All Chapters of 冬の夜を越えるピアノの調べ: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

晏臣は弾かれたように我に返り、顔を上げた。ちょうどその時、雪乃の姿が視界に飛び込んできた。梢を揺らす微風が、まだらな木漏れ日を彼女の身に散らす。その光景に、晏臣はふと二人が初めて出会った時のことを思い出した。あれは海市大学の芸術棟でのことだった。最上階の天窓から降り注ぐ月光が、ピアノの傍らに佇む人影を淡く照らし出していた。鍵盤の上を舞う指先から紡がれる音色は、まるで天使の祝福のように魂を浄化していく。あの瞬間、なぜあれほどまでに心を揺さぶられたのか、自分でも分からなかった。正体を確かめようと歩み寄ったその時、不意にスマホが鳴った。通話を終えて引き返した晏臣の目に映ったのは、ピアノ室から出てきたマスク姿の女の学生だけだった。彼女が胸に抱きかかえていたテキストに目をやると、そこには端正な字で「白鳥雪乃」と書かれている。逃げるように足早に去る彼女の後ろ姿を見送りながら、晏臣の口元にふと笑みが漏れた。――もし俺の夜瑠が大学に通えていたら、きっとあんな風に眩しく美しい姿だったのだろう。だからこそ、籍を入れる相手の女を選べと宗一郎から命じられた時、彼は真っ先に雪乃を思い浮かべたのだ。恥じらいながら小さく頷く雪乃の瞳の奥に、あろうことか夜瑠の面影を見てしまった。あるいは罪悪感からか、雪乃と接する時、晏臣は無意識のうちに埋め合わせをするような態度を取ってしまっていた。雪乃は彼の隣で立ち止まると、ごく自然な仕草で腕を絡ませてきた。「晏臣、行きましょう」晏臣は咄嗟に腕を引こうとした。だが、雪乃の横顔の向こうに無意識に夜瑠の輪郭を重ね合わせてしまい、その手を止めた。夜瑠の強情さ、気丈さ、そしてひどく傷つき壊れそうな姿は幾度となく見てきたが、最初に出会った頃の無垢で美しい彼女の姿を、晏臣はとうに忘れかけていた。本来なら、自分たちにもそんな穏やかで満ち足りた時間があったはずなのだ。ここの厄介事がすべて片付けば、夜瑠を連れて遠くへ行ける――そう思うと、晏臣の胸には高揚感が込み上げ、つい雪乃の親しげな振る舞いを許してしまった。胸の奥深くに押し込めていた恋しさが、蔓草のように伸びて心を締め上げる。彼は無性に、夜瑠に会いたかった。ほどなくして、二人は海市大学へ到着した。卒業式を終えたばかりのキャンパスは閑散としていた。
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第12話

受話器越しの声は、さらに恐る恐る小さくなった。「桐生さん、ご予約の特別病棟は間違いなく空室のままとなっております。本日、当院のスタッフも特に気を配ってはいたのですが……本日は桐生さんの挙式の日取りでございましたので、お邪魔をしてはと思い、こちらからの確認は差し控えさせていただいておりました……」晏臣の頭の中が、真っ白になった。彼は電話を叩き切るなり、身を翻して駐車場へと駆け出した。雪乃はアシスタントが持っていた届け物の箱を「気を利かせた」ように受け取ると、早足で彼の後を追った。だがその口元には、嘲りの笑みが浮かんでいた。晏臣は猛スピードで車を飛ばした。ハンドルを握りながら、何度も景太の番号へ発信し続ける。出ない。何度かけても応答がない。「くそっ!」苛立ちのあまり、スマートフォンを激しくハンドルに叩きつけた。迷った末、晏臣はまず夜瑠と暮らしていた邸宅へ向かうことにした。その時になってようやく、助手席に乗る雪乃の存在を思い出した。向けられた声は、氷のように冷え切っている。「降りろ」「タクシーでも拾って、勝手に帰れ」雪乃は目元を赤く染め、いかにも可哀想な泣きそうな瞳で彼を見つめてきた。だが晏臣は一瞥もくれず、容赦のない言葉を叩きつけた。「何のために籍を入れたか忘れたわけではないだろう。契約はもう終わったんだ。お前が欲しがっていた物はすべてくれてやったはずだ。これ以上、分不相応な夢を見るな」雪乃はのろのろと車を降り、怯えたような声で尋ねた。