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娘に三発撃った夫を、私はもう愛せない のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

20 チャプター

第11話

博之は、拓真からの警告をまるで意に介さなかった。彼はひそかに拓真の動向を探り始めた。それを手がかりに、麻実を見つけ出そうとしたのだ。けれど拓真は彼女を徹底的に隠し通しており、博之の情報収集能力をもってしても、その行方を掴むことはできなかった。彼は次第に苛立ちを募らせ、日常の訓練も業務も疎かになり、ついには任務の遂行さえ拒むようになった。本部長は怒りのあまり、彼に自宅待機を命じた。だが博之はそれすら気にせず、むしろますます自分を抑えなくなった。そんな折、綾子から電話がかかってきた。「博之、麻実のことがあってから、母が今も食事も喉を通らないでいるの。会いに来てあげて」博之は一瞬迷ったが、結局向かうことにした。玄関に入る前から、綾子の声が聞こえてきた。「お母さん、麻実はきっと大丈夫よ。これはきっと、あの子が意地を張ってやってる芝居なんだから。計算高くて、嫉妬深いところがあるから……」博之はそれ以上聞いていられず、そのまま扉を押し開けた。顔つきが険しい。「今、何て言った?」綾子はぎくりと肩をすくめ、顔色を青ざめさせながらしどろもどろに言った。「あっ、博之、誤解しないで……母を安心させたくて、それで……」明美はひどくやつれていた。博之を見るなり、慌てて歩み寄って尋ねた。「博之、麻実と晴菜は、本当に何もないの?」博之は隠さずに答えた。「……ふたりとも無事です」それを聞いた綾子は、体の脇で手をぎゅっと握りしめ、しばらくしてようやく無理に笑ってみせた。「だから言ったじゃない。お母さん、心配しなくて大丈夫だって」明美は長く息を吐き出すと、また不満を漏らし始めた。「やっぱりね。あの子は昔から、こうやって同情を引くのが上手だったのよ。性根が曲がってるんだから……」博之は眉をきつく寄せた。「彼女は、そんな人間じゃありません」明美は手を振った。「あんたには分からないのよ。私はあの子の母親。誰よりもあの子のことを分かってる。晴菜だって、母親に似たのよ」博之の口調に、抑えきれない冷たさが滲んだ。「晴菜は、悠斗の身代わりになったんです」そのそばで、食卓に向かって夢中で食事をしていた悠斗が顔を上げ、もごもごと口を動かしながら言った。「あいつ、どうせ手も足もないじゃん。死んで当然
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第12話

博之は棒付きキャンディーの棒を握りしめ、色鮮やかなキャンディー玉をぼんやりと見つめた。その両手が、抑えようもなく震えていた。しばらくして、我に返ったように、ゆっくりとそのノートを開いた。日記だった。並外れた情報処理能力を持つ博之は、ほんの短い時間でノート全体に目を通した。筆跡は幼い字から大人びた字へと変化し、中学時代から現在に至るまでの記録が続いていた。積み重ねられてきた理不尽さ、悲しみ、苦しみ。重く沈んだ感情が、この薄いノートから今にもあふれ出しそうだった。博之の目の奥に、刺すような痛みが走った。俯いて手で顔を覆うと、指の隙間から冷たい涙がこぼれ落ちる。胸を刃物で何度も抉られるような痛みに、目の前が真っ暗になった。博之は初めて、妻がどんな人間なのか、そのすべてを理解したような気がした。妻はいつも、自分に向かって甘く微笑んでいた。仕事が忙しくて彼女と過ごす時間が取れなくても、出産してすぐの彼女をひとり残して任務に出向いても、ただの1日たりともそばで世話をしてやれなかったにもかかわらず、彼女は一度も文句を言わなかった。ただ、目を細めて柔らかな声で、こう言うだけだった。「大丈夫、気にしないで、わかってるから。あなたは国民を守る警察官でしょう。私が不満に思うはずないじゃない……」だから博之は、彼女が本当に辛くないのだと思い込んでいた。今になって、ようやく悟った。彼女はただ、口にしなかっただけだったのだ。彼女は幼い頃から、いびつな愛情の中で育ってきた。無視され、冷遇され、自分の感情を押し殺してきたのだ。失うのが怖かったから。ただでさえ希薄な家族の愛情を、そして深く愛する夫を、失うのが恐ろしかったから。打ち明けられなかったすべての言葉が、このノートに綴られ、箱に入れられ、鍵をかけられて、床下の、光の届かない暗がりに隠されていたのだ。博之はそのノートを抱きしめ、胸を引き裂かれるような痛みに耐えながら、喉の奥に声を押し殺し、嗚咽を漏らした。身を切られるような後悔とは、こういうことなのだと、彼は今日初めて知った。どれほどの時間が過ぎたことだろう。突然、ドアの外からノックの音が響いた。明美がドアをノックし、水の入ったコップを手に入ってきた。「博之、喉、渇いてない?水、飲みなさい」博之はゆっ
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第13話

