All Chapters of 冬の夜を越えるピアノの調べ: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

負傷した足を引きずりながらキャンパスに戻った日、夜瑠は盛大なプロポーズの現場に出くわした。校門から学生寮へと続く道には白薔薇が敷き詰められ、中央に敷かれたエメラルドブルーのカーペットは、湖面の波光を散りばめたかのように碧く眩い光を放っている。白鳥雪乃(しらとり ゆきの)は純白のワンピースに身を包み、カーペットの終点で優雅な白鳥のように佇んでいた。そして片膝をついている男は、海外へ出張に行くと言っていたはずの晏臣だった。マスク姿の夜瑠は人混みに紛れ、二人が口づけを交わすのを見つめていた。まるで懐に氷の塊を抱え込んだように、骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。昨夜も彼女と肌を重ね合い、「お前の胸の中で死んでしまいたい」と甘く囁いていた人が、今は真剣な面持ちで別の女性が頷くのを祈り求めている。ここで初めて彼女は悟った。晏臣は最初から、自分を日の当たる場所に出すつもりなどなかったのだと。二人の逢瀬はいつも深夜で、その関係が公にされたことは一度もなかった。3年前、彼女は一度彼の元を去ったことがある。桐生家や二人の関係を知る周囲の人間は皆、大学にも行っていない天涯孤独の女など、海市の桐生家の御曹司には不釣り合いだと言い放った。それでも晏臣はあらゆる人脈を駆使し、7日間不眠不休で探し回り、ついに彼女を連れ戻した。あの時の彼の姿を、彼女は今でも覚えている。死に絶えたような静寂の中に苦痛を滲ませ、震える声でこう言った。「夜瑠、俺を捨てて、どこへ逃げるつもりだったんだ?」彼は部下に命じて自分自身を99回も鞭で打たせ、彼女を見つめる瞳に光を宿して言った。「夜瑠、お前を不安にさせた俺が悪い。罰を受けるべきだ」夜瑠は血まみれになった彼の背中を見て、胸を痛めてボロボロと涙をこぼした。晏臣が彼女にW国の永住権とプライベートジェットの搭乗証を渡したのは、まさにその時だった。「夜瑠、俺はW国への入国を生涯禁じられている。もし俺がお前を裏切ったら、永遠にお前に会えない罰を受けてやる」夜瑠がそれを受け取ると、彼は骨の髄まで溶け合わせるかのように彼女を強く抱き寄せた。「夜瑠、一生これらを使う日は来させない」だが今、裏切りは残酷なほど明白に目の前に突きつけられている。ずっと馬鹿を見ていたのは自分だったのだ。夜瑠はふらふらとした足取
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第2話

雪乃への返信は、ただ一言だった。【おめでとう】指導教官への返信も、すぐに打ち込んだ。【芳賀先生、そのオファーをお受けします】雪乃からの返信は早かった。送られてきたのは指を絡め合わせた二人の手の写真で、薬指にはめられたダイヤの指輪が、画面越しでも目を刺すほど眩しく光っていた。添えられたメッセージには、隠しきれない喜びが弾けていた。【彼がね、私のことを彼の白鳥だって言ってくれたの】指導教官からも、ほぼ即座に返信が来た。【よかった!楽団の人間がもうすぐ帰国する。航空券は向こうが手配してくれるから、7日後に必ず手続きに向かいなさい。頑張れよ!】夜瑠は画面を見つめたまま、ふうっと長く息を吐き出した。彼女は隠し持っていた卒業証明書を、鞄の奥へと押し込んだ。本来なら交際7周年のサプライズにするつもりだったその証明書は、今や彼女の逃亡を叶える切符となっていた。ダークウェブのページはまだ開いたままで、彼女は肉親探しの依頼フォームの送信ボタンを、静かにクリックした。鬱蒼と茂るプラタナスの葉越しに、邸宅の窓際に立つあの男の横顔が見える。相変わらず、すべてを掌の上で転がしているかのような、余裕に満ちた佇まいだった。――晏臣、今度こそ、私は本当にあなたの元を去るわ。唯一の家族を自称していた彼がこうして裏切ったのだから、これからは本当の家族を探しに行けばいい。彼女は覚束ない足取りで、二人の住まいへと戻った。