「晏臣、もし私に何かあったら……また頼ってもいいかな?」だが、その問いへの返答はなかった。晏臣の車は無情にも土煙を上げ、あっという間に走り去っていく。車が街角へ消えていくのを見届けると、雪乃はようやく背筋を伸ばした。その顔から先ほどまでの悲痛な表情が一瞬にして拭い去られ、代わってぞっとするほど冷ややかな静けさが張り付く。彼女はスマホを取り出し、甘ったるい声で言った。「あなた、上手くいったわ。迎えに来て」そう言い終えると、彼女は手元にある――先ほどこっそりと中身をすり替えておいた小箱を嬉しそうに揺らしてみせた。その瞳の奥で、狡猾な光がチカチカと瞬いた。一方、邸宅へと辿り着いた晏臣は、焼け焦げた無惨な残骸を前にして、心の底から恐慌が這い上がってくるのを感じていた。
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第13話

一方、遠く離れたW国。夜瑠は、目の前に山のように積まれたプレゼントの山を見つめながら茫然としていた。朔也に連れ戻された彼女は、病院で3日間の経過観察を終え、ついに自らの肉親と対面を果たしていた。実の兄、神崎悠楓(かんざき ゆうか)。彼は車椅子に乗っていた。医師は夜瑠にこう告げていた。「神崎さんの足は心因性の障害です。ご本人が立ち上がろうと強く願えば、いつでも回復できるはずですよ」夜瑠は頷いた。見知らぬ兄に対して、彼女はまだどこか緊張していた。それでも、小声で口を開く。「私たち……DNA鑑定はしなくていいの?」夜瑠とそっくりの目元を優しく細め、悠楓は言った。「夜瑠、ついておいで」夜瑠は、滑らかに車椅子を走らせる悠楓の後を静かについていった。彼は美しい彫刻が施された重厚な木製扉の前で立ち止まる。鍵を握るその手は、かすかに震えていた。ギイとくぐもった音を立てて扉が開く。木の香りが混じった空気が、鼻先をふわりとくすぐった。長年埃をかぶっていた扉が開かれたのと同時に、遠い記憶の蓋までもが押し開けられた。夜瑠は、ふと幼い頃の自分の姿を見たような気がした。木馬に跨り、顔を上げて無邪気に「お兄ちゃん」と呼ぶ小さな自分。その傍らには、すかさず料理を一口食べさせようとする母の姿があった。美しい面立ちの母は、優しい微笑みを浮かべながら、幼い娘の結った小さな髪を撫でている。陽だまりのような温かな幸福が、部屋の隅々まで満ち溢れている。さらにその奥では、長い脚を組んだ男が、この温かな光景をキャンバスに描き留めている。悠楓に優しく名を呼ばれ、夜瑠はようやく現実に引き戻された。我に返った瞬間、瞳に溜まっていた涙が音もなくこぼれ落ちた。今、彼女の目の前にあるのは、まさにその時の情景が描かれた一枚の絵だった。夜瑠は震える手で、絵の中の父と母の顔をそっと撫でた。傍らに置かれた写真立ての中の母は、今の自分と瓜二つだった。悠楓が耳元で静かに語りかける。「父さんと母さんは、お前を探す旅の途中で、たくさんの人たちを救ったんだ。ある津波の時、二人は十人の子どもを助け出した。だが、波に呑まれそうになった母さんを、父さんが引っ張り上げようとして……そのまま二人とも連れ去られてしまった。でも、お前がようやく帰ってきて
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第14話

その頃、晏臣は病院のベッドで昏睡から目を覚ました。一瞬、虚ろな目を彷徨わせる。だが次の瞬間、怒涛のような記憶が押し寄せ、彼の心臓を無残に引き裂こうとした。看護師の制止も聞かず、腕に刺さった点滴の針を乱暴に引き抜き、スマートフォンを掴んで病室を飛び出そうとする。――信じない。夜瑠が死んだなど、絶対に認めるものか。まだ何一つ、自分の目で確かめてなどいないのだ。だが、病室のドアの前に立ちはだかった景太が口を開いた。「社長。宗一郎様より、病院で静養するようにと言いつかっております」景太の顔を見るなり晏臣の怒りが爆発し、その頬へ向けて拳を振り下ろした。「景太、お前!俺の目を盗んで、祖父さんの犬に成り下がっていたのか!」