Short
もう、夫のために辛いものを我慢しない!

もう、夫のために辛いものを我慢しない!

By:  みっつCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
13Chapters
34views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

北州から東都へ嫁いで7年、浅野尋(あさの ひろ)と私・浅野寧々(あさの ねね)は、食の好みがまるで合わなかった。 私は辛いものが大好きなのに、尋は辛い匂いがするだけで箸を置く。 一度、家でかなり辛めの辛味噌鍋を作ったときなんて、尋は食器を投げ出し、それから1か月も私と口をきかなかった。 それ以来、私は辛いものをやめ、味気ないほど薄味の食事にもいつしか慣れた。 7年間、ずっとそうしてきた。 あれは、誕生日のことだった。夕食の買い物を済ませて家へ帰る途中、激辛で有名な鍋料理の店から漂ってくる香りに、思わず足が止まる。 店の中に、若い女性と向かい合って座っている尋を見つけたのだ。しかも、二人の前では、真っ赤な鍋がぐつぐつと煮えていた。 尋は額に汗を浮かべながら、彼女が口元へ運んだ料理を慣れた様子で食べている。 唇が腫れるほど辛そうなのに、それでも嬉しそうだった。 ガラス越しに二人を見つめながら、私は漂ってくる唐辛子の香りに初めて吐き気を覚えた。 なんだ。尋は辛いものが食べられなかったんじゃない。私のためには、食べようとしなかっただけなんだ。