予想通り、その夜、晏臣が帰ってくることはなかった。午前3時、スマホが震えた。彼からのメッセージだった。【夜瑠、会社で急用ができて出張に出ることになった。大人しく家で待っていてくれ。愛してる】空が白み始めた頃、再び雪乃からの通知がポップアップし、今度は短い動画が添付されていた。【夜瑠、私今雲市にいるの!彼がね、私に白鳥のお城を建ててくれたんだよ!もう幸せすぎる!】動画の中では、広大な音楽噴水の中央に巨大なクリスタルガラスの白鳥が鎮座しており、降り注ぐ朝陽を反射して、目が眩むほどの輝きを放っている。画面の端に横顔をわずかに覗かせた晏臣が、甘い声で尋ねる。「雪乃、誰にメッセージを送ってるんだ?」「もちろん夜瑠よ」雪乃は甘ったるい笑い声を上げながら、彼の首に腕を絡ませた。「桐生さん、どうかした?夜瑠は私の一番の親友な
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第3話

明らかに、晏臣は勘違いをしていた。彼が片手を上げて合図を送ると、窓の外に突如として無数の光が灯った。数万機ものドローンが夜空に舞い上がり、抱き合う男女のシルエットを描き出す。周囲の人々から驚きと羨望のどよめきが沸き起こる中、晏臣は夜瑠を腕の中に抱き寄せた。夜空に浮かび上がった光の文字は――【夜瑠、愛してる】耳元に熱い吐息を吹きかけながら、深く情を込めて愛を告げてきた。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」夜瑠が空を見上げると、彼女の名を形作っていた文字は次第に輪郭を失い、ぼんやりと「乃」の文字へとすり替わるように滲んで、ゆっくりと夜の闇に溶けていった。彼女は皮肉げにふっと笑いをこぼした。ふと視線を戻すと、晏臣の眼差しが全く別の方向へと注がれていることに気づいた。彼はレストランの片隅の席に、ぽつんと座る人影をじっと見つめていた。雪乃だった。雪乃のテーブルには二本の空のワインボトルが置かれており、その寂しげな姿は雨に打たれてしおれたスズランのようで、孤独でひどく庇護欲をそそる。晏臣が夜瑠を握る手に、突如としてギリッと強い力がこもった。夜瑠が痛みに小さく声を上げて初めて、彼は弾かれたように我に返り、慌てて詫びた。「すまない、夜瑠。会社で急なトラブルがあった。運転手に送らせるから」夜瑠は全く手をつけていない豪勢なディナーを見つめ、口角に嘲りの笑みを浮かべた。彼女は街角で車を止めさせ、運転手を帰らせると、自らハンドルを握ってレストランへと引き返した。遠くからでも、晏臣が力なく崩れ落ちた雪乃を抱き抱え、血相を変えて救急車に乗り込む姿がはっきりと見えた。車で病院まで後を追うと、晏臣が雪乃を抱えて狂ったように救急窓口へ駆け込み、喉が裂けんばかりの声で叫ぶのを、ただ黙って見つめるしかなかった。「先生!妻がアルコールアレルギーなんだ、頼む、妻を助けてくれ!」看護師たちが雪乃をストレッチャーに乗せて救急処置室へ運び込んだ瞬間、晏臣は全身の力が抜けたようにその場にへたり込んだ。その姿に、夜瑠の胸はぎゅっと激しく締め付けられた。まるで、かつて彼女が一条家から命からがら逃げ出してきたあの時のようだった。彼も同じようにパニックに陥り、ふらつく足取りで医師の腕に縋りつき、「夜瑠を助けてくれ、あいつは俺の命なんだ……」と哀願し
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第4話

