『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』

『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』

last updateÚltima atualização : 2026-09-22
Por:  常陸之介寛浩Atualizado agora
Idioma: Japanese
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人より嗅覚が鋭すぎる大学一年生・香坂悠真は、他人の香水や洗剤、汗の匂いまで強く記憶してしまうせいで、人付き合いを避けてきた。そんな彼が出会ったのは、陸上部で明るく人気者なのに、自分の汗と体臭にひそかなコンプレックスを抱える夏目陽菜。「私、やっぱり臭う?」と聞かれ、悠真は思わず「する。でも嫌じゃない。むしろ好きかもしれない」と答えてしまう。最悪すぎる一言から始まった二人の距離は、匂い、声、筆跡、手、仕草など、人には言いづらい“好き”を語るフェチ研究会との出会いで少しずつ変わっていく。自分では嫌いだった部分を、誰かだけが好きと言ってくれる。そんな不器用で面倒で、やさしく胸が高鳴る青春偏愛ラブコメ。

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Capítulo 1

第1話 「私、やっぱり臭う?」

第1話 「私、やっぱり臭う?」

 大学生活というものは、もっと劇的に始まるものだと勝手に思っていた。

 入学式の日、桜の下で運命的な出会いがあるとか、講義室でたまたま隣になった誰かと意気投合するとか、サークル勧誘に巻き込まれた結果、それまでとはまるで違う世界が広がるとか。高校までの俺は、そんな話を小説やドラマの中だけのものだと笑っていたくせに、いざ自分が大学生になると、心のどこかで少しくらいは期待していたらしい。

 だが、私立青葉ヶ丘大学に入学して二週間が経った現在、香坂悠真の大学生活は驚くほど地味だった。

 講義に出て、昼食を食べ、次の講義に出て、帰る。

 以上。

 友人と呼べそうな相手も、一応はいる。基礎ゼミで隣の席になった久我蒼とは何度か昼を食べたし、連絡先も交換した。ただ、久我は今日は午後からアルバイトがあるとかで、一限が終わったところで帰ってしまった。

 だから俺は今、一人で学生食堂へ向かっていた。

「……人、多いな」

 昼休みの中央広場には、嫌になるほど学生がいる。

 別に人間そのものが嫌いなわけじゃない。ただ、人が多い場所は昔から苦手だった。

 春の風が吹くたびに、さまざまな匂いが鼻へ流れ込んでくる。誰かが飲んでいる甘いカフェラテ、芝生の青臭さ、植え込みの土、柔軟剤、香水、ヘアワックス。それから、少し遠くにある学食の換気口から漂ってくる揚げ物の油。

 普通の人間なら気にも留めない程度なのかもしれないが、俺には全部が妙にはっきり分かる。

 生まれつき鼻が利きすぎるのだ。

 犬並み、などと言えば格好よく聞こえるかもしれないが、別に犯罪捜査に役立つわけでもなければ、ワインの銘柄を嗅ぎ分けられるわけでもない。ただ人より少し、いや、かなり匂いに敏感というだけだった。

 そして、この体質は大抵の場合、便利さより面倒のほうが勝つ。

 人混みを避けるように歩きながら、学食まであと少しというところで、俺は前方から勢いよく走ってくる人影に気づいた。

「すみませーん! 通ります!」

 女子学生だった。

 肩に大きなスポーツバッグを掛け、ジャージの上着を羽織っている。長い髪は高い位置で一つにまとめられていて、額には汗が浮いていた。

 どうやら走ってきたらしい。

 しかも速い。

「うわっ」

「きゃっ、ごめんなさい!」

 曲がり角で真正面からぶつかりそうになり、俺は反射的に半歩後ろへ下がった。

 女子学生も急停止した。

「ほんとごめん。大丈夫? ぶつかってないよね?」

「ああ。平気」

「よかった……。昼休み短いのに、ミーティング長引いちゃってさ。って、あれ?」

 彼女はそこで言葉を止めた。

 俺の顔を見る。

 そして、さっき俺が一歩下がった場所を見る。

 表情が微妙に変わった。

「……もしかして、私、なんかついてる?」

「いや」

「顔?」

「別に」

「じゃあ、その一歩は何?」

「一歩?」

「今、私が近づいた瞬間、下がったでしょ」

 かなり細かいところを見ている。

「ぶつかりそうだったからだろ」

「それだけ?」

「それ以外に何があるんだよ」

 女子学生はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて、自分の首元を気にするようにジャージの襟を少し引っ張った。

