ログイン神崎夜瑠(かんざき よる)は、桐生家の御曹司が暗がりで密かに育て上げた、一振りの刃だった。 7歳の時に桐生晏臣(きりゅう やすおみ)に拾われ、8歳で刃を握り、15歳になる頃には彼に代わって敵対組織を壊滅させるまでになっていた。 大学受験の日、彼女はたった一人で拉致犯のアジトへ乗り込み、身に17箇所もの刺し傷を負いながらも晏臣を救出した。 それ以来、晏臣は夜瑠をこれ以上ないほど溺愛した。 法定年齢に達するやいなや、半ば強引に彼女の手を引いて籍を入れ、耳元で誓った。「夜瑠、永遠にお前を愛し続ける」 傷跡だらけの彼女を、彼は毎晩のようにその腕の中へと抱きすくめた。温かい唇で一つひとつの傷跡をなぞり、激しく抱きしめ合いながら低く囁くのだ。 「夜瑠、お前は誰よりも清らかだ。永遠に俺から離れるな」 彼女はそれを心から信じ切っていた。 彼が外で囲っていた「白鳥」への、プロポーズの現場を押さえてしまうまでは。 彼は完璧に隠し通せていると思い込んでいたのだろう。だが、夜瑠がとっくに彼に内緒で大学へ進学していたことなど知る由もなかった。そして、彼が掌中の珠のように慈しんでいたその女こそが、夜瑠の最も仲のいい同級生だったのだ。
もっと見る今回の卒業式で、夜瑠は優秀な卒業生代表として登壇し、スピーチを行った。かつて光を失いかけていた星は、ついにその身を覆っていた灰を振り払い、彼女自身の舞台でまばゆいばかりの輝きを放っていた。客席では、悠楓が2歳になる娘の神崎一花(かんざき いちか)を抱きかかえ、その隣には、以前よりさらに落ち着きと精悍さを増した朔也が座っていた。スピーチが終わると、朔也はステージへ上がり、大輪の向日葵の束を彼女に手渡した。だが、会場のずっと後方の片隅で、その美しい姿を貪るように見つめ、脳裏に刻みつけようとしている男がいた。この3年間、晏臣はW国へ160回も足を運び、夜瑠の出演する舞台をただの一度として見逃したことはなかった。彼女が出産を迎えたあの日、晏臣は遥か遠くの地まで駆けつけ、彼女のために守りを授かってきた。しかし、夜瑠が彼と会うことはただの一度もなかった。晏臣の体は日に日に衰弱していた。重度のうつ病だと診断した医師から、時間通りに薬を飲むよう言われていたが、彼の命そのものは、すでに夜瑠と共に持ち去られてしまっている。薬を飲んだところで何の意味があるというのか。毎晩のように押し寄せる途方もない悔恨が、彼を深い絶望の底へと沈めていた。……帰路につく際、悠楓は一花を連れて先に屋敷へ戻った。朔也は夜瑠を連れ、二人がよく散歩するあの海へと向かった。白い砂浜は、見渡す限りの花海で覆いつくされていた。夜瑠の胸が小さく跳ねた。彼が何をしようとしているのか、すぐに察しがついた。朔也は彼女を馬に乗せると、背後からその耳元で優しく囁いた。「夜瑠。俺たちの始まりは決して美しいものではなかった。あれはただの事故だ。だが、これだけは伝えておきたい。君を初めて見たその瞬間から、俺の目にはもう、他の誰の姿も映らなくなったんだ。運命が、俺たちに一花という確かな絆を授けてくれた」朔也は深く息を吸い込み、遥か遠くの群青の海を見つめた。「君は、いつだって自由に大空を羽ばたいていればいい。ただ……君が振り返った時、最初に目にする男が俺であってほしいんだ。だから、俺と――」夜瑠は彼の言葉を遮った。「朔也。私たち、結婚しよう」朔也は虚を突かれたように固まった。「夜瑠、今……何て言った?」夜瑠は振り返って彼の頭を抱え込むと、その唇に軽くキスを落