晏臣が歩み寄って確かめようとしたその時、彼のスマートフォンが鳴った。画面には「雪乃」の二文字が点滅し、通話口からは甘えたようなか細い声が漏れ聞こえてきた。「ねえ、あなた。頭が痛いよ」彼は再びトレイの中の数珠を一瞥し、指先を微かに丸めたが、結局は身を翻して看護師の後を追って立ち去った。夜が更けると、雨が降り出した。古傷がじくじくと疼き、夜瑠は布団の中で身をすくませていたが、どうしても震えが止まらなかった。かつては雨の夜になるたび、晏臣が彼女をすっぽりと腕の中に抱き込み、温かな体温で芯からの冷えを追い払ってくれたものだった。そして、深い愛情を込めて囁いてくれた。「夜瑠、この傷は俺のために負ったものだ。これからの雨の夜は、ずっと俺がそばにいてやるからな」だが今、その約束は無惨にも破られた。スマートフォンが震え、雪乃からまたメッセージが送られてきた。【夜瑠、彼の家に別の女がいるらしいんだけど、彼いわく恩返しのために置いてるだけだって。むかついたから、罰として大雨の中で立たせてるの!】添付された動画の中では、晏臣が土砂降りの雨の中に傘もささずに立ち尽くしていた。高級仕立てのスーツはとうにずぶ濡れになって体に張り付き、細身のシルエットを浮き彫りにしている。時折ひらめく稲妻が、蒼白ながらもどこか意地を張ったような彼の顔を照らし出していた。動画に映るその見慣れた顔を見つめながら、夜瑠はふっと笑った。だが笑っているうちに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。恩返し?それが恩返しだというのなら、なぜ彼女を大空へ羽ばたかせてはくれず、愛という名の鳥籠に閉じ込め、その翼を無惨にへし折ったのか?スマートフォンには、彼が夕方に送ってきたメッセージが残されたままだった。【夜瑠、今夜は海外とのオンライン会議があるから、待たなくていいぞ】なんて滑稽なのだろう。彼の言う重要な会議とは、他の女の機嫌を取るための口実だったのだ。彼女は苦痛に顔を歪めて目を閉じ、とめどなく溢れる涙が枕を冷たく濡らしていった。翌朝、目を覚ますと、寝室のドアがそっと押し開けられた。ルームウェア姿の晏臣が入ってきたが、その両目は酷く充血していた。彼はベッドの傍らまで来ると、包帯が巻かれた夜瑠の手をそっと握りしめた。「夜瑠、誰がお前にこんな怪我を?また景太の
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第5話

意識がまどろみの中をたゆたう中、夜瑠はひそやかな話し声を耳にした。「社長、乗馬クラブの件ですが、何者かが廃棄用の手綱にすり替えていたことが判明しました。あの日、夜瑠様が普段お乗りの馬に近づいたのは、雪乃様だけです」しばしの沈黙の後、晏臣の低く警告するような声が響いた。「この件はこれまでだ。絶対に他言するな」一拍置いて、彼はさらに命じる。「それと、吉扇の名物料理を届けるよう手配しろ」アシスタントは戸惑ったように言葉を返した。「ですが社長は以前、夜瑠様のお食事はご自身の手で作ると……」言い終える前に晏臣の険しい顔色を察したのだろう、アシスタントは慌てて取り繕うように頭を下げた。「……差し出がましいことを申し上げました」足音が遠ざかると、すぐさま女の弱々しいすすり泣きが聞こえてきた。「全部私のせいだわ。わざとじゃないの。私がゴルフ場なんて行かなければ、あなたの気を散らすこともなかったし、あなたも神崎さんのことだけをしっかり守れたのに……」続いて、保温ジャーの蓋を開ける微かな音がした。「これ、一晩かけてじっくり味を染み込ませた煮物なの。神崎さんへの、せめてものお詫びになればと思って……」だが晏臣は突如として彼女の手首を引き寄せ、そこに残る赤い火傷の痕を睨みつけて眉をひそめた。「誰が自分を傷つけていいと言った?来い、俺が薬を塗ってやる。ついでに……自分の体を粗末にしたお仕置きをしてやらないとな」そう言うと、彼は雪乃の体を横抱きに抱え上げた。雪乃は泣きじゃくりながらも問い下がる。「でも、神崎さんは……」「いいか、俺は今すごく怒ってるんだぞ。他人のことなんか構っている余裕があると思うか」足音が完全に消え去るのを待って、夜瑠はゆっくりと目を開けた。目尻から、一滴の涙が静かに滑り落ちる。手足の感覚を確かめるように動かしてみたが、不幸中の幸いか、傷はさほど深くはなかった。巡回に来た若い看護師は、彼女が目を覚ましているのを見るなりパッと表情を輝かせ、嬉しそうに話し始めた。「旦那様、本当に優しい方ですね。わざわざ高名な専門医の先生方を何人も呼び寄せて検査させて、病院の隣のホテルに待機までさせていらっしゃるんですよ。神崎様が検査を受けている間、旦那様はずっと外で床に膝をついて祈っていらして。ご無事が確認できるまで、絶対に立ち上が