 その仕草で、俺にも何となく察しがついた。

 彼女は走ってきたばかりなのだろう。汗をかいている。

 そこを気にしているらしい。

「……ねえ」

「何?」

「正直に答えてほしいんだけど」

 さっきまで明るかった声が、ほんの少しだけ小さくなった。

「私、やっぱり臭う?」

 一瞬、答えに詰まった。

 質問があまりにも直球だったからだ。

 こういう時、一般的にはどう答えるのが正解なのだろう。

 臭わないよ、と即答するべきなのか。

 だが俺の場合、それは嘘になる。

「……汗の匂いはする」

 言った瞬間、彼女の顔が露骨に曇った。

「ああ、やっぱり」

「いや、待って」

「いいよ、正直に言ってって頼んだの私だし。朝から部活だったから仕方ないんだけどさ。でも、やっぱり人と会う前に着替えてくればよかった。ボディシートも使ったんだけどなあ」

 彼女は困ったように笑った。

 明るく取り繕っている。

 でも、その笑い方が妙に引っかかった。

 昔から俺は、人が嘘をついているかどうかは分からない。だが、匂いに関してだけは、人よりずっと細かく感じ取ってしまう。

 彼女からは確かに汗の匂いがしていた。

 ただ、それだけではない。

 洗いたてのタオルの匂い。薄い柑橘系のボディシート。それに、外を走った後特有の、日差しに温められた服と髪の匂い。

 少なくとも俺には、不快ではなかった。

「別に臭くないぞ」

「今、汗の匂いするって言ったじゃん」

「汗の匂いがするのと、臭いっていうのは別だろ」

「え?」

「汗をかいてるんだから、汗の匂いがするのは普通だろ。でも、それが嫌な匂いかって聞かれたら、そうじゃない」

 彼女は目を瞬かせた。

「……何、その理屈」

「理屈じゃなくて、事実」

「普通、女の子にそんな説明する?」

「そっちが正直に答えろって言ったんだろ」

「言ったけど、もうちょっとこう、言い方っていうものがあるじゃん」

「じゃあ、どう言えば正解だったんだよ」

「知らないよ。『全然気にならないよ』とか?」

「気にはなる」

「最悪じゃん!」

 思わず声を上げた彼女に、近くを歩いていた学生が何人か振り返った。

「声大きい」

「誰のせいよ!」

「だから、悪い意味じゃないって」

「じゃあ、どういう意味なの?」

 詰め寄られて、俺は困った。

 本当に説明しづらい。

「……なんというか」

「うん」

「嫌じゃない」

「それはさっき聞いた」

「むしろ」

 そこで止めればよかったのだと思う。

 今振り返れば、間違いなくそうだ。

 なぜ俺が、その先まで正直に言ってしまったのかは分からない。

 ただ、その時の彼女が、自分の汗の匂いを本気で嫌っているように見えたからかもしれない。

「むしろ俺、その匂い、結構好きかもしれない」

 沈黙した。

 風が吹いた。

 中央広場の木々がざわざわと揺れ、遠くでサークル勧誘の学生が「新入生まだ募集中でーす!」と叫んでいる。

 そんな周囲の音だけが、やけにはっきり聞こえた。

「……は?」

