All Chapters of 『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 別れた人の匂いが、まだ部屋に残っている

第31話 別れた人の匂いが、まだ部屋に残っている フェチ研に、初めて外部の学生から相談が来た。 それを聞いた時、俺は真っ先に神崎先輩の顔を見た。「先輩」「何?」「とうとう何か変な掲示出しました?」「人聞き悪いなあ」「だって今まで身内だけで変な話してたサークルですよ」「ちゃんと研究会って書いてる」「名前がまず怪しいんです」 神崎先輩は笑いながら、机の上に一枚の紙を置いた。 大学内のサークル紹介用に作った小さな案内だった。『感覚文化研究会 好きな声、匂い、手、仕草、文字、音、食べ方など、人には少し言いづらい「好き」をゆるく研究しています。匿名相談可』「……こんなの出してたんですか」「一週間前から」「聞いてない」「掲示板に貼っていいって顧問から許可取ったよ」「そこは仕事早いな」 陽菜が横から紙を覗き込む。「でも、ちょっといいかも」「お前まで」「だって『好き』って人に言いにくいことあるじゃん」「まあ」「私も最初、汗とか匂いの話なんて絶対したくなかったし」「それはそうだな」「でも今は、ここならちょっと言える」 そう言って陽菜は自然に笑った。 少し前なら、自分の匂いの話をこんなふうに口にするだけでかなり構えていた。 その変化を見ていると、神崎先輩のやっていることも全部が全部ふざけているわけではないのだと思える。「で、相談って?」 澪先輩が聞いた。 神崎先輩は手元のスマートフォンを見る。「二年生の女子。小松奈々さん。匿名でもいいって言ったんだけど、本人が名前出して大丈夫って」「何の相談ですか」「匂い」 俺と陽菜が同時に反応した。「匂い?」「うん」 神崎先輩がこちらを見る。「香坂君向きかもね」「何でも俺に振らないでください」「でも本人からも、匂いに詳しい人がいるって聞いて来たみたい」「誰から」「掲示を見た友達」「もう噂になってる?」「少し」「怖いな」 陽菜が小さく笑う。「悠真、とうとう匂いの人になった?」「やめろ」「大学で通り名ついたら面白い」「絶対嫌」「でも私は好き」「何が」「匂いの人」「そこじゃないだろ」 いつものやり取り。 ただ。 その日の部室は、少しいつもと違った。 誰かが相談に来る。 俺たちの内輪話ではない。 他人の、たぶん簡単には笑えない話だ。 
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第32話 別れる前提の話、今しなくてよくない?

第32話 別れる前提の話、今しなくてよくない? 小松先輩の相談を受けた翌日。 俺は朝から、陽菜が少し変だと思っていた。「おはよう、悠真」「おはよう」「今日も早いね」「お前も」「私、十分前」「俺二十分前」「負けた」「何の勝負だよ」 そこまでは普通だった。 正門を抜けて、いつものように講義棟へ向かう。 陽菜は俺の隣。 今日は腕を組まず、少しだけ袖を掴んでいる。「ねえ」「何」「悠真ってさ」「うん」「もし私と別れたら、ここ通るたび思い出す?」 朝一番からそれだった。「……また?」「一個だけ」「昨日もう話しただろ」「でも大学ってほぼ全部一緒に通ってるじゃん」「うん」「ここも」「うん」「学食も」「うん」「図書館も」「うん」「駅までの道も」「陽菜」「何」「何で朝から別れた後の聖地巡礼みたいな話してるの」「聖地巡礼って言わないでよ」「そう聞こえる」 陽菜は少し笑った。 でも。 完全に冗談でもない。「だって昨日考えちゃって」「何を」「小松先輩、電車で柔軟剤の匂いしただけで思い出したんでしょ」「うん」「私たち、匂いだけじゃ済まなくない?」「済まないだろうな」「ほら」「でも今考える必要ある?」「それは」「ないだろ」「……ない」「じゃあ終わり」 少し強く切った。 陽菜は俺の横顔を見る。「怒ってる?」「まだ」「まだって何」「続いたら怒るかも」「怖い」「脅してない」 陽菜は少し口を尖らせた。