってます」 陽菜はカードの向かいに座っている。 いつもより少しだけ姿勢が硬い。 俺は隣。 でも。 今日は。 手を握っていない。 陽菜から求められていないから。 澪先輩。 神崎先輩。 それから。 昨日、神崎先輩が連絡を入れたらしく。 西村も来ていた。「俺、いて大丈夫ですか」 西村が少し気まずそうに聞く。「陽菜ちゃんがいいなら」 神崎先輩が確認する。「大丈夫です」 陽菜は答えた。「西村君の話、似てるところあると思うので」「……はい」 西村は頷いた。 以前より。 少しだけ落ち着いている。「じゃあ」 神崎先輩が始める。「今日考えたいのは」 ホワイトボードへ書く。『好きだと言われた側は、必ず嬉しい?』「答え」 俺が言う。「もう出てません?」「陽菜ちゃんの場合はね」「はい」「でも」「うん」「もう少しちゃんと考えたい」 陽菜がカードを見る。「私」 少し間。「昨日これ読んだ時」「うん」「最初に思ったの」「何?」「怖い、でした」 神崎先輩は何も書かない。 ただ聞く。「好きって書いてあるのに」「うん」「嬉しいより先に」「うん」「誰って思った」 俺も。 同じだった。「どこで見てたんだろうって」「うん」「何回見たんだろうって」「うん」「私が気づいてない時に見られてたんだって」 陽菜の指が少し動く。「そのあと」「うん」「昔のこと、ちょっと思い出しました」 俺を見る。 高校時代。 汗臭い。 そう言われた。 あの記憶。「でも今回は」「うん」「臭いって言われ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第45話 私の汗の匂い、展示テーマにしていい?

第45話 私の汗の匂い、展示テーマにしていい? 陽菜が交流祭で自分の匂いの話を出したいと言った翌日。 俺は朝から、そのことを考えていた。 反対ではない。 少なくとも。 反対しないと決めている。 ただ。 心配ではある。 かなり。 陽菜は高校時代。 同級生の男子から汗の匂いをからかわれた。 たった一言。 でも。 その一言のせいで。 制汗剤。 ボディシート。 人との距離。 陸上部の練習後。 いろいろなものが変わった。 今は。 少しずつ違う。 前ほど自分の匂いを嫌っていない。 でも。 完全に平気になったわけではない。 その話を。 大学の交流祭へ出す。 匿名とはいえ。 人に読ませる。「……本当に大丈夫なのか」 講義中。 気づいたら小さく呟いていた。「香坂」「何」 隣の蒼が見る。「今何か言った?」「独り言」「彼女?」「何で分かる」「お前最近悩みの九割彼女だろ」「そんなに?」「体感」「残り一割」「フェチ研」「ひどい大学生活だな」「本人楽しそうだからいいけど」 蒼はノートへ視線を戻す。「何悩んでんの」「交流祭」「料理?」「違う」「じゃあ」 少し考える。「夏目さん?」「そこは当たるんだな」「だから九割」 講義中なので。 詳しい話はしなかった。 ただ。 蒼の言った、『本人楽しそうだからいいけど』 だけが少し残った。 本人。 結局。 そこだ。 俺が怖いから。 俺が心配だから。 だからやめろ。 それでは。 前と同じ。 午後。 フェチ研の部室へ行くと。 陽菜が先に来ていた。 珍しい。「陸上は?」「今日は自主練の日」「走らないの」「後で少しだけ」「そっか」 陽菜の前には。 ノート。 白紙。「何してる」「昨日の」「展示?」「うん」 俺は隣へ座った。「もう書いてる?」「書こうとしてる」「違う?」「全然書けない」 ノートを見る。 本当に白紙。 一行もない。「昨日あんなに出したいって」「出したいのと、書けるのは別」「なるほど」「悠真」「何」「笑った?」「笑ってない」「ちょっと口動いた」「俺、そんな監視されてる?」「最近よく見るので」「ほどほどに」「許可は前もらった」「毎回更新制」「じゃあ今は
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第46話 匿名なのに、悠真だってバレるんだけど