 彼女が言った。

「いや」

 俺はようやく、自分が何を口走ったのか理解した。

「今のは忘れてくれ」

「ちょっと待って」

「忘れろ」

「無理でしょ!」

 頬を真っ赤にした彼女が、俺を指差した。

「初対面に近い女の汗の匂いを『好き』って言う人、私、生まれて初めて会ったんだけど!」

「俺だってこんなこと言う予定じゃなかった!」

「予定があったらもっと怖いよ!」

「だから忘れろって」

「忘れられるわけないでしょ!」

 こちらも恥ずかしくなってきた。

 別に変な意味で言ったわけではない。

 本当にただ、不快ではないということを伝えたかっただけだ。

 それなのに、自分の口から出ると、とんでもなく怪しい発言になる。

 彼女はしばらく俺を睨んでいたが、ふいに何か思い出したようにスマートフォンを見た。

「あっ、やばい! 学食!」

「何?」

「十二時半から友達と約束してるの! もう十二時二十七分!」

「それで走ってたのか」

「そうだよ!」

 慌てて走り出しかけた彼女は、しかし二歩進んだところで止まった。

 振り返る。

「ねえ」

「まだ何かあるのか」

「名前」

「名前?」

「あなたの名前。聞いてない」

 俺は少し迷った。

「香坂。香坂悠真」

「香坂悠真……」

 なぜか確認するように繰り返したあと、彼女は自分を指差した。

「私、夏目陽菜。文学部じゃなくて経済学部。陸上部。あと、別に毎日汗臭いわけじゃないから」

「最後の情報いるか?」

「いる! 非常に重要!」

 夏目陽菜はそう言うと、今度こそ学食へ走り出した。

 十メートルほど進んだところで、また振り返る。

「それから!」

「今度は何だよ」

「さっきの発言、まだ許してないから!」

「別に許してもらうようなことした覚えないけど」

「女の子に『汗の匂い好き』は十分事件なの! 覚えといて!」

 言いたいことだけ言うと、彼女は今度こそ人混みの向こうへ消えていった。

 残された俺は、その場で小さく息を吐いた。

「……何だったんだ、あいつ」

 そう呟いた直後だった。

 風が、彼女の走っていった方向から吹いてきた。

 一瞬だけ、さっきの匂いがした気がした。

 汗。

 洗剤。

 柑橘系のシート。

 春の日差し。

 俺は無意識に、その方向へ目を向けた。

 もう彼女の姿は見えない。

 なのに、なぜだろう。

 今まで何百人、何千人と人間の匂いを感じてきたのに、夏目陽菜という名前と一緒に、あの匂いだけが妙に頭へ残っている。

「……いや、だから何なんだよ、俺」

 自分で自分に呆れながら、俺は学食へ向かった。

 この時の俺はまだ知らなかった。

 数日後、あの夏目陽菜が、まるで俺を避けるようになることも。

 そのくせ、俺が別の女子学生と話していると、妙に遠くからこちらを見てくることも。

 そして彼女との出会いをきっかけに、俺が大学生活で最も関わりたくなかった種類の集団――人間の「好き」を真面目に研究する、通称「フェチ研」へ足を踏み入れることになるなんて。

