All Chapters of 私の肝臓で生きるあなたへ、さよなら: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

今日は私の誕生日だった。幼稚園に通い始めたばかりの翔太が、うれしそうにプレゼントを差し出してくれた。幼稚園のお絵描きの時間に、一生懸命描いてくれた1枚の絵だった。絵には、私と翔太、それから准の3人が描かれていた。明るい日差しが降り注ぐ芝生の上で、3人は手をつなぎ、花がほころぶような笑顔を浮かべていた。「ママ、パパ今日いつ帰ってくるの?」翔太が期待に満ちた顔で私を見上げた。私は返事ができなかった。そういえば、准はもう3か月近く家に帰ってきていなかった。今日が私の誕生日だということも、きっととっくに忘れていたのだろう。「翔太、パパに会いたい?」しょんぼりした翔太を抱き上げ、そっと頭を撫でた。「会いたい!」まだ幼い翔太は、自分の気持ちを隠すことも知らず、大きな目を輝かせて私を見つめた。「じゃあ、ママが今から寝かしつけてあげるね。起きたら、パパに会えるよ!」そう言ってはみたものの、准がいつ帰ってくるのかは、私にもわからなかった。ただ、今どこにいるのかだけは、だいたい見当がついていた。「うん!」翔太はうれしそうにベッドに上がると、枕に頭をのせ、ぎゅっと目を閉じた。翔太が眠ったのを見届けてから、私は家を出た。生体肝移植のドナー手術の後遺症で、今も体は思うように動かなかった。胸の痛みをこらえ、足を引きずるようにして、准がいるはずの場所へ向かった。案の定、馴染みの店に着くと、個室の中から准の声が聞こえてきた。「明里が帰ってきた。なら、もう離婚するしかない。一度は自分の気持ちを押し殺したんだ。もうこれ以上、我慢する気はない」その声に、迷いは少しもなかった。それを聞いて、私は思わず小さく笑った。あの夜の過ちで私が准の子を身ごもらなければ、彼が私と結婚することなどなかった。私との結婚さえなければ、明里も彼のもとを去らず、何年も姿を消すことはなかっただろう。思えば、私たちの結婚は、最初から冗談みたいなものだった。結婚して3年になるというのに、私も翔太も、准と顔を合わせたのは数えるほどしかなかった。家に帰ってこないこと自体が、私に対する彼なりの意思表示だった。翔太が生まれたときでさえ、准は顔を見せなかった。准は翔太を憎んでいた。翔太さえいなければ、明里が怒って自
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第2話

振り返れば、私の人生はずっとろくなものじゃなかった。父は筋金入りのギャンブル狂だった。子供の頃から、まともに顔を合わせた記憶すらほとんどなかった。それどころか、借金のかたに私と母を売り飛ばそうとしたことさえあった。祖母が必死に守ってくれなければ、今頃私は見知らぬ土地で、どんな目に遭っていたか分からない。そんな父から逃げるため、母は私と祖母を連れて家を出た。それから母は、たった1人で必死に働き、年老いた祖母と幼い私を養ってくれた。私が大学1年のとき、ずっと働き詰めだった母はとうとう体を壊し、そのまま亡くなった。母を亡くした悲しみから立ち直る暇もないうちに、今度は何人もの男たちが家に押しかけてきた。父がギャンブルで作った借金を取り立てに来たのだ。大学1年も終わらないうちに、私は2000万円を超える借金まで背負わされることになった。もう何もかも嫌になって、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。それでも、祖母だけは残していけなかった。ずっと私を守り、大切にしてくれた祖母を1人きりにするなんて、どうしてもできなかった。だから私は歯を食いしばって大学に通い続け、授業のない時間はすべてアルバイトにあてた。そんなある日、バイト先のバーで彼に出会った。初めて見たときから、ほかの客とはどこか違って見えた。