「私、そんな嫌な話してる?」「嫌」「即答」「昨日も言った」「分かってるけど」「なら」「でも気になるんだもん」「それも分かるけど」 そこで一度会話は終わった。 講義棟の前。「じゃあ昼」「うん」「いつもの?」「いつもの」「唐揚げ?」「まだ決めてない」「じゃあ今日私が決める」「勝手に?」「彼女なので」「その制度ないから」 陽菜が笑う。 ようやくいつもの顔に戻った。 だから。 朝の話はそれで終わったと思っていた。 甘かった。 昼休み。 俺は唐揚げ定食。 陽菜はカレー。「何でカレー」「食べたかったから」「交換しづらい」「唐揚げ一個くれればいい」「お前のカレー何くれるの」「福神漬け」「価値低すぎる」「じゃあじゃがいも」「成立
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第33話 好きだった匂いを、捨てなくても前には進める

第33話 好きだった匂いを、捨てなくても前には進める 小松奈々先輩は、紙袋から柔軟剤のボトルを取り出した。 見慣れた市販品だった。 俺でも知っている。 白いボトル。 淡い青のラベル。 香りの強さとしては、そこまで派手ではない。 でも。 小松先輩にとっては、ただの柔軟剤ではない。「これです」 机の上へ置く。 誰もすぐには触らなかった。「昨日買ったの?」 神崎先輩が聞く。「はい」「使ってない?」「まだ」「開けた?」「開けてません」「何で買ったんだろうって、自分でも分からない?」「分からないです」 小松先輩は少し困ったように笑った。「昨日ここで、忘れなくてもいいって言ってもらって」「うん」「帰りにドラッグストア寄ったら、これ見つけて」「うん」「気づいたら買ってました」 陽菜がボトルを見る。「買った時はどんな気持ちでした?」「……安心しました」「安心?」「はい」 小松先輩は少し恥ずかしそうに笑う。「まだあったって思って」「柔軟剤が?」「匂いが」 俺は少し分かった。 記憶の中にしかないと思っていたものが、現物として残っている。 それだけで。 失ったものが全部消えたわけではないと感じる。「でも」 小松先輩は続ける。「家に帰ったら急に怖くなって」「何が?」 澪先輩が聞く。「これ使ったら」 一度止まる。「私、また彼のことばっかり考えるんじゃないかなって」 誰も否定しなかった。「だから開けられなくて」「でも捨てるのも嫌?」 神崎先輩が聞く。「はい」「返品は?」「それも嫌です」「なるほど」 小松先輩は自分でも呆れたように笑う。「面倒ですよね」「ここでそれ言う?」 陽菜が先に笑った。「面倒な人しかいないですよ、たぶん」「私も?」「かなり」「悠真も」「俺まで入れるな」「入るでしょ」「否定はしない」 小松先輩が少し笑った。 前回より。 少しだけ部室の空気に慣れている。「じゃあ」 神崎先輩がホワイトボードへ書く。『思い出を残すことと、過去に留まることは同じか?』「今日はこれ」「かなりそのままですね」 俺が言う。「分かりやすさ大事」「珍しく」「香坂君、最近私への扱い雑じゃない?」「慣れました」「それはちょっと嬉しい」 神崎先輩は笑って
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第34話 彼女の匂いを覚えている俺は、かなり変なのかもしれない

第34話 彼女の匂いを覚えている俺は、かなり変なのかもしれない 人の相談に乗るようになってから、自分のことを考える時間が増えた。 あまりありがたい変化ではない。 小松先輩が元恋人の柔軟剤の匂いを忘れられないと言った時、俺はかなり自然に理解できた。 匂いと記憶が結びつく。 その人がいなくても、同じ匂いだけで思い出す。 そこまではいい。 問題は。 俺の場合。 陽菜が今使っている洗剤。 シャンプー。 ミルクティーを飲んだ日の甘い匂い。 運動したあとの汗。 日焼け止め。 雨の日の服。 陸上部のバッグの布地。 細かく分ければ、かなり覚えている。「……俺、普通に気持ち悪いな」 昼休み。 