View More

Chapter 1

第1話

尋が帰ってきたとき、私は辛味噌鍋に肉を入れていた。

鍋の素は、母がわざわざ北州から送ってくれたもので、牛脂たっぷりの激辛。

この7年間、尋が辛いものを嫌うから、いつも棚の奥にしまい込んでいた。

そして賞味期限が切れるたび、捨てていた。

でも今日は、どうしてもこの味が恋しかった。

玄関を開けた尋は、部屋に漂う辛い匂いに気づくなり顔をしかめる。

「俺が辛いもの食べないって知ってるだろ。早く捨ててくれ。匂いだけで気持ち悪い」

結婚してから7年、尋はずっと辛いものは受けつけないと言っていた。

母が北州から唐辛子と山椒で煮込んだ郷土料理を送ってくれたときも、唐辛子が入っていると分かった途端、尋はそのままゴミ箱へ捨てた。

それどころか、私が一度、辛味噌鍋を作ったときには、その日のうちに鍋も食器も全部新しいものに買い替えた。

だから、私はずっと、彼が本当に心の底から辛いものが嫌いなのだと思っていた。

だから尋に合わせて、7年間ずっと自分の好みを我慢してきた。

でも今日、別の女性と激辛で有名な鍋料理店で食事をしている姿を偶然見て、ようやく分かった。

彼は辛いものが食べられないんじゃない。私とは食べたくなかっただけ。

尋の言葉が聞こえなかったふりをし、私は鍋から肉を一枚取り、取り皿に入れた。

尋が眉間にしわを寄せた。

「寧々、聞いてるのか?」

私は顔も上げずに答える。

「今日、私の誕生日だよ」

去年の今日、ケーキのろうそくを吹き消す前に、私は一つ願い事をした。

「来年の誕生日だけでいいから、尋と一緒に家で辛味噌鍋が食べたい」

尋は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、それでも了承してくれた。

でもそのあと、私は尋に悪いと思って願い事を変えた。

「じゃあ来年の誕生日は、一日中一緒にいてほしい」

今日は、その願いが叶うはずの日だった。

それなのに、尋は私と一緒にいてくれなかったどころか、好きなものさえ食べさせてくれない。

去年の自分を思い出すと、思わず笑いが漏れた。

その拍子に唐辛子でむせ、涙が止まらなくなる。

尋も去年のことを思い出したらしく、険しかった表情が少し和らぎ、気まずそうに目を逸らした。

そのとき、尋のスマホが鳴った。

若い女性の声が聞こえてくる。

「尋さん、激辛で有名なラーメン屋さんを見つけたの。すっごくおいしそうだから、今から一緒に行かない?」

明るく甘えるような声で、断られるなんて少しも考えていないような口ぶり。

そして実際、尋は断らなかった。

迷うことさえなく、すぐに玄関へ向かう。

「待ってろ。今から行く」

彼は電話の向こうにそう告げた。

ドアを開ける直前、彼は足を止めて言い放つ。

「食べ終わったら片づけることを忘れるなよ。消臭剤も多めに撒いといて」

結婚して7年、尋が私に家で辛いものを食べるのを許したのは、これが初めてだった。

でもそれは、別の女性のところへ行くために。

胸の奥にかろうじて残っていたものが、静かに冷えていく。

私は尋が出ていくのを見届けてから、スマホを手に取った。そして、弁護士へ電話をかける。

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「先ほどお話しした離婚協議書ですが、今夜から作成をお願いします」