第46話 匿名なのに、悠真だってバレるんだけど 予想どおり。 俺と陽菜は、開始十分で揉めた。「悠真、それ私の文章じゃない」「内容は同じだろ」「同じでも言い方が違う!」「じゃあどこが」「全部ちょっと悠真!」 フェチ研の部室。 机の上には、昨日陽菜が書いた原稿と。 俺が短く整えた原稿。 二枚。 並べて置いてある。 陽菜の原文。『高校生の頃、同級生に汗の匂いのことを言われてから、私はずっと自分の匂いが嫌でした。運動部なので汗をかかないわけにはいかないのに、練習が終わると走ったことより匂いのほうが気になって、制汗剤やボディシートを何度も使っていました。大学に入ってから、私の匂いを嫌じゃないと言う人に会いました。その人は、私が嫌っていた匂いを好きだとも言いました。でも、それだけで急に平気になったわけではありません。今でも気になる日はあるし、制汗剤を使いすぎる日もあります。それでも、前ほど自分の匂いを嫌いではなくなりました。もし、自分の嫌いなところを誰かに笑われて、ずっと気にしている人がいたら、すぐに好きにならなくてもいいと思います。私はまだ好きではありません。でも、前ほど嫌いではありません。それだけでも、少し楽になれました。』 長い。 でも。 ちゃんと陽菜だった。 だから俺は。 内容を変えないように。 かなり気をつけたつもりだった。 俺の修正版。『高校時代、汗の匂いを指摘されたことをきっかけに、自分の体臭を強く気にするようになりました。運動後には制汗用品を何度も使用し、人に近づくことにも不安がありました。大学入学後、自分が嫌っていた匂いを「嫌ではない」「好きだ」と言ってくれる人と出会い、少しずつ考え方が変わりました。ただし、現在も不安になる日はあります。完全に克服したわけではありません。それでも、以前ほど自分の匂いを嫌ってはいません。自分の嫌いな部分を誰かに笑われた経験がある人へ。無理に好きになる必要はないと思います。以前より少し嫌いではなくなるだけでも、気持ちは軽くなることがあります。』「……どこが駄目?」 俺は聞いた。 自分では。 かなり無難にまとめたと思っている。 陽菜は。 俺の原稿を指で何度か叩いた。「まず」「うん」「『高校時代』」「そこ?」「私そんな言い方しない」「展示文だろ」「だからって急に資
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第47話 彼氏と一緒に文化祭準備すると、普通に喧嘩する

第47話 彼氏と一緒に文化祭準備すると、普通に喧嘩する 恋人同士だから、一緒に何かをやれば息が合う。 そんなのは、多分かなり都合のいい思い込みだった。「だから、入口に募集カード置いたほうがいいって」「俺は反対」「何で」「入ってきた人が最初から書くとは限らないだろ。まず展示見てもらって、自分にもこういう好きあるかもって思ってから書くほうが自然」「でも最後に書く場所あったら、混むじゃん」「だから出口手前に机二つ置く」「教室狭くなる」「入口に置いても狭くなる」「入口ならまだ流せる」「立ち止まられたら詰まる」「そんな大混雑する前提で考えなくてもよくない?」「混んでから考えるほうが遅い」「悠真、そういうところ!」 交流祭三日前。 フェチ研の部室。 床には教室の簡単な見取り図が広げられ、その上へ付箋や小さな紙が何枚も置かれている。 入口。 受付。 展示板。 匿名カード。 陽菜の体験文。 自由記入スペース。 久我が出す予定の焼き菓子は、食品提供の申請が間に合わないため試食ではなく「食べる表情についての写真なし展示」に変更された。 神崎先輩が最初に言った。『今日は全部決めます』 その宣言から、まだ二十分。 俺と陽菜は。 すでにかなり揉めていた。「どういうところ」「全部先に悪い場合考えるところ」「悪い場合考えないと当日困るだろ」「分かるけど」「じゃあ」「でも、まだ来る人数も分かんないじゃん」「分からないから余裕持たせる」「その余裕のために展示小さくするの?」「安全なほうがいい」「面白くなくなったら意味ない」「面白さの話と導線は別」「別じゃないよ」「別だろ」「別じゃない」「……」「……」 向かい。 神崎先輩が。 紙コップのコーヒーを飲みながら俺たちを見ていた。 澪先輩はペンを持ったまま黙っている。 久我はなぜか今日も来ている。「神崎先輩」 俺が言う。「何?」「何か言ってください」「どっちも分かる」「一番困るやつ」 陽菜も言う。「玲奈先輩、逃げてません?」「逃げてないよ。本当に両方分かるから」「じゃあ決めてください」「会長権限?」「こういう時に使ってください」「嫌」「何で」「二人が何で揉めてるか、まだ見たい」「楽しんでる!」 陽菜が言った。「少しだけ
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第48話 白石先輩の字が、いちばん人を集めました