箱を抱えて玄関まで来たところで、博之は突然、大きなめまいに襲われた。薬を盛られたのだと、博之はすぐに悟った。その時、パジャマ姿の綾子が現れた。太腿と首筋を露わにし、丁寧に化粧を施した顔に艶然たる笑みを浮かべ、しなやかに歩み寄ると彼の腕にすがりついた。「博之、泊まっていってちょうだい……」博之は嫌悪感とともに彼女を押しのけたが、全身が異様な熱を帯び、力が入らないことに気づいた。舌先を強く噛み、痛覚でかろうじて意識を保った。押しのけられて床に倒れた綾子は、そのまま床に寝そべると、つま先で彼の脚を艶めかしくなぞりながら、甘ったるい声で囁いた。「博之。私に、少しも気がないなんて、信じないから……」博之の瞳の奥で、抑えきれない怒気が渦巻いた。薬のせいで感情を制御できないまま、彼は反射的に手を伸ばし、彼女の首を絞め上げていた。「綾子……お前、死にたいのかッ!」先ほど日記の中で目にした、綾子が何十年もの間、麻実にしてきた陰湿ないじめと濡れ衣の数々。それを思い出すたび、胸を刃物でえぐられるような痛みが走り、抑えきれない殺気が全身から立ち昇った。指先に力を込めるたび、骨が軋む音さえ聞こえてきそうだった。綾子は、彼が薬の作用に抗ってまでこれほど容赦のない力で締め上げてくるとは、思っていなかった。呼吸を奪われ、顔を真っ赤に染め、やがて青白くなっていった。「やめて!」寝室から明美が飛び出してきた。まだ目の縁が赤い。彼女は力いっぱい博之の腕を引いた。「うちの娘から手を放しなさい!」博之は取り合わず、血走った目で問い詰めた。「あの日の犯人に、晴菜をわざと巻き込ませたのは、お前か!」明美は泣き叫んだ。「放しなさい。殺すなら私を殺しなさいよ!」博之は一瞬動きを止め、ゆっくりと力を緩めると、よろめきながら立ち上がった。「麻実は……あなたの実の娘じゃないんですか」胸を押さえながら、ひと言ずつ区切って言う。「彼女は、辛くないとでも?」綾子は激しく咳き込み、髪を振り乱し、化粧が涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。博之は麻実の荷物を丁寧に拾い上げると、掠れた声で警告した。「二度と俺に近づくな。次は昔の情があるからといって容赦はしない」綾子は納得できない様子で叫んだ。「博之、私のことが好きじゃないなら
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第14話