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第6話

夜瑠は静かに視線を上げ、平然とした顔で答えた。「大学でお借りしたの。私、大学に通ったことがないから、少し体験してみたくて」彼女は手に持っていた航空券と書類を振って見せ、淡々とした口調で続けた。「これは拾い物よ。ちょうど警備室へ届けに行こうと思っていたところ」彼女の瞳に浮かぶ寂寥の色を見て、晏臣の胸の奥にふと微かな罪悪感が込み上げた。もしあの時、自分の異常なまでの独占欲さえなければ、夜瑠も今日この場所で卒業生としてアカデミックガウンを身にまとい、壇上で拍手喝采を浴びていたはずなのだ。彼は声のトーンを和らげた。「それなら、俺も一緒に行こう」そう言って、彼女の手からそれらを受け取ろうと手を伸ばす。ちょうどその時、学長が彼に写真撮影を求めて歩み寄ってきた。夜瑠はその機に乗じてすっと身をかわした。「あなたは先にお仕事を済ませて。私一人で行ってくるから」道を歩いていると、木に寄りかかって彼女を待ち伏せている雪乃の姿があった。その顔には、隠そうともしない得意げな笑みが張り付いている。「もう全部知ってるんでしょ?あ、そうよね。送るべきものは全部送ってあげたんだし」彼女は小首を傾げて笑った。「馬から落ちたの、すごく痛かったんじゃない?彼が初めて私に声をかけてきた時、なんて言ったか知ってる?」雪乃はわざともったいぶるように間を置いた。「『雪乃、夫として、お前を3年間養わせてほしい』って言ったのよ」夜瑠は口角を微かに引きつらせ、冷たく鼻で笑った。「つまり、最初からわざと私に近づいたってことね?私を弄んで、そんなに楽しかった?」雪乃はさらに笑い声を上げた。「ええ、そうよ!一体どんな顔をしてるのか見てやりたかったの。なんで男たちがどいつもこいつも、あなたのことばかり未練がましく引きずってるのかってね!言ってる意味が分からない?大丈夫、どうせすぐに分かるから」突如、彼女のスマートフォンが鳴った。画面に目を落とした後、夜瑠をちらりと見やり、勝者の優越感に満ちた眼差しを向けた。「夫からお呼びだわ。じゃあ、また夜にね」その「また夜に」の意味を、夜瑠はほどなくして思い知ることになる。晏臣は夜瑠のために誕生日パーティーを用意していた。舞台は貸し切りの豪華客船だ。オープニングを飾る花火が今まさに打ち上がろうとした時、晏臣は雪乃を壇上に呼び寄せ
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第7話

「私じゃないわ」夜瑠はスマートフォンを取り出し、身の潔白を証明しようとした。「彼女と通話なんてしていない」晏臣はふっと笑みを漏らし、手を伸ばして彼女を強く腕の中に抱きしめた。「夜瑠、何を怯えているんだ?俺が赤の他人の言葉を鵜呑みにして、お前を疑うわけがないだろう」夜瑠は呆然と彼を見つめた。だが、必死に感情を押し殺すあまり引きつった彼の表情からは、その真意を何ひとつ読み取ることができなかった。「夜瑠、何が起きたのか調べてくる」彼は腕を解くと、その指先で彼女の頬をそっとなぞった。「今夜は物騒だ。先にボディガードをつけて、お前を邸宅へ帰すよ。ぐっすり眠って、目が覚めた頃にはすべて元通りになっているはずだ」彼はボディガードを呼び寄せ、彼らが夜瑠を護衛して車に乗り込むのをその目で見届けた。車のドアが閉まった瞬間、空をつんざくような雷鳴が轟いた。大粒の雨がバラバラと打ちつけ、瞬く間に視界を遮るほどの土砂降りへと変わる。先ほどまで夜空を華やかに彩っていた花火も、この豪雨に叩き落とされて微かな火花を残すのみとなった。それはまるで、彼女と晏臣が紡いできた18年という絆が、なんの前触れもなく無惨に消え失せてしまったかのようだった。夜瑠は降りしきる雨の中に立ち尽くす男を見つめた。その姿は、ほどなくして白く立ち込める水煙の彼方へと消え去っていった。突然、黒い布がすっぽりと頭から被せられた。