殴り飛ばされても景太は一切抵抗せず、晏臣が怒りをぶつけるがままにさせていた。晏臣は割れるように痛む頭を押さえながら凄んだ。「吐け。夜瑠をどこへやった。なぜ療養所には誰も入院していなかったんだ!」景太の口角が皮肉げに歪んだ。その口からこぼれ落ちた言葉はひどく淡々としていたが、見えない刃となって晏臣の生皮をじわじわと削ぎ落としていった。「社長ご自身で、一条家へとお送りになったではありませんか。お忘れですか?」晏臣は狂ったように景太を何度も殴りつけた。「あり得ない!あれは夜瑠の身代わりだと言っていたじゃないか!俺はあの女の家族にも会ったんだぞ!なぜあれが夜瑠なんだ!」景太は哀れむような笑みを浮かべた。「社長。宗一郎様の言葉を、本気で信じておいでだったのですか?」そう言うと、彼は手元にあった小箱を晏臣へと差し出した。「開けてみてください。夜瑠様から社長宛てに届いたものです」晏臣は小箱を引ったくると、溺れる者が流木にすがりつくような必死さで、ガタガタと震える手でそれを開けた。中に入っていたのは、一台のスマートフォンだった。何かを察知したかのように、唐突にその着信音が鳴り響いた。晏臣が通話ボタンを押すと、電話の向こうから男の声が聞こえてきた。「ははっ、晏臣、お前まだ生きてたのか!」その声を聞いた瞬間、晏臣はスマートフォンを握り潰さんばかりに力を込めた。「彰浩!お前、一体何を企んでやがる!?夜瑠はお前のところにいるのか!?いいか、あいつに指一本でも触れてみろ、殺してやるからな!」電話越しの彰浩
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第15話

雪乃はふっと笑った。「夜瑠のスマホが欲しいなら、晏臣も体験してみれば?あの時、彼女があなたを救うために通った道を。さあ、晏臣のために『修羅の陣』を開けてあげて」晏臣の焦燥に満ちた顔に、一瞬の戸惑いがよぎる。「何の話だ?」彰浩が横から笑い声を上げた。「ああ、そういえばお前はまだ知らなかったな。あの時、夜瑠はお前を助けるために、身代わりとして一条家に乗り込んできたんだよ。バカな女だろ?数日俺と寝れば済む話だったのに、どうしても体を汚されるのが嫌だって、裏社会の連中すら震え上がる『修羅の陣』を突破する道を選びやがった。お前らは、夜瑠が俺の慰み者にされたとでも思ってたんだろ?だったら今から、当時の真実をたっぷりと味わってみな」言い放つなり、晏臣は男たちに引きずり出され、目の前に広がる生き地獄のような光景を目の当たりにした。足元には赤々と熾った炭火が敷き詰められ、宙からは鋭い刃が襲いかかってくる。晏臣の手に一本の弓と、たった三本の矢が押し付けられた。この三本の矢だけを頼りに、刃の嵐を潜り抜けろというのだ。しかも、これはほんの第一関門に過ぎない。夜瑠はあの時、身の潔白を守るために、こんな絶望的な死地をたった一人で歩かされていたのか。どうりで……あの事件以来、夜瑠が刃物に触れることすら極端に怯えるようになったわけだ。晏臣は奥歯を噛み締め、目を強く閉じた。足の裏から骨まで焼き焦がすような激痛が這い上がってくる。だが、彰浩の言葉は、その炭火よりもさらに残酷に晏臣の心を焼き焦がした。「おい晏臣。あいつはお前のためにあれほどの刃を浴び、満身創痍になったっていうのに、お前はどうやって報いてやった?お前の祖父が、あいつの腹の中にいた子供を殺すのを黙って見過ごし。あろうことか、他の女にあいつの面影を重ねて慰めにしてやがった。俺が雪乃を仕込んだのはな、どうしても胸糞悪かったからだ。夜瑠に教えてやりたかったのさ。桐生晏臣なんて男に、お前を愛する資格はないってな!」突き刺さる一言一言が、晏臣の心を容赦なく切り刻んでいく。「晏臣、お前はただの卑怯者だ。認めろよ!お前は夜瑠を愛してはいたが、同時に心の底じゃあいつを疎ましく思ってたんだろ!その矛盾から逃げるために、雪乃を都合のいい逃げ場にしたんだろうが!雪乃がいなくたって、どうせ別の