学食へ向かう途中。 自分で口にしてしまった。「何が?」 隣を歩いていた陽菜がすぐ反応する。「独り言」「聞こえた」「忘れて」「無理」「最近そればっかりだな」「で、何が気持ち悪いの」「言わない」「何で」「本人に言いづらい」「私関係?」「かなり」「じゃあ余計聞く」 面倒な流れになった。「あとで」「いつ」「昼食ってから」「今じゃ駄目?」「腹減ってる時にこういう話したくない」「何その基準」「俺の基準」「じゃあ唐揚げ?」「今日はうどん」「珍しい」「昨日唐揚げだった」「毎日食べないんだ」「俺を何だと思ってる」 そこで会話はいったん終わった。 学食。 俺はきつねうどん。 陽菜は親子丼。「交換できないね」「何で毎回そこから入るの」「楽しいから」「親子丼一口ほしいなら言えば」「いいの?」「一口なら」「じゃああとで」「先に俺に何かくれ」「うどんに合うものないよ」「漬物」「細かい」 こんな話をしている間は、考えすぎなくて済む。 でも食べ終わったあと。 陽菜は忘れていなかった。「で」「何」「さっきの」「やっぱり?」「当たり前」「俺、ちょっと陽菜の匂い覚えすぎてるかもしれない」 言った。 陽菜の箸が止まる。「……今さら?」「そこ?」「だって前からでしょ」「そうだけど」「何を急に気にしたの」「小松先輩の話」「元彼の柔軟剤?」「うん」「それで?」「俺、陽菜が何使ってるか普通に分かるじゃん」「うん」「しかも」 少し言いにくい。「日によって違うのも分かる」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第34話 彼女の匂いを覚えている俺は、かなり変なのかもしれない

第34話 彼女の匂いを覚えている俺は、かなり変なのかもしれない 人の相談に乗るようになってから、自分のことを考える時間が増えた。 あまりありがたい変化ではない。 小松先輩が元恋人の柔軟剤の匂いを忘れられないと言った時、俺はかなり自然に理解できた。 匂いと記憶が結びつく。 その人がいなくても、同じ匂いだけで思い出す。 そこまではいい。 問題は。 俺の場合。 陽菜が今使っている洗剤。 シャンプー。 ミルクティーを飲んだ日の甘い匂い。 運動したあとの汗。 日焼け止め。 雨の日の服。 陸上部のバッグの布地。 細かく分ければ、かなり覚えている。「……俺、普通に気持ち悪いな」 昼休み。 学食へ向かう途中。 自分で口にしてしまった。「何が?」 隣を歩いていた陽菜がすぐ反応する。「独り言」「聞こえた」「忘れて」「無理」「最近そればっかりだな」「で、何が気持ち悪いの」「言わない」「何で」「本人に言いづらい」「私関係?」「かなり」「じゃあ余計聞く」 面倒な流れになった。「あとで」「いつ」「昼食ってから」「今じゃ駄目?」「腹減ってる時にこういう話したくない」「何その基準」「俺の基準」「じゃあ唐揚げ?」「今日はうどん」「珍しい」「昨日唐揚げだった」「毎日食べないんだ」「俺を何だと思ってる」 そこで会話はいったん終わった。 学食。 俺はきつねうどん。 陽菜は親子丼。「交換できないね」「何で毎回そこから入るの」「楽しいから」「親子丼一口ほしいなら言えば」「いいの?」「一口なら」「じゃああとで」「先に俺に何かくれ」「うどんに合うものないよ」「漬物」「細かい」 こんな話をしている間は、考えすぎなくて済む。 でも食べ終わったあと。 陽菜は忘れていなかった。「で」「何」「さっきの」「やっぱり?」「当たり前」「俺、ちょっと陽菜の匂い覚えすぎてるかもしれない」 言った。 陽菜の箸が止まる。「……今さら?」「そこ?」「だって前からでしょ」「そうだけど」「何を急に気にしたの」「小松先輩の話」「元彼の柔軟剤?」「うん」「それで?」「俺、陽菜が何使ってるか普通に分かるじゃん」「うん」「しかも」 少し言いにくい。「日によって違うのも分かる」
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第35話 今日は、答えを出さなくていい?