鼻をつく強い薬品の匂いが肺に流れ込み、意識は一瞬にして暗い闇の底へと沈んでいった。意識が途切れる直前、車に乗り込む間際に見た晏臣の、あの氷のように冷たい眼差しが不意に脳裏をよぎった。――彼はわざとやったのだ。甘い優しさで彼女を麻痺させ、警戒を解かせるために。再び目を覚ました時、彼女はなぜか普段着に着替えさせられており、手足は太いロープで固く縛り上げられ、口には粘着テープが貼られていた。ぼやける視界の先に、晏臣の姿が映り込んだ。彼はひどく冷ややかな目で夜瑠を一瞥すると、すぐに興味を失ったかのように視線を外した。叫びたかった。問い詰めたかった。だが、薬のせいか、指先ひとつ動かす力さえ入らない。ボディガードに無造作に引きずられ、彼の傍らを通り過ぎようとしたその時、晏臣は冷酷な声で言い放った。「夜瑠、自分が一条家に汚されたからといって、雪乃まで道連れ
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第8話

1回目は、単調なコール音が鳴り響くだけだった。2回、3回……そして9回目になっても、電話の向こうからは誰も出ない。彰浩は傍らで腕を組み、計画通りだと言わんばかりの笑みを浮かべて見下ろしている。夜瑠の心は、少しずつ絶望のどん底へと沈んでいった。10回目。ついに通話が繋がった。彼女は叫んだ。「お兄ちゃん、早く助けに来て!彰浩に、薬を飲まされて!」この「お兄ちゃん」という呼び方は、二人の間にだけ通じる秘密の暗号だった。もし彼女がそう呼べば、それは危険が迫っていることを意味し、彼がどんな状況であれ最速で駆けつけるという約束だった。だが、受話口から聞こえてきたのは、予想していたような焦燥や動揺ではなく、興奮を隠しきれない晏臣の弾んだ声だった。「雪乃、妊娠したって!?ああ、本当によかった!」続いて、雪乃の泣き声混じりの甘えた声が耳に届く。「あなた……さっきすごく怖かったの。急にお腹が痛くなって……」「大丈夫だ、今すぐ病院へ連れて行くからな」晏臣の声には、痛々しいほどの慈しみと気遣いが滲んでいた。「でも、神崎さんが……」「雪乃、今はお前と子供のことが一番だ。他のことは何も考えるな。いい子だから」「じゃあ、私たちの結婚式は……」「もちろん、予定通りに挙げるさ」「ああっ、ごめんなさい、手が滑って押しちゃったみたい。切るわね」ツーツーという無機質な音が鳴り響く。それはまるで刀のように、何度も打ち据え、夜瑠に残された最後の希望を無残に断ち切っていった。彰浩が吹き出すように笑い、自らのスマートフォンを取り出して晏臣の番号へ発信した。晏臣は即座に出たが、その声は冷淡で苛立ちに満ちていた。「彰浩、あいつはもう渡したはずだ。これ以上俺に付き纏うな!」彰浩はスピーカーを最大音量にし、喉を鳴らして笑った。「ほう?じゃあ、あの女をどう処分しようと俺の勝手というわけだな」「好きに弄んで殺そうが知ったことか!二度と俺を煩わせるな!」晏臣の怒号の向こうから、不意に雪乃の悲鳴が割り込んだ。「雪乃!どうした、しっかりしろ!」ブツッと無情にも通話は切られた。彰浩のねっとりとした手が頬を這い、夜瑠は激しい嫌悪に身を震わせながら猛然と顔を背けた。「聞こえたか?これで完全に諦めがついただろう」彼女は自分のスマートフォ
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第9話

その頃、晏臣は病院の病室の外で待機していた。仕立ての良いスーツの上着を左腕に掛け、感情の読めない瞳で向かいに立つ景太を見据えていた。「夜瑠のほうは落ち着いたか?俺はただ、祖父さんに怪しまれない程度の軽い怪我を負わせろと指示しただけだ。こっちの式が終わり次第、すぐに迎えに行く」景太はちらりと視線を上げた。その瞳の奥には嘲弄と哀れみの色が潜んでいたが、それも一瞬で掻き消え、すぐにいつもの生真面目な顔つきに戻った。「社長、ご安心ください。すべてご指示通りに手配いたしました。夜瑠様の身の回りには一切の通信機器を残しておりませんので、社長と雪乃様の挙式の情報が耳に入ることは万に一つもございません」「間違いないな?」