All Chapters of もう、夫のために辛いものを我慢しない!: Chapter 11 - Chapter 13

13 Chapters

第11話

野菜スープが地面にこぼれた。白い湯気が立ちのぼったが、それもすぐに冷たい風にさらわれていく。尋の声が震えた。「寧々、そんなこと言うなよ。東都が俺たちの家だろ」私は首を振った。「あれはあなたの家でしょ。私の家じゃない。ここには7年も住んだけど、ずっと、誰かの家に居候しているみたいだった。キッチンでは辛いものを作れないし、リビングには私の物を置けない。母が送ってくれた燻製肉だって、あなたがいないときに隠れて食べてたんだよ。尋。私には、ずっと前から家なんてなかったの」尋の目から、また涙がこぼれた。「俺が変わる。戻ってきてくれたら、全部やり直すから。寧々の好きなようにしていい。キッチンには唐辛子をたくさん置こう。それから、ベランダには君の好きな花を植えるよ。北州にも一緒に帰るし、お義母さんにも会いに行く。なんでも君の言う通りにするから」その姿を見ていると、7年前の自分を見ているようだった。あの頃の私も、大事に抱えた気持ちを、壊さないようにそっと尋へ差し出していた。「尋、二人でうまくやっていけるなら、私、何でも覚えるよ」でも、一度冷え切った心は、あとからどれだけ温めても、元には戻らない。私は静かに言った。「私みたいにならなくていいよ。もう意味ないから」彼は私を抱きしめようと手を伸ばす。私は一歩、後ろへ下がった。行き場をなくして止まった伸ばされた腕。「寧々……頼む。行かないでくれ。今になって分かったんだ。寧々がいないと、何もかも駄目になる。帰っても家の明かりがついてないし、クローゼットには君の服がない。冷蔵庫を開けても、君が買った果物がひとつも入っていないんだ。胃が痛くなっても、もう薬を出してくれる人がいないし、昇進の資料を間違えてても、誰も気づいてくれない。そんなの全部、大したことじゃないと思ってた。でも今になって分かった。ずっと寧々が支えてくれてたんだって」彼は涙声で必死に訴える。けれど私は、ただ疲れるだけだった。「尋。あなたは、私を愛していたんじゃない。私に世話をしてもらうことに慣れてただけ。いつも言うことを聞いてくれる都合のいい関係が好きだったんでしょ?いつもあなたの後ろにいる、私が好きだっただけなの」尋は何
Read more

第12話

あれから1ヶ月。残る手続きを終えるため、私は再び東都へ戻った。尋は約束の時間より2時間も早く来ていたらしい。私が着いたとき、彼は手には赤いバラの花束を持って役所の前に立っていた。ありきたりだけど、どこか情熱的な花束。昔の私は、こういう花が好きだった。でも尋はほとんど贈ってくれなかった。花なんて実用的じゃない。そんなものを買うくらいなら、生活用品を買ったほうがいい。いつもそう言っていた。今になって、ようやく買ってきた。でも私はもう、欲しくなかった。私を見つけると、尋の目が一瞬だけ明るくなった。「寧々」私は静かに頷く。「入ろう」尋は花束を抱えたまま動かなかった。「その前に、少し話せないか?」「無理」私は即座に否定した。尋が息を詰まらせる。「10分だけでいいんだ。玲奈はもう辞めさせた。転勤じゃなくて、解雇にした。あいつ、社内で俺のことを言いふらして、メッセージの履歴まで同僚に見せたんだ。周藤社長もかなり怒ってるし、昇進は完全になくなって、担当してた案件も外されたよ……自業自得だって分かってる」尋は自嘲するように笑った。「今の俺には、もう何もない」私は尋を見た。「仕事はあるでしょ。家もあるし、あなた自身も残ってる。まるで私が何か奪ったみたいに言わないで」彼の表情が苦痛に歪んだ。「そういうつもりじゃない。ただ伝えたかったんだ。玲奈とは完全に終わったし、もう二度と、ほかの女には目を向けない」私は淡々と答える。「それはあなたの問題で、私には関係ない」尋が花束を強く握った。指先も白くなっている。「寧々、本当にもう少しも情は残ってないのか?」私は役所の中を見た。中で泣く人、笑う人。手をつないで入っていく人もいれば、背を向けて別々に出ていく人もいる。私も昔は、自分たちがここへ来るなんて思っていなかった。もしかしたら、人生で一番苦しいのは、心から信じていた相手に、その信頼を自分の手で壊されることなのかもしれない。私は静かに言った。「情ならあったよ。7年間、ずっと。だからもう、私の心が揺らぐことなんてない。これは当然の報いなの」尋は目を赤くして私を見つめる。「そんなふうに言うなよ」私はもう答えずに、そのま
Read more

第13話

ある時、お客さんにこう聞かれた。「この味、どこで覚えたの?」私は笑って答える。「母に教わったんです」こんなことを聞く人もいた。「どうして一人で戻ってきたの?」そのときも、私は笑う。「自分のために暮らそうと思って」毎日はゆっくり過ぎていった。そして、とても穏やかだった。少しずつ、いろんな人ともまた付き合うようになった。隣でおはぎを売っているおばさんは、毎日私の分をひとつ取っておいてくれる。通りの角で靴屋をやっているおじさんには、いつも「具を入れすぎだ」と笑われた。昔の同級生も、子どもを連れて食べに来てくれる。そして、「やっと帰ってくる気になったんだね」と笑った。昔の私は、離婚なんて恥ずかしいことだと思っていた。でも今は違う。本当に恥ずかしいのは、幸せじゃないと分かっているのに、まだ我慢できると自分に言い聞かせ続けることだった。冬はあっという間に訪れた。北州の寒さは刺すようではない。その代わり、湿った冷気が体の芯まで入り込んでくる。ある日の夕暮れ、店を閉めようとしていたとき、通りの入口に尋が立っているのが見えた。黒いコートの肩は雨に濡れていた。以前よりずっと痩せている。私に気づいても、すぐには近づいてこずに、まるで、私がそのまま立ち去るのを恐れているみたいにただ遠くから見ていた。店の鍵を締めて、私は尋のところまで歩いた。「どうしてここに?」尋は小さな声で答えた。「出張のついで」あまりに分かりやすい嘘だった。でも、私は何も言わない。尋は店の看板を見上げた。「『ただいま』か。いい名前だな」私は頷く。「うん」すると、彼がポケットから、1枚の写真を差し出した。それは10年前、北州の街で二人で撮った写真だった。私は満面の笑みを浮かべ、尋は辛さで鼻の頭を真っ赤にしながら、それでも私の肩を抱いている。尋が言った。「最近よく思うんだ。あの頃の気持ちを、ずっと忘れずにいられたら、君は出ていかなかったのかなって」私はその写真を見つめ、胸の奥に少しだけ苦いものが広がった。まだ好きだからじゃない。ただ、残念だった。人生には、確かに幸せだった時間もある。でも、そのあと壊れてしまったこともまた事実なのだ。私は静かに口
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status