身なりはきちんとしていて、カウンターに静かに腰を下ろし、私が作ったカクテルをゆっくりと口にしていた。その落ち着いた仕草に、私は思わず見入ってしまった。私が見ていることに気づいたのか、彼はふと顔を上げ、カウンター越しにやわらかく笑った。「ありがとう。このカクテル、すごく気に入ったよ」その笑顔を向けられた瞬間、胸が高鳴り、ずっと張りつめていた心までふっと軽くなった。あのとき、私は彼に恋をした。あとで知ったのだが、准は資産家として知られる米沢家の次男で、しかも同じ大学の先輩だった。それからというもの、大学ではつい准の姿を探してしまうようになった。自分が彼に釣り合わないことくらい、よく分かっていた。それでも、遠くから姿を見られるだけでよかった。それだけで、疲れ切った心が少しだけ軽くなった。准も私の視線に気づいていたのか、目が合うと、いつも微笑み返してくれた。あの頃の私にとって、それ
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第3話

心も体も疲れ切って、ようやく家に戻ると、翔太はソファに座ったまま私を待っていた。「ママ、パパ探しに行ってたの?」私は小さく頷き、翔太の隣に腰を下ろした。「じゃあ……パパ、もう僕とママ、いらないの……?」まだ3歳の翔太は、目を真っ赤にしながら必死に涙をこらえていた。そんな翔太を前に、嘘をつくことも、本当のことを話すこともできなかった。私はたまらず翔太を強く抱きしめた。こらえていた涙が、一気にあふれた。「大丈夫。パパがどう思っていても、ママはずっと翔太のそばにいるからね」健気に涙をこらえる翔太を見ていると、幼い頃の自分を見ているようだった。「うん。僕、知ってるよ。ママ、僕のこといちばん好きだもん!」翔太は涙をこぼしながら、それでも一生懸命笑ってみせた。私は翔太の頬に残った涙をそっと拭い、笑いかけた。「翔太、ママと一緒に来てくれる?」母がたった1人で祖母と私を養ってくれたのだから、私にだって翔太を大人になるまで育てていける。「うん!ママが行くなら、僕もどこにでも行く!」翔太は大きく頷くと、そのまま私の胸に飛び込んできた。その小さな体を抱きしめた瞬間、これまでの苦労なんて、もう大したことじゃないと思えた。あの夜のあと、私は翔太を身ごもった。子供ができれば、准も少しは私への態度を変えてくれるかもしれない。あの頃の私は、そんな期待を抱いていた。けれど、私の妊娠を知った准は、態度を変えるどころか、ほとんど家に帰ってこなくなった。「これは俺の子じゃない。米沢家に嫁ぐために、お前が仕組んだんだろ!」そんな言葉を何度も浴びせられながら、私は翔太を産んだ。翔太は准の実の息子だったのに、「パパ」と呼びたくても、その機会さえほとんどなかった。そこまで翔太を受け入れられないのなら、私たちはもう離れたほうがいい。翔太をもう一度寝かしつけたあと、私は結婚したときに持ってきたスーツケースを取り出し、2人分の荷物を詰め始めた。荷造りをしているうちに、結婚してこの家に来た日のことがふと頭に浮かんだ。あの日、祖母は私のために選んでくれたスーツケースを軽く叩きながら、笑ってこう言っていた。「優衣、つらくなったら、いつでも荷物を持って帰っておいで。おばあちゃんはいつでも待ってるからね」米沢家のよ
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第4話