晏臣は突如として一歩踏み出し、景太の胸ぐらを荒々しく締め上げた。その目には怒気が渦巻いている。「俺と夜瑠が5年間も暮らした邸宅が全焼したんだぞ!これで手配が完了しただと!?」「邸宅の火災は本当に不測の事故です」景太は慌てて弁解した。「それに、出火当時、夜瑠様は邸宅にはいらっしゃいませんでしたから」「あなた?」病室の中から響いた雪乃の弱々しい声が、二人の間に漂う息詰まるような緊張感を断ち切った。晏臣は手を離すと、顔に満ちていた殺気を瞬時に消し去り、代わりに柔らかな笑みを浮かべて病室の扉を押し開けた。「雪乃、まだ具合が悪いなら、今日の式は取りやめにしてもいいんだぞ」「ううん」雪乃は首を横に振り、背後から彼の腰にそっと腕を回した。晏臣の体が、目に見えぬほど微かに強張った。「私、今すぐあなたのお嫁さんになりたいの」彼は腰に回されたその手をそっと振りほどき、目を伏せ、胸の奥で渦巻く葛藤を押し殺した。「わかった。すぐに手配させよう」挙式は盛大を極めた。各界のメディア記者たちも、宗一郎の手回しによってこぞって招かれていた。晏臣は能面のような面持ちで進行をこなしていた。傍らの雪乃が、時折甘えるようにそっと彼に寄りかかる。記者たちもその意図を汲み取り、二人の睦まじい瞬間を逃すまいと一斉にシャッターを切っていった。晏臣の顔色は刻一刻と険しさを増していき、ついに忍耐の限界に達すると、顔を傾けて二人にしか聞こえない声で釘を刺した。「もういい、芝居が過ぎるぞ」だが雪乃は顔を仰ぎ、甘く無垢な笑みを浮かべ
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第10話

今度は宗一郎の手の者だった。「大旦那様が仏間でお待ちです。どうぞこちらへ」「どうぞ」と体裁を取り繕ってはいたが、そこには有無を言わさぬ強圧的な響きがあった。晏臣は深く息を吸い込み、片手でネクタイを軽く緩めた。スマートフォンを取り出し、画面の上で素早く指を滑らせる。【夜瑠、急な出張が入った。片付いたらすぐにお前のところへ向かうから】送信完了の表示を確認して、ようやく彼は仏間へと足を向けた。仏間には線香の煙が白く立ち込め、宗一郎は目を閉じたまま座布団の上に正座していた。晏臣は歩み寄って線香を供え、自らも跪いた。だが、いつまで経っても宗一郎が口を開く気配はない。痺れを切らして立ち去ろうと身を起こした瞬間、低く凄みのある声に足を止められた。「待て!」晏臣は振り返った。その目には、一切の迷いのない決絶の色が宿っている。「祖父さん、約束したはずだ。俺が別の女と籍を入れて結婚すれば、夜瑠を連れて雲市へ行くことを認めると。言われた通りにした。今度はそっちが約束を果たす番だ」宗一郎は突如として笑い声を漏らした。「晏臣よ、物事はそう単純ではない。わしの条件を飲んだところで、夜瑠がどうやって自分の立場を受け入れるのか、考えたことはないのか?」ゆっくりと見開かれたその目は、氷のように冷酷だった。「お前とあの娘の婚姻届受理証明書は偽造されたものだ。そして今、世間にはお前と雪乃の結婚式の映像が溢れ返っている。夜瑠が、すべてを水に流して何もなかったことにしてくれるほど、寛大な女だとでも思っているのか?」晏臣の心臓が、早鐘を打ち始めた。込み上げてくる恐れを強引に押さえつけ、頑なに口を開いた。「夜瑠には何も知られないようにする。そっちこそ二言はないな」顔を背けた晏臣の声に、どす黒い凄みが滲んだ。「これ以上あいつに手を出したら、俺が容赦すると思うなよ。その時は絶対に許さない」言い捨てるが早いか、晏臣は仏間の扉を荒々しく閉めて出て行った。宗一郎はすべては盤上にあると言わんばかりの笑みを浮かべた。一方、廊下に出た晏臣の足取りは、ひどく覚束なかった。宗一郎の言葉が、無数の針となって心臓に突き刺さる。表面を取り繕っていた冷静さなど、強がりで作った見せかけに過ぎなかったのだ。だがすぐに思い直し、胸のざわめきを無理やり
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