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第16話

雪乃は彼を見つめ、哀れむように笑った。「晏臣、心の中ではもう答えが出てるんじゃない?どうしてわざわざ私に聞くの?それとも、彼に聞いてみる?」彼女は彰浩を指差して冷笑した。「彼が毎日聴いてるピアノ曲、一体誰の演奏を盗み録りしたものか」その言葉を聞き、晏臣の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。あの夜、月明かりの下で逃げるように立ち去った後ろ姿を思い出す。――あれは間違いなく夜瑠だった。俺に気付かれるのを恐れて逃げた、夜瑠だったのだ!違う。すべて間違っていた。俺が愛していたのは最初からずっと夜瑠だけで、心は少しも揺らいでなどいなかった。ただ、彰浩の罠に嵌められ、弄ばれていただけだった。彰浩はその絶望に染まる顔を見て、下卑た笑みを浮かべた。「ふん。晏臣、お前があいつの心を勝ち取ったところで何になる。結局こうして、俺の手の上で転がされてるだけだろうが。ああ、そうだ。ついでにメッセージの履歴をよく見て、通話録音もしっかり聴いておけよ。まだまだ面白いサプライズが山ほど残っているぞ」晏臣は震える手でスマートフォンをさらに操作した。夜瑠のメモ帳アプリが開かれた。【今日、危うくバレるところだった!晏臣は出張に行ってたはずなのに、どうして海市大学にいたの!?さっきのはただの即興演奏だったけど、下手じゃなかったかな。晏臣、気に入ってくれるかな?】【ついに卒業証明書ゲット!これで絶対に晏臣を見返してやるんだから。いつ打ち明けるのがいいかな?記念日?それとも卒業式?晏臣がびっくりしてぽかんとする顔が早く見たい!だめだめ、今はまだ我慢】【W国の音楽院への留学は辞退しよう。晏臣はかなりのヤキモチ焼きだから、私がそんな遠くに行ったら絶対に耐えられないよね】その文字を見つめていると、明るく誇り高く笑う夜瑠の姿が目に浮かんだ。彼女が優秀な卒業生として表彰台に立ち、自分が客席から優しく、そして誇らしげに彼女を見つめる。それこそが、本来あるべき結末だったのだ。なのに、自分は一体何をした。別の女にプロポーズし、夜瑠を騙し、雪乃ばかりを庇い……あろうことか、自らの手で夜瑠を彰浩へと引き渡した。そのすべてが、夜瑠の抱いていた期待を木端微塵に打ち砕いた。晏臣の心臓に鉛を流し込まれたように、底知れぬ深淵へと重く沈んでいく。さらにメッセ
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第17話

空港の職員から小さな手荷物袋を手渡された。「桐生さん。あなたのプライベートジェットはエンジントラブルを起こし、海に墜落いたしました。今後の補償問題等につきましては、保険会社を交えて対応させていただきます。このような痛ましい事故が起きてしまい、我々も非常に残念です。どうか、お気を落とされませんように」晏臣はその袋を胸にきつく抱きしめ、待合席に崩れ落ちるように座り込んだ。どれほどの時間をかけて心の準備をしただろうか。ようやく、震える手で袋の口を開いた。中に入っていたのは、一つのダイヤモンドの指輪と、千切れた小さな布切れだけだった。そのダイヤの指輪は、夜瑠の20歳の誕生日にプロポーズで贈ったものだ。かつての輝きは失われ、今は黒く焦げ付いている。布切れの方は、彼が夜瑠にプレゼントしたワンピースの生地だった。そこには、乾いた血痕が染みついていた。突きつけられたすべての物証が、夜瑠はこの世を去ったという残酷な現実を容赦なく示していた。だが、晏臣は信じなかった。一生涯、命尽きるその時まで添い遂げると誓い合ったはずだ。夜瑠が自分を置いて、先に逝くはずがない。「社長」背後から控えめな声が掛かる。晏臣は顔も上げず、掠れた声で吐き捨てた。「失せろ」「社長、空港の監視カメラの映像を確認しましたが……夜瑠様が搭乗された形跡はありませんでした」晏臣は弾かれたように顔を上げ、景太を直視した。虚ろに濁っていた瞳に、微かな光が宿る。「それはつまり……夜瑠は最初から、あの飛行機に乗っていなかったということか!」