悔しくて、惨めで、胸が苦しくなった。私は腕をつかんでいた准の手を振りほどき、冷たく睨み返した。「男?今の私を見て、好きになる人がいると思う?あなたに肝臓を半分あげてから、肌は荒れるし、髪も抜けるし、体型だって変わった。なのにあなたは、私の肝臓で助かったくせに、毎日好き勝手にして、今度はあの人とやり直して、自分だけ幸せになろうとしてる。そこまで私が嫌いなら、どうしてあのとき私と結婚したのよ!」准は一瞬、言葉に詰まった。けれど、すぐに表情が険しくなった。「さっき店まで俺を探しに来たとき……何か聞いたのか?」怒りを抑えているのか、その声はわずかに震えていた。「准、何か聞いたかなんて関係ないわ。普段のあなたを見てれば、何を考えてるかくらい分かるもの」私は准から目をそらさず、薄く笑った。「私さえいなければ、あの人とうまくいってたなんて思わないで。本当に愛し合ってたなら、私が現れたくらいで駄目になったりしないでしょ。あなたがずっと私をあの人の代わりにしてたことくらい、分かってる。でも、考えたことある?あなたのほうが、あの人にとっては誰かの代わりかもしれないって」准はしばらく黙ったまま、私を見ていた。これまで何を言われても言い返さなかった私が、こんなことを口にするとは思っていなかったのだろう。「お前、すっかり米沢家の奥様気取りだな」准は鼻で笑うと、そのまま背を向けた。このまま出ていくのかと思い、私は少しだけ気を緩めた。そう思った次の瞬間、准が突然振り返り、私の頬を思いきり平手で打った。乾いた音が響き、頬に焼けるような痛みが走った。「お前に明里のことをあれこれ言う資格はない!」准は目を赤くしたまま、私を睨みつけた。「ママをたたかないで!」そのとき、准の後ろから翔太の声がした。いつ起きたのか、翔太はベッドから飛び出してきて、准の脚に必死にしがみついた。怖くて震えているのに、それでも翔太は必死に私を守ろうとしていた。その姿を見た瞬間、くじけかけていた心に、もう一度力が湧いた。私は慌てて翔太を抱き上げ、胸にしっかりと抱きしめた。痺れるように痛む頬をそっと押さえながら、准をまっすぐ見据えた。「そうね。私にあの人のことをあれこれ言う資格はない。でも、あなたにだって、
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第5話

翌朝早く、私は記入しておいた離婚届をテーブルに残し、スーツケースを引いて翔太と家を出た。翔太は本当に聞き分けのいい子だ。いつもなら朝はなかなか起きないのに、この日は早く起こしても文句ひとつ言わず、黙ってついてきた。けれど、家を出た途端、翔太の目からぽろぽろと涙がこぼれた。どんな父親でも、翔太にとって准はたった1人の父親だった。そう思うと、このまま何も言わずに連れていく気にはなれなかった。私はスマホを取り出し、准に電話をかけた。せめて最後に、准にはひと言伝えておきたかったし、翔太にもちゃんとお別れをさせてあげたかった。何度か呼び出し音が鳴ったあと、准がようやく電話に出た。「何を言っても無駄だぞ。もうあの家には帰らないからな」電話の向こうから聞こえてきた准の声は、ひどく冷たかった。「帰ってきてほしいわけじゃない。翔太が、最後にもう一度だけあなたに会いたがってるの」私は余計なことは言わず、それだけを伝えた。これが、准と翔太が顔を合わせる最後になるかもしれない。けれど、私から無理に来てとは言わなかった。翔太に会うかどうかは、准自身が決めることだ。そのとき、電話の向こうから空港のアナウンスが聞こえてきた。「到着ロビーでお待ちのお客様にご案内いたします――」空港のアナウンスを聞いて、昨夜あんなに慌てて出ていった理由が分かった。明里を迎えに空港まで行ったんだと思うと、思わず苦笑が漏れた。「あいつは俺の子じゃない。俺を父親だと思うな。今忙しいんだ。もう電話してくるな」私が何か言う前に、准はさっさと電話を切った。もう、驚くほどのことでもなかった。「パパ、今忙しくて戻ってこられないんだって」私は翔太をそっと抱き上げ、目元に残っていた涙を拭った。「じゃあ、パパにバイバイしようか。今日でちゃんとお別れしようね」「うん!」翔太は泣くのをこらえながら、大きく頷いた。私は翔太を連れて近くの川まで行き、スーツケースを開けた。中から翔太の服を1着取り出し、その下にしまっていたワンピースにも手を伸ばした。准と初めて会った日に着ていた、白地に小さな花柄のワンピースだった。改めて見ると、あの頃の私みたいに、どこかあどけなく見えた。近くに落ちていた大きめのレンガを2つ拾い、翔太の服と私