 もちろん、この時点では知るはずもなかった。

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第1話 「私、やっぱり臭う?」
第1話 「私、やっぱり臭う?」 大学生活というものは、もっと劇的に始まるものだと勝手に思っていた。 入学式の日、桜の下で運命的な出会いがあるとか、講義室でたまたま隣になった誰かと意気投合するとか、サークル勧誘に巻き込まれた結果、それまでとはまるで違う世界が広がるとか。高校までの俺は、そんな話を小説やドラマの中だけのものだと笑っていたくせに、いざ自分が大学生になると、心のどこかで少しくらいは期待していたらしい。 だが、私立青葉ヶ丘大学に入学して二週間が経った現在、香坂悠真の大学生活は驚くほど地味だった。 講義に出て、昼食を食べ、次の講義に出て、帰る。 以上。 友人と呼べそうな相手も、一応はいる。基礎ゼミで隣の席になった久我蒼とは何度か昼を食べたし、連絡先も交換した。ただ、久我は今日は午後からアルバイトがあるとかで、一限が終わったところで帰ってしまった。 だから俺は今、一人で学生食堂へ向かっていた。「……人、多いな」 昼休みの中央広場には、嫌になるほど学生がいる。 別に人間そのものが嫌いなわけじゃない。ただ、人が多い場所は昔から苦手だった。 春の風が吹くたびに、さまざまな匂いが鼻へ流れ込んでくる。誰かが飲んでいる甘いカフェラテ、芝生の青臭さ、植え込みの土、柔軟剤、香水、ヘアワックス。それから、少し遠くにある学食の換気口から漂ってくる揚げ物の油。 普通の人間なら気にも留めない程度なのかもしれないが、俺には全部が妙にはっきり分かる。 生まれつき鼻が利きすぎるのだ。 犬並み、などと言えば格好よく聞こえるかもしれないが、別に犯罪捜査に役立つわけでもなければ、ワインの銘柄を嗅ぎ分けられるわけでもない。ただ人より少し、いや、かなり匂いに敏感というだけだった。 そして、この体質は大抵の場合、便利さより面倒のほうが勝つ。 人混みを避けるように歩きながら、学食まであと少しというところで、俺は前方から勢いよく走ってくる人影に気づいた。「すみませーん! 通ります!」 女子学生だった。 肩に大きなスポーツバッグを掛け、ジャージの上着を羽織っている。長い髪は高い位置で一つにまとめられていて、額には汗が浮いていた。 どうやら走ってきたらしい。 しかも速い。「うわっ」「きゃっ、ごめんなさい!」 曲がり角で真正面からぶつかりそうになり、俺は反射的に半歩
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第2話 なぜか、ものすごく避けられている
第2話 なぜか、ものすごく避けられている 夏目陽菜と妙な会話を交わした翌日、俺は大学という場所が思っていた以上に狭いのだと知った。 学生数だけを見れば決して小さな大学ではない。校舎はいくつもあるし、食堂も二つ、図書館もそれなりに大きい。それなのに、一度気になる人間ができると、不思議なくらい目につく。 朝、正門をくぐったところで陽菜を見かけた。 昨日と同じように髪を高い位置でまとめていたが、今日は部活帰りではないらしく、薄い色のパーカーにデニムという普通の格好だった。隣には、小柄で眼鏡をかけた女子学生がいる。 俺は別に声をかけるつもりはなかった。 昨日の件を考えれば、向こうも俺とはあまり話したくないだろう。そう思ってそのまま歩いていたのだが、陽菜がこちらへ顔を向けた。 目が合った。「あ」 俺が声を出すより早く、陽菜はくるりと顔を反対方向へ向けた。 そして隣の女子学生の腕を引っ張り、明らかに不自然な速度で歩き始めた。「ちょっと、陽菜。何、急に」「何でもない。急いでるだけ」「一限まで二十五分あるけど」「購買に寄りたいの」「さっきコンビニ寄ったじゃん」「大学の購買にしか売ってないものがあるの」「何?」「……大学っぽいやつ」 聞こえている。 かなり聞こえている。 というより、声が大きい。 俺はその場で少しだけ立ち止まり、遠ざかっていく背中を見送った。「避けられてるな」 自分で言ってみると、思っていた以上に傷ついた。 