私は夜の12時まで、一人で鍋を食べた。

尋は帰ってこなかった。

代わりに、彼のSNSが更新される。

【君と食事をする夜は、夜風まで暖かい】

添えられていたのは、女性が尋に激辛ラーメンを食べさせている写真だった。

その下には、私たち共通の友人からコメントがついていた。

【尋、お前辛いものダメだっただろ?とうとう寧々に鍛えられたか?】

尋はこう返信していた。

【たまには違う味も悪くない】

違う味、か。

その言葉を頭の中で繰り返して、私は笑いそうになった。

付き合って3年。私は尋のために北州を離れて東都へ来た。その間、彼は「違う味」を試そうなんてしなかった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
13 Chapters
第1話
尋が帰ってきたとき、私は辛味噌鍋に肉を入れていた。鍋の素は、母がわざわざ北州から送ってくれたもので、牛脂たっぷりの激辛。この7年間、尋が辛いものを嫌うから、いつも棚の奥にしまい込んでいた。そして賞味期限が切れるたび、捨てていた。でも今日は、どうしてもこの味が恋しかった。玄関を開けた尋は、部屋に漂う辛い匂いに気づくなり顔をしかめる。「俺が辛いもの食べないって知ってるだろ。早く捨ててくれ。匂いだけで気持ち悪い」結婚してから7年、尋はずっと辛いものは受けつけないと言っていた。母が北州から唐辛子と山椒で煮込んだ郷土料理を送ってくれたときも、唐辛子が入っていると分かった途端、尋はそのままゴミ箱へ捨てた。それどころか、私が一度、辛味噌鍋を作ったときには、その日のうちに鍋も食器も全部新しいものに買い替えた。だから、私はずっと、彼が本当に心の底から辛いものが嫌いなのだと思っていた。だから尋に合わせて、7年間ずっと自分の好みを我慢してきた。でも今日、別の女性と激辛で有名な鍋料理店で食事をしている姿を偶然見て、ようやく分かった。彼は辛いものが食べられないんじゃない。私とは食べたくなかっただけ。尋の言葉が聞こえなかったふりをし、私は鍋から肉を一枚取り、取り皿に入れた。尋が眉間にしわを寄せた。「寧々、聞いてるのか?」私は顔も上げずに答える。「今日、私の誕生日だよ」去年の今日、ケーキのろうそくを吹き消す前に、私は一つ願い事をした。「来年の誕生日だけでいいから、尋と一緒に家で辛味噌鍋が食べたい」尋は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、それでも了承してくれた。でもそのあと、私は尋に悪いと思って願い事を変えた。「じゃあ来年の誕生日は、一日中一緒にいてほしい」今日は、その願いが叶うはずの日だった。それなのに、尋は私と一緒にいてくれなかったどころか、好きなものさえ食べさせてくれない。去年の自分を思い出すと、思わず笑いが漏れた。その拍子に唐辛子でむせ、涙が止まらなくなる。尋も去年のことを思い出したらしく、険しかった表情が少し和らぎ、気まずそうに目を逸らした。そのとき、尋のスマホが鳴った。若い女性の声が聞こえてくる。「尋さん、激辛で有名なラーメン屋さんを見つけたの。すっごくおいしそうだから
Read more
第2話
結婚して7年。毎日の食事を尋の好みに合わせていたから、キッチンの唐辛子には埃が積もった。それでも、彼は「違う味」を試そうとはしなかった。それが今になって、たった一言。「違う味も悪くない」そんな言葉が、裏切りの言い訳になるらしい。私はその写真を開き、保存した。もう一度画面を更新すると、投稿は消えていた。ようやく私に見られないよう設定することを思い出したらしい。尋とのトーク画面を開く。【隠さなくていいよ。もう見たから】そう送ろうとして、手が止まった。最後のやり取りは一昨日だった。私の地元である北州風の辛味噌鍋店のオープン記事を送り、【最近地元の料理が恋しくなっちゃった】とのメッセージも添えていた。でも、尋から返ってきたのは、一言だけ。【気持ち悪い】そして今日、尋は別の女性とその味を楽しんでいた。画面を見つめているうちに、笑いが漏れた。自分が惨めで仕方ない。10年という時間に、故郷まで捨てて手に入れたのがこれだった。そのとき、母から電話がかかってきた。「寧々、前に送った唐辛子と山椒で煮込んだあのお肉食べた?美味しかった?東都じゃ、なかなか地元の味は食べられないでしょ。また送ったから、明日届くよ。自分で温めて食べなさい。尋の好みにばっかり合わせてちゃだめよ」母はしばらくあれこれ話したあと、ふと声を落とした。「寧々。幸せじゃないなら、帰っておいで。お母さんがご飯作ってあげるから」目の奥が熱くなった。