幸福な夢は、現実へ引き戻そうとする看護師の呼ぶ声によって無残に打ち砕かれた。晏臣が朦朧と目を開けると、アシスタントのひどく焦燥しきった顔が視界に飛び込んできた。晏臣が目を覚ましたことに気づき、アシスタントは慌てて報告した。「社長、あなたの身分証明に問題が生じました。現在大使館が調査に動いており、ひとまず急ぎ帰国したほうが賢明です」晏臣は腕の点滴針を乱暴に引き抜き、上体を起こした。「車を出せ。神崎家へ向かう」その頃、夜瑠は朔也が自ら洗ってくれたチェリーを口に運びながら、デッキチェアに身を預けて日向ぼっこを楽しんでいた。「朔也、あの日は咄嗟にあなたをダシに使っちゃっただけだから、変に誤解しないでよ」悠楓は、甲斐甲斐しく世話を焼く朔也をひどく苛立たしげな目で見つめていた。朔也は薄手のブランケットを取り出すと、夜瑠が手を伸ばせばすぐに届く位置へとそっと置いた。「ああ。誤解などしていない」悠楓は、何を言われてもどこ吹く風の朔也の横顔を睨みつけ、呆れたように首を振ると、再びキャンバスに向かって絵筆を動かし始めた。その時、邸宅のインターホンが鳴った。モニターには、三人にとって忌まわしい晏臣の顔がはっきりと映し出されていた。悠楓は画筆を置いた。「大使館にはとっくに通報してあるはずなのに、なぜまだここから消え失せていないんだ」夜瑠が立ち上がった。「お兄ちゃん、私……ちょっと外へ行ってくる」夜瑠が部屋を出て行くと、悠楓は余裕の表情で座り続ける朔也に鋭い視線を向けた。「西園寺グループはすでに海市へ進出しているんだろう。さっさと手を打って、あいつが二度と夜瑠に付きまとえないようにしてくれないか」朔也はスマホのメッセージ画面に目を落とし、淡々と答えた。「ああ。もうすぐだ」悠楓はこめかみを揉みながら溜息をついた。「お前のところのじいさんは、お前がいつまでも神崎家に居座るのを許しているのか?それに、どうして急に楽団の指揮者なんかに転向したんだ?」朔也は平然と言い放った。「ああ。妻を娶るなら死に物狂いで食らいつけと、祖父さんに言われている。射止めるまで家の敷居は跨がせないそうだ。指揮者になった件については、夜瑠がピアニストであったことに感謝してほしいな。もし彼女が猛獣使いだったなら、俺は人間をやめて手なずけられてやってもよかっ
翌日、家を出た夜瑠は、晏臣がまだ立ち去っていなかったことに気づいた。彼はひどくやつれた様子で車のドアに寄りかかっていたが、夜瑠の姿を認めるなり、その濁った両目にパッと光を宿した。「夜瑠、どこへ行くんだ。俺が送ろう」しかし夜瑠は彼を完全に無視し、自分の車に乗り込んだ。晏臣は車を出し、憔悴した面持ちで彼女の後をつけた。彼は信じていなかった。たった2ヶ月離れていただけで、自分の愛する夜瑠が他の男に心を移すはずがない、と。それに、二人の間にあるのはただの誤解だ。彼女の怒りさえ収まれば、必ず自分の元へ戻ってくるはずだ。ふと我に返った時、夜瑠の車が向かっていた先が病院であることに気づいた。夜瑠が病気なのか?なぜ病院に?事前にきちんと調べていなかった自分を悔やみながら、同時に夜瑠の体をひどく案じていた。だが、夜瑠の歩みについて行った先は――産婦人科だった。しかもそこには、すでに朔也が待ち構えていた。晏臣はピタリと足を止めた。心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされ、一歩前へ踏み出すことすらできない。