第35話 今日は、答えを出さなくていい? 人の悩みを聞くというのは、思っていたより疲れるらしい。 そのことに最初に気づいたのは、俺ではなく陽菜だった。 小松先輩から届いた三度目の相談は、文章にすれば短かった。『忘れたいと思っていたのに、忘れたくないと思う日もあります。これって執着ですか?』 たったそれだけ。 けれど、フェチ研の部室でその文章を読んだあと、誰もすぐには答えなかった。「執着って、どこからなんだろうね」 神崎先輩が言う。「そこからですか」「だって簡単に決められないでしょ。忘れられないだけで執着って言ったら、別れた人を思い出す人ほとんど該当しそうだし」「確かに」 澪先輩が頷く。「でも、思い出のせいで今の生活が全部止まってたら、少し違う気もする」「その辺かな」 神崎先輩はホワイトボードに、『思い出すことと、過去に支配されることは同じか?』 と書いた。「また難しくなった」 俺が言う。「香坂君、最近難しいって言いながら一番考えるよね」「考えさせられてるんです」「成長」「強制です」 いつもなら、その辺で陽菜が何か言う。 でも今日は静かだった。 隣を見る。 スマートフォンの画面に表示された小松先輩の文章を、まだ見ている。「陽菜」「何」「どうした」「いや」「何かある?」「ちょっと考えてた」「何を」 陽菜は少し迷ってから言った。「忘れたいのに、忘れたくないって」「うん」「分かるなって」「小松先輩の気持ち?」「それも」 一度止まる。「自分の嫌だったことも」「高校の?」「うん」 やっぱりそこへ行った。「私、汗臭いって言われたこと」「うん」「忘れたいってずっと思ってた」「うん」「でも」 陽菜は少し眉を寄せる。「もし完全に忘れたら、今の自分も少し変わる気がする」 少し意外だった。「嫌な記憶なのに?」「嫌だよ。今でも嫌」「じゃあ」「でも、あれがあったから私、匂いを気にするようになって」「うん」「そのせいで悠真とこんな話することになって」「それはかなり遠回りだけど」「分かってる」 陽菜が少し笑う。「別に『嫌なことも全部必要だった』みたいな綺麗な話にしたいわけじゃないよ」「うん」「あんなこと言われないほうがよかった」「俺もそう思う」「でも今の私から、そ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第36話 好きな子が美味しそうに食べる顔を、ずっと見ていたい

第36話 好きな子が美味しそうに食べる顔を、ずっと見ていたい 見知らぬ男子学生は、フェチ研の部室に入ってからずっと落ち着かなかった。 椅子に座ったと思ったら膝の上で手を組み直し、机の上に置いたサークル案内へ視線を落とし、また俺たちを見る。「俺、好きな女子が飯食ってるところ、ずっと見ていたくなるんです」 そこまで言ったところで、本人の顔がさらに赤くなった。「美味しそうに食べてる顔が好きすぎて、見てるのバレて気持ち悪がられました」 部室が少し静かになる。 神崎先輩はこういう話が好きそうなのに、今回はすぐ茶化さなかった。「まず名前聞いていい?」「あ、はい。西村拓海です。一年で、経営学部です」「西村君ね。私は神崎玲奈。こっちが香坂君、夏目さん、白石さん」「よろしくお願いします」 西村は小さく頭を下げる。 陽菜も軽く笑った。「よろしく。そんな緊張しなくて大丈夫だよ」「すみません」「謝らなくていいって」「でも、こういう話って普通しないじゃないですか」「まあね」 陽菜は少し俺を見る。「私はしましたけど」「お前は初対面で『私、臭う?』だったから別格」「今それ言う?」「事実」 西村が少し驚いた顔をしたあと、ほんの少しだけ笑った。 緊張が抜けたらしい。 神崎先輩が続ける。「じゃあ聞くね。西村君が好きなその子って、友達?」「同じゼミの子です」「普段話す?」「普通には」「二人で食事することは?」「ないです」「じゃあ、どこで見てたの?」「学食とかです」 俺は少し引っかかった。「同じ席?」「いや」「別の席?」「はい」「どれくらい見る?」 