隊長が30回電話をかけても博之が応答しなかった時、彼は直接家まで押しかけた。ノックをしても応答がなく、隊長はやむを得ず、非常解錠の手段を使って電子錠を開けた。ドアを開けると、部屋中に濃い血の匂いが立ち込めていた。隊長は一瞬肝を冷やしたが、寝室で意識を失っている博之を見つけた。腕にはいくつもの切り傷が残っており、それが躊躇いのない自傷によるものだと一目でわかった。隊長は心の中で悪態をつきながら、慌てて彼を担いで病院へ運んだ。幸い傷は命に関わるものではなく、もともとの体力もあって、博之はほどなく意識を取り戻した。隊長はベッドの脇に座り、不機嫌そうに言った。「死にたいならひと言言え。一発で楽にしてやる」博之は目を伏せ、何も答えなかった。隊長はそんな様子を見て、ため息をついた。「それほどまでに彼女を愛しているなら、どうして一緒にいた頃に、もっと大事にしてやらなかったんだ」博之は掠れた声で言った。「考えたことすら、なかった……」既婚者である隊長は、その言葉の裏にある真意を瞬時に悟ったらしい。「彼女が、お前から離れていくなんて考えたこともなかった、ってわけか」博之は俯き、指先をわずかに丸めた。「ああ」隊長は呆れたように大げさに目を剥いた。「それを俺に言ってどうするんだ。元奥さんに言え……」博之は無言のままだった。その冷たい視線に射抜かれ、隊長は慌てて両手を挙げて降参した。「はいはい、悪かった。早く行けよ。俺は仕事を抜け出してお前を助けに来たんだ、さっさと本部に戻らないと」彼はそう言って立ち上がり、悠々と部屋を出ようとしたが、ふと足を止めた。「そうだ。刑務官の友人から聞いたんだが、刑務所で麻実の姿を見かけたらしいぞ」博之は慌てて尋ねた。「どこの刑務所だ」隊長は答えた。「お前の娘を拉致した、あのクズが収監されてる場所だ」何かを思い出したように付け加える。「ひとつ忠告しておくが、夫婦喧嘩で一番の禁物は意地を張ることだ。会ったら、四の五の言わずに素直に土下座しちまえ」博之は少し間を置いてから、真剣な声で言った。「恩に着る」隊長は笑って手を振ると、背を向けて去っていった。隊長が去ったのを見届けるや否や、博之は点滴の針を引き抜き、急いでその刑務所へと向かっ
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第15話

博之は狼狽した様子で地面から立ち上がり、彼女を追いかけようとしたが、ある人物に行く手を阻まれた。拓真が、怒りで顔を険しくして言った。「警告したはずだ。麻実につきまとうなと!」博之の顔つきが険しくなる。「お前、まだ麻実と一緒にいるのか」彼は拳を握りしめ、怒りを抑え込みながら言う。「彼女に付きまとうな。離れていろ」拓真は冷たく笑った。「はっ、特殊部隊に長くいすぎて頭がおかしくなったのか。離れるべきなのは、お前の方だろうが!お前が彼女にしてきたことを考えれば、3年前に俺が彼女を連れて行くべきだったんだよ!」博之は手を伸ばして彼の襟元を掴み、青ざめた顔で言った。「今、何て言った!?」3年前、拓真を救った麻実に彼はひと目惚れした。それからというもの、彼は昼夜を問わず彼女につきまとい続けた。最終的には博之が力ずくで彼を叩きのめし、その後、拓真が急襲部隊を辞めたことで、決着がついたはずの話だった。拓真は博之の手を振りほどき、着ていたスーツの上着を脱いで袖をまくり上げた。「本気で、あの時俺がお前に尻尾を巻いて逃げたとでも思ってるのか?」その色気を帯びた目元に、冷たさが滲む。「俺が身を引いたのは、いつ命を落とすか分からない生活が嫌になったからだ。それに、麻実がはっきりと言ったんだよ。お前だけを愛しているってな!」拓真は隣に立つ麻実にちらりと視線を向けると、声を落として言った。「お前はいったい彼女にどれだけ酷いことをしてきたんだ。だから、こんな結末になったんだろうが」麻実は一瞬息を呑み、顔を背けて涙の跡を隠した。博之の顔から怒りの色がすっかり消え、あとに残ったのは血の気の引いた蒼白な顔だけだった。彼は首を振った。「違う……麻実、俺の話を聞いてくれ……」「バカな!」拓真が冷たく一喝するや否や、拳を振り下ろした。博之はその一撃をまともに受け、一歩よろめきながらも、視線だけは麻実から外さなかった。だが彼女はただ冷ややかに彼を見つめ返し、その目には、復讐を果たしたかのような冷たい快意すら滲んでいた。博之は殴り返そうとする衝動を、無理やり押し殺した。その場を動かず、拓真に殴られるがままになった。麻実の表情は冷淡なままだったが、指先だけが抑えきれずにぎゅっと縮こまっていた。拓
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第16話