朔也に付き添われながら、夜瑠が妊娠健診の登録を行い、採血を受け、診察室へと案内されていく姿。そのすべての光景が、ひとつの恐ろしい事実を彼に突きつけていた。夜瑠は、妊娠している。世界がぐるぐると反転するような目眩を覚えながら、晏臣は麻痺したように二人の後ろをついて歩いた。その時、慌てて通りかかった若い看護師が、誤って手元のトレイを落とした。晏臣は咄嗟に身を挺し、飛び散るガラスの破片から彼女を庇った。腕を伝って流れ落ちる鮮血は、かつて彼が誤って夜瑠を傷つけてしまった時の光景とひどく似ていた。ただ違うのは、今回は自分が彼女を護ったということだ。彼は掠れた声で口を開いた。「……夜瑠」だが、夜瑠は振り返らなかった。かつて、彼の傷を見て心を痛め、涙を流してくれたあの優しい娘は、彼自身の手によって永遠に失われてしまったのだ。晏臣は目を閉じ、看護師の手当てを拒絶すると、惨めな姿のまま再び夜瑠の後を追った。今度は彼女の前に立ちはだかり、卑屈に懇願した。「夜瑠、お腹の子の父親が誰であろうと構わない。俺がその子の父親になる。俺の持つすべてのものを、その子に与えるから。頼む、俺を無視しないでくれ……」夜瑠はひどく静かな
夜瑠は休学の手続きを進めるため、ここ数日は自宅と大学を往復する日々が続いていた。そんなある日。大学の角を曲がったところで、彼女は不注意から誰かにぶつかってしまった。「ごめんなさい」夜瑠は慌てて立ち止まり、頭を下げて謝罪した。だが、ぶつかった相手はそのまま彼女を力強く抱きしめ、涙声で囁いた。「……夜瑠、やっと見つけた」その声に、夜瑠は全身をゾクッと震わせ、反射的に彼を強く突き飛ばした。「晏臣!どうしてここにいるの!」晏臣はひどく傷ついたような表情を浮かべた。「夜瑠、俺たちの間にはたくさんの誤解がある。お願いだ、説明させてくれ」行き交う学生たちが、好奇の目を向けて二人を見ている。夜瑠は仕方なく、彼を大学近くのカフェへと連れ出した。席に着くや否や、晏臣は涙ながらにこれまでのすべての顛末を弁明した。一通り話し終えると、彼は焦るように夜瑠の手を握ろうとした。「夜瑠、雪乃とはただの契約関係だったんだ。婚姻届受理証明書も偽造されたもので、俺は祖父さんに騙されていた!雪乃と彰浩が結託して俺をハメたんだ。あいつがお前に吹き込んだことは全部出鱈目だ。俺はあいつに指一本触れていない!一条の屋敷へ送られたのがお前だなんて、俺は知らなかったんだ。祖父さんは、あれはお前の身代わりだと言っていた……すまなかった」彼は優しい眼差しで彼女を見つめた。「夜瑠、俺はお前を本当に誇らしく思っている……祖父さんはもう療養所送りにしたし、彰浩にも法の裁きを受けさせた。これでもう、お前を傷つける奴は誰もいない。お前が大学を卒業したら、すぐにでも結婚式を挙げよう」すべてを聞き終えた夜瑠は、あまりの運命の皮肉に胸の内で静かに息を吐いた。だが、相変わらず美しい晏臣の顔立ちを前にしても、その心に未練の波風が立つことはもはや一切なかった。彼女は彼の手を振り払い、ひどく冷ややかな声で告げた。「晏臣、帰って。さもないと大使館に通報して、あなたを強制送還処分にしてもらうわ」晏臣は信じられないといった顔で彼女を見つめ、宥めるように声を低くした。「夜瑠、誤解はすべて解けたはずだろう?まだ何か気に入らないことがあるなら、言ってくれ。何でもするから」夜瑠は皮肉げに口角を上げた。「晏臣、今の私にとって一番気に入らないのは、あなたの顔を見ることよ。お願いだから、消えて」