込み上げるものをどうにか堪えながら、私は頷く。「うん」爪が手のひらに深く食い込んだ。電話を切ったあと、私は尋に電話をかけた。いつ帰ってくるのか尋ねると、辛いものを食べたせいか、掠れた声が返ってきた。「先に寝てて。友達といるから、待たなくていい」直後、女性の声が聞こえた。「ねえ、これも食べてみて。辛さ倍にしてもらったの」「ああ」そこで電話は切れた。私はスマホを置き、すっかり冷えて固まった料理を見つめた。母の言う通りだ。私、本当にもう帰ったほうがいいかもしれない。翌朝、私は早く起きて荷物をまとめると、それから法律事務所へ離婚協議書を受け取りに行った。その帰り、尋の会社の前を通りかかったところで、昨日の女性と尋に出くわした。私に気づいた尋が足を止める。
Read more
第3話
玲奈だけが、首元の三日月形のネックレスに触れながら小さく笑った。ほんのわずかな笑い声だったのに、私にはひどく重く響いた。私はすっと立ち上がる。「私、薄味が好きなんじゃないよ。辛いものが好きなの」尋が一瞬固まり、驚いたように私を見る。私はその顔を見ず、バッグを手に取った。「二人で食べて。私、用事があるから先に帰るね」そう言ってから、私は少しだけ足を止め、尋を見る。「今日はちゃんと帰ってきて。話があるから」離婚のことを、もうはっきりさせなければならない。午後はずっと家で荷造りをしていた。必要なものをまとめ、送る荷物は先に発送する。そんな作業の最中、10年前の古いDVDが出てきた。充電して再生してみると、当時の映像が流れ出した。画面の中では、まだ若かった尋が北州の街角に座っていて、目の前には唐辛子がたっぷり入ったラーメンが置かれている。尋は汗だくになりながら、それでも箸を止めずに食べていた。私はティッシュで彼の汗を拭きながら、呆れたように言っている。「ねえ、尋。辛いの苦手なんだから、そんなに無理しなくてもいいんだよ」尋は口元を拭い、眩しいくらいの笑顔を見せた。「仕方ないだろ。北州出身の嫁をもらうんだから。それに、寧々の料理があんなに辛いのに、今から慣れとかないと一生付き合えないだろ?」辛さに息を吐きながら、私のほうへ器を押してくる。「一口食べてみろよ。これ、めちゃくちゃうまい」あの頃の風には、唐辛子の香りが混じっていて、尋の髪を揺らしながら吹くその風に、私の心まで柔らかくほどけていったことを思い出す。私は、その映像を何度も繰り返し見た。ぼんやりしているうちに、尋が帰ってきた。玄関で上着を脱ぎ、私の手元にあるDVDを見るなり足を止める。「それ、どこから見つけたんだ?」上着も片づけないまま、すぐにこちらへ来た。顔には懐かしそうな笑みまで浮かんでいる。「これ、10年前のだろ。まだ付き合い始めたばっかりで……」途中で言葉が止まった。視線はモニターの上にある。そこでは、20歳の尋が笑いながら――一生、寧々と辛いものを食べられるようになる。そんなことを言っていた。尋の喉が小さく動いた。その瞬間、彼がようやく何かを思い出したように見えた。昼間の気ま
Read more
第4話
尋の笑顔が、そのまま固まった。視線が離婚協議書と離婚届へ落ちる。私の言ったことが、信じられない様子だ。長い沈黙のあと、彼は顔を上げた。「寧々、くだらないことはよせよ」私は小さく笑った。聞き飽きたセリフ。私が不満を口にすれば、くだらないことはよせ。辛いものが食べたいと言えば、くだらないことはよせ。私が地元に帰りたいと言っても、くだらないことはよせ。玲奈のことが気になると言っても、くだらないことはよせ。尋が「くだらないこと」と言えば、全てが「くだらないこと」になった。私が傷ついていても、苦しくてもそんなものは大したことじゃないことにされた。私は離婚協議書と離婚届を少し前へ押した。「くだらなくなんかないよ。もう弁護士の先生にも確認してもらってるから。財産分与に関してだけど、家は結婚後の財産として分けよう。車はあなたが乗ればいいし、預金も決められた割合で分ける。必要なものは、きちんと精算するつもりだから」尋の表情が、明らかに変わった。離婚協議書と離婚届をひったくるように掴む。「寧々、本気で言ってるのか?俺が玲奈と何回か飯食っただけで?それとも、君の誕生日を忘れたからか?」焦ったように、次々と言葉を重ねる彼は、まるで自分を納得させる理由を探しているようだった。私はただ、静かに彼を見つめた。「あなたがあの人と何回かご飯を食べたからじゃない。7年間の結果なの」リビングが静まり返った。私は尋ねた。「尋、覚えてる?結婚したばかりの頃だったかな。私、一生懸命、辛味噌鍋を作ったよね。その時、あなたが自分でなんて言ったか思い出してみて?」尋の唇が動いた。でも何も言わない。だから私が代わりに答えた。「食器を投げて、料理を鍋ごとゴミ箱に放り込んだでしょ?それに、私が全然あなたのことを考えてないって言った。私から唐辛子の匂いがするって。それだけで気持ち悪いって言った」熱いスープがかかった手首は真っ赤にただれ、私はずっとキッチンで立ち尽くしていた。それでも尋は気づかずに、まるで私が汚いものでも作ったかのような顔をしていた。それ以来、私は一度も家で辛い料理を作らなくなった。母が送ってくれた辛味噌鍋の素も、賞味期限が切れるまで棚の奥へ隠した。時