西村の表情が一気に気まずくなる。「……結構」「結構?」「その子が食べ終わるまで、ずっと見てた時もあります」 陽菜が少しだけ眉を上げた。 俺も同じだったと思う。「それは」 言いかける。 神崎先輩が俺を見る。「香坂君」「何ですか」「まず最後まで聞こう」「……はい」 危ない。 またすぐ答えを出そうとしていた。 西村は少し俯いた。「やっぱり気持ち悪いですよね」「今すぐそこまでは言わない」 神崎先輩が答える。「ただ、相手がそう感じたなら、その感覚は無視できない」「はい」「どんなふうにバレたの?」「友達に言われたみたいで」「誰が見てるって?」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第37話 人が美味そうに食べてるだけで、何でこんなに嬉しいんだろう

第37話 人が美味そうに食べてるだけで、何でこんなに嬉しいんだろう 金曜日の放課後。 俺がフェチ研の部室へ入ると、神崎先輩はすでに机の上へ紙コップと菓子を並べていた。「今日は歓迎会ですか」「違うよ」「じゃあ何でこんなにあります?」「ゲスト来るから」「久我一人ですよ」「一人でもゲスト」「先輩、こういう時だけ妙に張り切りますね」「だって香坂君の男友達って珍しいし」「俺を何だと思ってるんですか」「大学で彼女とフェチ研しか人間関係ない人」「ひどい」「否定できる?」「……少し」 言われてみれば、かなり狭い。 陽菜。 蒼。 神崎先輩。 澪先輩。 千紗。 そのくらい。 俺はもともと人付き合いが広いほうではないし、大学へ入ってからもそこを積極的に変えようとはしていなかった。 ただ。 陽菜と会ってから。 少しずつ人が増えた。 それを考えると、悪い変化ではない。「悠真」 後ろから声がした。 振り返る。 陽菜だった。「お疲れ」「お疲れ」「久我君まだ?」「まだ」「今日会えるんだ」「そんな楽しみ?」「うん」「何で」「悠真の友達だから」「それ前も言ってたな」「どんな人か気になる」「普通だよ」「悠真が普通って言う人、本当に普通かな」「どういう意味」「フェチ研入ってる人が」「お前もだろ」「私は普通」「一番信用できない」 陽菜が笑いながら俺の隣へ座る。 最近、ここがほぼ定位置になっていた。 肩が触れるほどではない。 でも。 少し近い。 その距離が自然になっている。「今日、匂いの話あり?」 俺が小声で聞く。 陽菜が少しだけこちらを見る。「今日はあり」「了解」「でも後で」「何で」「今言われると玲奈先輩に拾われる」「聞こえてるよ」 神崎先輩が向こうから言った。「先輩」「何?」「耳良すぎません?」「静かな部室だから」「じゃあ今の忘れてください」「無理」「全員それ」 澪先輩まで少し笑っている。 その時。 ドアが開いた。「失礼しまーす」 全然緊張していない声。 久我蒼だった。 片手にコンビニ袋。 もう片方に紙袋。「お前、何持ってきたの」「手ぶらも変だろ」「部室来るだけだぞ」「ゲストなんだろ?」 神崎先輩が嬉しそうに立ち上がる。「久我君?」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第38話 彼氏の手料理だからって、美味しいとは限らない

第38話 彼氏の手料理だからって、美味しいとは限らない 俺は料理を甘く見ていた。 正確には、料理そのものというより。「オムライスくらいなら、何とかなるだろ」 と思っていた自分を甘く見ていた。「お前、今まで何回作ったことある?」 久我蒼が聞く。「ゼロ」「卵焼いたことは?」「目玉焼きなら」「チキンライスは?」「食べたことなら」「帰れ」「何でだよ」「教える側の心折りに来てるだろ」「初心者講座って言ったのお前だろ」「初心者にも段階がある」「最低ラインどこ」「包丁で玉ねぎ切れる」「それはできる」「本当に?」「多分」「その多分が怖い」 土曜日の午後。 場所は蒼の部屋だった。 一人暮らし。 大学から少し離れたアパート。 