晏臣は弾かれたように我に返り、顔を上げた。ちょうどその時、雪乃の姿が視界に飛び込んできた。梢を揺らす微風が、まだらな木漏れ日を彼女の身に散らす。その光景に、晏臣はふと二人が初めて出会った時のことを思い出した。あれは海市大学の芸術棟でのことだった。最上階の天窓から降り注ぐ月光が、ピアノの傍らに佇む人影を淡く照らし出していた。鍵盤の上を舞う指先から紡がれる音色は、まるで天使の祝福のように魂を浄化していく。あの瞬間、なぜあれほどまでに心を揺さぶられたのか、自分でも分からなかった。正体を確かめようと歩み寄ったその時、不意にスマホが鳴った。通話を終えて引き返した晏臣の目に映ったのは、ピアノ室から出てきたマスク姿の女の学生だけだった。彼女が胸に抱きかかえていたテキストに目をやると、そこには端正な字で「白鳥雪乃」と書かれている。逃げるように足早に去る彼女の後ろ姿を見送りながら、晏臣の口元にふと笑みが漏れた。――もし俺の夜瑠が大学に通えていたら、きっとあんな風に眩しく美しい姿だったのだろう。だからこそ、籍を入れる相手の女を選べと宗一郎から命じられた時、彼は真っ先に雪乃を思い浮かべたのだ。恥じらいながら小さく頷く雪乃の瞳の奥に、あろうことか夜瑠の面影を見てしまった。あるいは罪悪感からか、雪乃と接する時、晏臣は無意識のうちに埋め合わせをするような態度を取ってしまっていた。雪乃は彼の隣で立ち止まると、ごく自然な仕草で腕を絡ませてきた。「晏臣、行きましょう」晏臣は咄嗟に腕を引こうとした。だが、雪乃の横顔の向こうに無意識に夜瑠の輪郭を重ね合わせてしまい、その手を止めた。夜瑠の強情さ、気丈さ、そしてひどく傷つき壊れそうな姿は幾度となく見てきたが、最初に出会った頃の無垢で美しい彼女の姿を、晏臣はとうに忘れかけていた。本来なら、自分たちにもそんな穏やかで満ち足りた時間があったはずなのだ。ここの厄介事がすべて片付けば、夜瑠を連れて遠くへ行ける――そう思うと、晏臣の胸には高揚感が込み上げ、つい雪乃の親しげな振る舞いを許してしまった。胸の奥深くに押し込めていた恋しさが、蔓草のように伸びて心を締め上げる。彼は無性に、夜瑠に会いたかった。ほどなくして、二人は海市大学へ到着した。卒業式を終えたばかりのキャンパスは閑散としていた。
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