「その可能性が極めて高いと見ております」晏臣は混乱する頭を激しく振り、思考を巡らせた。夜瑠のこととなると取り乱し、冷静さを欠いていたのだ。彼はアシスタントに防犯カメラの再調査を命じるやいなや、車のキーを掴んで踵を返し、彰浩の元へと向かった。「社長!宗一郎様が本邸でお待ちです」背後から景太が声を張り上げる。晏臣は氷のように冷たい視線で振り返った。「祖父さんに伝えておけ。俺に父さんの二の舞を演じさせたくないなら、これ以上邪魔をするなと。あの人が余計な真似をしなければ、俺と夜瑠がこんな結末を迎えることはなかった。万が一夜瑠の身に何かあれば、たとえ祖父さんだろうと絶対に容赦はしないとな」一条家の縄張りである埠頭へと舞
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第18話

宗一郎は杖を晏臣の足元へ激しく投げつけた。「この恩知らずが!血迷ったか!」晏臣は氷のように冷徹な眼差しで見下ろした。「祖父さん、こうするよう仕向けたのはあなただ。俺はただ、もっと早く決断しなかったこと、あなたのあんな馬鹿げた取引を呑んでしまったことだけを悔やんでいる」晏臣はすっかり老け込んだ祖父の姿を見て、短く息を吐いた。「祖父さんは、夜瑠が俺の元を去ることを最初から分かっていたんだろう。だからあんな条件を出したんだ。すべてが終われば、また夜瑠と平穏に暮らせると馬鹿みたいに信じていたのは俺だけだった」彼は一瞬言葉を切り、ある決意を固めたように告げた。「祖父さん。万が一、夜瑠の身に何か起きていたら、俺とあなたの縁もそれまでだ」言い捨てると、彼は部下たちに命じて宗一郎を連行させた。続いて、ある番号へ電話をかける。「新しい身分を用意しろ。俺はW国へ行く」「手配には三ヶ月かかります」晏臣は眉をひそめた。「分かった。できる限り急げ」彼は大きな窓の前に立ち、街の灯りを見下ろした。この3ヶ月、夜瑠を傷つけた連中に復讐を果たすには、十分な時間だ。……一方その頃。夜瑠がW国の大学へ初登校する日、悠楓はやはり家から見送りに出ることはなかった。彼はまだ、自分の心の中のわだかまりを乗り越えられずにいたのだ。かつて、自分の遊び半分で幼い妹から目を離し、行方不明にさせてしまったこと――それは彼の心に永遠に刻まれた傷だった。そして朔也の調査報告によれば、彼の最愛の妹は、これまで想像を絶する苦難を強いられてきたという。本当なら、夜瑠は家族の愛に包まれて幸せに育つはずだったのに。自分の犯した罪の償いは、まだ終わっていない。夜瑠が大学に入学して、すでに1ヶ月半が経過していた。入学式で夜瑠が披露したピアノの独奏は、瞬く間に学内を騒然とさせた。今年の入学生に、とびきり美しくて才能のある女子学生がいるという噂は、学院中に広まっていた。最近の彼女は、来週に控えた楽団の公演に向けた準備に追われている。時間はすべてを癒してくれる。彼女はすでに、本当の家族との新しい生活に馴染み始めていた。ただ一人、何かと構ってきたり、グイグイ距離を縮めてくる先輩の朔也を除いては。以前、彼が窮地を救ってくれたことについては、二人と
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第19話

悠楓は少し照れくさそうに頷くと、慌てて話題を逸らした。「夜瑠、お前も家に戻ってきたことだし、そろそろ神崎家の事業について教えておきたい。もし興味があるなら、お前も経営に関わってみないか」夜瑠は、そんな兄の分かりやすい誤魔化しをわざと見逃した。再び絵筆を握る気力が出たのなら、自らの足で歩き出す日もそう遠くはないはずだ。彼女はこれ以上、悠楓を自責の念に縛り付けておきたくなかった。ふと、目の前に綺麗に切り分けられたステーキの皿が差し出された。朔也が彼女に向けてウインクをする。二人の親密な仕草を目の当たりにして、悠楓はギリッと歯を食いしばった。「朔也。言っておくが、妹を他家に嫁がせる気はない。うちは婿養子しか取らんから、お前は条件に合わない。