キッチンは狭いが、俺の家より料理道具が明らかに充実している。 フライパンだけで三種類ある。「何でそんなにあるの」「用途」「全部丸いじゃん」「その時点でお前に料理の説明するの嫌になってきた」「心狭いな」「お前が広すぎる」 俺はエプロンをつけている。 蒼に渡されたもの。 無地。 別に変ではない。 でも。「写真撮って陽菜に送ろうかな」 蒼がスマートフォンを出す。「やめろ」「何で」「完成前に期待値上げるな」「もう彼女には今日作るって言ってるだろ」「それと写真は違う」「エプロン姿喜ぶんじゃない?」「知らん」「聞けば」「絶対送らない」 そう言った直後。 スマートフォンが震えた。 陽菜。『今作ってる?』 早い。『今から』『エプロン?』 何でそこ聞く。『してる』『見たい』 蒼が横から画面を覗く。「ほら」「見るな」「送れよ」「嫌だ」『完成してから』 送る。『何で』『失敗したら恥ずかしい』『失敗しても見たい』 強い。「いい彼女じゃん」 蒼が言う。「知ってる」 言ってから。 前にも同じ流れがあったことを思い出す。「今の送る?」「絶対やめろ」「惚気増えたな」「料理始めるぞ」「逃げた」 最初は玉ねぎ。 切る。「もっと細かく」「これくらいでいいだろ」「陽菜、玉ねぎ入ってるほうが好きって言ってたんだろ」「うん」「じゃあ大きすぎると存在感強い」「存在感あっていいんじゃない」「料理の話で哲学始めるな」「じゃあどうする
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第39話 嘘をつかないことと、何でも正直に言うことは違う

第39話 嘘をつかないことと、何でも正直に言うことは違う フェチ研の次のテーマは、神崎先輩の予告どおりだった。『好きな人には、美味しいって嘘をついてほしい?』 ホワイトボードの中央に、かなり大きな字で書かれている。「先輩」「何?」「絶対楽しんでますよね」「研究を?」「俺の失敗を」「半分」「残りは」「かなり研究向きだと思った」「半分の配分おかしくないですか」「いつものこと」 陽菜が横で笑っている。「でも私もちょっと気になる」「何が」「悠真が本当にどう思ってるか」「昨日話しただろ」「まだ分からないって言ったじゃん」「今日一日で答え出ると思う?」「そこを考えるんでしょ」「そうだけど」 俺はいつもの席へ座った。 陽菜も隣。 澪先輩は少し離れたところで本を閉じる。「料理だけ?」 澪先輩が聞いた。「今日は広げるつもり」 神崎先輩が答える。「服とか髪とか、プレゼントとか」「全部?」「恋人同士ならよくあるでしょ。『これ似合う?』『この髪型どう?』『これ美味しい?』」「答えに困るやつ」 陽菜が言う。「経験ある?」 俺が聞く。「あるよ」「誰に」「友達」「何聞かれた」「前髪切った時に『変じゃない?』って」「何て答えた?」「ちょっと変だったけど『見慣れてないだけじゃない?』って」「それ嘘?」「微妙」 陽菜は少し困った顔をする。「変だと思ったのに変って言わなかった」「じゃあ嘘では」「でも本当に見慣れてなかったのもある」「逃げた?」「かなり」「人間」「うるさい」 神崎先輩が笑う。「こういうのが今日の話」「正解あるんですか」「ない」「最近そればっかり」「恋愛研究会だから」「感覚文化研究会です」「香坂君が一番正式名称守るね」 そこへ。 久我蒼がドアを開けて入ってきた。「失礼します」「また来た」 俺が言う。「呼ばれた」 神崎先輩が手を上げる。「料理の当事者だから」「俺、前回一回だけって言いましたよね」「たまになら来るとも言った」「言葉取られた」「ここでは発言に注意して」「怖いサークル」 蒼は適当な椅子へ座る。「で、昨日のオムライスは?」「普通だった」 陽菜が答える。「お前が言う?」「しょっぱかった」「それも言う?」「焦げた玉ねぎもあった
last updateLast Updated : 2026-09-22
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