支え入れたと言えば聞こえはいいが、実際には放り込んだと言ったほうが近かった。拓真は乱暴に車内へ押し込まれ、口の中で「痛い、痛い」と呻き続けている。麻実は冷たい表情のまま、運転手に車を出すよう告げた。拓真は彼女の機嫌が悪いのを見て、声を上げる勇気もなかった。彼はふと振り返り、道端に立つ博之の姿を見た。顔面は蒼白で、その視線はずっと車を追い続けていた。やがて博之の姿が完全に見えなくなった。拓真は唇を結び、また前を向いた。麻実が不意に口を開いた。「今後もこんなことが続くなら、あなたの会社には入らないわ」拓真は驚いて、慌てて言った。「なんで?」麻実は振り返り、無表情のまま彼を見据えた。「私は、あなたたちが奪い合う品物じゃないし、博之への当てつけの道具でもない」拓真は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。図星を突かれたような後ろめたさが、胸の中に湧いた。若い頃、拓真が麻実に抱いた想いには、ひと目惚れの衝動と共に、博之に一泡吹かせてやりたいという対抗心もあった。幼馴染として育ち、共に隊に入りながらも、いつも博之に何かと押さえつけられてきた。この件だけは、彼に勝ちたかった。だが、拓真は敗れた。数々の挫折の末、彼は退院後に隊を離れ、自ら会社を興し、そこそこの成功を収めた。拓真は一瞬沈黙した後、真剣な声で言った。「3年前の俺の気持ちは、もしかしたら純粋なものじゃなかったかもしれない。だけど、3年経った今も、この想いは減るどころか、むしろ強くなるばかりなんだ」彼は目を細めて笑った。「麻実。俺は、お前に恋をしてるんだと思う」麻実は淡々と答えた。「ごめん。私はあなたを愛していない」拓真の瞳が一瞬翳ったが、すぐに無理やり笑みを浮かべた。「わかってる。でも、諦めるつもりはない」麻実はため息をついた。「はぁ……私たちは友達や家族のような存在にはなれても、恋人には絶対になれない」拓真は何も言わなかったが、その目には明らかな不服の色が浮かんでいた。麻実は首を振り、それ以上言い争うのをやめ、ただ冷ややかに告げた。「もうすぐ警察が綾子を逮捕しに来る。博之が横槍を入れないことを祈るだけよ」拓真は言った。「あいつはしないと思うけどな」麻実は何も答えなかった。一方、博之は道
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第17話

博之はその場に立ち、無表情のまま彼女を見下ろしていた。頭上の薄暗い明かりが、彼の彫りの深い横顔を照らし出し、瞳の奥に潜む殺意をくっきりと浮かび上がらせている。綾子は擦りむいた膝を押さえながら、恐怖に震える声を上げた。「博之、何をするつもり!?」博之はゆっくりと口を開いた。低く沈んだその声は、まるで死神の鎌が振り下ろされる前触れのように、倉庫の中に響いた。「晴菜を人質に取ったあの犯人、お前が仕組んだんだな。なんでだッ!」綾子の肩が震え、顔面が瞬く間に蒼白になった。「違う、私じゃない、そんなこと……っ」博之はもう我慢する気はないようだった。傍らの男に合図を送ると、綾子は口を塞がれ、金属バットで右腕を容赦なくへし折られた。綾子の悲鳴は喉の奥に押し込まれ、彼女は全身を震わせながら地面に崩れ落ちた。しばらくして、口を塞いでいた布が外された。博之は再び尋ねた。「なんでだ」綾子は不意に、狂ったように笑い出した。「ハハ……ハハハハ!麻実の娘が、私の息子より優れているのが許せなかったのよ!」ひと言ずつ区切りながら、狂気じみた嫉妬を滲ませて言葉を続ける。「なんであの子だけ、生まれた時から可愛くて、成績も良くて、みんなに好かれて。亡くなった私の夫まで、あの子のことを気に入ってたのよ!あの人があなたを助けた理由、わかる?麻実が愛する夫を死なせたくなかったからよ!」綾子は目を赤く腫らし、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら絞り出すように叫んだ。「あの人は一度だって、私のことなんて考えてくれなかった。私の息子のことも!なんでよ!?なんでなの!?」博之は呆然とした。脇に下ろした手が、抑えきれずに震え始める。そうだったのか。自分が生き延びたのも、麻実のおかげだったのか。それなのに自分は、何をしてきた?何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を無視してきた……博之は目を閉じ、振り返って傍らの男に告げた。「左腕も折れ。証拠と一緒に、警察署の前に放り出しておけ」綾子は全身を震わせながらも、なおいっそう狂ったように高笑いし続けた。「博之、教えてあげる。あなたが一番惨めなのよ。だって、あなただけが彼女の心を手に入れて……それを、失ったんだから」博之は目元を冷酷に引き締め、続けて言った。「舌も切り落とせ」
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第18話