第48話 白石先輩の字が、いちばん人を集めました 春季交流祭前日。 学生ホールで展示タイトルを試しに掲げた時。 最初に足を止めたのは、フェチ研に興味がある人ではなかった。「字、めっちゃ綺麗」「これ手書き?」「すごくない?」 通りかかった女子学生二人が。 澪先輩の書いた、『好きって、どこから?』 を見上げている。 その下には。『あなたの「好き」は大切。でも、相手の「嫌」も同じくらい大切。』 さらに小さく。『好きは、誰かの境界線を越える許可証ではありません。』 全部。 澪先輩の字だった。「写真撮っていいのかな」「展示始まってないし、やめとく?」「でも字だけでも見たい」 女子学生たちは。 少し離れたところにいる俺たちへは気づいていない。 そのまま。「こういう字書ける人いいな」「分かる。ノート借りたい」 と話しながら去っていった。 俺は。 その様子を見たあと。 澪先輩を見る。「白石先輩」「……何」「かなり固まってますけど」「うん」「大丈夫ですか」「多分」「嫌でした?」「嫌じゃない」「じゃあ」「恥ずかしい」 かなり小さい声。 陽菜が俺の袖を軽く引く。「悠真」「何」「白石先輩、耳赤い」「見れば分かる」「珍しい」「聞こえてる」 澪先輩が言った。「すみません」 陽菜はあまり反省していない顔。「でも」「何?」「嬉しかったですか」 澪先輩は。 すぐに答えなかった。 展示タイトルを見る。「……少し」「少し?」「かなり」 陽菜が笑う。「素直」「でも変な感じ」「どこがですか」「私」 一度止まる。「人の字を見るほうだったから」 その言葉に。 俺も少し納得する。 澪先輩は。 ずっと。 字を見る人だった。 俺のノート。 付箋。 短いメモ。 最後の線。 ひらがなと漢字の違い。 本人が気づいていない癖。 かなり細かく見る。 だから。 逆になった。 今。 自分の字を。 知らない人に見られて。 評価された。「どうですか」 俺が聞く。「何が」「見られる側」 澪先輩は。 少しだけ困った顔をする。「落ち着かない」「嫌?」「嫌じゃない」「でも」「もっと勝手に見てほしくないって思うかと思った」「……」 陽菜も。 少し表情を
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第49話 俺の嗅覚、イベント会場では最悪でした

第49話 俺の嗅覚、イベント会場では最悪でした 人より匂いが分かるという話をすると、たまに羨ましがられることがある。「料理の匂いだけで何入ってるか分かるの?」「好きな人が近くにいたら気づける?」「香水とか当てられる?」 そういう時、俺はだいたい適当に答えてきた。分かる時もあるし、分からない時もある。そもそも嗅覚が少し鋭いだけで、何でも当てられる特殊能力ではない。 それに、良いことばかりでもない。 むしろ人が多い場所では、余計な情報まで拾うせいで面倒になる。 春季交流祭当日の昼過ぎ、俺は改めてそのことを思い知らされていた。「香坂君、入口側どう?」 神崎先輩に呼ばれ、俺は展示板から視線を外した。「今のところ大丈夫です。受付の前だけ少し詰まってるので、記入カードをもう一つ奥へずらしたほうがいいかもしれません」「分かった。じゃあ私動かす」「俺やります」「いや、香坂君は今全体見てて」「でも近いので」「だから私がやるって」 神崎先輩が机を動かし始める。 俺は一歩遅れて手を止めた。「……じゃあお願いします」「珍しく素直」「今それ言います?」「最近ずっと運営責任者みたいな顔してるから」「責任者じゃないです」「顔は完全にそう」 神崎先輩は笑っていたが、俺にはそこへ返す余裕があまりなかった。 人が増えている。 それ自体は嬉しい。 フェチ研の展示は、想像していたより明らかに人を集めていた。 澪先輩の字に惹かれて入ってくる人。匿名カードを見て友達同士で笑う人。陽菜の体験文の前で立ち止まる人。自分の「好き」を書いて、少し恥ずかしそうに箱へ入れる人。 企画としては成功している。 問題は。 成功すればするほど。 匂いも増えることだった。 まず人。 香水。 整髪料。 柔軟剤。 制汗剤。 汗。 ハンドクリーム。 コーヒー。 学生ホールの向こうで売られている焼き菓子。 さらに外から風が入るたび、屋台の油とソースの匂いまで混ざってくる。 一つずつなら。 別に平気だ。 でも。 同時に来る。 しかも。 人が動くたび変わる。 俺の頭は。 勝手にそれを拾う。「香坂君?」 澪先輩の声。 俺は少し遅れて反応した。「はい」「今呼んだ」「すみません」「大丈夫?」「何がですか」「反応遅かった」「ちょ
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