Read more
第5話
尋が追いかけてきて、私の手首を掴んだ。「寧々!」かなりの力で、掴まれた手首がじんじん痛む。私は彼の手を見下ろし、淡々と言った。「離して」それでも、尋は手を離そうとしない。私を見つめる彼の目には、怒りと焦りが入り混じっていた。「ずっと前から、俺と離婚するつもりだったのか?誰かに何か吹き込まれた?それとも、お義母さんにまた、何か言われたのか?」私は思わず笑いそうになった。ここまで来ても、まだ分からないらしい。今日のこんな結末になったのは、全部尋自身のせいなのに。私は顔を上げた。「誰にも何も言われてないよ。教えてくれたのは、あなた。つらくてもあなたには言わないほうがいいって、教えてくれた。私の誕生日を覚えててもらおうとか、私の好きなものをあなたにも好きになってほしいなんて望まないほうがいいってことも、あなたが教えてくれた。この家を、自分の家だと思わないほうがいいって。それから――もうあなたを愛さないほうがいいってことも、ね」尋の指から、少しずつ力が抜けていった。私はそのまま背を向け、ゲストルームに入る。すると、ドアを閉める直前、彼の震えるような声が聞こえた。「俺はサインなんてしないからな」私は歩みを止めた。「じゃあ、裁判するだけね」バタンとドアを閉める。そのままドアにもたれかかった。ようやく、涙がこぼれ落ちた。別れが辛いわけじゃない。ただ、傷つき続けてきた過去の自分が、あまりに可哀想でならなかったのだ。かつて北州から東都へと嫁いできた、私。愛さえあれば、どんな厳しい冬も越えられると信じていた、私。その私は、この夜ようやく目を覚ました。翌朝、尋が朝食を作っていた。7年間の結婚生活でも、ほとんどなかったことだ。食卓には白米に味噌汁に、焼き魚。それから、小さな皿に漬物まで盛られていた。母が送ってくれた漬物。以前の尋なら、瓶に触れることさえ嫌がっていたのに、それを今日は、自分で取り出して皿に並べている。まるで大仕事でもやり遂げたようだった。私が部屋から出ると、尋はすぐに立ち上がった。「寧々、少し食べていかないか」私は食卓を一度見ただけで答えた。「弁護士と約束があるから、そんな時間はないの」尋の笑顔が薄れた。
Read more
第6話
宛先は実家。北州の小さな町。そこには母がいる。入り組んだ裏路地や私の好きなものがある、10年前に出た故郷だ。ずっと私は、この先も東都で暮らして、尋のそばにいるものだと思っていた。でも、違った。人は木じゃないから、一度根を抜いたって、また別の場所に根を下ろせる。午後、尋から何通もメッセージが届いた。【今夜は早めに帰るよ。それに、辛味噌鍋を用意したから、二人で一緒に食べよう。寧々、もう一度だけチャンスをくれ】返信はしなかった。夕方家に戻り、ドアを開けた瞬間、しゃぶしゃぶの濃い匂いが漂ってきた。エプロンをつけた尋がキッチンに立っている。鍋の中では、赤いラー油が浮かんだ辛味噌鍋が煮立っていた。テーブルには所狭しと具材が並んでいる。どれもこれも、昔私が好きだったものばかり。私を見るなり、尋の目が明るくなった。「おかえり。お義母さんに君が好きなもの、全部教えてもらったんだ」私は思わず足を止めた。「母に電話したの?」尋は頷いた。「ちゃんと覚えたくて。今までは俺が悪かった。これからは、寧々が食べたいものなら、何でも一緒に食べる」器を持って出てくる彼の手の甲には、油が跳ねたらしく赤い跡ができていた。それでも尋は、何かを誇らしげに差し出すような顔をしていた。「ちょっと食べてみて。味、合ってる?」私は玄関に立ったまま、靴も脱がずにその食卓を見た。胸は何も動かなかった。失った食事は、もう取り戻せない。7年遅れて並べられたごちそうでは、それまで空腹だったことまで、なかったことにはできないのだ。だから、私は言った。「もう食べてきた」尋の笑顔が引きつる。「じゃあ、少し座って。話があるんだ」何かを恐れているみたいに、彼の声はひどく慎重だった。靴を脱いで、テーブルへ向かう。それでも、椅子には座らなかった。バッグから書類を取り出す。「追加の離婚協議書。確認して」彼の瞳から、光が完全に消えた。「寧々、そこまで冷たくすることないだろ?俺、ここまでやったんだぞ」私は尋を見た。「ここまでやった?7年遅れで、一回ご飯を作っただけでしょ。それで全てを許せって?」尋は言葉に詰まった。それでも私は続ける。「私も昔、作ったよ。その時、あな