麻実はデスクの前に座ったまま、心ここにあらずといった様子でぼんやりとしていた。集中しようとしても、企画書の文字がどうしても頭に入ってこない。その時、晴菜から電話がかかってきた。晴菜がぱっと声を弾ませた。「ママ、今日ね、家政婦のおばさんが美味しいカップケーキを作ってくれたの。ママが帰ってきたら一緒に食べようね」麻実の眉間の皺が、自然とほどけていく。彼女は笑って答えた。「先に食べてていいよ。ママはちょっと忙しくて、帰りが遅くなるかもしれない」晴菜は素直にうんと答えたが、麻実はその声に滲むかすかな落胆を聞き逃さなかった。心が痛み、慌てて言葉を続ける。「うーん、でも、ママもそのケーキ、食べたいな。だから、気が変わった。ママが帰るまで待ってて」晴菜の声がぱっと明るくなった。「うん!」電話を切ると、麻実は鞄を手に取り、帰り支度をした。オフィスの入り口に、ひとりの人物が立っていた。博之だった。まるで石像のように、どれほどの時間そこに立っていたのか分からない。麻実が突然出てきたことに驚いたように慌てて後ずさり、あやうく転びそうになった。麻実は何も言わず、彼の存在など目に入らないかのように、まっすぐ脇を通り過ぎようとした。博之が突然口を開いた。「愛してる、麻実」麻実は全身をびくりと震わせ、足を止めた。博之は生来、感情を表に出さない性格で、これまで一度たりとも「愛している」などと口にしたことはなかったのだ。博之は低い声で続けた。「俺の父親は早くに亡くなって、母親が苦労してひとりで俺を育ててくれた。それなのに、過労が祟って病に倒れ、死んでしまった。だから、綾子の夫が俺を助けて死んだ時、女手ひとつで子どもを育てる彼女の境遇が、亡き母の姿と重なった。それで、何度も彼女を助けてきた」彼は顔を上げた。冷たい月光が降り注ぎ、その瞳に映り込んで、細かな光の粒に砕けた。「麻実。俺が愛しているのは、お前だけだ。すまなかった……」「もうやめて!」麻実は鞄の紐を強く握りしめ、彼を遮るように鋭く言い放った。「聞きたくない」博之は行き場を失ったように唇を結んだ。麻実は必死に自分を落ち着かせながら言った。「でも、あなたが晴菜を傷つけた事実は消えないわ。あの子を他人の身代わりに死なせようと
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第19話