いや、別に仲が良かったわけじゃない。昨日初めてまともに話しただけである。 それでも、真正面から避けられるというのは気分のいいものではない。 原因は分かっている。 俺が悪い。 というか、口が悪い。 女の子に「汗の匂いが好き」と言って、翌日も普通に話せると思っていたほうがおかしい。 そう考えれば当然の反応だった。 だから気にする必要はない。 ないはずなのだが、昼休みになって二度目に陽菜を見かけた時も、俺は無意識にその姿を目で追っていた。 学食の入り口。 陽菜は昨日と同じ眼鏡の女子と一緒だった。 今度は向こうが先に俺を見つけた。 また目が合う。 陽菜の肩が目に見えて跳ねた。「夏目」 俺は今度こそ声をかけた。 すると陽菜は、露骨に慌てた。「ごめん、千紗。私、飲み物買ってくる」「今、手に
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第3話 そのバッグ、制汗剤何本入ってるんだ? その日の最後の講義が終わったのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。 大学というところは、高校より自由なはずなのに、慣れないうちは妙に疲れる。授業ごとに教室が変わり、知らない教授の話を聞き、周囲には知らない人間ばかりいて、昼休みにはその人混みに揉まれる。俺の場合は、そこへさらに匂いまで加わるから、夕方になる頃には頭の奥が重くなっていた。 できれば真っ直ぐ帰りたかった。 ところが、図書館へ返さなければならない本があることを思い出した。「最悪だな」 自分の計画性のなさに悪態をつきながら、俺は中央棟から図書館へ向かった。 春とはいえ、夕方の風は少し冷たい。昼間ほど人も多くなく、キャンパス全体がようやく静かになり始めている。俺にとってはこの時間帯のほうがずっと楽だった。 図書館へ向かう途中、陸上競技場の横を通る。 トラックではまだ何人かが走っていた。 掛け声とスパイクの音が聞こえる。 その中に、見覚えのあるポニーテールを見つけた。 夏目陽菜だった。 昼休みに会った時とは違い、今は紺色の練習着に着替えている。かなりの速度でトラックを走っていた。 速い。 昨日もそうだったが、改めて見るとかなり速い。 俺には陸上競技の詳しいことは分からない。それでも、ただ趣味で走っている人間とは明らかにフォームが違うことくらいは分かった。「ほんとに陸上部なんだな」 誰に言うでもなく呟く。 本人が陸上部だと言っていたのだから当たり前なのだが、普段あれだけよく喋る陽菜が、走っている時だけは別人みたいに真剣だった。 妙に目を引いた。 しばらく見てから、俺は我に返った。 別に見学しに来たわけではない。 図書館へ行こうと再び歩き始めた、その時だった。「香坂くーん!」 遠くから声がした。 振り返る。 練習を終えたらしい陽菜が、こちらへ向かって手を振っていた。「何してるのー!」「図書館!」「聞こえなーい!」「図書館!」「待ってー!」 待つ必要があるのか分からなかったが、あそこまで大声で呼び止められて無視するのも気まずい。 数分後、陽菜がスポーツバッグを肩に掛けてこちらへ走ってきた。「ごめん、待った?」「待てって言ったのそっちだろ」「そうだけど、一応聞くのが礼儀かなって」「じゃあ待った」「そ
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第4話 俺の鼻は、昔からちょっと面倒だ 翌日の昼休み。 俺が学食の一番奥、比較的人の少ない席で唐揚げ定食を食べていると、夏目陽菜が妙に真剣な顔でやってきた。「香坂君、ちょっといい?」「もう座ってるけど」「そういう意味じゃなくて」「じゃあ何だよ」 陽菜は俺の正面に座ると、持っていた小さな紙袋をテーブルの上に置いた。 その後ろには当然のように水野千紗もいる。「何、その袋」「実験道具」「帰るわ」「待って!」 立ち上がろうとした俺の袖を、陽菜が慌てて掴んだ。「まだ何もしてないじゃん!」「実験道具って聞いた時点で嫌な予感しかしない」「危ないことじゃないって。