Read more
第7話
玄関まで来たところで、背後から尋の低い声がした。「もし俺が本当にサインしたとしても、君は後悔しないのか?」私は振り返らずに答える。「しない」外の風はとても冷たかった。顔に当たる風が刃のようだ。でも初めてこう思った。寒いのも、悪くない。少なくとも、頭は冴える。会社のパーティーの日。私は最初、行くつもりなんてなかった。夕方の5時。尋の勤める会社の社長夫人から電話がかかってきた。周藤夫人とは、会社の食事会で何度か会ったことがある。明るく親しげな声だった。「寧々さん、今夜は絶対に来てね。尋さん、今回の昇進がすごく大事なんでしょう?うちの主人、家庭が安定している人をすごく評価するの。尋さんから、夫婦仲はとてもいいって聞いてるわ。それに、私も寧々さんとお花の話をしたいから」私はスマホを握ったまま、数秒ほど黙った。尋は最初から、私が来ることまで計算に入れていたんだ。彼は私の沈黙を、まだ利用できる余地があると思っているらしい。断るつもりだったけれど、口を開いた瞬間に気が変わった。「分かりました」電話を切って、私はクローゼットを開けた。中には、黒いロングドレスが一着残っていた。3年前に買ったもの。あのときも尋は、会社のパーティーに私を連れていくと言っていた。私はきちんと支度をして、夜遅くまで待っていた。けれど届いたのは、たった一言。【急に家族同伴じゃなくなった】あとになって知ったのだが、その夜、尋が連れていったのは取引相手の妹だったらしい。当時、私が問いただすと、尋は面倒そうに言った。「仕事だから仕方ないだろ」それから3年後の今日、私はそのドレスを着た。薄く化粧も施す。家を出る前に、私は自分の欄を記入した離婚届を再びバッグへ入れた。パーティー会場は、東都のあるホテル。明るい照明の下で、大勢の人がグラスを交わしている。私が着いたとき、尋は人だかりの中心にいた。濃い色のスーツ姿。その隣には玲奈がいる。玲奈はシャンパンカラーのドレスを着ていた。首元には、あのネックレス。尋と腕を組み、ごく自然に笑っていた。誰かが冗談めかして言った。「今夜のお連れ様はずいぶんお美しい方ですね」尋が答えるより先に、玲奈が笑
Read more
第8話
あのとき私は、この人なら一生、私を守ってくれると思った。でもその後、尋は他人には気を遣い、苛立ちも不機嫌も、全部私に向けるようになった。そこへ周藤社長がやってきた。「寧々さん、来てくれたんだね」機嫌はよさそうだった。「浅野くんが、今日君が来ると言っていたよ。君たち夫婦はずっと仲がいいんだって?それは何よりだ」私は隣の尋を見やった。その目には、懇願するような色が浮かんでいる。私がここで頷きさえすれば、尋はあのポジションに手が届く。副社長。何年も待ち続けてきた役職だった。そして私も、その何年かをずっと支えてきた。尋が残業するときは、食事を届けた。接待で胃を痛めたと聞けば、深夜に消化の良いものを作ってあげた。昇進試験の資料を作るときは、午前3時まで一緒に手直しした。彼が忘れ物をすれば、大雪の中、会社まで届けた。あの頃の私は、尋の仕事を陰で支える、一番静かな味方だった。でも尋は、一度もそれに気づいてくれなかった。なのに今、彼は私に前に出てほしいと願っている。この仮面夫婦の劇を続けるために。急に吐き気が込み上げてきた。辛い料理を食べたせいじゃない。この結婚生活そのものに、生理的な嫌悪を感じたのだ。私はバッグから離婚届を取り出し、尋へ差し出した。大きくない。でも、近くにいる人には十分聞こえるくらいの声を出す。「尋。前にも離婚届を渡したけど、どうせ書いてくれていないと思ったから、今日も新しいのを持ってきたの。都合がいいなら、今日ここでサインしてくれる?」場の空気が一瞬で凍りついた。尋の顔から血の気が引いた。玲奈も固まっている。周藤社長の笑顔も消えた。社長夫人は私の手を離し、驚いたように私たちを見た。尋が声を押し殺す。「寧々、正気か?」私は静かに頷いた。「すごく冷静だよ。だって、言ってたよね?周藤社長は家庭円満な人を評価するって。だから、嘘をつきたくないの。あなたのために誰かを騙すのも、もう嫌」周囲から、ひそひそ声が聞こえ始めた。「離婚?」「じゃあ、あの秘書は何なんだ?」「さっき腕組んでたよな」玲奈の顔が真っ青になった。慌てて弁解する。「違います、皆さんが思っているような関係じゃありません。私はただの秘書です