麻実が家に帰ると、意外にも明美が玄関先で待っていた。母の髪はすっかり白くなり、見るからに老け込んでいた。麻実は眉をひそめた。「帰ってください」明美は麻実の姿を見た瞬間、目の縁を赤くし、涙をこぼした。「麻実……」麻実は少し下がり、静かに言った。「あなたの娘は綾子ですよ。私じゃありません」明美は泣きながら首を振った。「……麻実、本当に知らなかったの。綾子があんなことをしていたなんて……」彼女は持っていたあの日記を差し出した。「全部読んだわ。全部わかった。あなたにどれほど辛い思いをさせてきたか……全部私のせいね……」麻実は微動だにしなかった。「もう終わったことです。帰ってください。私の生活に、これ以上関わらないで」明美は突然膝をつき、自分の頬を容赦なく何度も平手打ちした。「全部、私が悪いの。人を見る目がなくて、贔屓ばかりして……あんたと晴菜に、本当に、取り返しのつかないことをしてしまった……」と、その時。家の中から拓真が現れ、麻実の前に立ちはだかると、スマホを取り出した。「あの、本当に反省しているなら、これ以上麻実の人生を邪魔しないでください。彼女は今、新しい人生を歩んでいて、幸せに暮らしているんですよ」明美は一瞬呆然としたが、やがて俯き、苦々しく笑った。「わかったわ。もう二度と、あんたの邪魔はしない」顔を上げ、麻実の姿をじっと見つめると、手にしていた預金通帳を差し出した。「これは、あんたが今まで私に渡してくれたお金。手をつけずに、ずっとあんたのために貯めておいたのよ……」明美は涙を拭った。「あの頃、実はお父さんに愛人ができて、離婚を切り出されたの。でも、あんたを身ごもっていたから、あの人を引き止められた。それから、あんたを見るたびに、あの憎い男の顔を思い出すようになったの。あんなに愛していたのに、あの人は私を愛してくれなかった。そのことを……」彼女は嗚咽混じりに続けた。「私が悪かった。その行き場のない怒りを、あんたにぶつけてしまっていたの……これからは、絶対に幸せになりなさい」麻実は小さく頷いた。晴菜がいてくれるなら、それだけで、自分は幸せになれる。拓真が部下に命じて明美を送らせると、ようやく長く息を吐いた。心配そうに麻実を振り返る。「麻実
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第20話

麻実は拓真の会社に入ってわずか3年で、過去最高の業績を打ち立て、異例のスピードで出世街道を駆け上がった。拓真は毎日のように彼女と晴菜のそばをうろつき、3年間、ひたむきに彼女を想い続けた。社内では誰もが、社長の想い人が麻実であることを知っており、いつ彼女を振り向かせられるのかと、密かに噂されるほどだった。麻実はそうした噂話をまるで気にしなかった。実力がすべてを語る。そして彼女の実力を疑う者は、誰もいなかった。海外で義肢技術に関する新たな研究成果が発表されたと聞き、麻実は休暇を取り、晴菜を連れてわざわざ視察に行くことにした。拓真はすでにある商談への出席を約束していたため同行できず、ひどく残念がっていた。麻実は苦笑して言った。「1週間もかからずに帰ってくるから、心配しないで」拓真も、それ以上は言えなかった。麻実は晴菜を連れて飛行機に乗り、一晩ホテルに泊まると、翌日にはさっそく技術研究会へと向かった。研究会には海外の技術専門家だけでなく、国内の著名な研究者も参加しており、警備は特に厳重だった。麻実は、警備要員に混じる博之の姿にふと気づいた。すっかり痩せ、表情も冷たく、全身がまるで研ぎ澄まされた抜き身の刃のようだった。その視線が、麻実に気づいた瞬間。博之は一瞬全身を強張らせたが、素早く視線を逸らした。これほどの年月が過ぎても、麻実はやはり平静ではいられなかった。指先を強く握りしめ、彼女もまた視線を逸らす。晴菜が麻実の隣を歩きながら、同じく博之の姿に気づいた。少し戸惑った様子で、麻実の服の裾を引く。「ママ、パパを見かけたよ」麻実は、博之が晴菜を嫌っているという事実を、一度も娘に話したことがなかった。それを聞いても、ただ優しく尋ねた。「晴菜は、パパに挨拶しに行きたい?」晴菜が迷いながらも答えようとしたその時、けたたましい銃声が耳元で炸裂した。麻実はとっさに反応し、晴菜を自分の下に庇った。「晴菜、早く隠れて!」警備要員たちがすぐさま応戦を始める。覆面をしたテロリストが会場内に突入し、辺りを見回すと、麻実に狙いを定め、人質として拘束しようと近づいてきた。彼が近づいた瞬間、1発の銃弾が眉間に命中し、その場に崩れ落ちた。麻実が顔を上げると、博之が彼女たちの前に立ちはだかっていた。
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