むしろ香坂君が昨日、自分で鼻がいいって言ったんでしょ」「言ったけど、証明しろとは言ってない」「私は確認したいの」「何を」「どのくらい本当に分かるのか」 陽菜は紙袋の中から、小さな透明の容器を三つ取り出した。 どれも蓋が閉まっている。 千紗が隣に座りながら説明した。「私も手伝いました」「何でそんな楽しそうなんだ」「陽菜が昨日からずっと気にしてたから」「千紗、それ言わなくていい」「朝から『本当に分かるのかな』『昨日のも適当に言っただけだったらどうしよう』ってうるさかった」「全部言わなくていい!」 陽菜が千紗の腕を叩く。 千紗はまったく気にしていない。「で、中身は?」 俺が聞くと、陽菜は少しだけ表情を引き締めた。「それは秘密。目を閉じてもらって、順番に匂いを嗅いで当ててもらう」「何でそんな本格的なんだよ」「確認だから」「何の確認だ」「……昨日まで香坂君が言ってたことが、本当に香坂君にはそう感じてたのかどうか」 最後だけ声が少し小さくなった。 なるほど。 つまり陽菜が気にしているのは、俺の嗅覚そのものではない。 自分の匂いについて俺が言ったことが、本当にその場しのぎではなかったのか。 そこを確かめたいらしい。「分かった」「やるの?」「やらないと納得しないだろ」「うん」「即答だな」「だって気になるし」 陽菜は妙に素直だった。 俺はため息をつきながら箸を置く。「じゃあやれば」「よし」 陽菜と千紗が顔を見合わせる。 完全に楽しんでいる。「まず一つ目ね。目閉じて」「別に見ても分からないだろ」「いいから」「はいはい」 仕
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第5話 先輩、それ研究って呼んでいいんですか
第5話 先輩、それ研究って呼んでいいんですか 翌日の昼休み、俺はいつものように学食の奥にある比較的人の少ない席へ向かった。 正確には、「いつものように」と呼べるほど同じ席を使っているわけではない。まだ入学して三週間も経っていないのだから、大学生活における「いつも」など大した積み重ねではなかった。 それでも、人混みが苦手な俺にとって、出入り口から離れていて、窓を少し開ければ風が通り、香水や食事の匂いが滞留しにくいこの辺りは居心地がいい。 昨日もここで夏目陽菜と話した。 そして今日も、何となく同じ場所を選んだ。 別に待っているわけではない。 そう自分に言い聞かせながら席についたところで、遠くから聞き慣れつつある声が飛んできた。「香坂くーん! いた!」 やっぱり来た。 しかも一人ではない。 陽菜、その隣に水野千紗。 そしてもう一人、見知らぬ女がいた。 年齢は俺たちより少し上だろう。背が高く、肩まで伸ばした黒髪を後ろで緩くまとめている。白いシャツの袖を肘までまくり、細身のパンツを合わせた格好は妙に大人びて見えた。 その女が俺を見るなり、楽しそうに目を細める。「へえ。君が、匂いで人を困らせる一年生?」 最初の一言がそれだった。 俺は席を立とうとした。「帰ります」「待って待って待って!」 陽菜が慌てて俺の前に回り込む。「まだ何も始まってないじゃん!」「その人の第一声で十分だろ」「悪気はないから」「それ一番信用できないやつだぞ」「ひどいなあ」 見知らぬ女はまったく悪びれず、空いていた椅子を引いて勝手に座った。「神崎玲奈。三年。よろしく、香坂悠真君」「何で俺のフルネーム知ってるんですか」「陽菜ちゃんから聞いた」「夏目」「私、名字と名前言っただけだから!」「その前後も聞きたい」「そこは大したこと話してないよ」 千紗が横から口を挟む。「かなり話してたけど」「千紗!」「何よ。事実じゃん」 陽菜が露骨に慌てるので、何を話したのか逆に気になってくる。「何を言ったんだよ」「別に、本当に大したことじゃないって」「なら言えるだろ」「鼻がすごくいい人がいるって話と、私がちょっとその人に匂いのこと言われたって話と」「ちょっと?」「ちょっと」「具体的には?」「そこはいいでしょ!」 陽菜の顔が赤くなる。 神崎
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第6話 好きな匂いと、好きな声