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第6話

「結婚したときに買った家、すごく素敵なんでしょ?私も見てみたいな。今から行ってみない?」後で友人から聞いた話では、飛行機を降りたばかりの明里が真っ先に言い出したのは、私と准が暮らしていた家を見に行きたい、ということだったそうだ。家を見るのは口実で、准と一緒にいるところをわざわざ私に見せたかったのだろう。ところが2人が車で住宅街まで戻ると、近くの川辺に大勢の人が集まり、車が通れないほど道を塞いでいた。「何かあったんですか?」准は車の窓を開け、近くにいた年配の男性に声をかけた。「誰か川に飛び込んだらしいよ」准は特に気にも留めなかった。この川は景色がよく、夏になると泳ぎに来る人も多かった。だから、たまに事故が起きることもあった。「いやあ、気の毒になあ。母親と子どもだったみたいだよ」男性はそう言って、深いため息をついた。「母親と……子ども?」その言葉を聞いた途端、准はさっきの電話を思い出した。「あの女……今度は何のつもりだ!」准は慌てて車を降り、人だかりをかき分けて川辺まで走った。そこには、びしょ濡れになった服が2着と、大きなレンガが2つ残されていた。准は思わず足を止めた。どちらの服にも見覚えがあった。白い小花柄のワンピースは、准と初めて会った日に私が着ていたものだった。もう1着は、准が翔太の誕生日に唯一買ってやった服だった。それでも准は、これも明里への当てつけで、私が仕組んだ芝居なんじゃないかと疑っていた。「2人は……どこにいるんだ?」准は震える声で、近くにいた人に尋ねた。「もう流されちまったんじゃないか。この辺は流れが速いからな……」中年の男性が、気の毒そうに首を振った。「ほら、こんな大きなレンガまで服に縛りつけてる。最初から助かる気なんてなかったんだろうな」その言葉を聞いた途端、准の顔からさっと血の気が引いた。「じゃあ……もう、助からないのか?」男性は何も言わず、静かに首を横に振った。准はしばらくその場から動けなかった。けれど次の瞬間、周りが止めるのも聞かず、川へ飛び込んだ。私たちが無事だと分かる何かがないかと、准は必死に探した。全部、私が仕組んだ芝居だったと思いたかったのだろう。けれど、身を切るように冷たい水の中をどれだけ探しても、何も
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第7話

あれから2年。私は翔太と2人で、田舎でのんびり暮らしていた。暮らしに余裕があるわけではなかったけれど、毎日は驚くほど穏やかだった。余計なことで悩んだり、誰かと張り合ったりすることもなく、人の顔色や機嫌を気にせずに済んだ。朝は家の裏の畑に出て土をいじり、夕方になると翔太と一緒に風に吹かれながら夕焼けを眺めた。お腹が空けば畑のトマトをもいで食べ、喉が渇けば冷たい井戸水を飲んだ。誰かと比べることもなく、自分のペースで暮らせる。そんな毎日が、私には何より幸せだった。翔太も、もう幼稚園に通う年頃になっていた。けれど、一番近い幼稚園でも30キロ以上離れた町にあり、毎日通わせるにはあまりにも遠かった。毎日そこまで通わせるくらいなら、しばらくは私が家で教えてあげればいい。そう思って、ひらがなや簡単な計算、英語、それに短い詩や昔話などを教えるようになった。難関大学を出ていた私なら、翔太くらいの子に勉強を教えるくらいは十分できた。そのうち、村のほかの家からも、うちの子にも教えてほしいと頼まれるようになった。気づけば、都会から翔太を連れて戻ってきた私は、村の人たちから「優衣先生」と呼ばれ、すっかり頼りにされるようになっていた。子どもたちに勉強を教えたり、畑の世話をしたりと、毎日は忙しくも充実していた。