かつての婚約なんてものは、大人たちが勝手に口にした冗談に過ぎない。本気にするなよ」そう言いながら、悠楓は夜瑠の器にクラムチャウダーを取り分けた。しかしどうしたことか、夜瑠は突然、胃の中が激しく掻き回されるような強烈な吐き気に襲われた。ただ事ではない様子に、朔也は慌てて彼女を抱き上げ、車を飛ばして病院へと駆け込んだ。検査結果の用紙に記された「妊娠4週」の文字を目にした瞬間、夜瑠は目の前が暗転し、あまりの動揺に再び激しい吐き気を催した。朔也はあわてふためきながら彼女の背中をさすった。「まだ気分が悪いのか。何か食べたいものはあるか?俺が買ってこよう」ふと何かを想像したのか、彼の耳は火がつきそうなほど真っ赤に染まっていた。一方、家で待機していた悠楓は、その検査結果を聞くや否や激しく咆哮し、手元のイーゼルを乱暴に突き飛ばした。夜瑠は途方に暮れていた。この予期せぬ新しい命の訪れは、彼女の人生の歩みを完全に狂わせてしまったのだ。再び家に戻った時、悠楓はすでに自分の感情を落ち着かせていた。「夜瑠、この子を産むか産まないかはお前が決めろ。どう転んだって、神崎家に子供一人養えない道理はないんだからな」夜瑠自身もまだ答えを出せずにいた。心がぐちゃぐちゃに乱れたまま眠りについた彼女は、ある夢を見た。脈絡のない不条理な夢だったが、目を覚ました後も、母が一人の小さな子供を抱きかかえ、自分の胸に押し付けてきたことだけは鮮明に覚えていた。だからこそ、朝食の席で彼女は自らの決断を口にした
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第20話

夜瑠は休学の手続きを進めるため、ここ数日は自宅と大学を往復する日々が続いていた。そんなある日。大学の角を曲がったところで、彼女は不注意から誰かにぶつかってしまった。「ごめんなさい」夜瑠は慌てて立ち止まり、頭を下げて謝罪した。だが、ぶつかった相手はそのまま彼女を力強く抱きしめ、涙声で囁いた。「……夜瑠、やっと見つけた」その声に、夜瑠は全身をゾクッと震わせ、反射的に彼を強く突き飛ばした。「晏臣!どうしてここにいるの!」晏臣はひどく傷ついたような表情を浮かべた。「夜瑠、俺たちの間にはたくさんの誤解がある。お願いだ、説明させてくれ」行き交う学生たちが、好奇の目を向けて二人を見ている。夜瑠は仕方なく、彼を大学近くのカフェへと連れ出した。席に着くや否や、晏臣は涙ながらにこれまでのすべての顛末を弁明した。一通り話し終えると、彼は焦るように夜瑠の手を握ろうとした。「夜瑠、雪乃とはただの契約関係だったんだ。婚姻届受理証明書も偽造されたもので、俺は祖父さんに騙されていた!雪乃と彰浩が結託して俺をハメたんだ。あいつがお前に吹き込んだことは全部出鱈目だ。俺はあいつに指一本触れていない!一条の屋敷へ送られたのがお前だなんて、俺は知らなかったんだ。祖父さんは、あれはお前の身代わりだと言っていた……すまなかった」彼は優しい眼差しで彼女を見つめた。「夜瑠、俺はお前を本当に誇らしく思っている……祖父さんはもう療養所送りにしたし、彰浩にも法の裁きを受けさせた。これでもう、お前を傷つける奴は誰もいない。お前が大学を卒業したら、すぐにでも結婚式を挙げよう」すべてを聞き終えた夜瑠は、あまりの運命の皮肉に胸の内で静かに息を吐いた。だが、相変わらず美しい晏臣の顔立ちを前にしても、その心に未練の波風が立つことはもはや一切なかった。彼女は彼の手を振り払い、ひどく冷ややかな声で告げた。「晏臣、帰って。さもないと大使館に通報して、あなたを強制送還処分にしてもらうわ」晏臣は信じられないといった顔で彼女を見つめ、宥めるように声を低くした。「夜瑠、誤解はすべて解けたはずだろう?まだ何か気に入らないことがあるなら、言ってくれ。何でもするから」夜瑠は皮肉げに口角を上げた。「晏臣、今の私にとって一番気に入らないのは、あなたの顔を見ることよ。お願いだから、消えて」
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