Read more
第9話
尋の声は掠れていた。「これで満足か?」私は彼を見つめた。急に、ひどく悲しい気持ちになった。彼が私のもとに来た。でも、最初に出た言葉が、謝罪じゃない。私が満足かどうかを確認することだなんて。私は答えた。「満足なんかしてないよ」尋が目を見開いた。私は静かに続ける。「だって、あなたが昇進できなくなったのは、私のせいじゃないから。あなたが自分で招いたことでしょ?」尋は顔を曇らせた。「昨日、君がみんなの前であんなこと言わなければ……」「相沢さんを連れていかなければよかったんじゃない?」私が遮ると、彼は黙り込んだ。私は言葉を続ける。「あなたが周藤社長に、夫婦円満だなんて嘘をつかなければ、秘書をパートナーみたいに連れ歩かなければ、私を昇進のための道具にしなければ……昨日のことは何一つ起きなかったと思うよ」いくつもの「なければ」が、尋をその場に縫い止めていく。尋は目を伏せた。しばらくして、彼がぽつりと呟く。「玲奈に騙されたんだ」私は眉をひそめた。尋はそれを言い訳にできると思ったのか、急いで説明し始めた。「寧々はこういうこと気にしないって、玲奈が言ったんだ。女が離婚するって騒ぐのは、男に構ってほしいだけのときもあるんだって。それに、パーティーも玲奈を連れていったほうが、取引先に若くて活気のある印象を持ってもらえるって言われて……」聞いているうちに、呆れて笑いそうになった。「それで?自分で考えることまで相沢さんに任せたの?」尋の顔が青ざめる。「寧々、そういう意味じゃない。俺はただ……」だから、私は代わりに言ってあげた。「結局、どっちも欲しかっただけでしょ?家では私に妻でいてほしいけど、外では相沢さんに新鮮さをもらいたい。それなのに、仕事では私たち二人に都合よく支えてほしい。尋、そんな人生疲れない?」彼の喉仏が大きく動いた。彼は、何も答えられなかった。ちょうどその時、少し離れたところから玲奈が駆けてきた。目は真っ赤で、化粧も崩れている。尋を見るなり、泣きながら訴えた。「尋さん、どうして人事から呼び出されたの?私、支社に異動させられるって言われた。尋さんが社長に何か言ったの?」尋の表情が一気に冷えた。「よく俺の前に来られたな
Read more
第10話
もう聞きたくなかったから、私は背を向けた。尋は私が立ち去ろうとしていることに気づくと、玲奈を振りほどいて追いかけてきた。「寧々、行かないでくれ」彼は私の袖を掴んだ。「本当に悪かった。玲奈とは縁を切るし、すぐにでも辞めさせる。だから、もう一度だけチャンスをくれないか?」私は袖を掴む尋の手を見た。「昨日までも同じこと言ってたよね。私がパーティーに行けば、相沢さんとはきっぱり距離を置くって。でも、尋。あなたが切り離そうとしてるのは、相沢さんとの関係じゃなくて、自分自身の責任だよ」尋の手が、ゆっくり離れた。私は彼を真っ直ぐに見据える。「あなたが一番大事なのは、ずっとあなた自身だった。自分の出世。世間体。自分が感じる新鮮さ。自分がどう見られるか……全部、私より大事だった。それを失って初めて、私のことを思い出したんじゃないの?」突然、尋の目から涙が落ちた。彼がこんなに取り乱して泣く姿を見るのは初めてだった。「そんなことはない。寧々、俺は君のことが大好きだ。本当に愛してるんだ」私は静かに告げた。「でも、私はもうあなたを愛してない」その一言で、尋からすべての力が抜けたようだった。私は背を向け、その場を離れた。後ろでは、まだ玲奈が尋を罵っている。尋はもう、追ってこなかった。その日を境に、尋はようやく離婚届にサインをしてくれた。離婚届を出しに行った日は、小雨が降っていた。そして、私の手元には離婚届受理証明書。薄い一枚の紙なのに、7年間沈んでいた泥沼から、私を引き上げてくれるように思えた。尋は建物の前の階段下に立ち、長い間、私を見つめていた。「寧々。1ヶ月後でいい。少し気持ちが落ち着いた頃、もう一度だけ会ってくれないか?」私は傘を開いた。雨粒が傘を叩く。乾いた、迷いのない音だった。「うん。でも、戻ってくるのはあなたに会うためじゃなくて、離婚後の諸々の手続きのためだから」全ての手続きが終わるまでに、やく1ヶ月かかる。尋は、ほとんど毎日私に連絡してきた。花を送ってきたりもしたが、私は全て送り返した。それから、デリバリーもたくさん届いた。どれもこれも私の好きな激辛料理。それでも、私は受け取らなかった。長いメッセージも送ら
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status