村の人たちとも親しくなり、やがて縁談を持ってきてくれる人まで現れた。私がそう簡単には相手を決めないと分かっていたからか、紹介されるのも、町で自分の仕事を持っているような人が多かった。けれど、そのたびに私は笑って断った。なぜか、准とのことはまだ終わっていない気がしていた。あの人とのことがきちんと終わるまでは、他の人と付き合う気にはなれなかった。そんな日々を送っていたある日、鍬を肩に担いで畑へ出ようとしたとき、道の向こうに見覚えのある人影が立っていた。二度と会うことはないと思っていた、あの人だった。
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第8話

「やっぱり、こんな所にいたのか。もっと早く気づけばよかったよ」准は驚きもせず、こちらを見て薄く笑った。足元の湿った土には革靴の跡がいくつも残っていた。かなり前から、ここで私を待っていたのだろう。私は何も言わず、鍬を肩に担いだまま准の横を通り過ぎようとした。「おい、無視かよ。死んだことになってると、口まできけなくなるのか?」准は私の腕をつかむと、泥のついた服に目をやって鼻で笑った。「あの頃は、ずいぶん大人しそうな学生だったのにな。まさか今じゃ、こんな所で畑仕事とはな」准は平然としているように見えたけれど、苛立っているのはすぐに分かった。この2年、私のことで周りから散々あれこれ言われてきたのだろう。今日は、その鬱憤を晴らしに来たようにしか見えなかった。私は鍬の柄をぎゅっと握った。「准、先に言っておくけど、もう昔みたいに何をされても黙ってるつもりはないから。言い方には気をつけて」「川に飛び込んだんじゃなかったのか?こんなに元気なら、どうして俺に何も言わなかった?」准は私の言葉など聞いていないようだった。「もうあなたには関係ないでしょ」私はそれだけ言って背を向けたが、准は腕をつかんだまま放そうとしなかった。振りほどこうとしても、私の力ではどうにもならなかった。仕方なく、肩に担いでいた鍬を振り上げ、そのまま准に向かって振り下ろした。准はとっさに身をかわしたものの、鍬の先が上着に引っかかり、胸元が大きく裂けた。その拍子に、上着の内側から1枚の写真がひらりと地面に落ちた。准は慌ててしゃがみ込み、落ちた写真を拾い上げた。その写真が目に入り、私は思わず息をのんだ。写真に写っていたのは、私と翔太だった。どうして准が、こんな写真を持っているの?しかも、あんなに慌てて拾うなんて、ますます訳が分からなかった。でも、今はそれどころじゃない。准が写真に気を取られているうちに、私は鍬を手にしたまま庭へ駆け込んだ。門を閉めて内側からしっかり鍵をかけ、ようやく息をついた。「ママ、どうしたの?」庭で遊んでいた翔太が、不思議そうに私を見上げた。「ママは大丈夫。翔太、すぐおうちに入って、ちゃんと鍵かけて。外で何があっても絶対に開けちゃだめだよ。いい?」私は翔太の手を握り、念を押した。「
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第9話

翌朝、まだ布団の中にいるうちから、外がやけに騒がしかった。何事だろうと思い、眠そうな翔太を連れて外へ出ると、門の前に准のキャンピングカーが停まっていた。車のほうから薄い煙が上がり、ベーコンの焼ける香ばしい匂いがこちらまで漂ってきた。どうやら准は、朝から車の中で朝食を作っているらしい。こんな田舎の村では、キャンピングカーなんて滅多に見かけない。珍しさもあって、近所の人たちが何事かと集まっていた。「翔太、おはよう。ほら、パパが朝ごはん作ったぞ。こっち来て食べないか?」私たちに気づいた准が、笑顔で手を振った。翔太はまだ5歳だ。あんなにいい匂いをさせられたら、食べたくなるのも無理はない。翔太はベーコンバーガーを見て、思わずごくりと唾を飲み込んだ。