第6話 好きな匂いと、好きな声 夜十一時を過ぎていた。 風呂から上がり、ベッドの上で適当にスマートフォンを眺めていた俺は、夏目陽菜から届いた一文を見たまま動けなくなっていた。『香坂君って、好きな匂いって他にもある?』 たったそれだけの文章である。 普通に答えればいい。 コーヒーとか、雨上がりの土とか、新しい本とか、そういう無難なものをいくつか書けば済む話だ。 なのに、実際に「好きな匂い」と言われて最初に頭へ浮かんだのは、どう考えても無難とは言えないものだった。 陸上部の練習を終えたあとの陽菜。 汗と日差しと、洗剤と、少しだけ残った柑橘系のボディシート。「……何で真っ先にそれなんだよ」 声に出してから、自分で余計に恥ずかしくなった。 返信欄には何度も文字を打っては消した。『雨の匂いとか』 これなら普通だ。 しかし、あまりにも無難すぎて逃げたみたいに見える。『古い本の匂い』 これも本当だ。 でも、それだけ送るのも妙に格好をつけている感じがする。『炊きたての米』 急に生活感が強すぎる。「何で女子とのメッセージ一つでこんなに悩むんだよ」 俺は枕に頭を押しつけた。 数分悩んだ末、結局、一番無難そうなものを並べることにした。『雨上がりの土とか、古い本とか、コーヒー。あと炊きたての米』 送信。 すぐに既読がついた。 早い。 そして数秒後。『最後だけ急にお腹すくね』 俺は少し笑った。『好きなんだから仕方ないだ
last updateÚltima atualização : 2026-09-19
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第7話 俺の字をそんなに見ないでください
第7話 俺の字をそんなに見ないでください その日の午前中、俺はたぶん三十回くらい、自分の名前について考えていた。 香坂悠真。 生まれて十九年使ってきた名前である。 家族に呼ばれても何とも思わないし、高校時代の友人に「悠真」と呼ばれても、それが普通だった。むしろ大学へ入ってから名字で呼ばれることが増えたせいで、少し距離があるように感じていたくらいだ。 それなのに夏目陽菜から「悠真」と呼ばれると、いちいち妙に意識してしまう。 原因は分かっている。 昨夜、電話で「声が好き」と言われた直後だからだ。 ただ名前を呼ばれただけなのに、あの会話まで一緒に思い出す。「……面倒くさ」「何が?」「うわっ」 昼休み、背後から突然声をかけられて振り返ると、陽菜が立っていた。「何、その反応」「急に近くで喋るなよ」「普通に後ろから呼んだだけじゃん」「気配消してくるな」「忍者じゃないんだから消してないよ。悠真がぼーっとしてただけでしょ」 また呼んだ。 俺は無意識に眉を寄せたらしい。 陽菜がすぐ気づく。「何?」「別に」「名前、嫌だった?」「嫌じゃない」「じゃあその顔何」「慣れないだけ」「昨日まで香坂君だったから?」「まあ」 陽菜は少し考えたあと、わざとらしく俺の顔を覗き込んだ。「じゃあ慣れるまでいっぱい呼ぼうか。悠真、悠真、悠真」「やめろ」「何で」「うるさい」
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第8話 それ、嫉妬って言うんじゃない?
第8話 それ、嫉妬って言うんじゃない? 図書館のカウンター前で、俺はメモ用紙とペンを持ったまま固まっていた。 目の前には白石澪先輩。 その背後から、夏目陽菜の声。「……何してるの?」 同じ質問なのに、普段より少しだけ低い。 俺は振り返った。「見れば分かるだろ」「分かんないから聞いてるんだけど」「昨日言ってたやつ。字を書いてほしいって」「今日も?」「たまたま会ったから」 陽菜は俺の手元を見る。 次に澪先輩を見る。「そうなんですね」 急に敬語になった。 澪先輩は小さく頷く。「うん。昨日、また会ったら書いてもらう約束したから」「約束」 陽菜がその言葉だけ繰り返した。「約束っていうほど大げさじゃないぞ」「別に何も言ってないけど」「顔が言ってる」「顔に字幕出てる?」「出てる」「じゃあ何て?」「面白くない」「全然違う」「じゃあ正解は?」「普通」「それが一番嘘っぽい」 陽菜が眉を寄せる。「悠真、今日ちょっと面倒くさい」「今日だけみたいに言うな」「自覚あるんだ」 澪先輩がそのやり取りを静かに見ている。 何となく気まずい。「とりあえず書けばいいんですよね」「うん」「今日は何を?」 澪先輩は少し考えた