それでも、食べたいのをこらえるようにぶんぶんと首を横に振った。「いらない!」そう言い残すと、翔太はそのまま家の中へ駆け戻っていった。私は思わず苦笑し、ベーコンを焼いている准のところへ歩いていった。「准、何のつもり?」「別に。翔太を連れて帰るのがだめなら、俺がここにいて一緒に過ごせばいいだろ」准は何でもない顔でそう答えると、集まっていた村の人たちにも、焼き上がったミニバーガーを気前よく配っていた。私たち親子の機嫌を取るというより、まるで村のみんなに朝食を振る舞いに来たようだった。そんな准を見ていると、ふと昔の自分を思い出した。肝臓の半分を差し出してまで、少しでも准に振り向いてほしいと願っていた頃の私だ。どれだけ尽くしても、准が振り向いてくれることはなかった。季節がいくつ巡っても、それは変わらなかった。だから、今さら准が何をしても、もう心は動かなかった。どうやら准は、しばらくここに居座るつもりのようだった。それなら、もう放っておくことにした。私はいつも通り畑に出て、家に戻ると翔太や村の子どもたちに勉強を教えた。門の外に停まっているキャンピングカーにも、なるべく目を向けないようにした。そんなふうにして丸1日が過ぎた頃、さすがに准も我慢できなくなったのか、門の外から声をかけてきた。「優衣、車の水が切れたんだ。悪いけど、少し分けてもらえないか?」私はやかんに井戸水を入れ、そのまま渡した。准はすぐに一口飲むと、嬉しそうに笑った。「
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第10話

翌朝早く、また外が騒がしくなった。准が何かやっているのかと思い、最初はそのままにしていた。けれど、しばらくすると、どうも私のことを言っているらしい声が聞こえてきた。気になって外へ出ると、明里がビラの束を手に、集まっていた村の人たちへ次々と配っていた。「この人、見た目じゃ分からないでしょうけど、本当はひどい人なんです!私と彼の間に割り込んで、いろんな手を使って邪魔してきたんですよ。子どもまで巻き込んで!人の恋人を奪っておいて、平気な顔してるんですよ?こんなの許せないと思いませんか?しかも今度は、何をしたのか知らないけど、私の彼を何か月もここから帰れなくしてるんです。皆さんもおかしいと思いますよね?」明里の話を聞くうちに、村の人たちもざわざわし始めた。これまで私を信頼してくれていた人たちまで、顔を見合わせてひそひそ話していた。「ええ?優衣先生が?全然そんな人には見えなかったけどねえ」「人って分からないもんだね。うちの子も教わってるけど、大丈夫なのかねえ」「だから言っただろ。都会からわざわざ戻ってきたんだ。何かあったんじゃないかって」好き勝手なことを言われ、私が口を開こうとしたそのときだった。「うそつき!ママは悪くないもん!悪いのそっちだもん!」背後から翔太の声がした。振り返ると、翔太が明里に向かって駆け出していた。私は慌てて翔太を抱き止め、しゃがんで顔をのぞき込んだ。「翔太、大丈夫。ここはママに任せて。先におうちに入ってて。ね?」翔太は明里を睨んだまま、小さな拳をぎゅっと握った。それでも最後は私の言うことを聞いて、しぶしぶ家の中へ戻っていった。「自分は好き勝手しておいて、今度は子どもにまでかばってもらうの?」明里は腕を組み、得意げな顔で私を見ていた。その態度を見て、私は黙って人垣をかき分け、明里の前まで歩いていった。「私のことなら何を言ってもいい。でも、翔太のことまで悪く言うのはやめて」そう言って、私は明里の頬を思いきり叩いた。パシン、と乾いた音が響いた。明里は頬を押さえ、呆然と私を見た。この2年、毎日のように畑仕事をしていたせいか、自分でも驚くほど力が入っていた。明里の頬はすぐに赤く腫れ、口元にはうっすら血がにじんだ。「それと、ひとつ勘違いしてるみた
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