last updateÚltima atualização : 2026-09-21
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第9話 走っているお前は、ちゃんと格好いい
第9話 走っているお前は、ちゃんと格好いい 昼休みの学食で、俺は時計を見た。 十二時二十五分。 いつもなら、もう陽菜が来ていてもおかしくない時間だった。 約束したのは昨夜だ。『明日、昼一緒に食べる?』 俺はほとんど考えずに『いいよ』と返した。 場所も、いつもの奥の席。 それだけだった。 別に重要な約束ではない。 昼飯を一緒に食べるだけだ。 だから五分や十分遅れたところで、気にする必要はない。 そう思いながら、また時計を見る。 十二時二十八分。「……遅いな」 口に出してから、自分で嫌になった。 待ち合わせに慣れていない人間みたいだ。 スマートフォンを確認する。 連絡はない。『今どこ』 送ろうとしてやめた。 重い。 たかが昼飯で、そこまで急かす必要はない。 代わりに、『先に座ってる』 とだけ送った。 既読はつかない。 十二時三十五分。 唐揚げ定食が冷め始める。 十二時四十分。 俺はほとんど食べていなかった。 そして、その時。 スマートフォンが震えた。 陽菜ではない。 水野千紗だった。『陽菜、今日部活でちょっとあったみたい』 それだけ。 俺はすぐに返信した。『何があった』 数秒後。『詳し
last updateÚltima atualização : 2026-09-22
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第10話 「絶対来て」は、ちょっと反則だ
第10話 「絶対来て」は、ちょっと反則だ 夏目陽菜から記録会の日程が送られてきたのは、その日の夜九時過ぎだった。『五月十六日、土曜日。青葉市陸上競技場。十時半くらいから!』 その下に地図。 さらに、『忘れないでね』 と続く。 俺はベッドの上でスマートフォンを見ながら、少し考えた。 五月十六日。 特に予定はない。 アルバイトを始めているわけでもなければ、サークル活動もしていない。土曜日なので講義もない。 つまり行こうと思えば普通に行ける。 ただ、その事実を素直に伝えるのはなぜか少し悔しかった。『予定確認しとく』 そう返した。 すぐに既読がつく。『今確認して』『何で』『忘れそうだから』『俺が?』『うん』『人を信用しろ』『じゃあ来る?』 逃げ道を塞いでくる。『予定がなければ』『予定あるの?』『今のところない』『じゃあ来るじゃん』『未来は分からないだろ』『急に壮大な話にしないで』 俺は少し笑った。 その直後、さらにメッセージ。『絶対来て』 指が止まった。 さっきまでの軽いやり取りと同じ文字数なのに、その一文だけ妙に強く見える。『何でそんなに』 送る。 少し間があった。『見ててほしいから』 まただ。 昼間にも同じようなことを言われた。 冗談ではないらしい。『水野も来るだろ』『千紗にも言った』『じゃあ神崎先輩とか』『たぶん来るって』『人いるじゃん』『そうじゃなくて』 そこで一度、返信が止まった。 俺は画面を見つめる。 しばらくして、『悠真にも来てほしいの』 と届いた。「……それは反則だろ」 口に出したところで、当然陽菜には聞こえない。 こういう時、何と答えるのが正しいのだろう。 冗談で返すのも違う気がする。 かといって、嬉しいと素直に言うのも恥ずかしい。 結局、『分かった。行く』 と送った。 すぐに、『ほんと!?』『行くって』『絶対?』『何回確認するんだ』『当日まで毎日』『やめろ』『じゃあ忘れないで』『分かった』『約束ね』 約束。 その言葉が妙に残った。『約束』 と返すと、陽菜から拍手している犬のスタンプが送られてきた。 それで終わりかと思った。 だが一分後。『ちなみに』『まだあるのか』『私、四百メートル走るから』『そ
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